第十六話
凍りついたものが少しずつ溶けていくように、俺の心はゆっくりと動き出した。
とはいえ別に、俺にとっての正解を見つけたわけじゃない。
今でも俺は、生きることに必死だし、そのために強くなりたいと望んでいる。
ただ、思ってしまったんだ。こいつと――夜火と共に、生きていきたいと。
「……勝負に勝って、お前に負けた、ってところか。だが負けて良かったのかもしれないな。おかげで俺は、自分を少し取り戻すことができた」
「そうか。ならば今回の勝負、わしにとっても十分価値あるものとなったようじゃ」
あお向けの状態で、地面にごろんと寝転んだまま夜火は嬉しそうに微笑む。
それを見て、俺はその言葉をふと思い出した。
――勝負で大切なのは勝ち負けじゃない。その勝負で何を得たかだ。
確かにその通りだ。
勝負の価値を決めるのは、勝ち負けじゃない。その勝負で何を得るかで決まる。
たとえ負けても、結果として得たものが大きいのなら、その勝負には大きな価値がある。
今回の勝負は、俺と夜火両方にとって、価値あるものになったようだ。
「お前は勝負に負けて、一体何を得たんだ?」
「クク、いい男、かの?」
「……趣味わりーって」
俺はついそっぽを向いて、そうごまかした。
からかい合いでこいつに勝てる気はしない。というか勝っても負けても得るものなさそうだし。
「あ、そういえばお主、今ふと思い出したがその首輪、もしかして〝契約の首輪〟か?」
「ああ、そうだが、知ってるのか?」
「知っておる。ひどく好かん魔法じゃ。昔と変わっていなければ、ペナルティはやはり爆発か?」
「そう言っていたな。ジン・フレイルは」
「……そうか。やはりあヤツがお主にそれを」
そう言って、夜火はどこか遠い目をする。自分の記憶のなかにいるジン・フレイルを、思い出しているのかもしれない。
彼女のなかにいるあいつが、一体どんなヤツだったのか正直気にはなったが、
「まあいい。とにかくその首輪のペナルティが爆発だというのなら、わしはそれを外すことができるかもしれない。お主に一切の怪我も負わせずに」
「なに? それは本当か?」
慌てて食いつく。
「ウソを言ってどうする。マジもマジ、大マジじゃ。だからちょっと手を出せ」
「ん? こうか?」
手を出す。と、夜火がその手に、ぴたっと自らの手を重ねてきた。
途端、
「っ。なんだこれっ」
まるで全身が沸き立ったような、全身の毛穴が開いたような感覚を覚えた。活力がみなぎる。
「これは〝活性〟と呼ばれる力じゃ。お主勝負の途中、炎をまとっているわしに対して『結界を張っている』などと言ったな。あのときは不利になると思ってわしも否定はしなかったが、実際は違う。結界を張ったのではなく、この力でもって炎に耐えておったんじゃ」
「え? これで?」
「今のお主とわしは、自己回復力が異常に高い状態になっておる。本来この力はわし自身にしか使えないが、魔法と併用することでわし以外の人間や物にまで使えるようになった。こうして休んだことで魔力や体力が少し回復したからやってみたが、どうやら上手くいったようじゃのう」
不意に夜火は立ち上がる。そして俺の方を向いたと思ったら、手を伸ばし首輪を両手で掴んだ。
「今の回復力ならきっと、たとえこの首輪が爆発しようとも回復スピードの方が上回り結果お互い無傷で済むはずじゃ。とはいえこれは賭けでもある。もしもわしの予測よりも爆発の火力が強く、回復スピードの方が下回れば、その瞬間お主とわしはここで死ぬ。共にな。この賭けに乗るか降りるかはお主が決めてくれ」
「……いや、頼む。やってくれ」
俺は目を閉じた。降りるわけがない。俺はこいつを信じると決めたのだから。
それにわざわざ、夜火に問い返したりもしない。こいつの覚悟を、思いを、疑うわけにはいかないから。
だから俺も覚悟を決めた。
「では、いくぞ――っ」
バキッ、と何かが折れる音が聞こえたかと思ったら、瞬間、大きな爆発音と、強烈な衝撃、爆風が俺を襲った。
正直その瞬間は死んだと思ったが、
「……どうやら賭けは、勝ったようじゃのう」
「……みたいだな。ってか」
耐えきれず、俺はひざを折り片膝を地面につけた。
「っ。はぁっ、はぁっ、はぁっ、なんだこれっ。すっげー疲れるっ」
「はぁ、はぁ、当然じゃ。回復力を無理やり上げているのだから、相応の負担はかかる。わしの体は少しばかり丈夫で強いから、耐えられるが、鍛えているとはいえただの人間のお主にはちとキツイじゃろうなぁ」
そう言いつつ、夜火は再び地面に寝転がった。俺もあぐらをかいて座る。
「た、ただの人間って、それじゃあまるでお前が、人間じゃないみたいだな」
「んー、それなんだがのう」
と、そのとき彼女が、不意に視線を横に向けた。俺もほぼ同時にそちらへ顔を向ける。魔力を感じたのだ。
見ればそこには――
「……ちっ。おでましか」
ジン・フレイルの姿があった。
もしかしたらとは思っていたが、やはり俺を監視していたのか。
……やばいな。俺も夜火もすでに限界だ。魔力も体力も底を尽きている。走って逃げることすら難しいだろう。
「やあ。まずは礼を言っとくよ。――ありがとね。城のこと。まあ、壊れてはいないけどかなりの衝撃はあっただろうから良かったよ。きれいだったしね」
「……それをわざわざ言うためにここへ来たのか? だったら礼なんていらない。さっさと帰ってくれ」
「いやいや、本題は別だよ。そっちの女の子、城で会ったよね? まさかドラゴンだったとは思わなかったよ」
「…………」
「は? ドラゴン?」
夜火へと視線を戻す。彼女は何を考えているのかよく分からない、真顔でジン・フレイルを見つめていた。
「さっきの戦い見てたけど、あの炎とそれに活性っていう力、あれってドラゴンの能力だよね?」
「……違う。わしはドラゴンではない。そもそもモンスターがわしのように、魔法を使えるわけがないじゃろう。だからこそ特異な能力を身につけたのじゃからな」
「まあ、正直どっちでもいいんだけどね。それより問題は君だよ。これからどうするつもりなんだい? といっても、だいたい予想はつくけど」
ジン・フレイルの瞳がまたこちらに向く。
一応柔らかい笑みを浮かべてはいるが、一体今何を思って何を考えているのか、相変わらず読めないヤツだった。
「ならおそらく予想通りだろうな。もう俺はお前の指示には従わないし、従う理由もない。だろ?」
「この状況でよくそれを言えるね。理由がないのならまたつくってあげるよ」
そう言って、ジン・フレイルは一歩こちらに近づいてきた。俺は慌てて立ち上がる。夜火も、いや、立ち上がろうとして失敗した。やはり限界なんだろう。
と、そこへ、
「待て、ジン。今度は俺がやる。お前のやり方じゃまだまだ生ぬるいみてえだからな」
今度はフード男が姿をあらわした。彼はジン・フレイルの横に並び立つ。
「え? 君が? なにか考えでもあるの?」
「ああ。とっておきの方法を試す」
フード男はマントの下に手を入れると、中からあの白い箱を取り出した。
「俺の全魔力を使えばおそらく、今のあいつでも箱に閉じ込めることはできるだろう。帰りは頼んだぞ、ジン」
「そういうことならうん、了解。やっちゃって」
「……っ」
頭を抱えたくなった。くそっ、最悪だっ。立ってるのもぎりぎりのこの状態であれを避けられるとは思えないっ。どうするっ。
この不利すぎる状況に、思わず額から汗を流したとき、フード男は箱を無造作に放り投げた。
そう――横へと。
「お」
箱はそのまま、なんの警戒もしていなかったジン・フレイルにぶつかると、一瞬で彼を吸い込んだ。
そしてまもなく重力にしたがって、ゆっくりと地面に落ちる。
それを――フード男が拾った。
「まあ、上手くいったな」
「……は?」
つい間抜けな声が出てしまった。
「いやこれ、どういう状況?」
「十中八九、仲間割れじゃろうなぁ」
夜火を見る。
「お前……あんまり驚いていないんだな」
「その可能性もあったからのう。あのとき、ここであの男がお主を襲ったとき、あヤツからは確かに敵意を感じた。じゃがそれは、どこか無理やり作ったような、わずかに悲しみすら感じる敵意じゃった。じゃからわしはあのときあヤツを見逃してやったし、何かあるとも思っておった」
「へぇー、そうだったのか。そいつはありがとな」
フード男がこちらに近づいてくる。ポンポンと箱を宙に投げながら。
なんか、雰囲気変わってる?
「あんた……」
「色々と聞きたいことはあるだろうがまず先に言っておこう。今この箱のなかの時間は、外と比べて三百分の一の速さになっている。だからたとえ十秒で箱を出たとしても、こっちではすでに三千秒、五十分の時間が経過している。だがそのお蔭で魔力をかなり消費したから、転移なんかの魔法は封じてられていない。ヤツはすぐに出てくるだろう。だからその間に、お前は全力で魔力を回復させろ」
「……で、あいつと戦えってことか?」
「そうだ」
頷き、彼は初めてフードを脱いだ。
「…………」
するとその顔には確かに、ひどい火傷の跡があった。
俺に夢を見せる前、ジン・フレイルはこう言っていた。
『彼はこの世界を恨んでいる。なんでも昔、盗賊に妻と娘を殺されたらしくてさ。彼のフードの下見たことある? すごい火傷の跡があるんだ。その盗賊にやられたみたい。まったくひどい話だよね?』
と。そして本当に、彼の顔には火傷の跡がある。素顔がまったく分からないというほどではないが。
火傷を意識しなければ、かなり整った顔をしていた。三十代前半ぐらいだろうか。堀の深い顔立ちに、逆立った銀色の髪。それに背も高いから、まるでハリウッドにでもいそうな感じだ。
「別に、魔法を使えば火傷の跡ぐらい簡単に消せる。だが俺は、この世界を平和へと導く、その覚悟を示すために、そしてその誓いを忘れないようにするためにこれを残している。ジンには、恨みを忘れないようにするため、なんて言ったがな」
「じゃあ、盗賊の話は本当の話だったのか?」
「ああ。俺が家に帰ったとき、すでに妻と娘は火で焼かれたのか顔すら分からないひどい状態だった」
彼は悲しげに目を伏せて語る。
「……ん? 帰ったときってことはつまり、そのときあんたはそこにいなかったのか? ならその火傷の跡は」
「――自分でつけた。そのときそこにいなかった自分への罰として、また覚悟として、な」
ある程度予想してはいたが、さすがに俺も言葉を失った。
「お主、よくそれで世界を恨まなかったのう。わしなら最悪、全人類を滅ぼしかねんが」
「…………」
そして、夜火の言葉にまた絶句する。
こいつ……さらっと恐ろしいこと言うな。
「いや、確かに恨んだときもあった。だが、恨んでいるこの世界そのものが、ルールによってつくられた世界であると気付いたとき、俺はこの世界を変えようと誓ったんだ。まあ、といっても妻や娘を襲った犯人が、ルールの影響を受けていたのかは定かではないがな」
「ほう。なかなかできた男じゃな、お主。じゃがなぜ、そんなお主が二度も勇を殺そうとした? こヤツなら、そのつくられた世界を変えることができるというのに」
「それは……」
こちらを向く。
「あいつが、ジンが、お前を利用しようとしていたからだ。お前がジンの手に落ちれば、この世界はもっと歪んでしまう。とはいえ最初は殺すつもりなどなかった。ようやく現れた希望だし、殺すのではなく守るために俺はあの世界へ行った。……が、あのときお前を見て、俺は気が変わった」
急に口調が変わる。それはどこか失望したような、悲しみが混ざった声だった。
「あっちの世界は本当に平和な世界なんだな。ちょっと殺気を向けただけで、お前は動くことすらできなくなった。その瞬間、ああ、無理だと思ったよ。ただでさえジンは強い。それでこれじゃあ、すぐにあいつの手に落ちるだろうとあきらめた。だから殺そうとした。お前には悪いがな」
「いや、結果今こうして生きているんだから別に構わない。それにあんたの気持ちも少し分かるしな」
「そう言ってくれるなら俺も助かる。だが、それは全て過去の話だ」
「今はまた気が変わったと?」
「そうだ。お前さんたちの戦いを見てな。お前に、賭けてみてもいいと思った」
そう言って、男は笑う。そしてぽーんと箱を上に投げ、キャッチした。
「俺は今から全力で、魔力回復薬を集めてくる。どのぐらい集められるか分からないが、お前たちはここで待っていてくれ」
その言葉に、ふと記憶を探る。
魔力回復薬ってのはおそらく、ゲームを始める前に飲んだあの飲み物のことだろう。
「分かった」
俺は頷いた。それを見て男も頷く。と、まもなく消えた。どこかに探しに行ったんだろう。
買って手に入れるのか、今から作るのか、もしくは借りるのかどうか知らないが、俺の魔力を考えるとかなりの量必要だと思う。しかし一人では限界がありそうだが。
「よう、話は聞いてたぜ。人手が必要なんじゃねえか?」
いや、どうやら一人ではなさそうだ。
「ゼドー……」
「しかしお前さん、ずいぶん変わったなあ。色々と。城に戻ったとき、お前さんがいなくなっていてかなり焦ったが、まさかこんな状況にまで発展するとは思いもしなかった。あの城の氷も、お前さんの仕業だろ?」
「ああ」
どうせ鏡でばれているだろうから、素直にうなずく。
「ふざけんなっ! ……と言いてえところだが、相手がお前さんじゃ怒るに怒れん。それに気に食わんが、この方が綺麗でいい、なんて喜ぶヤツもいやがる。まったく、寒いのは苦手なんだがなあ」
ぼやきながら、ポリポリと頭をかく。相変わらず、いい意味で隙の多い男だ。
「まあ、それはいい。とにかく今の状況は理解している。もう仲間は回復薬を集めに行ってる。お前さんはここで休んでろ。俺も今から集めに行くが、その前に――そっちの嬢ちゃんは誰だ? まさかお前さんの子供か?」
「なわけないだろ。こいつは夜火……いや、ルゥだ。俺とゲームをした女の子だよ」
「…………」
途端、ゼドーは目を見開いて夜火を見つめた。彼女はわずらわしそうにそっぽを向く。
「……これは驚いた。嬢ちゃん、ちょっと見ない間にずいぶんちんまりしちまったなあ。そっちが本当の姿か?」
「違う。というかさっさと回復薬を集めてこい。燃やすぞ」
「ぶっ! 燃やすって! その姿で威張るとなんか妙に笑えるな! 頭なでてやろうか?」
「ほ、ほう? その喧嘩買ってやるからわしを起こせ、勇」
「自力で起きれもしないヤツが何言ってんだ」
「がっはっはっ! 逃げるが勝ちっ、ってな」
子どもかあんたは。心の中でそうツッコミを入れれば、もうすでにゼドーはその場から姿を消していた。残ったのは俺と夜火の二人だけ。
「くっ」
怒りをぶつける相手がいなくなり、しばらくの間はふぅふぅと息を荒げていた夜火だったが、やがて静かになると黙って空を見つめ始めた。
俺も再び地面にあぐらをかいて座ると、空をぼーっと眺めてみる。
フード男のまさかの裏切り行為に、彼の真実、そしてゼドーの登場と、状況はめぐるましく変化している。現状はひどく騒がしい。
が、こうして二人で空を眺めていると、心は不思議と落ち着いてくる。今は昼だし、ましてやここは異世界だが、神社で一緒に星を眺めているときと同じ感覚を覚えた。たとえ場所が、時間が、自分自身が変わろうとも、間に流れる空気は変わらないらしい。
俺はこの、とても優しく、穏やかで、包み込むような温かい空気を、思いのほか気に入っているようだ。
「なあ夜火。これから俺はジン・フレイルと戦うわけだが、正直お前はそれをどう思っているんだ?」
「別にどう思ってもいない。普通じゃ。今のあヤツはわしにとって敵でしかないからのう」
「じゃあ、お前の知るあいつはどんなヤツだったんだ? 今と違うのか?」
「……お主知りたいのか? あヤツのことを」
その声になんとなく真剣さを感じると、俺は空を見るのをやめて夜火に視線を移した。すると彼女は、やはり真剣な顔でこちらを見ていた。
「お主が知りたいというのなら、ああ、教えてやろう。あヤツのことを。そしてこの世界の真実というやつを」
「? 真実?」
「じゃがそれを知れば、もしかしたらお主のなかに迷いが生じてしまうかもしれない。それでも知りたいというのなら、真実を知る覚悟があるというのなら、わしが知るすべてを話そう」
「…………」
こいつは一体、なにを知っているのだろう。こいつが何者なのか、そっちの方が気になってきた。
それを知れるというのなら、覚悟なんていくらでもしてやる。
「教えてくれ。俺はその真実とやらを知りたいと思っている」
「そうか。ならばお主には、わしのすべてを見せようじゃないか」
「お前……その言い方は色々と問題が」
「ち、違う! 見せるのはわしの記憶じゃ! 記憶! なにバカなことを言っておる!」
「記憶? どうやって見せるんだ?」
そのまま話を進めれば、夜火は一度、おっほん、とわざとらしい咳払いをしてから、おもむろにパチンと指を鳴らした。
途端、周りの風景が変わる。
「また少し魔力が回復したからな。お主にはわしの記憶を映した、幻覚を見せてやろう。まあ、ダイジェスト版ではあるがのう。おそらくこんな感じ、といった憶測ではあるが、演出としてわしの姿も一緒に映す。今映っているのは確か、わしがまだ五つの頃の記憶か」
映し出された光景の中には、一人の男と一人の女、また幼き夜火……いや、ルゥと思われる小さな少女の姿があった。