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「名など飾り」と見限られた私は、返還を迫り店と席を一つずつ奪還。全て私のもの、戻れと言われても断ります

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/27

「お嬢様は店先で笑ってくださればよろしい」


 アルベールは客の前でだけ使う、角の丸い声でそう告げた。ミレーユは開いていた差配帳を閉じたが、頁の端に置いた指までは引かなかった。


「難しいことはこちらでいたします。亡き兄上からお預かりした家業を、後見の采配で守るのがわたくしの務めですから」


 店先には染め上がった布が積まれ、奥の通路では職人が荷札を結び直していた。粉の染みた指、裂けた袖口、昼になっても減らない見本束を、ミレーユは順に見た。


「ええ、アルベールさま」


「それでよいのです。さあ、お客様がお帰りだ」


 ミレーユは立ち上がり、父の代からの客へ礼をした。客が扉の外へ出るまで、アルベールは庇護者らしく彼女の肩越しに微笑んでいた。


 扉が閉じると、その手が差配帳を取り上げた。


「帳面は置いていけ。おまえが触る必要はない」


 長卓を囲んでいたアルベールの縁者たちが、互いの顔を見た。一人が椅子の背へ肘を掛け、唇の端を持ち上げた。


「印を押して座っているだけで主になれるなら、帳場など要らん。実際に采配している者が主だろう」


「お嬢様にはお嬢様のお役目がある。店先が華やぐというのも、立派な務めさ」


 低い笑いが重なった。ミレーユがそちらを見ても、誰も声を引っ込めなかった。


 帳場の椅子は叔父のものとなり、仕入れの相談は叔父へ運ばれ、工房から届く見本もまず叔父の前へ積まれた。けれど、品違いを見つけるたびに呼ばれるのはミレーユだった。


「こちらは違います。北側の棚へ入れる品です」


「では直しておけ」


「この注文は納期が三日早まっています」


「先方にはうまく言え」


 直した文字の上にはアルベールの印が押された。礼を受け取るのもアルベールで、遅れが出れば、店先に立つミレーユのところへ声が飛んだ。


 三年のあいだ、彼女の名は仕事から消され、看板娘という役だけが残された。アルベールの縁者は父の看板の下を自分の店のように通り、帳場の菓子をつまみ、職人の賃金が一日遅れても酒の包みを抱えて帰った。


 夕刻、最後の職人が工房へ戻るころ、ミレーユは差配帳を受け取りに帳場へ入った。エドガーが傷んだ綴じ紐をほどき、新しい紐を通しているところだった。


「アルベールさまは?」


「皆様とお食事へ。今夜はお戻りになりません」


 エドガーはそれだけ告げ、帳を彼女の前へ置いた。三年前まで父が使っていた帳で、工房の納入数と職人の手当が同じ頁に収められている。


 ミレーユは頁の下へ指を移した。経営主名の最初の一文字を、紙を傷めぬほどの力でなでる。


 文字は消えていなかった。名だけを飾りと呼んだ者たちは、その飾りを正式に外す手間さえ惜しんでいた。


 奥では、若い職人が残った蝋燭を半分に切り、明日の分を箱へ戻していた。年かさの職人は刃こぼれした裁ち鋏を布で包み、修理に出す日をエドガーへ尋ねている。


「次の支払いまで待ってください」


 ミレーユが答えると、職人は一度だけ鋏を握り直した。


「承知しました。明日の分は切れます」


 彼はそれ以上言わず、箱を抱えて出ていった。エドガーは綴じ紐の端を揃えたまま、指を動かさなかった。


 ミレーユは帳を閉じた。


「大切なものは、一つずつ取り戻せます」


 言葉は机の端を越えなかった。エドガーは結び目を作り、その上から指の腹で強く押した。


    *    *    *


 工房の朝は早い。ミレーユが着いたときには、裁断台の上に今日の布が重ねられ、職人たちは最初の刃を入れる前だった。


 工房主は入口のミレーユを見て手を止めた。その向こうにはアルベールと二人の縁者がいて、納められたばかりの椅子へ腰を下ろしている。


「お嬢様が工房までいらっしゃるとは。店先で何かございましたか」


 工房主の問いに、アルベールが先に答えた。


「見学だ。気にせず始めろ」


 身内へ向ける声だった。工房主はミレーユを見たが、やがて裁断台へ向き直った。


「その前に、一冊だけ確かめていただけますか」


 ミレーユは抱えてきた差配帳を台の上へ置いた。エドガーが綴じ直した、工房の仕事だけを収めた一冊だった。


 アルベールの指が肘掛けを二度叩いた。


「店へ戻りなさい。朝の客を迎える者がいない」


「開店までには戻ります」


「そういう話ではない」


 工房主が帳の表紙を見てから、アルベールを見た。ミレーユは留め金を外し、経営主名のある頁を開いた。


 そこには、ミレーユ・フォルジュと記されていた。三年前の日付も、父が最後に添えた印も、その下へ重ねられた工房主の署名も動いていない。


 名など飾りで、采配した者が主だ。印も帳も握ってきた三年は、自分のものになる——アルベールはそう数えていた。


「それは形式上の記載だ」


 叔父の声が帳の上を横切った。工房主が口を開くより早く、次の言葉が重なる。


「実務は私が引き受けている。今までどおり、注文は私を通せばよい」


 ミレーユはアルベールを見ず、裁断台の端に積まれた布へ目を移した。上から三束目だけ、結び紐の色が違っている。


「その藍の布は、昨日の雨で乾きが遅れた分ですね。今日裁つと、縁が縮みます」


 工房主の眉が上がった。


「ご覧になっていたのですか」


「先に乾いた二束を午前の注文へ。三束目は明日の午後へ回してください。遅れた一日分は、奥に置かれた無地の在庫で埋められます」


 職人が奥の棚を振り返った。工房主は何も尋ねずにそこへ歩き、布を一反引き出して戻ってきた。


「数も足ります」


「では、そのように」


「待て。私の許しを取れ」


 工房主は開いた差配帳をもう一度見た。先ほどまでアルベールへ向いていた身体を、裁断台のこちら側へ回す。


「ミレーユ様、午後の分も明日へ移しますか。それとも無地で仕上げますか」


「無地で。縁飾りは予定どおりに付けてください」


「承知しました」


 職人たちの手が動いた。布を運ぶ者はミレーユの指した棚へ向かい、裁ち鋏を持つ者は無地の一反を広げた。


「荷は予定どおり私の店へ出せ」


 誰も返事をしなかった。工房主は差配帳を閉じ、両手でミレーユへ差し出した。


「今後の指図は、こちらに記された方からいただきます」


「私が三年間、この工房へ仕事を回したのだぞ」


「その三年間の注文も、この帳へ記しております」


 工房主の返事はそれだけだった。アルベールの縁者が片方ずつ椅子から立ったが、先ほどまでの笑いは戻らなかった。


 ミレーユは帳を受け取り、職人たちへ頭を下げた。裁断台の上では最初の刃が入り、布の裂ける乾いた音が工房を端から端まで走った。


    *    *    *


 二つ目は、取引筋だった。


 ミレーユが訪ねると、古くから品物の受け渡しを担ってきた店の者たちは、倉口で荷車を待たせていた。帳場の奥にはアルベールから届いた指図書が置かれ、宛先を示す札だけがまだ結ばれていない。


「ロアン様はお留守ですか」


「朝から仕入れ先を回っておられます。ご用件はわたくしどもが承ります」


 店の者は丁寧に答えたが、視線はアルベールの指図書へ落ちた。ミレーユは鞄から一通の経営権証を取り出し、卓上の空いた場所へ置いた。


「では、こちらを」


 紙を開く音に、倉口の手も止まった。記された経営主名はミレーユ・フォルジュのままで、その下に、この取引を任せる者を経営主が定める、と短く記されている。


「お嬢様」


 背後からアルベールの声がした。工房から追うように来たらしく、外套の留め具が片方外れていた。


「勝手に持ち出してよい書面ではない」


「わたくしが保管していたものです」


「管理は私の務めだ。渡せ」


 ミレーユは証から手を離した。取引先の者が両端を持ち、名と印を確かめている。


「確かに」


 小さな声だったが、倉口まで届いた。店の者はアルベールの指図書を脇へ移し、何も書かれていない荷札をミレーユの前へ置いた。


「本日の納入先は、どちらになさいますか」


「半分を工房へ戻してください。残りはこれまでどおり店へ。ただし、荷ほどきは新しい帳場へ移してからにします」


「支払いは?」


「期日を変えません。受取人名だけ、証の名に合わせてください」


 店の者は頷き、荷札へ書き込んだ。倉口から「工房へ半分」と声が飛び、荷車の前後が入れ替わる。


「私を通せ」


 アルベールの声は工房で聞いたときより短かった。


「これまでの信用は私が繋いできた。勝手に荷を動かせば、支払いも注文も止まるぞ」


 ミレーユは返さず、経営権証を受け取った。折り目を合わせて鞄へしまうあいだに、荷車の一台が工房の方角へ出ていった。


 アルベールの縁者が遅れて入ってきた。一人は何か言いかけ、店の者がアルベールの指図書を返すのを見ると、口を閉じた。


「これは後見の采配を無視する行いだ」


 アルベールは受け取らされた指図書を握った。紙の端が手の中で折れ、印の半分が見えなくなる。


「その指図に従うには、経営主の承認が必要です」


 店の者はミレーユへ礼をし、倉口へ戻った。縁者たちは誰もアルベールの言葉へ相槌を打たなかった。


    *    *    *


 工房への注文は翌日からミレーユのもとへ届いた。取引の荷札にも彼女の名が記され、アルベールの帳場を通らずに荷車が動くようになった。


「工房へ止めろ」


 アルベールはエドガーへ命じた。エドガーは入荷数を書き終えてから顔を上げた。


「すでに工房主が受け取っております」


「取り返せ」


「裁断に入りました」


「戻せ」


 返事の代わりに、奥から鋏の音が届いた。アルベールは帳場の戸口へ向かったが、工房から来た職人は彼の横を通り過ぎ、ミレーユへ見本を差し出した。


「縁飾りを二通り作りました。次はどちらで揃えますか」


「左を。右は短い品に使ってください」


「納期は今までどおりで?」


「ええ。明日の荷に間に合わせてください」


「承知しました」


 職人は見本をまとめ、アルベールへ一礼することもなく戻っていった。長卓にいた縁者が菓子皿へ伸ばしかけた手を引き、用を思い出したように立ち上がった。


「私は少し外へ」


「おまえにも話がある」


「夕方には戻ります」


 夕方になっても、その者は戻らなかった。残った縁者も帳場の時計ばかり見て、アルベールが「支払いはこちらで引き受けている」と言うたび、袖口を直した。


 商会本体の経営権証を開く日は、三日後に定められた。ミレーユは鞄へ封筒を入れたものの、留め具に掛けた指が動かなかった。


 窓の外では、工房の者たちが次の荷を運び込んでいた。仕事が切れれば、あの手から先に道具が落ちる。叔父の席を空けるだけなら、三年前にできた。


 エドガーが一通の手紙を差し出した。


「ロアン様から、ミレーユ様へ私信です」


 封を切ると、数行だけが太い筆で記されていた。最初の行には昨日の荷が無事に届いたこと、次の行には支払いの期日を変えぬことが書かれている。


『どちらで商いをなさっても、お付き合いは変わりません』


 その一文の上で、ミレーユの手が止まった。紙の端を押さえていた親指から、白くなっていた色が戻る。


「お返事を」


「どのように」


「次の荷の数をお知らせしてください。それから、これまでと同じ日に届けると」


 エドガーは頷き、返書の紙を出した。ミレーユは鞄の留め具を掛け、今度は外さなかった。


 商会本体の経営権証は、旧い帳場の長卓で開かれた。アルベールと縁者たち、エドガー、工房主が揃い、職人たちは開け放たれた戸の向こうに立った。


「こんな芝居に付き合う必要はない」


 アルベールは椅子に深く座っていた。工房主が入ってきたときだけ背を起こし、すぐに肘掛けへ腕を戻した。


 ミレーユは単一の証を卓上へ置いた。封を切り、紙を開き、全員から読める向きへ回す。


 経営主名は、ミレーユ・フォルジュ。


 彼女は名の頭へ指を置き、ゆっくりとなでた。指が離れても、証を封筒へ戻さなかった。


「それは——」


 アルベールが工房主の声を遮った。椅子の脚が床を擦る。


「兄上が生前に作った書面だ。今の実態とは違う。三年間、誰が商会を動かしてきたと思っている」


 エドガーが証へ目を落とした。


「経営主名に変更はございません」


「おまえに聞いていない」


「では、記された方にお尋ねください」


 アルベールの顎が下がった。縁者の一人が彼の隣から椅子をずらし、卓の角を挟んだ場所へ移る。


 ミレーユは工房主へ向き直った。


「今後の注文は、工房の差配帳とこの証の名の下で繋ぎます。受けられますか」


「受けます。次の注文をお聞かせください」


 戸口の職人たちが道具箱を持ち直した。取引先から届いた荷札もエドガーが卓へ運び、証の隣へ置く。


「待て」


 初めて、アルベールがミレーユへそう呼びかけた。


「まだ支払いがある。私が引き受けてきた信用がある。商会を持ち出せば、職人まで困ることになるぞ」


 ミレーユはロアンからの私信を工房主へ渡した。工房主は一度だけ読み、戸口の職人へ頷く。


「次の荷も入ります。明日から始められます」


「では、お願いします」


 職人たちは工房へ戻っていった。最後の一人が扉を押さえ、エドガーが運び出す帳を先に通した。


「置け」


 アルベールの命令に、エドガーは足を止めなかった。


「置け!」


 長卓に残った縁者たちは俯いた。誰も帳を取り返さず、誰もアルベールの隣へ椅子を戻さなかった。


    *    *    *


 工房の差配帳、取引の経営権証、商会本体の証は、新しい帳場の同じ棚へ収められた。それぞれ別に切られていた注文が繋がり、品物は工房から取引先へ、支払いは職人の手当へ、途中で名を替えずに流れ始めた。


 職人たちは仕事を終えると、新しい帳場へ寄った。見本を置き、翌日の数を告げ、次の納期をミレーユへ尋ねる。


「短い品を十二、長い品を八。明後日まででよろしいですか」


「長い品を六にしてください。残り二つは次の荷へ。刃の修理を先に」


 年かさの職人は包んでいた裁ち鋏を見た。三年前から延ばしていた修理の日が、差配帳へ書き込まれる。


「これで、明日の分もその先も切れます」


 彼は帳の頁を確かめ、鋏を抱えて出ていった。戸口では次の職人が、自分の見本を持って待っていた。


 エドガーは最後まで旧い帳場に残り、持ち出す帳と残す紙を分けた。新しい綴じ紐を掛け、角を揃え、一冊ずつ箱へ収めていく。


 ミレーユが最後の箱を受け取りに来ると、彼は紐を結ぶ手を止めた。


「新しい帳場に、番頭はお入用でしょうか」


「こちらには、まだ小さな机しかありません」


「帳が置ければ足ります」


「アルベールさまの帳場には、あなたが必要です」


「わたしが綴じてきたのは、アルベール様の帳ではございません」


 エドガーは結びかけの紐をほどいた。箱の中から工房の差配帳を取り出し、自分の腕へ抱える。


「三年間、直された数字を見て参りました。次の帳も、わたしに綴じさせていただきたい」


 ミレーユは小さな机の片側を空けた。


「椅子をもう一脚、頼まなくてはなりませんね」


「工房に余ったものが一脚ございます。脚が少し短いので、紙を挟みましょう」


「帳場の最初の支出が椅子ではなく、挟み紙になります」


「上等でございます」


 エドガーは差配帳を箱へ戻さなかった。二人で旧い帳場を出るとき、その一冊だけは彼の腕にあった。


 残された長卓には、アルベールと二人の縁者が座っていた。菓子皿は空で、帳を積んでいた場所には日焼けしていない四角い跡が残っている。


 支払いを受け取りに来た者が、卓へ一枚の紙を置いた。


「こちら、期限が本日となっております」


「商会の金から払え」


「商会のお支払いは、新しい帳場へ移っております。これはアルベール様がご自身でお出しになった注文ですので」


 アルベールは縁者へ紙を押した。


「一度立て替えろ。すぐに戻せる」


「私は注文に関わっていない」


「この前は、利益を分けろと言っただろう」


「それとこれとは別だ」


 縁者は椅子から立ち、掛けていた外套を取った。もう一人も視線を合わせず、その後ろへ続く。


「どこへ行く」


「用を思い出した」


「支払いが先だ」


 二人は扉の外へ出た。今度は夕方まで戻るとも言わなかった。


 受け取りに来た者は新しい紙を差し出した。


「お支払いを延ばす場合は、こちらへアルベール様のお名前を」


「私は商会の差配をしてきた」


「では、商会の経営主様から承認をいただいてください」


 アルベールの手が止まった。窓の外を荷車が通り、旧い帳場の前では曲がらず、新しい帳場へ向かっていく。


「私の名でよい」


 ペン先が紙を引っかいた。受け取りに来た者は署名を確かめ、控えへ受領印を押す。


「確かに承りました。次のお支払い日はお間違えなく」


 紙と印の音だけを残して、その者も出ていった。アルベールは空いた長卓の端で、返された指図書を折り直していた。


    *    *    *


 新しい帳場の窓は、旧い帳場より狭かった。その代わり、工房の戸口がよく見え、荷車が着けば席を立つ前に数を確かめられた。


 ミレーユは商会本体の経営権証を机の右へ置き、差配帳の今日の頁を開いていた。エドガーは脚の短い椅子に座り、挟み紙をもう一枚足している。


 扉を叩く音がした。


 返事を待たず、アルベールが入ってきた。外套は昨日と同じもので、外れた留め具も直されていない。


「ミレーユさん。少し、お話がございます」


 工房主が見本を置いていたため、声は以前のように丸かった。ミレーユは記入を終え、工房主へ帳を返した。


「次は午後に確認します」


「承知しました」


 工房主が出ていくと、アルベールは空いた椅子へ手を掛けた。エドガーは帳を抱えたまま立たず、椅子も勧めなかった。


「ずいぶんと手狭だな」


「仕事には足りております」


「いつまでも、こんな場所で続けるつもりか。元の帳場へ戻ればよい」


「ご用件は、それですか」


「表の看板には、おまえの名を戻そう。帳場の席も用意する。また一緒に商会をやればいい」


 アルベールは机へ片手をついた。かつて差配帳を取り上げた手が、今は証の端へ届かない場所に置かれている。


「職人も、取引先も、元の形の方が困らない。おまえ一人では背負いきれまい。後見の采配に戻せば、すべて収まる」


 ミレーユは開いていた帳から指を離した。商会本体の経営権証へ置き直し、名の最初の一文字に触れる。


「名なら戻すと言っている。おまえが望んでいたことだろう」


 ミレーユは初めて指を止め、顔を上げた。


「戻すも何も、この証の名は、はじめから書き換わってはおりませんのよ」


 アルベールの口が半ばまで開いた。エドガーが次の差配帳を机へ置くと、叔父の手がわずかに引いた。


「だが、三年間は私が——」


「大切なものは、一つずつ取り戻せます」


 ミレーユは証から手を離し、次の帳を開いた。


「工房も、取引も、商会も、すでに繋がっております。アルベールさまへお渡しする仕事はございません」


「私はおまえの後見人だ」


「その務めも、もう終わっております」


「ミレーユ」


 呼び捨てる声に、以前の太さはなかった。工房から職人が二人、次の見本を抱えて入ってきたが、アルベールの前では足を止めなかった。


「ミレーユ様、午後の注文です。納期を先に決めていただけますか」


「ええ。すぐに拝見します」


 エドガーが扉を開けた。アルベールはそこに立つ番頭を見たが、道を譲らせる言葉を見つけられなかった。


「また来る」


「お約束のないご訪問は、お受けできません」


 エドガーの声は低く、平らだった。アルベールは机の上の証を一度見て、扉の外へ出た。


 扉が閉じると、職人が見本を広げた。ミレーユは布の端を確かめ、短い品を先に仕上げるよう告げた。


 翌朝、エドガーは脚の短い椅子の下へ新しい挟み紙を入れた。工房から最初の鋏の音が届き、取引先の荷車が窓の前へ止まる。


 ミレーユは新しい差配帳を開いた。経営主名の最初の一文字をひとなでし、待っていたエドガーの方へ帳を回す。


「始めましょう」


「はい、ミレーユ様」


 エドガーが綴じ紐を解いた。窓の外では職人が次の荷を下ろし、朝の帳場へ、今日の仕事が一つずつ運び込まれてきた。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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