表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あや 伊勢物語編

うづらとなりて

作者: 蒼月 氷水

「ただ、一文字で良いのです」

と、女は言った。

「今少しだけ、この野で――」


 草深き、野であった。

 生い茂る草は、膝まで絡み付く。

 ぬかるみに、足は取られがちである。

 衣が夜露に濡れている。

 月は十五か十六夜か。

 中天はとうに過ぎ、西の空に傾いている。

 あるかないかの風は、涼を含んでいる。

 秋の、野であった。

 何故、夜更けに歩いてきたのであったか。

 と、男は思う。

 これ以上進むことがあろうか。

 (くつ)は泥に汚れている。

 ただでさえ見通しの悪いこの地を、夜に行くことなどない。

 そもそも、何をしに来たのか。

 それさえ、曖昧なのだから。


「戻ってはこないでしょう」

と、女は言った。

 袖が濡れているのは、夜露のせいばかりではない。

 いつから、離ればなれになってしまったのか。

 深草の名のとおり、この地が草深くなってしまったのは、

 いつからであったのか。

 何もかも、あの方のせいなのだろうか。

 愛しき人の、いつか詠んだ歌のせいなのか。

 去ってしまった人の――


「何故、そのような恰好をされているのです」

 老人の声が、問う。

 深き野の何処より聞こえてきたのか。

 男は辺りを見渡す。

 辺りにはただ荒涼とした草地が広がるばかりである。

「そのような出で立ちで、一体何をしに行かれるのか」

 老人の声が、重ねて問う。

「狩に・・・」

と、答える。

 右手には、弓がある。

 矢筒もしかと携えている。

 だが、どこかおかしい。

 何故、この夜更けに。

 一体何を狩に行くというのか。

 思い出せない。

 こちらの戸惑いを知っているかのように、老人はさらに問う。

「本当に、狩にですか」

と。


「狩られても、良いのですか」

と、童女は問う。

「狩られた方が幸せでしょう」

と。女は答える。

「ただ一人、この深き野で泣き続けなければならないのであれば」

 そのように、悲しく惨めな思いをするくらいであれば。

 愛しい人の手にかかり、儚くなる方が。

「どれだけ、良いでしょう」

「私には、分からない」

 童女は言った。


 狩りではないのだろうか。

 だとしたら、何をしに行くのか。

 このような、何もない侘しき場所で。

 どこに向かっているのか。

 これ以上進む必要があろうか。

「逆ですよ」

 老人の声が言う。

「狩ではないからこそ、進むべきなのです」

 このような草深い地をどうして。

「確かに、深草の名のとおりの地です。さぞ、歩みにくいことでしょう。しかし」

 ――しかし、それはあなたのせいでもあるのです。

 そう、老人が言い放つ。

「私のせい?」

「通うものがなければ、草を踏みしめ道をなすものもなく、あなたの歌のとおり、ますます草は伸び、生い茂ってゆく」

 草の影が先ほどより伸びて見えるのは、月がさらに傾いたから。

 それだけのはずだ。

 では、ざわりざわりと鳴っているのは。

 風に揺れる草葉か、私の心か。

「野とならば、身を隠すには良い。見つけてもらうには悪い」

 老人が呟く。

「はたして(うづら)はどちらを望むのか」

 その言葉に、ざわめきはさらに大きくなる。

 深草。

 鶉。

 野とならば。

 老人の放った言葉が、まるで風のように心に流れ込む。

 それが過ぎ去った刹那、

 揺れる草葉の向こうに、女の面影を見た気がした。


「もう、時はあまりないのでしょうね」

 西の地にますます近づく月を見て、女は言った。

 衣が濡れているのは、涙のせいばかりではない。

「どうか少しの間だけ、守ってもらえませんか?」

 女が童女へ声をかける。

「ただ、一文字で良いのです」

「何故?」

と、童女は問う。

「もう、泣き続けなくてすむのに」

「あの方は、戻ってこないのでしょう。分かっております」

 女の目から再び涙がこぼれる。

「それでも、諦めきれぬのです」

 袖で顔を覆う。

 草に落ちた涙は、夜露のように月光を受けて、小さく煌めく。

「今少しだけ、この野で泣いていれば」

 肩を震わせながら、女は言った。

 ――せめて、狩にでも、あの方が・・・。


 どうして、忘れていたのだろうか。

 あの澄んだ瞳を。

 柔らかな笑い声を。

 あたたかなその手を。

 共に過ごしてきた日々を。

 どうして、こうも儚きものなのか。

 人の心は。

 移ろう季節と同じように、

 移ろう心に秋は訪れ、

 女に尋ねた。


 年を経て住み来し里をいでていなば

       いとど深草野とやなりなむ

 

 長年共に暮らして来たこの深草の里を私が去れば、

 その名のとおり草深いこの野はますます草深くなるのだろうか。


 どうして、忘れていたのか。

 あの女の答えを。

 悲し気に、泣きながら、返した歌を。


 野とならば鶉となりて鳴きおらむ

      狩にだにやは 君はこざらむ


 それは、いつか、あの方に答えた言葉。

 ここが、本当に草深き野となってしまったら、

 本当に、あなたが去ってしまうのなら、

 私はその野で、鶉となって鳴いていましょう。

 ずっとずっと、泣いていましょう。

 せめて、狩にだけなりと、

 たとえそれが、仮初めだとしても、

 あなたが私のところにおいで下さらないことがあるでしょうか。

「せめて、狩にでも・・・仮にでも、あの方が今一度、来て下さるのなら、それだけで」

 語る女の顔は、月光のように青白く、姿は半ば透け始めている。

 童女は、一枚の紙片を取り出した。


 その草深き野を、男は走る。

 弓も矢も投げ捨てて。

 衣を土に泥に濡らしながら。

 重い沓を脱ぎ捨てて。

 暗き夜の中を、ただ、走る走る走る。


 月はいよいよ西に。

 東の空は僅かに白ずむ。

 草深き、野であった。

 夜露の降りた草葉の上に、

 千切れ千切れの紙片がある。

 文字はいずれも滲んでいて、もはや読み取ることはできない。

 ただ、一文字。

 童女が写した文字のみが、童女の小さな手の中にある。

「本当に、この字で良かったの?」

 誰にともなく問う。

 そこに、

 草を掻き分ける音とともに、

 男が一人現れた。


 鶉が鳴いている。

 童女の両手に乗って、小さくうずくまって、

 鶉が鳴いている。

 男はその姿を、じっと見つめる。

「・・・狩ではない」

と、男は言った。

「仮ではないよ、愛しい人」

 だからもう鳴かないでおくれ。

 泣かないでおくれ。

 差し伸べる男の手も、また透け始めている。

「もう、文字が残っていないから」

と、童女がその手を見つめて言う。

「もう、戻れません。この方も、あなたも」

 男は頭を振る。

「いいや、戻れるさ」

 たとえ何度季節が移ろおうとも。

 何度秋が来ようとも。

 何度でも、愛しいと思える(ひと)だから。

 また、もとの仲に戻れるはずだ。

 もう、飽きは、こない。

 だから、

「鶉とならずにいておくれ」

 その時、鶉が高く鳴いた。

 鳥の姿は徐々に縮み、「鶉」の文字へとそれは変じていく。

 童女の手の中の紙片に書かれた文字へと。

 その文字は、金色の光となって、紙片から離れて空へと浮く。

 月の去った夜の空に、女の姿が現れる。

 一瞬のことであった。

 女は泣いていた。

 けれど、笑っていた。

 男も笑い返した。

 女の姿が消え、また文字となる。

 追うように、男の姿も消える。

 男のいた場所には、紙片が一枚。

 夜露に濡れ、泥に汚れたそれも、もう文字は読み取れない。

「私には、分からない」

 童女は言った。

「分からないけれど・・・」

 童女がその小さな手で、紙片を拾い上げる。

 紙片から、形を失った文字たちが離れていく。

 それから、童女は空へと手を伸ばす。

 宙に残された鶉の文字に、童女の指先が触れる。

「鶉」も形を失くし、金の光となる。

 光りながら、揺らめきながら。

 互いの文字は交わって、一つとなる。

 やがて朝の光が差し込む。

 それは弾けて、野へと降り注ぐ。

 一つ一つがまた小さな文字となり、辺りの草へと降りていく。

 それは、一つの物語。

 深草の野で、

 人の姿のないその野で、

 それらは光る。

 夜露のように。

 星のように。

 もはや鳴くものもない、

 その静かなる野で。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ