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極東奇事

作者: 狸穴かざみ

1 地神


 

 さてこの時分は、草木も眠る丑三ッ時。

 鋭く尖った月の、おぼろげな明かりにも屋敷の襤褸さ加減が見てとれる。

 わけあって長いこと住む者がおらず、庭も杜甫詠むところの城の春。

 それでもやっと主を得て、奥の一間に、男が一人横になっている。

 ところが床についたはよいものの、どうにも寝付かれない。輾転反側、虫の声ばかりが耳につく。目は冴えてゆくばかりである。

 ふと気が付くと、虫の声がない。

 夏にしてもべったりと生温かい風に襟元を撫でられ、男は全身粟立った。

 途端、激しく家鳴りがして、外で呼ばわる者がある。

 震えながらも太刀だけは掴み、慌てて庭へまろび出る。

 大声が頭の上から呼びかけるので、仰ぎ見ると、門の外から見上げる程の大坊主がこちらを覗き込んでいる。

 男が恐ろしさに声もなく腰を抜かしているところへ、その坊主、剛毛の生えた腕を伸ばし、首根っ子ひっつかんで吊し上げる。男はやっとのことで悲鳴をあげ、持って出た刀で切りつけたけれども刃がたたぬ。

 大坊主は軽々と男を振り回し裏山へ放り投げ、何処ともなくかき消えた。


 「大石殿、大石殿、屋敷替えを所望されたほうがよろしいぞ」

 廊下で声をかけられた新参者の名は大石又之丞。やっとのことで浪人生活から抜け出して、本日、禄と屋敷を賜ったのだ。

 さて、今日から無宿者の名を返上できると思っていたところへ、先刻の言葉である。

 「…どういうことです?」

 同僚は辺りをはばかるように、声をおとして心配げに一言。

 「出るんですよ…!」

 「出るって、何ですか…?」

 「お化け。それもたいへんな化けものらしい。大の男が裏山まで投げ飛ばされたっていうんですから」

 「はあ。しかし、移る前から逃げ出すわけにも…」

 「そうですなあ。いきませんなあ。武士の面目というものもありますからなあ。まあ、ご用心ご用心」

 「は、恐れ入ります」

 とは言ったものの、気持ちの良いものではない。とりあえずは、又之丞、屋敷の様子を見にゆくことにした。

 「…………」

 いかにも、である。

 しかし、いくら御下賜のお屋敷がありがたくとも、この荒れようでは、日々の暮らしに差し支えが出ようというもの。

 案内の下人は、調度は前のままですと言うと、早々に退散してしまった。

 「…どこから手をつけりゃいいんだ」

 放心しながらも、庭を見回す。

 片隅に小さな祠があった。これがまた崩れそうなひどい有り様で、祠の屋根だけはまだもっているようだが、柱の一本は虫がついて中がすになっているのが明らかだ。

 例の「出る」との噂もあることだし、神頼みも良かろうと、まずはそこから片付けることにした。手ぬぐいで土埃を払い、祠のまわりだけ草をむしり、神饌を揃えることもできないが、水だけでもと椀に一杯置いてみる。

 二回手を叩いて頭を下げ、次は屋敷の中でもと祠に背を向けると、後ろから名を呼ばわるものがある。

 野太い声で怒ったように又之丞を呼びつける。

 恐る恐る振り返ると、門の外から大坊主がこちらを覗き込み、目をびかびかさせて、また呼ばわる。

 「又之丞! 大石又之丞!」

 半口あけて坊主を見上げ、一度なまつば呑み込んで、動けないまま返事をする。

 「……はい、はい…」

 「ここを開けよ!」

 「…は」

 事態を呑み込めずにぼんやり突っ立っていると、坊主はいらいらと繰り返す。

 「ここを開けよ! 開けずば、破って入るぞ!」

 化けものなら化けものらしく、有無を言わさず押し入ってくればいいものを、おかしなものだと思いながら、慌てて門へ走る。

 前にいた男が裏山まで投げ飛ばされたという話を思い出し、びくびくする心を抑え、ままよとばかりに門を開く。

 どれ程の大足が立ちはだかっているものか、いきなり蹴られたりはしないだろうか。

 そう思いきや、門の外には何もいない。

 いや、そこには一人、袴を着けた十三四の男の子供がてんと立っているのであった。

 又之丞はあまりに拍子抜けして、ただ黙って少年を見た。

 「大石又之丞か」

 少年は鷹揚に訊ねる。

 「あ、ああ」

 「わたしはこの屋敷の乾の隅、書院さきに住む地神である。長い間ここに住むもの、皆わたしを蔑ろにし、取りのけようとしおったので、我が威を知らしめようと祟りをなしておったが、貴様はまず我が祠を祀り、礼を尽くすことを忘れなかった。ありがたく思うぞ」 「へ?」

 「末長く加護してやるほどに、くれぐれもわたしを良く祀るべし。我が宮は大破しておる。これは建立しておくように」

 そう言うと少年はすたすたと、件の嗣の方へ歩いてゆく。

 「ちょ、ちょっとちょっとちょっと待て」

 「なんだ?」

 我にかえった又之丞は、せいぜい偉そうに少年を見下ろした。

 「きさま、何者だ」

 「この屋敷を護る地神である」

 「大人をからかうもんじゃない。どこの子供だ? ここの近くか?」

 少年は、真っすぐに又之丞の目を見た。

 「疑り深い奴だ。証を見せてやろう。なんでも望みを言ってみよ」

 少年の自信たっぷりの態度に、又之丞は少々たじろいだ。

 「…じゃあ、…掃除と…煮炊きのできる下人が一人ほしいな」

 「よし。しばし待ちおれ」

 そう言い置いて屋敷のわきにしゃがみ込み、縁の下に呼びかける。

 「東風丸こちまる。これ。東風丸」

 間を置くが返事はない。少年は立ち上がると縁側をがんがん蹴っとばした。

 「東風丸。起きろ。出てまいれ」

 またしばし間を置くと、のそのそと縁の下から獣が一頭這い出してきた。

 少年の前に座って、鼻の先から尻尾の先まで伸びをするように震わせると、真っ赤な口を開けてかあーっと大あくび。

 鼬に似ていなくもないが、大きすぎる。背には滴の形をした斑文がある。

 「人の姿となり、この者に仕えよ」

 「お、おい」

 獣は、抗議の声をあげようとした又之丞にちらりと一瞥くれると、また身を震わせた。

 一陣の風が巻き起こり、又之丞は思わず目をすがめ、次に目を開けると獣のいたところには人が一人現れていた。その男は、ざんばらの短い髪に指を突っ込んで、目を覚まそうというようにぐしゃぐしゃっとかき混ぜた。

 「…化けたのか?」

 そいつから目を引き離して、少年に恐る恐る尋ねる。

 「なんだよ、用事は」

 そいつが口をきいた。

 どうやら本当に人ならぬものであるらしい少年と、又之丞を見比べながら、面倒くさそうに言う声は、人の声だ。

 「この者を使うがよい」

 地神の言葉に又之丞はあわてて抗議した。      

 「いや、お、俺は、普通の下男を自分で探すからけっこうだよ」 

 「そうしてくれよ」

 東風丸と呼ばれた男は大あくび。確かに先ほどの獣の姿に似ている。

 どちらともなく地神は二人の方を見て、にこやかに声をかけた。

 「では、よろしく頼むぞ」

 「相変わらず、あんたは他人の言うことを聞きゃあしねえな」

 東風丸の返事が終らぬうちに、地神の姿は大気の中へかき消えた。

 又之丞は今日何度目か分からぬが、言葉を失って立ち尽くす。

 「で? 何を頼もうってんだ?」

 東風丸は仕事をするつもりであるらしい。

 又之丞は変な顔で東風丸を見やるが、見たところは普通の男にしか見えないので、自分が戸惑っているのがおかしいような気になってくる。

 「ああ、屋敷の掃除だ。修理もしなきゃならんが…」

 「ふん」

 頷いたのか嘲ったのか、東風丸は屋敷に向き直る。

 その後ろから突風が押し寄せ、東風丸の脇を駆け抜け、屋敷に入り込んで中から戸板を吹き飛ばした。そのまま屋敷中を逆巻いて塵芥をさらい、目を見張る又之丞の前に渦巻いて塵を集めると風は止んだ。

 「掃除、終ったぞ。じゃあな」

 行きかけた東風丸の袖を又之丞ははしと捕らえた。

 「雑巾がけも手伝え!」

 「いやだ!」

 東風丸が往生際悪くじたばたしているところへ、晴天の一角から稲妻が走り来て、目の前の地面に落ちた。思わず、二人で身をすくめる。

 東風丸が祠に向かって叫んだ。

 「分かりましたよ! やりますよ! 下男でもなんでも!」


 掃除が終わると、東風丸は台所に立ってたすきがけ。又之丞は一抹の不安を表明する。

 「飯なんか作れるのか?」

 東風丸、じろりと又之丞を見て、包丁の先で追い払った。

 「おれの腹が減ったから作ってんだよ。お前さんにもついでに食わしてやるから座敷で待ってろ」

 出来は上々、がっついて飯を喰いながら、又之丞は東風丸に言う。

 「うまいな」

 汁を一口すすって飯粒を流し込み、息をついて東風丸は顔をあげた。

 「これ、おくれ?」

 東風丸は言いながら、又之丞の残した魚の骨にもう手をだしている。

 「あ、ああ」

 事もなげにばりばりと骨を喰う東風丸を見て、あらためて向こうの膳には骨の残っていないことに気づいた。

 「硬かないか?」

 「あんたらみたいにヤワじゃねえ」

 人外の獣はそう言うと、部屋のすみへ行ってごろりと横になった。

 「おい、そんなとこで寝たら、カゼひくぞ」

 「こちとらお前さんたちとは作りが違うんだよ。又之丞殿はちゃんと床とってお眠りあそばせ」

 又之丞はまったく疲れていたので、東風丸の言うとおりにしたが、床に入る前に東風丸の頭に枕を命中させるのを忘れはしなかった。



2 女臈


 さて、次の朝の出勤である。

 脇差が鞘走らないように確かめたところで、ねっころがって今まで又之丞の様子を眺めていた東風丸が、がばと起き上がった。

 「おれも連れてってくれよ」

 「そんなことができるか」

 東風丸はすこしもめげぬ。

 「ほかの連中から姿隠しときゃいいだろ?」

 「…うむ・…」

 乗り気にはなれぬが、渋々頷く。

 ひょんととんぼを切って、東風丸は一寸程の小人になると小風を駆って又之丞の元結の根元に座りこんだ。

 「見えてるぞ」

 「おまえさんにはな」

 又之丞は、少々不安であったが、遅れても困る、屋敷を出た。

 城下を歩きながら人の目が気になるが、どうやら東風丸は本当に見えていない様子で、ひとまず胸をなで下ろした。

 仕事を始めてしばらくすると、東風丸はもう飽きた様子で、又之丞に耳打ちする。

 「城の中、見物してくるわ」

 又之丞の返事も待たず、東風丸は欄間の隙からすっ飛んでいった。又之丞の不安は大いに増大した。

 しかし、又之丞の気苦労も取り越し苦労で済んだようで、仕事のあらかた片付く頃、東風丸は遊び疲れて戻ってきた。

 また、頭の上に乗っかったのを覚えても、まず顔に出すこともできないが。

 日が落ちて、いつもならそろそろ下城かというころだが、今夜の又之丞は宿直である。部屋に一人になったのを幸いと、頭上から東風丸をはらいのけた。

 「いつまでひとの頭に乗ってる!」

 「はん。たいした頭でもあるまいに」

 東風丸は人並みの大きさに戻ると、畳みの上にごろ寝を決め込んだ。

 「おまえに言われる程、ひどくはないわ」

 先は長いのだと、又之丞も柱によりかかる。

 四半刻も経ったろうか、東風丸はやおら座り直すと、うらめしげに又之丞を見て言った。

 「つまらねえ。ずっとこうしてんのかよ」

 「そうだよ」

 言った途端に、障子が開いた。

 又之丞は大慌てで東風丸を隠そうと障子と東風丸の間に分け入ったのだが、同僚はそれを見て笑って言った。

 「夜じゅう正座していることもできますまい。そんなに気をつかわず、楽にされるがよい」

 東風丸はちゃっかり姿を隠したままだったのだ。

 「これはどうも……お見苦しいところを」

 ちらりと東風丸をうかがうと、意地の悪い顔をしてにやにや笑って、べろりと舌まで出してみせた。

 又之丞は腹の中をひた隠しに、同僚の方へ愛想笑い。

 「なにかございましたか」

 「いやいや、なにと言う程のことではないのだが。長夜のつれづれに殿が家中を呼び集めてござる」

 又之丞、慌てて裾を直して立ち上がった。

 「ただいま」

 部屋を出際に東風丸を踏みつけて頭のお返しとした。東風丸は腹立たしげに舌打ち一つ、それから小さくなると今度は又之丞の肩へ乗った。


 御前に皆で集まって、行灯の明かりの中、城主が口を開く。

 「今夜はほかでもない。この城の五重目に夜な夜な火が燈る。誰かあれを見て確かめて来ようという者は有らんか」

 城主に集まっていた視線が途端にそらされて、誰か名乗りをあげぬかと互いを窺って伏し目がち。

 恐ろしいものは恐ろしいが、殿の覚えが悪くなるのも困りもの。

 ひそひそ声でどうしたものかと、あちらこちらで思案の様子。

 その中に自分の名を聞いた気がして、又之丞は身を硬くした。

 「大石殿」

 案の定、向こう隣りに座っていた侍が喜色満面に声をかけてきた。

 「…例の屋敷の化物を退治されたそうではありませんか」

 抑えた声は、ぎりぎり城主に届く大きさだ。

 「いえ退治などとんでもない。せいぜいおとなしくしてもらっているだけでござって…」

 身を隠そうと平服するが、いかんせん新入りとあっては、どうしても目に止まりやすい。

 「大石又之丞」

 御声がかりに又之丞は腹を決めた。東風丸に逃げるなよと目で合図して、顔をあげた。

 「どうじゃ、やってみぬか?」

 「はい。それがしが行かせていただきまする」

 「よし。しからば、証しをとらせよう」

 城主は嬉しそうに火の消えた提灯を又之丞に預けて言った。

 「あの火を、これに燈して参れ」

 「心得ました」

 又之丞、神妙に提灯を受け取ると、天守にあがった。

 古い城の階段は磨き上げられ、足を乗せる度にぎしぎしと音をたてる。

 又之丞は、指が白くなるほど提灯の柄を握りしめて、肩の上の東風丸に聞いた。

 「おい。おまえの知合いかなんかじゃないのか? 知ってるんなら先に教えろよ?」

 「知らないよ」

 東風丸は肩を離れて元の大きさに戻ると、又之丞の後ろについて歩きはじめた。

 「おれ、こんなとこ入るの初めてだ。でも、強い気を感じるな」

 「危なかない…か…」

 恐ろしくなって振り返ると、東風丸の目が緑に光っていて余計恐ろしさが増してしまった又之丞であった。

 「まったく、なにをびくついてるんだよ、っと」

 東風丸はとんぼをきって又之丞の前に飛び出すと、風を蹴ってふいと舞い上がる。

 「五重目!」

 一足先に飛び込んだ。

 「お、おい、待てよ」

 「お、べっぴんさん!」

 「おい?」

 追いついて天守の最上階の中を見れば、年の頃十七、八の女臈が十ニ単衣を着て、傍らに火を燈し一人座している。

 東風丸の口笛に、凛と見返して問うた。

 「無礼なるぞ、下郎。何とて此処へ来たるか」

 「まさしく、気の強え女…」

 東風丸が呟く。又之丞、迫り来る鬼気に気圧されて、懸命に言葉を選んだ。

 「…それがし、主人の仰せにて是れまで来たり候。その火をこれへ」

 右手の提灯をかかげて見せる。

 「燈してたまわり候え」

 女臈に見据えられ、又之丞は息が止まって死ぬのではないかと脂汗がにじむ。

 「主命とあれば、許してとらせん」

 女郎は重々しくそう言うと、燭から提灯へ火を移してくれたので、又之丞はほっと一息、這いつくばって礼を言い、早々に天守を下りはじめた。

 「つまらねえ。これだけか」

 「これで充分だ!」

 ところが三重目まで来たところで、ふいに火が消えた。

 「……っっ!」

 絶句した又之丞を尻目に、東風丸は何も居ないように見える一角に向かってばんと風を当てると叱りとばした。

 「行っちまえっ」

 「なんだ…?」

 東風丸はふんと鼻をならして顎をしゃくった。

 「婆の幽霊」

 又之丞は深々とため息をついた。もう一度火をもらいに行かねばならぬ。なんだか仕官が決まったことを後悔しはじめていた。

 女臈は意外にも厭わず提灯の蝋燭を取り替えてくれ、さらに文箱から何やら取り出した。

 「証にせよ」

 差し出したのは、片方だけの螺鈿の櫛である。又之丞はそれを押戴いて立ち帰り、殿の御前にまずは提灯を差し上げた。

 城主は感心して、ためつすがめつこの火をご覧じ、さて吹き消してみようとしたが、炎が揺らぐだけで一向消える気配がない。

 「大石、この火は不思議なことじゃ。いくら吹いても消えぬぞ。ほら」

 ほらと渡されて、吹いてみよと言う。

 まったくとかなんとか言いながら、又之丞が一吹きすると、あっけなく火は消えた。

 座敷中がどよめき、城主まで感嘆しきり。

 「ほかには、何か不思議はなかったのか?」

 又之丞がかしこまって差し出したかの櫛を、城主は取り上げ見るなり、驚いて従者に具足櫃を取りにやらせた。

 「これは余が具足櫃に入れ置いたものぞ」

 早速、櫃を開けるて確かめると、一対入れておいたはずの櫛が片方なくなっている。

 これは如何なることかと、城主が一人で直きに天守に上がると言われる。

 「汝らは来てはならんぞ!」

 と言い置いて、臣下たちの止めるのも聞かず、階段を上がっていってしまった。

 しかし、五重目まで来ても、燈のほかになにも見えぬ。

 訝しく思って隅々まで捜し、かの女臈が現われるまで待つのも良かろうと腰をおろした。

 しばらくすると階段を上がって来る者がある。見ると、いつも傍らで琴や琵琶を弾じている座頭である。

 「何をしに来たのだ。来るなと言ったはずだぞ」

 「御淋しく居られると存じ、参上いたしました」

 見えない目を向けて微笑み、そうして城主に顔を向けたまま、手元で琴の爪箱をいじっている。

 「あいすみませんが、蓋がとれませぬ」

 「開けてやろう」

 爪箱を手に取り蓋を取ろうとしたが、なんと箱ごと手に張り付いて離れない。

 「たばかったな!」

 城主は怒りにまかせて、足で踏み割ろうとしたが、今度はその足までも張り付いてしまい、見事にひっくりかえった。

 座頭はと見ると、そのたけ一丈ほどもあろうかという鬼神となって見下ろしているのだ。

 「我はこの城の主なり。おろそかにして、尊とまずんば、今ここにて引き裂き殺さん!」

 そういって掴みかかって来たので、目をつぶって叫びかえす。

 「わ、わかったわかった! おろそかになぞせん!」

 すると豪放な笑い声がして、掴み上げられると同時に爪箱が離れた。

 「しかと聞いたぞ!」

 城主は空中に投げ出されたかと思うと、どさりと人の腕の中へ落ちた。

 驚いたの家来たちである。

 一番下でやきもきしながら、城主の帰りを待っていたところが、五重目あたりから叫ぶ声が聞こえる。すわやと階段に足をかけるなり、突然空中から主が降ってきたのだ。大慌てで御寝所へお連れして、御典医を呼び、体の方には異常なしとわかってそれぞれの屋敷への帰途につくころには、すっかり夜も明けきっていた。

 又之丞は疲れ果てて歩いているというのに、東風丸は元気なことこの上ない。

 「なあ! おもしろかったよなあ!」

 けらけらと笑う。

 「…おれは、自分の首が心配だ…」

 「なんで」

 東風丸にはとんとわからない。

 「こういう場合、ぜーんぶおれのせいにされたり、するんだよ」

 まだわかっていない顔をしている東風丸の脳天気に寝不足もあいまって、めまいがしそうな又之丞。

 「ええい! とにかくおれはもう寝るぞ!」

 座敷にあがるなり、倒れ伏してそのまま前後不覚。

 東風丸もならって畳みに横になったが、盛夏の昼間ではどうにも暑くて寝苦しい。外へ出て身をふるうと獣の姿に戻り、床下に潜り込んで冷たい土に腹をつけて気持ち良く眠りに落ちた。

 夏の日はまだ長く、蝉の声ばかりが勢い良く光の中に満ちている。



3 巫女


 さて、次の日の、うだるような未の刻である。

 大日如来の遍照の下、又之丞の呆然の態も顕かに照らされている。

 城からの使者を送り出した又之丞は、肩をおとしてため息をつく。

 ふらふらと屋敷へ戻り、縁側に腰を下ろす。

 もう一度溜め息をつくと、縁側の板材を二度三度叩く。

 縁の下から這い出してきた一匹の獣、川獺にも狸にも似た、しかしどちらでもない、斑文様の妖獣である。身を振るって毛先についた土を払う。

 又之丞は、暗い声でこれに呼び掛けた。

 「…おい、東風丸」

 獣は真っ赤な口を耳まで裂いて大あくび、してから、くるり、縁の下へと踵をかえす。

 「こら待て、東風丸っ!」

 又之丞は、すかさずその尾を掴んで引っ張った。獣は、四肢の爪で土を掻いたが、ずるずると引きずり出され、腹立ち紛れに又之丞の手に牙を当てた。又之丞、わっとばかりに川獺もどきを放り出す。

 妖獣は一陣の風に包まれるや、人の姿となって地に立った。

 ざんばらの髪を指ですきながら、面倒臭そうに問う。

 「何だよう、いったい。お城からの使者だったんだろ? 誉めてもらったか?」

 又之丞は、苦虫を噛みつぶしたような顔して。

 「違う。鬼退治しろって、主命が下ったんだ」

 「そうか、がんばれよ。じゃあな」

 「お前、手伝えっ!」

 真剣に叫ぶ又之丞に負けじと、東風丸も声を張り上げた。

 「おれなんか連れてったって、足手まといになるだけだぞっ。あんな大物とは格が違わあ!」

 又之丞、また深々と溜め息をついて、縁側に腰を落とす。

 「大物か。そうか。そうだよな。恐ろしかったもんな」

 力の抜けた声で独りごちる。

 「仕官した途端に脱藩かあ…。俺って奴は、なんてツイてないんだ」

 東風丸はにやついて又之丞の顔をのぞきこんだ。

 「おまえさんも、武士なんだろ? さっさと潔く当たって砕けてこいよ」

 又之丞は東風丸を横目で睨む。

 「俺は、はっきり言って武士の面目より、自分の命が大事だ」

 東風丸はさも可笑しそうにからからと笑い、あごで乾の方角を指す。

 「テメエは何のために、地神様と仲良くしてんだよ?」

 又之丞、はたと膝を打ち、早速、祠の前に立つ。

 神妙に柏手を打ちおわると、後から声がかかった。

 「何用じゃ」

 振り返ると、白張姿の少年が縁側に腰掛けている。

 又之丞が経緯を述べると、少年の姿をした地神は一つ頷いた。

 「加護してやらずばなるまい。危うき折りには呼ぶがよい」

 又之丞が平服して礼を述べる間に、東風丸はそそくさと縁の下へ戻りかけるが、その背中に地神が笑顔で呼び掛ける。

 「東風丸」

 「草葉の陰からご武運を祈らせていただきます」

 答える東風丸の首根っ子を又之丞がしっかりと捕まえた。地神、続けて曰く。

 「東風丸。堂々、加勢することを許してつかわす」


 さて、又之丞、鬼退治のため登城となった。

 城主の御前に、かしこまって又之丞。その後に姿を隠し、そっぽを向いて東風丸。

 「面、上げい」

 城主は、不機嫌に一言うなる。かの鬼に会ってから、ひどい頭痛が治らない。

 「…大石!」

 「は!」

 「天守の鬼、討ち果たせぬ時は、腹を切る覚悟できておろうな。行ってまいれ」

 「は…」

 もし又之丞が頭に馬鹿のつく正直者であったれば、否と答えて帰るところだ。仕方なく、決めたくもない覚悟を半決めに、又之丞、先に立って天守に登った。

 階段を上がり切ると、件の女臈が、傍らに火を灯して座している。

 又之丞を見据えて曰く。

 「汝は、何とて此処へ来たるか」

 「…これなる姫御前には、我が主人に害を為すことを止めていただきたく候」

 又之丞、太刀のつかに手をかける。

 「さもなくば、退治つかまつり候」

 女臈は、又之丞を見据えたまま、顔色一つ変えぬ。

 「その方の主人とやら、行ない悪しければ、応報なり。疾く立ち去れ」

 必死に奥歯を噛みしめて、又之丞は鞘をはらった。

 きつく握った太刀をふりあげ、女臈の面に打ち下ろす。

 だが、その太刀は、女臈が立ち上がりざま優雅に一閃したあこめ扇に弾かれた。

 すっくと立った女臈は、ざわりと衣擦れさせ、かきつばたに襲ねた裾をさばいて、炎を映す瞳で又之丞を射た。

 又之丞、かすかに喉を鳴らして身を固くする。

 後ろで様子を見ていた東風丸は浮き足立ち、肌が粟立っている。

 又之丞の袖を引いて、小声で言う。

 「おい、又公、やばいよ、逃げようぜ」

 「も、もう、逃げ切れるもんかっ」

 一つだけ灯った火がゆらりと揺れ、壁に映った二人の影が大きく踊る。

 女臈が紅いくちびるを開き、太刀を構えた男に言葉の刃をつきつける。

 「下郎。この松河の一国一城を、豊海に売らんとする者に組するか」

 「え?」

 思わず声を上げた又之丞、構えた剣のきっさきが下がる。

 豊海といえば、松河の北面に位置する大国。かつては菅野一帯を争い、その覇権を松河のものとしたこともあったが、今ではその南、金尾までもが豊海領である。

 「かの痴れ者、城を捨て、豊海の属領に下らんとしておる」

 痴れ者とは、どうやら城主のことらしい。又之丞、やっと口を湿して言う。

 「それが本当なら…、城は…、どうなる」

 「城も国もあるものか」

 「お、俺は鬼退治なんか…」

 その後から東風丸が袖を引く。

 「そうだよ、してやる義理なんざねえって」

 やる気をなくした又之丞から、目を離し、女臈は天守の入り口を見据えた。

 「供せよ!」

 一言発すると、灯りの届かぬ闇の中から浮かび出る、牛頭馬頭の鬼や様々の顔色した角持つもの、異形のものどもが奇声を発して天守にひしめく。

 「我が城を堕としむる者をこそ、討つべし」

 緋袴が滑るように歩を進める。

 又之丞と東風丸は、同じだけ後ずさる。ますます退けば、とうとう、天守を下る階段のきわだ。

 女臈が左右に従えた牛頭鬼馬頭鬼が轟と吠えたのを合図に、二人は一目散に駆け下った。

 東風丸の操る風が、次々に二人の目の前の襖を開けていく。最後に広間の襖の三枚がいっぺんに吹き飛ぶと、物音に異変を察した城主と控えた家来たちが身構えていた。

 又之丞は、息を切らして言う。

 「こっちへ、来ます! お、鬼どもを連れて、降りて…」

 城主がいらいらと、扇子で脇息を打った。

 「しくじったのか!」

 又之丞が城主に答えるまでもなく、鬼どもを従えた女臈が廊下を渡って来るのが見える。

 家来たちはみな立ち上がり、刀の柄に手をかけ、城主の前に人垣を作る。

 女臈は広間の端から、城主だけに対峙した。

 気の早い者が気合い諸共、女臈に切り掛かるが、馬頭鬼の腕の一振りで打ち倒される。

 色めき立った広間に、女臈の声が凛と響く。

 「下郎ども。下がりおれ」

 一同、その鬼気に縛られ、指一本動かせぬ。

 静まりかえった広間の真ん中を、静かに絹の裾を引いて進む。

 脇息を掴んだまま硬直する城主を、昂然と見下ろした。

 「我が諫め、その耳に届かじと見える」

 「…何の…ことだ」

 城主がやっとのことで言い返すと、女臈はわずかに目を見開いた。

 「我が城を蔑ろにし、豊海に下らんとする者、もはや主とは認めず。今此処にて、引き裂き殺さん」

 小面にも似た白い額から、二本の角がめきめきと生える。

 家来たちが身動きの取れぬ絶望に、うめき声をあげる中、東風丸が、背中合わせの又之丞に必死に呼び掛けた。

 「又公、呼べっ」

 又之丞は、ここにはいない味方のことを思い出して、鋼のように固められた口を開いた。

 「…地神、ご加護を」

 言い終わるか終わらぬかのうちに、又之丞の目の前に白張姿が立ち現われる。

 「縛よ、解けよ」

 一瞬にして身の軽くなった家来たちが、一斉に女臈に斬り込んだ。

 幾本もの太刀があやまたず女臈の体に突き刺さり、かきつばたを血に染めるかと思われたが、女臈は平然としてその身に立った刃を袖で払い落とした。

 袖に触れた刀身は朽ち果てて崩れ、刺されたはずの身には傷の跡形もない。

 女臈がふと頭をもたげると、垂髪がざわめき、一房一房が蛇のようにうねって群がる武士どもに襲いかかる。黒髪は切れども切れどもさらに伸び、家来たちの腕をからめとり、首を絞め上げようとする。

 東風丸が風を操って城主にからんだ髪を断ち、金襴の帯をひっつかんで下座へ飛んで逃げた。

 その間を逃さず、地神が天を指せば、その指先から金の稲妻が光り出て女臈と鬼どもに打ち当たる。

 物の怪どもの幾つかは消え去り、そして、女臈は始めて気づいたように、地神たる少年に目を向けた。

 八方に人を捕えていた黒髪が解け、その全てが、小さな白張姿を絞め殺しに向かう。一つの黒い滝になり、また、無数の驟雨の矢となって飛び回るそれを、地神はただ直立のまま稲妻をふるって焼き尽くそうとする。

 枷を解かれた家来たちがまた女臈に打ちかかろうとし、鬼どもは城主だけを目掛けて爪をのばす。

 又之丞、それを防ぎながら叫ぶ。

 「殿を連れて早く、逃げろ!」

 東風丸が、城主をひっ下げて風を駆った。多くの家来が、そのまわりを守りながら城外まで走り出る。東風丸は、下ろせとわめく城主を放り出すと、疾風のごとく広間へ戻った。

 「又公! あのうつけはもういい。こっちも早いとこ逃げるぞ!」

 又之丞は、そうかと頷くと、牙を剥いた魍魎を突き離し、だが、はたと足を止め戻りかける。

 「地神様を、置いてくわけには…」

 「ばかやろう! やらしとけ、おれらなんかが手ぇ出したって、邪魔になるだけだっ」 たしかに、稲妻の光の中に半ば隠れた少年には、近付くこともままならぬ。

 又之丞、それではとくるり後ろ向き、脱兎のごとく駆けだした。

 東風丸が門の外に捨ててきた城主の姿は、もうそこにはない。いずれかの臣下の屋敷へでも迎えたのだろうと、又之丞たちは自らの屋敷へ戻った。

 息を切らして、城を振りあおぐと、二匹の竜が楼閣を巻いて争っている様が見えた。

 又之丞は、腰を抜かしそうになって東風丸の肩をつかんだ。

 「お、おい、ありゃ、いったい、なんだ…?」

 東風丸も肩で息をしながら、しかし、精一杯又之丞を馬鹿にした調子で答える。

 「あの女と地神に決まってんだろ」

 「え、じゃあ…、竜、なのか」

 「おうよ」

 見ているうちに、片方の竜がもう片方に追われるようにして、楼閣からほどけていく。そして、あきらかに追われた格好で空をのたうち、又之丞の屋敷のほうへと迫る。

 竜は頭を下にして、まっすぐ又之丞の方へ落ちてきた。

 二人は思わず叫び声を上げて頭をかかえる。

 まったく、雷の落ちたのと同じ音がして地面が揺れた。

 静かになったので、二人が顔を上げると、地神のほこらがばらばらに飛び散ってくすぶり、その真ん中に白張が焼け焦げかぎ裂きだらけになった地神が、倒れている。

 二人が駆け寄ると、地に手をついてすっくと立ち上がった。背をのばして二人を等分に見、涼しい声で曰く。

 「我が手には負えぬ。逃げるぞ」

 地神の言葉が終わらぬうちに、又之丞は自分の足首に巻きつく固い爪に飛び上がった。

 いや、飛び上がろうとしたが、足首を捕まえられているため上手くいかずに尻餅をついた。

 土中から突き出した剛毛の生えた手が、又之丞の足を手掛かりにして、土中に埋もれた体の方を引き出そうとしている。

 東風丸が、こちらは上手く空中に飛び上がったまま、叫ぶ。

 「又公、斬れっ!」

 又之丞、抜き身のままの太刀をその腕に叩きつけた。切られた腕はそれだけで、もがき続け、腕の持ち主も力まかせに土を跳ね除けて地表に出てくる。

 額にぞろりと並んだ角が泥に汚れている。

 立ち上がって刀を構えた又之丞だったが、見る間にそこいらじゅうの地面から異形の腕が生えてくるのを見て、腰砕けにあとずさる。

 地神がそのそれぞれに稲妻を放ったのを合図に、三人は駆け出した。

 又之丞は、先頭を行く地神を必死で追う。

 「地神様、どこか逃げるあてが、あるんですかっ」

 「うむ。ない」

 白目を剥きそうになった又之丞だが、ここで倒れれば命がないと、走りに走り、息も絶え絶えになり果てた頃、赤い鳥居の並ぶ社の前で、地神はやっと足を止めた。

 日も落ちて、月影ばかりの暗闇に、森がざわざわと鳴る。

 「ここならば、あの女も手荒なことはできまいぞ」

 又之丞ひざに手をつき、荒い息の合間から、安堵の調子でやっと言う。

 「なんだ、あて、あるじゃないですか…」

 地神はすたすたと鳥居をくぐり、中へ入って行く。東風丸はわずかに眉根を寄せて、ふんと息を吐いて続き、又之丞も慌てて従う。

 両脇を森に囲まれた参道の石畳、石階段を上りつめ、境内に入れば、夏だというのに冷たいような静泌さ。

 地神は、拝殿の正面にただ立った。

 突如、拝殿の扉が勢い良く開くと、年の頃十四五の白い袴の巫女がすっくと立って、こちらを見据え、一喝した。

 「出ていけ」

 東風丸、肩をすくめて又之丞の後ろに隠れ、惨めに口を尖らせる。

 「おれ、何にもしてねえよ」

 又之丞は、何事かと東風丸を見下ろす。

 「どうしたんだ?」

 「こちらさんとおれは、反りが合わねえの」

 地神が涼しく笑い、巫女に向かって曰く。

 「我が名に免じて、許せ」

 巫女は切れ長の目を光らせて地神を凝視するや、拝殿から下りてきた。強い眉を僅かも動かさずに、三人の顔をよくよく眺める。

 最初と最後に東風丸を見て、やっと僅かに表情を和らげた。

 「悪さをするなよ」

 東風丸はとんでもないと目を見張る。

 巫女は、次に又之丞に言う。

 「お前は、人か?」

 「はい」

 又之丞、素直に答えたものの、実のところ同じ問いを問い返したい気持ちだ。

 巫女は、裾を翻して踵を返す。

 「ついてこい」

 拝殿に上がり、一つだけ灯った明かりを他の燭台にも移して明るくし、巫女が自ら円座まで並べる。

 「座れ」

 地神は当然のように上座に座り、東風丸は一番下座に腰を下ろし、又之丞はその隣にかしこまって正座した。

 巫女はさらに、祭壇に並んでいた瓜を三方ごと東風丸と又之丞の前に置いた。

 「お前たち、腹が減っていたら、それを食っていろ」

 又之丞が丁寧に礼を言う間に、脇から東風丸が早速手を伸ばす。両手に抱えて皮ごと齧り付くと、甘い匂いがほんのり匂って、又之丞の腹の虫も騒ぎ出す。

 巫女は、地神に向き直って座った。

 「それで、何の用なのだ?」

 「松河の城が見えたであろう」

 「ああ、あれか」

 巫女はふいと横を向く。

 「うまいか?」

 又之丞、東風丸、揃って瓜から顔を上げると、頬ばったまま何度か頷く。巫女はふんと言って、また地神に向く。

 「祓えというのか?」

 地神は、黙って巫女の顔を見ている。

 巫女は見返す。

 「できない」

 又之丞はそれを聞いて急に胸が塞がれるように感じ、瓜の半分を持った手を下ろして所在がない。

 巫女は立ち上がり、しばし逡巡。

「人外のものを宿房には泊められないな。ここで寝ろ。朝になったら、神主に拝させる」 巫女はそれだけ言うと、拝殿の一隅で床にごろりと横になり、俯せに畳に頬をつけてたちまち寝入ってしまった。

 地神は祭壇に向かって座すと、背筋を伸ばしたまま目を閉じて沈黙した。

 又之丞がまだ瓜の半かけをもてあそんでいるので、東風丸は掴み取って食い尽くし、長い舌で口のまわりと両手を舐める。

 又之丞の口も手も甘い汁に汚れて拭いたいと思うが、布で拭って拭えるものでもない。水で洗いたいところだが、巫女は眠っているしと両手を見る。

 「何だよ、もっと食いたかったのか?」

 東風丸が又之丞の手に重たい瓜をもう一つ乗せる。

 「そうじゃない。手を洗いたいと思っただけだ」

 「じゃあ、洗ってこいよ」

 「…うん」

 又之丞がまだ、巫女のほうを見や遣るので、東風丸はにやりと笑う。

 「手を出すなよ、罰当たり」

 「何を考えてる! 俺はただ、井戸がどこにあるのか聞いておけば良かったって…」

 東風丸、早く行けと手を振って又之丞を追い出し、自分はその場で腕枕。

 又之丞、拝殿を出ようとして扉を開け、境内の暗さに先行きを重ね見てまたため息をついた。



4 呪詛切り


 明けて翌朝、又之丞は神主の怒声に叩き起され、朝から平謝りして心が重い。

 年老いた神主は、次に巫女をみて苦り切った面をする。

 「藤尾さまには、拝殿でお休みになられぬよう、あれほど申し上げたはず」

 藤尾と呼ばれた巫女は聞かぬふりして、老人にぞんざいな口調。

 「その子供には礼を尽くしたほうがいいぞ」

 「我が社の御柱以外に礼を尽くすいわれはござらぬ」

 「松河城の柱の話だ」

 藤尾の一言に、神主ますます渋い顔。

 「…如何なる次第じゃ?」

 地神が又之丞を見るので、皆の視線がそこへ集まり、居心地はなは甚だ悪しけれども、又之丞は事の次第を説明した。

 「そんなものを、わしらにどうしろというのだ、どうにもならぬわ!」

 「はあ、すみません」

 又之丞、再び怒鳴られ、なんとも割に合わぬ思い。地神、涼しい声で曰く。

 「では、逃げるしかないであろう。東風丸」

 「はいよ」

 「外の様子を見てこい」

 東風丸は座ったままふいと浮き上がり、風を蹴って拝殿を飛び出していった。後ろのほうで、また神主の金切り声が聞こえたが、自分の知ったことではないと、城下の町へ飛んで行く。

 姿は消して風となり、ざわめく通りをすり抜けると、辻の立て札に人だかりがある。

 人々の頭上に止まって、その触れ書きをよく見ると、見知ったような人相書き。

 貧相な侍一人、前髪そろえた子供一人、ざん切り頭の二才が一人。

 文字を読めずとも、せいぜい悪そうな顔をしたその似顔絵に、東風丸は思わずからからと高笑い。

 驚いたのはやじ馬どもで、晴天の高みから姿もなくて声が降るとは、すわ城の怪異のとばっちりかと、蜘蛛の子散らす勢いで逃げて走った。

 東風丸、立て札から件の触れを破り取り、懐に突っ込んで神社に持ち帰る。

 拝殿に飛んで入り、皆の前に降り立つと、懐から紙切れ一枚出して広げて見せる。

 藤尾がおもしろそうに、にじりよってくると、又之丞の袖を引く。

 「何て書いてあるのだ。読め」

 又之丞は落胆も露わに眉と口とを八の字にした。

 神主があごを上げて吐き捨てる。

 「逆賊めら!」

 「俺は、何にも悪いことしてない! やっとやっと士官が叶ったってのに、何でお国転覆なんか企むもんか! お、お、お尋ね者にされちまうなんて…」

 又之丞、肩を落として床に手をつき、今朝だけでも何度目か知れぬため息をもう一つ。

 触れ書きによると、松河の転覆を企む又之丞は、自宅にとりついた化け物を手なづけ、妖術師を雇い、城の鬼に殿をとり殺させんとした極悪人であるため、見つけ次第、捕らえるか殺すかするようにとある。

 又之丞、床に着いた手を拳に握りしめ、奥歯噛み締めて顔を上げた。

 「疑いを晴らして、俺はまっとうな人生を送るんだ!」

 又之丞は、地神と神主と藤尾とを、三等分に見て、居住まい正して正座して。

 「どうか、お助け下さい!」

 深々と頭を下げた又之丞を、尻目にかけた東風丸。

 「神頼みのどこが、まっとうだ」

 藤尾が床を踏みしめて立ち上がる。

 「城の姫をどうしろというのだ。城を正しく守っているだけではないか。城に魂を縛りつけて城を支えているのに、何を責めるか。今の城主のほうが悪い!」

 地神が尋ねる。

 「城の姫の由来を知っておるのか」

 神主が重々しく口を開いた。

 「初代秋信公が松河の城を建てようとしたとき、どうしても石垣が崩れるので、我が社の巫女が人柱として自ら立った。これが、件のものの由来であろう」

 東風丸が舌打ち一つ。

 「知ってんじゃねえか、爺さん、出し惜しみしやがって」

 又之丞、慌てて東風丸の口を塞ぐ。

 「ならば、こちらから言って頂ければ、お怒りも解けるのでは」

 「いやだ」

 藤尾が言下に拒否したが、地神が袖翻して立ち上がったので、又之丞は期待をつなぐ。

 「よりて来よ、秋信」

 地神は言うや、藤尾の額に剣指を突きつけ、つと突く。

 藤尾は首をのけぞらせ、ぐらりと後ろに倒れるかと思いきや、またゆるりと前へ倒れかかる。天から糸一本で吊られた人形のように、瞬き一つせずにぐらりゆらり。

 突然、がくりと体が止まり、ゆっくりと頭をもたげるその目には、まったき闇の深淵の色。椿の色した唇だけが震えて言葉を紡ぎ出す。

 「我が名を呼ぶは、何ものぞ…」

 地神答えて曰く。

 「貴様の城を見よ」

 藤尾の表情をなくした藤尾は、僅かに視線をさまよわせる。

 「我自ら、川を越えず」

 藤尾はその場にくずおれた。

 「ならば、いざ」

 地神は又之丞の手を掴み、藤尾の口へ反対の手を差し伸べ、如何なるべきか、その口の中へするりと吸い込まれていく。又之丞はともに引きずられながら、悲鳴を上げて東風丸の手を掴む。

 「うわあああっ!」

 「何でおれまで巻き込むんだっ」

 三人の姿はすっかり藤尾の口の中に消え、藤尾は倒れたまま、神主は目玉も落ちよとばかりに藤尾を見、なす術もなく腰を抜かしてへたりこんだ。

 

 さて、又之丞、恐ろしさに固く目をつむり、暖かな闇を通り抜けたと思えば、体の浮かぶような心地して、次には、背中からどこかへ叩きつけられて、何の事はない落下していたのだと知る。

 「い、いたた・・・」

 ようやく体を起こしてみると、丸石のひろがる石野原。青暗く、空は鉛の雲が流れ、風は茫茫と走り、それに紛れて水の流れが涛涛と聞こえる。

 「ここは・・・?」

 東風丸が、又之丞の腕を掴んで立ち上がらせる。

 「月並みなことを聞きやがる。賽の河原に決まってんだろ?」

 「何が、決まってるもんかっ! ・・・じゃあ、俺、死んじまったのか?」

 又之丞の眉がまた八の字になる。

 「一々うるせえ野郎だな。いつ、てめえが死んだよ?」

 「死んでないのか?」

 「ねえよ」

 「良かった・・・」

 又之丞、心底ほっとして、ここがどこだか忘れた気分。

 「ぼけっとしてんじゃねえ。行くぞ」

 見ると、地神はすでに川岸へと歩いている。又之丞、それを追って小走りにいくと、川面に小さな舟が滑って来るのが見える。

 小舟は目の前の岸に着き、どうやら三人を待っている様子。目の色が濁った老人が一人舵を取っている。

 地神は何も言わず当然のように舳先へ乗りこみ、東風丸と又之丞もそれに続く。舟は岸を離れて、広い川を渡って行く。聞こえるのは舳先が水をかきわける音と、櫓がぎい、ぎい、と鳴る音ばかり。

 川幅の真ん中あたりで櫓の音が止まり、しかし舟は流されもせずに、流れる水の上にぴたりととどまっている。

 又之丞、何事かと、身を固くして舵取りに、おいと声をかければ、老人は大きく裂けた口の端をにんまりと吊り上げて振り返り、手のひらを上にして又之丞の目の前に突き出す。

 「な、何だ」

 「肝だ」

 老人の手が、顔に触れそうにぐんと突き出される。思わず身を引き、舟がぐらりとかしぐ。

 東風丸が、又之丞の後ろで唸り声を上げる。

 「ジジイ、つけあがるんじゃねえ」

 「川ん中で三人とも食い尽くされてもいいのか?」

 東風丸は立ち上がると、又之丞の襟を引っ掴んで地神の前へ引き倒すと、老人の前にだんと足をつく。

 「その減らず口に、てめえのハラワタ詰め込んでやるぞ?」

 東風丸は人のものではない大きな牙の間から、鬼気を吐いて老人に吹きつけた。形ばかりは人のなりした二匹の妖怪、しばし睨み合う。が、老人が櫓のほうへ振り返り嫌々ながら漕ぎ始めると、東風丸は老人の背中を睨んだまま乱暴に腰を下ろす。

 そのまま川を渡りきり、地神が降り、又之丞が降り、東風丸が降りようとすると、舟がするりと岸を離れて、ぐんぐん川中へ出て行く。

 「東風丸!」

 又之丞の叫びを合図に老人は、けたけた笑って、舟の底を踏み抜いた。

 吹き上げるように水が上がり、舟はじりじりと沈んでいく。

 東風丸は、水をよけて船べりに上がると、軽く足を蹴って宙に浮いた。

 老人が笑いを引っ込め、悪鬼の形相で東風丸の足に飛びつくが、東風丸はそれをすいとよけ、さらに風を駆って水上を飛び、地神と又之丞の前に降り立った。

 地神が、踵を返して歩き出す。

 「行くぞ」

 又之丞は地神を追いながら尋ねる。

 「あの、どちらへ」

 「分からぬ」

 又之丞、聞くのではなかったと後悔しつつ、しかし、こんなところで頼りになるのはこの地神きりと、粛々と後を歩く。

 辺りは相変わらず殺風景な石原で、物音も、時折、草鞋に踏まれた石が転んで冷たくがちりと言うきりだ。

 東風丸は、何もないのに、あっちへふらふら行っては石をひっくり返して見、こっちへふらふら来ては地面の匂いを嗅ぎと、一人で忙しい。

 「何してるんだ?東風丸」

 東風丸はしゃがんで何やら鼻を鳴らしていたが、顔をあげて歩きはじめる。

 「匂い嗅いでる」

 又之丞は先ほどと同じ後悔を味わいかけたが、気を取り直しさらに尋ねる。

 「何の?」

 「今のは、人の寝た跡だった」

 「誰が、こんなとこで」

 「さあ? 死んだ奴だろ? 生きた人間は滅多に来ないからな。おまえ、ここじゃ美味そうなんだから気をつけろよ」

 東風丸は牙を剥いて、にやにや笑い。

 「・・・からかうなよ」

 「ご忠告さしあげてんだよ」

 又之丞、あまりありがたい気持ちにもなれずに、話を変える。

 「なあ、ところで地神様はどこに行こうってんだろうな?」

 「場所は分からねえな。あの藤尾とかいう巫女の気配を辿ってるだけだから」

 「そうだったのか。どこまで行くのかなあ・・・」

 曇天を望む又之丞に、東風丸が尻目をくれる。

 「ばか。秋信んとこ!」

 「ああっ。そうか」

 「鈍いんだよ又公は。まったく、藤尾の匂いだってこんなに残ってるのに、全然わかってねえ」

 凡夫の身には、匂いを追うのは無理な話だ。

 しばらく三人無言で歩くと、彼方にあった森が立ちはだかるように近づいてくる。その山のふもとに見えるは、まごうことなき松河城。

 見覚えのある門を見上げ、又之丞はぽかんと口を開け、東風丸に背中をどやされて我にかえる。

 地神が無造作にそのまま歩いて門をくぐろうとすると、警護の兵らが押しとどめる。

 地神、眉一つ動かさずに、これらにいかづちをくれた。すぐ傍らに轟き落ちた光の矢に、又之丞と東風丸まで身が竦む。

 いよいよ多くの大丈夫どもが城から出て来て、三人に推誰する。

 「何者!」

 少年の形した地神は、白刃のきらめきを仰ぎ見る。

 「藤尾たる巫女、何処にある」

 その言葉が終わるや、到底届くはずもない城の奥から、男の声が三人に届く。

 「目通り許す。入れ」

 並み居る臣下ども、その声にひれ伏して三人に道を開けた。

 城内に入っても、やはり松河の城に相違ない。秋信公の御前にても、やはり同じ広間の有り様。

 脇息から肘を離して体を起こした男は、どこか今の城主に似た面影がある。

 その側に立っていた藤尾が、ずかずかと部屋の真ん中に出て仁王立ち。

 「さっさと話をつけて、帰せ!」

 大きな目と濃い眉を吊り上げて、地神を睨んだ。

 秋信が、姿勢を正して地神に質す。

 「この者、この部屋から出られぬと申す。貴様の仕業か」

 地神、秋信の正面に座して曰く。

 「現の松河の城の柱、鬼と化しておる。任を解きやれ」

 「なんと。我が城の守りを頼んだものが、我が城に害するか」

 藤尾が、横から怒鳴る。

 「城を害したのは、おまえの子孫だ! 柱に何の咎もないわ」

 秋信は藤尾と地神を交互に見て、眉根をよせて脇息を打つ。

 「如何なる子細じゃ」

 藤尾が首を振り向けて又之丞を見るので、皆の視線がそちらへ向く。仕方なく、松河が豊海に下らんとする次第を述べた。

 秋信、顔を曇らせ嘆息し、ようよう気を取り直すと側の者に硯を持ってくるよう言いつけた。

 巻紙に短く記すと、小刀を添えて、地神に差し出す。

 地神はそれを又之丞に持たせ、すくと立ち上がる。

 地神が足を踏み出すと、広間の襖、障子が、全てひとりでに開いて風が流れた。地神、藤尾に向いて曰く。

 「苦労であった」

 藤尾の姿は、ゆらりと揺らめき、霧に包まれるようにぼやけていく。地神は、消えるのを終いまで見ずに、庭のほうへと歩を進める。

 又之丞、地神を追い、庭に下りたところで振り向いたが、藤尾の姿はまったく消え失せていた。

 地神は、まっすぐに庭の一隅に向かう。

 松の枝の下に掘られた井戸端で足を止め、又之丞の腕を掴んで軽くその中へ身を躍らせた。又之丞は叫び声をあげ、支えを求めて東風丸の袖を引っ掴むが、東風丸は自ら地を蹴って井戸へ身を投げ入れたので、三人は諸共に暗い水面に打ち落ちる。

 ざんぶりと冷たい水に飲みこまれ、もがけども手掛かりもないままに沈んでいく。又之丞は闇雲に手足を動かし、なんとか水を掻いて、水面を探す。

 急に体と息が軽くなり、又之丞、空気の中におどり出た。

 「し、死ぬかと思った…」

 「あの世から帰って来たのに、何言ってんだ」

 暗い中で東風丸の声が聞こえ、帯をぐいと引っ張られる。水の匂いのする澱んだ空気が、疾風にかき乱され、東風丸は風を蹴り、風は又之丞の体を巻き、地神の体を支えて、水を飛沫に舞い上がった。

 びゅうと空中に飛び出して、ふわりと地上に降り立つと、目眩ましのように明るい昼間の陽光が、じりじりと肩を焼いた。

 三人とも、ずぶずぶの濡れ鼠。衣は重たく垂れ下がり、髪は顔や首に張りついて、滴が絶え間なくしたたっている。

 又之丞があたりを見回すと、まさしくそこは松河城の庭の一隅。松の枝を透かして見れば、障子が吹き飛んだままの大広間が見える。

 そして、そこにうち揃った異形の者共も、もちろん良く見える。

 こちらから良く見えるということは、あちらからも見通せるところにいるということでもある。

 又之丞、金目の一つと目が合った。

 

 ところで、あちらの松河城から霞の如くに消え去った藤尾である。

 藤尾から見れば、松河城の広間の景色が、色を失い形を失い、それに重なって拝殿の天井が形をとり色を増し、ぴたりと現の景色となった。

 神主に禰宣に、巫女の一人二人が、目を開いた藤尾の顔を覗き込んでいる。

 「藤尾さま、ご無事か」

 藤尾は、弾かれたように身を起こす。

 「あいつらは?」

 「消えたまま…」

 藤尾、神主の言葉聞き終わらぬうちに、打掛けはねのけて立ち上がり、禰宣を押し退けて足音荒く拝殿を出る。

 引き止める声も知らぬげに、鳥居のほうへ歩いて行くと、その前に神主が走り出て立ちはだかった。

 「この社の外へお出でになること、なりませぬ!」

 後ろから、他の者たちの手が、藤尾を捕らえる。

 「離せ!」

 藤尾がいかに暴れても、女子の力では振り払うことができぬ。

 しばらく揉み合ううちに、藤尾が悲鳴をあげて硬直した。がくがくと背を反らし、白目を剥いて、きしるような声をあげる。

 「我が道を阻む者ども、我が呪詛にて血花の咲くと覚えよ!」

 藤尾を捕らえていた者は皆、恐れをなして手を離した。その隙に、藤尾は鳥居をくぐって走り出す。

 「ふん、憶病者!」

 転がるように参道を駆け下り、城を目指す。

 城に近づくにつれて、警護の兵が目につくようになる。目につくどころか、戦のために城を包囲するかのような人数で、藤尾には分からなかったが、豊海の兵が半分である。

 城門の前で、藤尾は息を切らしてひざに手をついた。まだ、肩で息をしながら、まっすぐ門に向かう。

 兵らに小突きかえされても、ひるむ藤尾ではない。

 「わしは、植松大社の巫女だ。通せ」

 武人と言えど、夏の昼間の小具足姿で暑さに耐えるのも飽きたころ、いい憂さ晴らしと藤尾に近づく。

 「供も連れぬ小娘が、偉そうな口をきくじゃないか」

 大きな男に見下ろされ、藤尾は目を光らせてその男を見上げる。黒々とした眉をまっすぐにして、閉ざされた門を見据えると、声高に言い放つ。

「植松の巫女が、植松の巫女神、柱神、名をば橋姫というものに申し上げる! 開かれよ!」 内から閉ざされた門を、守るとも言えず、ただ見張っていたばかりのつわものどもの後ろで、重い扉のきしみが聞こえ、振り返れば、城門がぎりぎりと開いていく。

 その隙間から、鬼どもがとりどりに牙を剥き、えものを振り上げ兵らに打ちかかる。

 藤尾は、騒然と戦うものたちの間を足早に通りすぎ、あちらで見た城の中を思い出しながら、大広間を目ざす。

 異類異形のものども、藤尾の姿に目を止めても、なにやら人の匂いとも思えず、知らぬふり。

 広間のほうで、閃光と轟音。藤尾は走り出した。


 又之丞、鬼と目が合ったと思った途端、その鬼は縁を蹴って飛びかかってきたので、あわてて鞘をはらう。

「喧嘩しに来たんじゃないんだ! 話しに来たんだ! 書状をお届けに参っただけなんだっ!」

 逃げ腰の又之丞の袖を、東風丸がぐいと引く。地神が軽く前へ出ると、三人を囲む檻を作って稲妻の柱が突き立った。

 東風丸が又之丞の袖を離して、叫ぶ。

 「刀、危ねえぞ! 雷獣は金気に降りるんだからっ」

 又之丞は太刀を放りだし、秋信から預かった書状を納めた懐を押さえて、裏返った声でわめく。

 「秋信様より、書状をお持ちいたし候!」

 途端にあたりがしんと静まり返り、鬼どもがえものを下ろす。奥から、静かな女の声が又之丞たちを呼んだ。

 「近うよれ」

 上座の畳の上に、かの女臈、白い小袖に緋の袴、菖蒲の襲ねに垂らした髪の鬢、耳にはさんで座している。

 又之丞、恐る恐るその前に座って頭を下げ、怖々懐から書状と小刀を取り出した。

 自分の手の上の巻紙に、息を飲んで絶句する。

 下を向いた又之丞の鬢のあたりから、井戸水がぽたりと滴る。

 書状の紙はぼったりと濡れそぼり、墨が溶けた証拠の灰色で、又之丞はどうしていいか分からない。

 分からないので、そのまま差し出した。

 女臈はじかに受け取ると、共に結ばれた小刀で封を切り、水で張りついた紙を虚空に投げるように開く。

 墨に汚れた濡れ紙はべたりと、畳にうなだれた。

 女臈、それを、伏目に見下ろす。

 そこへ、藤尾が足音高く駆け込んだ。荒く息をつき、拳をきつく握りしめて女臈を見つめる。

 女臈は、ゆっくりと顔を上げ、藤尾を見た。

 藤尾が尋ねる。

 「聞きたい。何故、柱になどなった?」

 女臈は石南花よりも赤い唇を開く。

 「さだめゆえに、我が名は橋姫となる」

 藤尾の目から涙が溢れる。

 橋姫は読めぬ手紙から手を離し、絹の音をたてて立ち上がる、さらに藤尾を見て言う。

 「されど、さだめも尽きたる由、その方にすそ切り申しつける」

 又之丞がふとまわりを見ると、鬼や妖怪どもはいつの間にやら姿が見えぬ。

 門のほうから、戦いの雄叫びが遠く響くばかりだ。

 橋姫は五衣を肩から落とし、長袴を掴んで進み出ると、藤尾に例の小刀を渡す。

 ついで、するすると城内を進み、裏庭へ出た。藤尾がそれに続き、又之丞たち三人も黙ってついて歩く。

 城内のどこかで、兵らが床を鳴らして走るのが聞こえるが、まだ近づいてはこない。

 堀のすぐ裏、石壁土塁の根元まで来て足を止めると、橋姫は四人を振り返る。

 底光りする切れ長の目が、藤尾の瞳をとらえる。

 橋姫はまた、遠くをまっすぐに見て、まっすぐに通る声で告げる。

 「秋信。今こそ解かれむ」

 後ろ手に苔蒸した石に指をかけると、石は抗わずがらりと崩れ落ち、まわりの土や石もなだれて、人一人ほどの穴が開く。

 泥の中にあってもなお、白く、玉の色した骨と、色の抜けた絹のかけらに、幾重にもかけられた縄の残り。

 笑ったように顎を開いた舎利頭、闇と空いた両の目と、頭蓋から八方へ伸びる緑のかんざしは、生きたままの艶に光る。

 藤尾は、左手で橋姫の頬骨を掴み、右手の小刀で、土に食いこんだ黒髪を断つ。

 一房、また一房と、されこうべは土塁から離されていく。

 とうとう、最後の一房も断ち切られると、小刀は錆と変じて崩れさった。

 橋姫の椿の唇が、舞い散る花弁の笑みを漏らせば、白骨の顎も共にかたかたと鳴り、頭蓋に短くまとわりついた髪も震える。

 高笑いする橋姫の、姿は骨に重なって、かたかたと笑うされこうべの音に、城の柱が揺さぶられる。

 「揺れてる!」

 又之丞は叫んで、逃げ道を探す。

 東風丸が、手に持ったされこうべと見合っている藤尾の背中をどやしつける。

 「ぼけてる暇ねえぞ!」

 されこうべはまだ笑っているが、藤尾は脇に抱えて走りだす。地神を先頭に、揺らぐ地面によろめきながら。

 石垣の崩れる音が絶え間なく響き、頭上からは滑り落ちた瓦が砕けながら降りそそぐ。

 どうやら、東風丸の操るらしい狂風が、倒れかかる木々や柱を、すれすれによけてくれる。

 城門の近くでは武具に身を固めた兵たちが、慌てふためいて逃げ出そうとしている。もはや、地神を頭の四人のことも、藤尾が抱いたされこうべも目に入らぬ様子。

 「どけ!」

 東風丸、門まで一直線に風を通して道を作る。兵たちは、揺れる地面とときならぬ狂風に、きりきり舞ってすっ転がる。

 四人が門を駆け抜けて、やっと安心かと振り返ると、城は真ん中からひしゃげて、土煙をあげ、つぶれていく。

 居合わせた誰もが、ただ唖然とその様を眺めた。

 異変の報を受けて、門前の陣につめていた城主も城の見える場所に走り出したが、為す術もなく見入るだけだ。

 地響きをたてて瓦礫の山になってゆく城を前に、又之丞はその場にへたりこんだ。

 「俺は…、何のために、何を、やって…」

 されこうべは、笑いを止めて、死んでいた。

 これ以上、地面の揺れが続かぬようなので、兵たちも我にかえり、殿の言葉を待っている。しかし、誰かが、又之丞らに目を止めた。

 「おい、人相書きの男じゃないか」

 「あの娘はなんだ、何を持ってる」

 じゃらじゃらと刀の鞘をはらう音がして、鋼の林に囲まれる。

 地神が又之丞の腕を掴んで立ち上がらせ、東風丸が藤尾の帯を引っつかみ、それぞれ雲を蹴り、風を駆って空へ舞い上がった。

 兵たちは、口々に怪しき事よとののしり、石を投げつけ矢を射掛けるが、いずれも四人の身には届かない。

 騒ぐうちに、空の四人は雲の彼方へ恐ろしい早さで飛び失せた。

 

 ひとまずは、と、植松社の境内に降り立つ。

 腰が抜けた藤尾を、東風丸が笑う。

 「むこうっ気はどこいった?」

 藤尾はうらめしげに、東風丸を見上げて答える。

 「空を飛んだのは、初めてなのだ!」

 神主が禰宣を伴ってまろび出てくると、藤尾が胸に抱いたものを見て息を飲み、わなわなと手を震わせて指差した。

 「藤尾さま、それはいったい、何をお持ちか!」

 藤尾は、老人の声にすっくと立ち上がり、冴えた目を振り向け、抱えたされこうべを右手に取って、えいとばかりに投げつけた。

 神主も若い禰宣も、頓狂な声をあげて飛び退いたので、されこうべは、とんころころと地面を転がる。

 「せいぜい祭ってやるがいいわ!」

 藤尾の一喝に、神主は矜持を取り戻し、地神と又之丞を半々に睨む。

 「貴様ら、藤尾さまに何を吹き込んだ」

 又之丞、慌てて弁解。

 「いや、俺たちは何も知らないですよ。この巫女さんが、自分でやって来て、ええと、城が、崩れて」

 老人の耳には、何を言っても火に油。

 「謀反人めが!」

 掴みかかる神主のほうへ、地神がすいと手を伸ばした。神主たちは途端に縛られたように、身動きもできぬ。

 「又之丞」

 「は」

 「西への旅が吉兆と出ておる」

 「は?」

 「貴様の行く処、何処までも共に行き、守護してしんぜようぞ」

 東風丸が、又之丞の肩を軽い調子でぽんと叩く。

 「良かったなあ、又公。まだ日暮れには間があるぜ。思い立ったが吉日って言うじゃねえか?」 

 それを聞いた藤尾、必死の面持ちで、又之丞の袖を引く。

 「わしも一緒に連れてってくれ! 頼む!」

 東風丸が、藤尾の頭をぐりぐりと押さえつけた。

 「お前さんは、ここにいれば安泰だろが」

 暗闇を飲んだような目で東風丸を振り返り、藤尾は首を横に振る。

 「だって、怖い…」

 東風丸は神主と足もとのされこうべを見やった。

 「明日は我が身だってのか? 新しい城を作れるほど、甲斐性のある殿さんだとは思えねえけどな」

 又之丞がひざをついて藤尾の顔を覗き、諭すように言う。

「俺たちだって、あてがあるわけじゃないし、止したほうがいいよ」 

 自分だって、御免被りたいのだ。

 だが、藤尾は懇願する。

 「迷惑かけたら、捨ててくれていい!」

 東風丸がにやにやする。

 「後悔するぜえ」

 藤尾は顔をあげ、立ち上がって膝をはらいながら言う。

 「その時は、また逃げる」

 「追っかけられたら、どうするよ?」

 藤尾は頭を振り立て、自信ありげにふんと笑う。

 「貴様なぞ、祓ってくれる」

 東風丸、言い返そうと思ったが、藤尾の自信に偽りのないことに思い至り、開きかけた口をぱくりと閉じた。

 又之丞、力なく首を落とす。くっきりと影の刻まれた土の上、泥だらけの自分の足。まだ湿り気の抜けない袴の裾。

 ため息一つつき、顔一面の汗を拭って、しぶしぶ立ち上がる。

 「じゃあ、…行くか…」

 「よし」

 返事をしたのは藤尾だけだったが、四人は揃って歩き始めた。

 陽炎立つ道、夏の風。

 この陽気ならば、明日の朝も明るく明けるに違いない。

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