ストロベリーフィールズ
「イチゴ!」
呼ばれて振り返る。まとめてない長い髪が顔にかかる。
「ああ碧くん。おはよう」
私の名前は、織野伊茅子。
15歳の中学3年生。
趣味:天体観測、特技:算盤。性別:女。
そして、この碧くんは、私のお隣りに住む花崎碧、性別:男。私とは同じクラスでお揃いの学級委員だ。幼稚園から11年連続のクラスメイトでもある私と碧くんは、友達とか家族とかを超えた、一心同体みたいな関係だ。そして、小さい頃からの呼び名だから、碧くんに悪気はないのはとってもよくわかってるんだけど。
「何度も言うけど、私はイチコであって、イチゴではないわよ」
「あ?今オレ『イチゴ』て言った?ごめん、伊茅子」
はぁ、やっぱり悪気ゼロだったか。
幼稚園の頃、碧くんが考えた私のあだ名が、『イチゴ』で、しばらく私は周りからそう呼ばれていた。けど、私のイメージがイチゴなんてかわいらしいものだったのは幼稚園か、せいぜい小学校低学年までだったから、今ではそんなあだ名があったことさえ忘れられている。
「伊茅子さぁ、昨日夜遅くまで電気点いてたじゃん?あれって、受験勉強?」
碧くんは当たり前の事を聞いて、答える気力も無くなるような力が抜けた顔でヘラヘラ笑う。
「そうよ、当たり前でしょ?私たち、中3なのよ。しかももう9月。2学期が始まったら、追い込みじゃない」
可愛げのない口調で私が言うと、碧くんは小さく言った。
「可愛くねー」
ギロリ、と私は碧くんを睨んで、それから鞄を持ち直す。
「遅刻しちゃうから急ごうよ。…ところで、碧くんは昨日晩、なんだって遅くまで起きてたのよ?」
会話の流れ上、そんなに急展開な話とは思えなかったんだけど、碧くんは心底驚いた様子で、ピタリと立ち止まった。
「…?どうしたの?遅刻しちゃうよ」
私が訝しい目を向けると同時に、碧くんはスタスタと歩き始めた。
「ちょ…。碧くん?どうしたのよ。早いよ」
私と碧くんの身長差は20センチ。足の長さはそれに比例して碧くんの方が長い。本気で歩かれたら付いて行けない。
「イチゴのアホ。遅刻するぞ」
アホ…?碧くんたら、何をそんなに怒ってるんだか。私は小さく溜息を吐くと、鞄を持ち直して駆け出した。
「待ってってば、碧くん!」
「学級委員、後で職員室に来て」
担任がホームルームを終えて教室を出ながら、私と碧くんに目配せをした。
はぁ、こんな碧くんとぎくしゃくしてる日に限って一緒に雑用か…。本当、神様はタイミング悪い。
「伊茅子、行こう」
碧くんに声を掛けられ、私は肩をすくめて立ち上がった。
「はい」
碧くんが機嫌を悪くするなんて、滅多にないことだ。昔はおもちゃの取り合いなんかで喧嘩もしたものだけど、最近では特に記憶にない。だから、碧くんの声がいつもより硬質だったりすると、やりきれないよ…。
職員室で遠足のしおりを作る為のプリントを渡されて、クラスの人数分ホッチキスで製本して配るように指示される。学級委員なんて、担任の雑用係みたいなもんだ。貴重な放課後は、かくしてプリントとの戦いに費やされることとなる。
「イチゴ、ホッチキス係な。俺、プリント折るから、順番にして留めてって」
碧くんの指示で、作業は始まる。放課後の学校なんて、久しぶりだ。少し前まで部活で残っていたけど、引退した今では、吹奏楽部の音もバスケ部名物走り込みの掛け声も新鮮だ。
私たちは、机を二つ向かい合わせにして黙々と作業を続ける。碧くん、まだ怒ってるみたい。恐る恐る、声を掛けてみる。
「ね、碧くん」
パチン、パチン、とホッチキスの音の合間に、碧くんはチラリ、と私を見て、またすぐに手元のプリントに視線を戻す。
「何?」
パチン…
「まだ怒ってるの?」
パチン…
「怒ってないよ」
パチン…
「でも、朝からずっと、機嫌悪いよ?」
パチン…
「…怒ってるよ」
パチン…
「やっぱり。ね、私が怒らせたんだよね?」
パチン…
「そうだったら?」
パチン…
「ごめん。なんで怒ってるか知らないけど、碧くんがこんなに怒るなんて、思わなかったの。ごめんね」
ガバッ、と机に両手をついて頭を下げる。と、
「怒ってる理由もわからないのに謝るなよ」
ムスッとした碧くんの声。
なんで謝ってるのに、より一層機嫌悪くなっちゃうのよ?
「だって。私、碧くんが怒るような事言った覚えないもん。なのに、いつもは何言ってもニコニコ笑ってる碧くんが、怒ってるんだよ?…私が悪いに決まってるじゃない!だから、だから…」
…ちょっと待ってよ。私ったら、何なの?なんで、こんな所で…涙が出るの?
「イチゴ…。泣くなよ」
碧くんも困った顔をする。
…昔、おもちゃの取り合いで泣かされた事があった。その日も、碧くんはこんな顔をしてた。
『イチゴ、なかないで。ゴメンね。…もうイチゴのいやなことはしないから、なかないで…』
幼い碧くんの小さな手が、同じく幼い私の小さな頭をなでた。
『ほんと?みどりくん。もうなかさない?』
『なかさない。もし、イチゴをなかすやつがいたら、ぼくがやっつけるよ。いつもイチゴといっしょにいて、まもってあげる』
…嫌だ。何を思い出してるの…。もう、ずっと昔の事だ。きっと、碧くんは忘れただろう、幼い日の約束。
そう。きっと忘れられているとわかっているのに、私は碧くんに甘えてばかりだ。いつもニコニコ笑ってくれるから、キツい言葉を言ってしまう。こんなんじゃ、碧くんが怒っても仕方ないよね…。
思えば思うほど、涙は溢れ、ポタポタと制服のスカートを濡らしていく。その時、碧くんはポツリと呟いた。
「約束、破っちゃったな」
…え?
私は言葉もなく、涙でいっぱいの瞳を碧くんに向けた。
「や…くそく…って?」
やっとそう言うと、碧くんは再びプリントを折りはじめながら、言った。
「イチゴはやっぱり覚えてないか。…オレ、小さい頃、お前の家のおもちゃをイチゴと取り合って、泣かした事あってさ。」
うん、知ってる。覚えてるよ?
「あんまりイチゴが泣くから、約束したんだ。もう二度と泣かさない、って。いつもイチゴの側にいて、泣かす奴がいたらぶっ飛ばす、って」
…碧くんも、覚えててくれたの?
私は、今度は嬉れし涙を瞳に溜めていた。碧くんは、やっぱりあの時の事、覚えててくれた!
「だからさ、今まで、イチゴの近くにいる努力をした。クラスがずっと一緒なのは偶然だけど。学級委員で一緒なのはイチゴが選ばれたからオレも立候補したんだし。イチゴが天文部に入ったから、オレも望遠鏡買ったんだぜ?…このまま、ずっとイチゴを守って行くって、オレは決めてたんだ」
私は、プリントを折る碧くんの手が震えてるのを見て、そっとその手を握った。
それは、久しぶりの碧くんの温もりだった。手を繋いだのなんて、小学校以来だ。
…碧くんは、少しホッとした表情で、話を続けた。
「だから、最近ずっと焦ってた。イチゴは昔から頭がいいから、きっと難しい高校受けるんだろうな、とか。オレは同じ学校に行けるだろうか?このまま、イチゴを守って行けるだろうか?って。だから、オレはお前が受験勉強始めるずっと前から、勉強してたんだ。イチゴと同じ高校に行く為に…」
胸の中の大きな塊が、崩れてサラサラの砂になっていくみたいな気がした。
私は、自分だけがかわいそうだと思ってた。
『碧くんは約束を覚えてない』から、碧くんを突き放すような事ばかり言っては碧くんを悲しませていた。
とんでもない勘違いだ。碧くんは何を言っても何も感じないんじゃない。『イチゴを守る』役目の為に、いつも我慢してくれてたんだね。
「今朝、イチゴがオレに言ったろ?『なんで遅くまで起きてたの?』て。その時、オレの淡い期待っていうか、少ない可能性が崩れたんだ。オレはお前を守る為に努力してる、いつだって。だから、きっとイチゴは昔の約束を覚えてくれていて、オレの努力もわかってくれてると、期待してた。…けど、あの質問で違うってわかった。目の前が真っ暗になった。イチゴはオレから離れたいのか?それであんなに頑張って勉強して、オレの手が届かない学校に行く気なのか?」
「ちが…うよ」
違う。そんなんじゃない。
「私、碧くんとの約束覚えてるよ。だから、信じたかった…。だけど、私、あの頃のかわいい『イチゴ』じゃないの。私が認めてもらえるのは、勉強の成績だけだよ。だから、勉強をとにかく頑張って…。それで、碧くんが側にいなくなっても、ひとりで頑張れるようになりたかったの」
そう。素直な気持ちはずっと胸の奥に隠して、碧くんにそっけない態度をとっていたの。
碧くんは呆気にとられた顔をしばらくしていたけど、いつもの安心できる笑顔に戻って、言った。
「なんだよ、だったら最初からそう言えよな」
そして、私の頭を撫でた。少し強めに。
「オレは、イチゴの側にいて、いつだって守ってやる。…オレも、最初からそう言ってればよかったんだな」
うん、そうだよ。お互い、近い所に居過ぎたみたい。ずっと一緒にいた私たちにだって、口に出して言わなきゃわからないことも、あるんだ。
しばらく、碧くんは私の長い髪を撫でていた。私も碧くんの手を握ったままだった。それだけで、今まですれ違っていた時間が昇華されて行くようだった。
「ねぇ、碧くん?」
「ん?」
気持ち良さげに目を閉じていた碧くんは、優しい視線を私に向ける。
「さっきから、気付いてないみたいだけど。私はイチコであって、イチゴではないわよ?」
私も、ついついつられて笑顔になりつつ、間違いを指摘する。碧くんに悪気はないのはよく、わかっているけれど。
「んー。『伊茅子』は、確かにいい名前だけど。『イチゴ』はオレがつけた名前だろ?かわいくてお前にピッタリだし。だから、時々わざと呼んでるんだけど…。イヤ?」
私は、幸せな気持ちで胸がいっぱいになって、迷わず返事した。
「碧くん、大好きだよ」