第十七話
そこは、家の中というよりどこかの小屋の中、と言った方がしっくりくる場所だった。
天井も床も、壁もテーブルも、すべてが木で作られていて、しかも窓の外に見えるのは深い森の景色。どうやらこの家は森の中に建っているらしい。まさに自然あふれる光景だった。
そんなところで幼きルゥは、女性、おそらく母親と思われる人とキッチンで洗い物をしていた。なら彼女たちの後ろで、椅子に座りながら優雅に本を読んでいるあの男は、おそらく父親か。どちらもルゥと同じ綺麗な金色の髪をもっていた。
「この頃のわしは穢れというものをまったく知らない、平和そのものみたいな子どもじゃった。実際、今も楽しそうに笑っているじゃろ? わしは二人と一緒にいるこの時間が、たまらなく好きじゃった。じゃが……」
場面が変わったのか、ぱっと目の前に、ルゥの父親と見知らぬ男たちが、なにやら言い争いをしている光景が映し出された。
場所は変わらず家の中。声は聞こえないが男たちの険しい顔つきから、ただならぬ雰囲気は伝わってくる。父親は必死になにかを言っているが、男たちの表情が変わる様子はなかった。
すると、今度は視点が変わったらしく、幼きルゥと母親の姿が映し出される。二人は部屋のすみで、向かい合ってなにかを話していた。見た感じ、母親がルゥを優しく説得しているが、それを彼女が泣きながら拒否している形のようだ。ぶんぶんと乱暴に頭を横に振りながら、ルゥは母親の腕をつかんでいる。
が、やがて、母親がそんなルゥを笑顔で抱きしめると、彼女は母親に背中を押され、まもなく家の中を走って行った。そして裏口と思わしき扉を開けて外に出る。
そのまま彼女は、森の中を一心不乱に走り続けたが、突然ばっと後ろに振り返った。と同時に固まる。
視線の先に広がっていたのは、遠くで激しく燃え上がる炎と、上空にもうもうと立ち上る黒い煙だった。
たちまちルゥは叫ぶ。一体なにを叫んでいるのか、聞こえなくとも分かってしまった。
「……これは、どういうことなんだ?」
俺は目の前の光景から、目を離さずに尋ねる。
「この頃のわしは知らなかったが、わしたち家族は近くの町や村の人間たちから、ひどい迫害を受けておったようじゃ。じゃからあんな山の中に住んでおったし、その頃のわしは、山から一歩も外に出たことはなかった。両親にきつく止められていたからのう」
「迫害? なんでそんなことに」
「わしの父親はな、ああ見えて実はドラゴン――つもりはモンスターなんじゃよ」
「……は?」
「しかし母親は人間じゃった。要するにわしは人間とドラゴンの間に生まれた子ども、人間とモンスターのハーフなんじゃ」
「…………」
ちょっと、話についていけなくなった。夜火の方を見る。彼女はいつの間にか上半身を起こしていて、泣き崩れる幼き自分をぼーっと見つめていた。
……こいつが、人間とドラゴンのハーフだってのか? つまりは半分ドラゴンってことだよな。正直理解に苦しむ。が。
「魔法をつかえば、種族の違いなんてものは粗末な問題じゃ。他種族との間にすらこうして子をなすことができ、そうして生まれたのがわし。そしてわしは幸運にも、母親の魔力と父親の能力をうまく引き継いでおる。なかなかのハイブリットじゃな、わしって」
「でもお前、それと迫害がどう関係しているんだ? ましてやそれで襲われるなんて」
「銀髪娘が言っていたじゃろ? モンスターは人間の敵、それがこの世界の常識なんじゃ。実際人間を襲うモンスターは多いしのう。敵と交わり、さらには子までつくった。人間たちがわしらを嫌うのも、まあ、当然と言えば当然なのかもしれんなぁ」
「いや、お前それは」
違うだろ、と言おうとしてやっぱりやめた。
異世界人である俺に、この世界の人間が経験してきたこと、それによって積み上げられた気持ちが理解できるはずもないし、されたくもないだろう。
おそらくこの世界では本当に、モンスターは敵、憎むべき相手、そう思うのが当たり前で、実際に人間を襲っているモンスターがいるのなら、もしかしたらルゥたち家族を襲ったあの男たちは、モンスターに大切な人を殺された、とくに恨みの深い者たちだったのかもしれない。
それでも罪のないルゥたち家族を襲うのは間違っている、そう思いもするが、それを口に出すのはなんとなくだがやめておいた。
「とにかくこういうわけで、わしは一人になってしまった。本当は二人の元に帰りたかったが、それでは二人の思いも覚悟も踏みにじることになってしまう。じゃからわしは立ち上がり、逃げたよ、ただひたすらにな」
と、泣き崩れていたルゥが、やがてぐいっと涙を拭うと、再び立ち上がり森の中を走り出した。
本当にひたすらに、一心不乱に走り続けている。そうしなければ、足が止まってしまうからだろう。父と母を思い出して。
「じゃが幼いわしではそう遠くまで逃げられるはずもない。やがて力尽き、わしは倒れた」
場面が変わり、地面にうつ伏せに倒れたルゥが映し出される。立ち上がることもできない状態で、しかし前へ進もうと手で地面を引っかいている。
とはいえそれも長くは続かない。まもなく彼女は手を止めた。
「そしてそこに、ヤツがあらわれた」
そんなルゥの体に、ふっと人の影が差す。それに気づいた彼女はおもむろに顔を上げた。目の前には、
「……なるほど」
――ジン・フレイルの姿があった。
彼は優しく微笑みながら、彼女に手を伸ばしている。戸惑いながらもルゥはその手を握った。
そこでまた場面が変わる。
「ん? これは」
またどこかの家の中。しかしルゥたちが暮らしていた家ではない。今度は西洋風の、おしゃれな家だ。窓から見える景色も、森ではなくどこかの町っぽい。
ルゥは椅子に座りながら、湯気の立ち上る飲み物を飲んでいる。彼女の前にはやはりジン・フレイルと、その隣に赤い髪を腰まで伸ばしている綺麗な女性が立っていた。
「ここはジンの家で、ヤツの隣にいる女性はエレン。ジンの妻じゃ」
「え? あいつ結婚してたのか?」
「ああ、子どもはいなかったがな。二人は喫茶店を営んでいて、お茶に使う葉っぱを探すためにジンはあの森に来ていたらしい。そしてその途中、偶然わしを見つけた。それと一応言っておくが、お主が知るあのジンとこのジンを一緒にしない方がいい。色々と混乱すると思うからのう」
夜火がそこまで言ったところで、場面が移る。これは買い物の風景だろうか。左右に屋台がずらりと並んだ大通りで、ルゥとジン、そしてエレンという女性が楽しそうに歩いている光景が映し出された。
「わしは二人の養子として、一緒に暮らすようになった。それから数年はこのように平和な日々が続いた。わしも悲しみを乗り越え、いつしかまたああして笑えるようになった。……じゃがな。やがてすべてが狂い始めたんじゃ」
そして、次に映し出されたのはまさに今俺たちがいるこの場所、ひらけた草原だった。ルールの核もある。
「…………」
が、すぐに違和感を感じた。ルールの核を見つめる三人の表情が、みな一様に明るいのだ。笑ってさえいる。
それに、ルールの核に刻まれている文字が、読めはしないがどこか違う気がした。
「おい、これって。ルールの核にはなんて書かれているんだ?」
聞けば、少し間を置いてから。その答えは返ってきた。
――〝すべての人々が幸せに、笑って日々を過ごせる世界であること〟――
瞬間、思わず夜火を見た。彼女は目を細め、悲しそうに目の前の光景を見つめている。
「ジンは、少なくともこのときのあヤツは、心の底から平和を望んでおった。だからあヤツはルールなんていう魔法を発動したんじゃ。人々が幸せに、笑って日々を過ごせる、そんな世界を強くイメージしながらな」
「バカな。今のルールとまるで内容が違うじゃないか」
再び視線を戻す。相変わらず三人はこの場所で、まったく姿の同じルールの核を見つめながら――だが確かに笑っていた。
「核をわざわざ目に見えるようにしたのは、あれを〝平和の象徴〟にするためじゃ。この石板がある限り、この世界は平和だと、幸せな世界であり続けると、だから何も心配せず笑っていてくれ。そういう意味をもたせるために、わざわざ作ったのだとジンは言っていた」
「〝絶望の象徴〟としてではなく、最初はまったく逆の意味をもった〝平和の象徴〟として作られたっていうのか?」
「そうじゃ。そして、それから一か月ほど時が流れた」
一瞬視界が黒く染まったと思ったら、しかしなぜかまったく同じ光景が目の前にまた映し出された。
「? どうした?」
「一見同じように見えるが、実は少しだけさっきと違う部分がある」
それを聞き、じっと目を凝らして観察してみれば、ルールの核に書かれている文字が変わっているのに気づいた。というより正確には、文字が一文足されている。
「気づいたようじゃな。今、ルールの核にはこう書かれておる。――〝すべての人々が幸せに、笑って日々を過ごせる世界であること。加えて、人々は一切の負の感情を抱かないこととする〟――」
「……は? なんだその一文」
「先に言っておくが、足された一文は別にジンが自ら足したものではない。これはあくまで推測じゃが、この一文はルール自身が勝手に足した一文なのではないか、私たちはそう結論した」
「ルール自身が?」
ってかそんなことあり得るのか? しかもなんでそんな一文を?
「よくよく考えてみれば分かることじゃが、そもそもの話、すべての人々が幸せに、笑って日々を過ごせる世界などまずあり得ない。身近にいる大切な者が死ねば、残された者は当然不幸になり、悲しむ。じゃがそれでは矛盾が生じてしまう。じゃからルールは、その矛盾をなくすために一文を足した。すなわち、一切の負の感情を抱かないこととする。これで綺麗さっぱり矛盾はなくなった」
「まあ、確かに……」
だがそれは、本当に幸せな世界なのか? 負の感情を抱かないということは、たとえ大切な人を失ったとしても悲しむことすらできないってことだろ?
それはどちらにとっても、いいことだとは思えないんだが。
「お主が今なにを思っておるのか、今のわしならなんとなく分かる。じゃがこのときのわしたちは、負の感情、つまり怒りや悲しみ、憎しみがなくなるというのなら、それは本当の意味での平和な世界なんじゃないか、そう本気で思っておった。じゃからとくに気にもせず、ルールもそのままにしたんじゃ。……が、ある日、エレンが死んだ」
場面が変わる。場所は、再びジン・フレイルの家。部屋は寝室か。ベッドに、彼の妻であるエレンが静かに眠っていた。本当に静かに。
「原因は病じゃった。動かないエレンを見てわしは泣いた。悲しくてな。この頃のわしは魔法抵抗力が高かったからのう。ルールの影響は受けんかった。しかし、ジンは違った。ヤツは抵抗力が低かったから、術者ではあるがルールの影響を受けた。とはいえ必死に抵抗はしたんじゃろう。結果――」
視点が変わり、二人の姿が確認できるようになった。二人はベッドに寄り添うように立ち、確かに泣いていた。ルゥは悲しそうに、だがジン・フレイルは……
「――ヤツは笑いながら泣いておったよ。今でも鮮明に覚えおる。あれはとても優しい笑顔で、とても静かな泣き顔じゃった」
「……ジン・フレイルは、その病を治せなかったのか? あれだけの魔力をもっていたのに」
「お主は、この世でもっとも当たり前で、また覆しようのない常識はなんだと思う?」
逆に聞かれて、俺はふと考えてみた。が、いくら考えてみても答えがでてこない。やがて、
「この世でもっとも当たり前で、また覆しようのない常識。それは生あるものは必ず死ぬ、という常識じゃ。そもそも生き物、生あるものが死ななければ、〝生〟という概念自体がなくなってしまうからのう。ちと難しい話になるが、この世を支えているのはその〝生〟という概念であり、それがなくなれば当然、この世に生あるもの、生き物という存在はそもそもいないことになってしまう。そうなればあとには〝無〟しか残らない。
どこかの学者がそう言っておったな。じゃから〝死〟を覆すような魔法の発動は、ほぼ不可能とされておる。必要とするおおよその魔力が桁違いに多いらしくてな。実際、ジンですら無理じゃった」
「……つまりエレンって人がかかった病は、死が確定しているようなひどいもので、その死を覆すためには膨大な魔力が必要だった。そのため、ジン・フレイルですら魔力が足りず、病を治すことができなかった。そういうことか?」
「まあ、そうじゃのう」
俺と夜火は二人そろって、目の前の光景を見つめる。
確かにジン・フレイルの浮かべている表情は、とても優しい笑顔で、とても静かな泣き顔だった。
世界を思うままに操ることのできる男が、たった一人の人間、それも大切な人すら救えないなんて、なんだか人間の限界というものを見せられた気分だ。
たとえ神のごとき力をもっていても、所詮は人間、神そのものには決してなれない、そう言われているような気がして、妙な悔しさが湧き上がってきた。
「こうしてわしたちはようやく理解した。それがたとえ善意であっても、人の感情を誰かが無理やり決めてはいけないのだと。じゃからジンはすぐにルールを消した。そしてその瞬間――世界中で負の感情が爆発した」
「…………」
そうか。封じられていた負の感情が解かれたことで、大切な者が死んでいるという事実に改めて気づき、まるでせき止められていた水が一気に流れ出すように、悲しみが溢れだしたのか。
もしくは、大切な者が死んだというのに、それを悲しむことすらしてあげられなかった自分への怒りや失望が湧き上がった。そうなれば当然……。
場面が変わる。そこはおそらく、先ほどルゥたちが買い物をしていた町の大通り。だが、雰囲気はまるで違っていた。
悲しみに打ちひしがれる者。怒りの形相で暴れまわる者。自ら命を絶とうとして、それを周りの者に止められている者。そこには、あのときあった笑顔は一つもなかった。
「当然、世界は混乱に包まれた。人々は悲しみを、怒りや憎しみに変え、あらゆる場所で争いが起こった。ジンはそれを見て、またあの場所に向かったんじゃ」
これで三度目か。またこの場所と、なぜかルールの核が映し出された。
「ルールは消したんじゃなかったのか? なぜまだ核がある?」
核の前で、ルゥはジン・フレイルになにかを叫んでいた。涙を流しながら、必死そうに。
そしてそんなルゥを見つめながら、彼はやはり笑っていた。しかしその笑顔は、すべてを諦めたようなとても儚い笑みだった。
「ヤツは、ジンは、またルールを発動したんじゃよ。ヤツはこう言いながらルールを発動した。『オレは責任を取らなければいけない。……それにあいつが、エレンがいないこの世界で、オレは生きていける自信がない』。そしてルールの内容はこうじゃ」
続いたのは、ひどく平坦な声だった。
「――〝俺、ジン・フレイルは世界の敵であり、世界を混乱へと導いた犯人でもある。すべての負の感情はその元凶に、俺にぶつけて晴らすこと〟――」
それを聞いた瞬間、俺は小骨が喉に引っかかったような、もどかしい感覚を覚えた。なにかが分かりそうで分からない。だが必死に小骨を飲みこもうとする。
とはいえその間にも、夜火の話は続いたため、とりあえず考えるのを中断した。
「もちろん、わしはヤツを説得した。私だって、ジンやエレンがいないこの世界で生きていける自信がないと。しかしヤツの考えは変わらなかった。そしてヤツは、わし個人に対してルールを発動した。つまり――〝生きろ〟――と。その瞬間、わしはそこから逃げ出したよ。ジンのそばにおれば必ず死ぬと分かっておったからのう」
やがて、ルゥは涙を流しながらもジン・フレイルのそばを離れていった。それはまるで、母に背名を押され、家を必死に離れようと森の中を走っていたときの再現のようだった。
「それからまもなく、わしはこの世界を離れた。父も母もいない、ジンもエレンもいない、残るのは父や母を殺した人間たちだけ。そんな世界にいたくはなかったからのう。魔石を使い、わしは異世界にとんだ」
「……そんな理由だったのか」
「あの世界にとんだのはただの偶然じゃがな。もしかしたら向こうの世界とこの世界は、案外近くにあるのかもしれん。そして向こうの世界に着いた後は、死んだように生きておったよ。魔法があれば生きること自体は簡単じゃったからなあ。……とはいえ希望も、夢も幸せもない、そんな状態でも自分の意志に関係なく生きることを強要される。それはまるで一種の呪いじゃった」
途端、視界が黒一色に染まった。
「この頃の記憶はないんじゃよ。何も考えず、何も感じず、ただただ生きておったからのう。わしが一切の感情も抱かずに魔法を発動できるのは、この頃があったからじゃ。あまり嬉しくない産物じゃよ」
「まあ、そうかもしれないな」
目の前の暗闇を見つめる。まさにこの暗闇こそ、この頃のルゥを的確に表した、彼女そのものなのかもしれない。
「お前……」
「さて、ここまでは暗い話が続いたがのう。一つどうじゃ? ジンとはまったく関係はないが、まだ誰も来ていないようだし、この続き、お主とわしの馴れ初めを見てみるつもりはないか?」
と、急に口調が変わったと思ったら、夜火はそんなことを言い出した。
「いや馴れ初めって。それは少し意味が違う気がするんだが」
「細かいことはいいじゃろう。それよりどうする?」
聞かれ、少し考える。
正直に言えば、微妙に恥ずかしい。が、見てみたいとも思う。こいつと出会ったのは十年前、つまり六歳の頃だ。さすがによくは覚えていない。
「どうせ他にやることもないしな。見てみるか」
「そうこなくてはな。では映すぞ」
彼女がそう言った瞬間、目の前の暗闇に、ぱっと色が染め上げられた。
映し出されたのはやはりと言うべきか、俺と夜火がはじめて出会った、家の近所にある寂れた神社だった。




