第一話 春の始まり
第1話 春の始まり
朝、目を覚ました瞬間、自分が泣いていたことに気づいた。
頬に触れると、指先がわずかに濡れる。
涙の跡だった。
しばらく天井を見つめる。
夢を見ていた気がする。
けれど、その内容だけがどうしても思い出せなかった。
誰かが笑っていた。
誰かが泣いていた。
そんな曖昧な断片だけが頭の片隅に残っている。
それなのに、胸の奥には妙な痛みがあった。
まるで大切なものを失った後のような、ぽっかりと穴の空いた感覚。
理由もわからないまま、俺は小さく息を吐いた。
「なんだよ、これ……」
ひとりごとが静かな部屋に落ちる。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、やけに眩しかった。
「遼太ー! いつまで寝てるの!」
一階から母さんの声が聞こえた。
その声でようやく現実に引き戻される。
枕元のスマホを手に取ると、時刻は七時十分を過ぎていた。
「やばっ」
飛び起きる。
今日は高校の入学式だ。
新しい制服。
新しい教室。
新しい生活。
本来なら期待と不安でいっぱいになっていてもおかしくない日なのに、なぜか気持ちは重かった。
理由はわからない。
ただ、何かを忘れているような気がする。
それも、とても大切な何かを。
制服に袖を通し、家を出る。
春の風が頬を撫でた。
住宅街の向こうに見える桜並木は満開だった。
淡い花びらが風に揺れる。
どこにでもある春の景色。
それなのに、その光景を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
懐かしい。
ふと、そんな言葉が頭に浮かぶ。
けれど、何が懐かしいのか分からない。
「ほんと、変だな」
苦笑しながら歩き出した、そのときだった。
「おーい、遼!」
聞き慣れた声が飛んでくる。
振り返ると、自転車を押しながらこちらへ走ってくる男子がいた。
「陸」
中学からの親友、高橋陸だった。
「入学式初日から遅刻かと思ったわ」
「してねーよ」
「いや、顔が完全に寝起きだろ」
陸はケラケラと笑う。
中学一年のときに席が隣になって以来の腐れ縁だ。
「クラス一緒だといいな」
「どうせまた一緒だろ」
「それはそれで怖いな」
二人で笑う。
少しだけ胸の重さが軽くなった気がした。
昔から、陸といるとそうだった。
高校の校門前は、新入生と保護者で賑わっていた。
掲示板の前には人だかりができている。
「お、クラス発表だ」
陸が人混みの中へ入っていく。
俺も後を追った。
一年三組。
その中に自分の名前を見つけた。
「おっしゃ」
隣で陸が声を上げる。
「同じクラスだ」
「マジか」
「腐れ縁継続決定」
「最悪だな」
「言ったなコラ」
くだらないやり取りを交わしながら、二人で校舎へ向かった。
教室の扉を開く。
ざわめきと春の日差しが流れ込んできた。
俺は席表を確認しながら自分の席を探す。
窓際から二列目。
そこへ向かおうとして――
「やっと会えたね、遼くん」
不意に名前を呼ばれた。
振り返る。
そこには一人の少女が立っていた。
肩まで伸びた黒髪。
柔らかな笑顔。
けれど、その目だけは泣き出しそうだった。
まるで長い旅の終わりに、ようやく探し人を見つけたみたいに。
見覚えはない。
ないはずなのに。
胸の奥が妙にざわついた。
「俺のこと、知ってる?」
「うん」
少女は迷いなく頷いた。
「でも俺は知らないんだけど」
そう言うと、少女は少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
そして手を差し出す。
「私、亜里沙」
「よろしくね、遼くん」
俺も手を伸ばした。
その瞬間だった。
胸の奥が強く締め付けられる。
苦しい。
息が詰まる。
そして、気づけば口が勝手に動いていた。
「……ごめん」
自分でも意味が分からなかった。
亜里沙も目を見開く。
やがて彼女は少しだけ笑った。
「まだ謝らなくていいよ」
その言葉だけが妙に心に残った。
入学式は滞りなく終わった。
ホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなる。
そんな中、陸が立ち上がった。
「悪い、遼」
「ん?」
「俺、サッカー部見学行ってくるわ」
「もう決めてんのか」
「中学からやってたしな」
陸は笑いながら教室を出ていった。
帰ろうと席を立った、そのときだった。
「遼くん」
振り返る。
亜里沙が立っている。
「一緒に帰らない?」
断る理由が思いつかなかった。
校門を出る。
桜の花びらが風に乗って舞っていた。
初めて一緒に帰るはずなのに、不思議と緊張はなかった。
むしろ、ずっと前からこうしていたような気さえした。
「ねえ、遼くん」
亜里沙が空を見上げる。
「もしさ、今日が最後の日だって言われたらどうする?」
思わず笑った。
「重いな」
「そうかな」
「入学式の日にする話じゃないだろ」
そう返すと、亜里沙も笑った。
けれど、その横顔はどこか寂しそうだった。
「私はね」
彼女は前を向いたまま続ける。
「後悔したくないかな」
風が吹く。
花びらが二人の間を通り過ぎていく。
「会いたい人には会いたいって言うし、伝えたいことはちゃんと伝える」
その言葉は、自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
駅前で別れる。
「また明日ね、遼くん」
たったそれだけの言葉。
なのに胸が締め付けられた。
まるで、その約束が何より大切なものみたいに。
その夜、夢を見た。
桜が舞っている。
夕焼け。
泣いている誰か。
伸ばした手。
届かなかった指先。
そして。
『ごめんね』
聞いたことのない声だった。
それなのに、どうしようもなく懐かしかった。
目を覚ます。
朝だった。
スマホを手に取る。
そして画面を見た瞬間、息が止まる。
四月七日。
昨日と同じ日付だった。
「……は?」
何度見ても変わらない。
入学式の日。
昨日と同じ日付。
そのとき、スマホが震えた。
メッセージが届く。
送信者は――亜里沙。
震える指で開く。
そこには一文だけ書かれていた。
『今度こそ、間に合った』
意味がわからなかった。
わからないはずなのに。
その文字を見た瞬間、なぜか涙がこぼれた。
第1話 終




