人の婚約者を狙う女VS悪役令嬢
セレフィーナ・ノーティスはこの日、この一年の中で一番機嫌が悪かった。
朝は雲一つない晴れやかで青々とした空だったのに、彼女の機嫌と呼応するように、昼になるにつれて鼠色の雲が掛かるようになり、心地よかった暖かい日差しは、雲に覆われる。
生憎の天気。殺伐とした雰囲気。せっかくのガーデンパーティーが台無しだ、と誰かは肩を落とすが、セレフィーナの機嫌を損ねる言動や行動をすれば、社交界ではやっていけない。
残念な態度を取った令嬢は、仲間の令嬢に注意をされることで、自分がいかに愚かな態度だったことに気づく。
彼女に見つかったらどうなるか――顔色を伺おうと視線を前に向けるが、こちらに気づいていないセレフィーナに安堵した。
ほっと一息ついて、隣の令嬢に聞く。
「今日は、どうなされたのかしら……?」
「仕方がないわ。婚約者であるアルフレッド様が、ソレイユ男爵令嬢と良い雰囲気ですもの。婚約者であるセレフィーナ様にとって、気持ちが良いものではないですよ」
一人の令嬢は不安と同情の視線をセレフィーナに向けた。
セレフィーナがじっと見つめる、一点の先には、たしかに彼女の婚約者である第二王子アルフレッドがティーカップ片手に、男爵令嬢でありながら素朴な印象かつ、可憐な容姿を持つミレイユ・ソレイユ男爵令嬢と談笑していた。
彼らがひとつ笑いを漏らす度、セレフィーナの眉の角度が段々上がっていくと、いつ爆発するかもわからない彼女の袋の緒に、セレフィーナ派閥の女性たちはハラハラした。
――セレフィーナが機嫌が悪い原因――それは、一目も憚らず、イチャつく彼らであった。
セレフィーナはこのサンドール王国のノーティス公爵家の一人娘。祖はサンドール初代国王に連なる、王族の血を引く立派な貴族だ。
この国の第二王子であるアルフレッドとは婚約関係にあり、互いが将来、伴侶になる予定の関係値は、周知の事実だ。
だというのに。アルフレッドは自ら主催のガーデンパーティーに婚約者であるセレフィーナの傍にいるのではなく、ミレイユを隣に座らせて、周りの目も憚らず会話に華を咲かせている。
それは、セレフィーナにとって侮辱行為に他ならなかった。
こういった場面は一度だけではない。ミレイユ・ソレイユにと出会った数年前――王立学園時代から、彼らは親密な関係を築いていた。
苛烈で、傲慢なセレフィーナの性格は、ミレイユの存在はひどく癪に触った。
――なので、学園時代から因縁のある相手に、セレフィーナはあらゆる虐めを行った。
派閥の貴族たちに圧を掛けて彼女に関わらないように通達を出し、公の場ではマナー違反や教養不足の部分を嘲笑ったり。時にはドレスにワインを零してみたり。物を隠すことや、陰湿ないじめなんて数えきれないほど行い、彼女に辛酸を舐めさせた。
苛烈ないじめの数々は、物語でヒロインを虐める悪役――悪役令嬢なんて名前で世間から認定されているほどセレフィーナは過激な嫌がらせをミレイユに行っていた。
ミレイユを軽蔑し、侮辱し続けた。
――そして、今日も。
――バシャッ!
「あっつッ!!!!」
火傷にならない程度に冷めた紅茶を、口元に手を当てて、ころころと笑うミレイユに掛けた。
白ベースのドレスは、一瞬のうちに紅茶色に染まり、かわいらしく着飾った出で立ちは一瞬にして惨めな物に変化した。
セレフィーナは熱くないのに、とワザとらしく声を上げたミレイユに冷静に笑いかける。
「あら、ごめんなさい。一流の貴族が集まるパーティーに、娼婦が紛れているのが我慢ならなくて」
「――なッ!」
突然の行動と侮辱に、ミレイユは言葉を詰まらせる。
天真爛漫で、いつも笑顔を絶やさない明るい彼女らしからぬ、衝撃と侮辱に対しての反発からセレフィーナに鋭い視線を向ける。
セレフィーナは、薄く笑ったまま、ハンカチを取り出す。
「まぁ!?顔が濡れて大変ですわ。私がハンカチを貸して差し上げるわね」
ミレイユの濡れた顔に、紅茶の水分を広げるように吹いた。当然、ファンデーションが乱れて、口紅やアイラインがよれた顔は見るも無残な光景になり――。
「――プッ」
一部始終を観察していた令嬢たちは笑いをこらえるのに必死だった。
一人が笑いを漏らすと、堰を切ったようにパラパラと笑い声が風に乗って広がっていく。
セレフィーナは肌色に色づいた白いハンカチを「いらないから捨ててくださる?」と、ミレイユに押し付けると、ミレイユはハンカチを握りしめて大声を上げた。
「セレフィーナ様!どうして私にいつも意地悪をするんですか……!?私、あなたになにもしていないのに……!」
「なにもしていない? 本気でそう思っているのなら、今後、こういった集まりには参加なさらない方がよろしくてよ」
「…………ッッッ!」
笑みを崩さず、余裕綽々で答える。
その態度が、かえってミレイユの神経を逆撫ですることを、セレフィーナは理解している。目の前で怯えるネズミを、観察するような鋭い目つきでミレイユを見下ろした。
「私は……ッ!」
ミレイユはわかっている。――どれだけ自分が不憫な目に遭っているといっても、貴族社会は、縦型で構成されている。
立場でも、血筋でも、派閥でも、セレフィーナに勝てる要素はひとつもない。
――それでも。ミレイユは、諦めたくなかった。
アルフレッドが好きだから。
王立学園で初めてあった時から。とりえもない自分を素朴で可愛いと認めてくれた時から。周りがなんと言おうとも、恋愛は自由であるべきだとミレイユは婚約者がいるアルフレッドと逢瀬を重ねる度に、自分自身の中で正当化し続けた。
――好きな人同士で結ばれて、好きな人と未来を築けばいい。だから、セレフィーナ様も、アルフレッド様のことを、諦めてほしい。
隣にあるべき地位を、立場を。彼を好きという気持ちを、ミレイユは偽りたくなかった。自分を優先し続けるアルフレッドを見て、諦めてほしいと強く願った。
それでも、願うばかりで、対抗心を燃やし続けるだけで。彼女はそれ以上に強く言えなかった。
身分が、本音を告げることを邪魔をした。
――悔しい。身分が違うだけで、なにひとつ言い返せないなんて。
ミレイユは男爵令嬢で、セレフィーナは公爵令嬢。立場も、築き上げた地位もまったく違う。平民の知識が明るく、素朴で明るい印象で交友関係を築き上げたミレイユとは違い、セレフィーナは一流の物に囲まれて育ってきた。
だからこそ、セレフィーナがこの場で傍若無人な振る舞いをしようとも止められる人間は限られている。それを理解しているからこそ、ミレイユは俯いて、時間を過ぎるのを待った。
時間を掛ければ、いつか、誰かが助けてくれる。それが、ミレイユの処世術だったからだ。
ミレイユが唇を噛んでいると、見かねたアルフレッドは濡れたミレイユの肩を抱いて引き寄せる。
「セレフィーナ!茶を掛けるのはやりすぎだ!お前は、どうしていつもミレイユを目の敵にするんだ……!」
「それ、本気で言ってますの?」
セレフィーナはぽかん、と口を開ける。
ミレイユの硬い表情に柔らかさが戻る。
――やっぱり、アルフレッド様は、私が困っている時、いつも助けてくれる。
強く、肩を抱きしめる力が籠る。
セレフィーナの暴挙を、ミレイユが傷つけられたことに対する怒りの強さを、なんとなくミレイユ自身が感じることで、溜飲が徐々に下がっていく。
アルフレッドは感情のままセレフィーナに言葉をぶつける。
「この俺主催のパーティーをぶち壊すだけでは飽き足らず、招待客に危害を加えるだなんて、どうかしてる!」
アルフレッドはセレフィーナ顔負けの釣り目をギ、と上げてセレフィーナを睨みつける。
気迫に押されて、後方で固まっている令嬢が怯える。しかし、セレフィーナはきょとん顔で頬に手を当てる。
「婚約者がいる殿方の隣を、パーティー開始から今までずっと占領し、他のパーティー客とも会話をすることもなく、媚びへつらう女。下品な女に、教育をしただけですわ」
「ミレイユは立派な男爵家の令嬢だ!下品なのは、いきなり茶を掛けるお前だろう。ことあるごとにミレイユを虐めて、なにが楽しいんだ!」
「まぁ、虐め自体は楽しいですわね。……婚約者がいる殿方に腰を振る発情期女の腑抜けた顔が被害者のように情けなく歪む顔は、見ごたえがあります」
「――なッ!」
言い訳をするでもない、素直に自分の蛮行を認め、肯定的な発言をしたセレフィーナに今度はアルフレッドが口を開ける番だった。
アルフレッドは、期待していた。自分がミレイユを守ることで、少しでも自分の過ちを自覚するか、反省するか、良い方向へ事態が解決するのではないかと思っていた。
しかし、反省する気はなく、間違ったことをしていないと宣言したに等しいセレフィーナの態度は、アルフレッドが彼女を見限るには十分だった。
もう、修復などできない。
ミレイユを胸の中で抱きしめ、目の前の悪辣な婚約者を捨て、この手の中にある華奢な存在を守ろうと強く決めた瞬間だった。
「――わかった。お前がその気なら、今日を持って婚約を破棄する。二度と、その不愉快な顔を見せるな!」
セレフィーナは、他人事のように「あら」と呟く。
弁明も、反論もすることなく、セレフィーナは優雅に一礼をしてその場を去った。
潔さに、アルフレッドは拍子抜けをしたのだが、その意味を知ることになるのはミレイユを婚約者にしてから一年後のことだった。
――――。
―― 一年後。
ノーティス公爵邸、セレフィーナの自室。
セレフィーナ付きの侍女、メリアが廊下を小走りで駆け、慌てた様子でノックを忘れ、扉を開け放つ。
「お嬢様、大変です! ――きゃあッ!」
「わッ!」
「あら」
メリアの視界に最初に映り込んだのは、裸で抱き合う筋肉質の大柄の男と、自身の主であるセレフィーナだった。
互いに一糸まとわぬ姿で、しかも共に朝を迎えているとなれば状況は明白。
咄嗟に新聞を床に落として、恥ずかしくて顔を覆うと、セレフィーナは深くため息を吐いた。
「メリア。朝はノックをして頂戴と、何度も言っているでしょう? 行為中だったらどうするの?」
セレフィーナの男遊びはいつものことだったが、今日のお相手はメリアにとってもとても顔を見知った相手だった。
――王室騎士団の騎士団長、レオン。大型犬のように人懐っこく明るい性格に、甘く、柔和な顔立ちは貴族女性からも、平民女性からも人気を集めていた。
女性関係には疎いイメージだったが、まさか自分の主と夜を共に過ごしているなど露ほど思わず、主の言葉など耳に入ってこず、呆然と佇んだ。
レオンは、最近、セレフィーナの自室を出入りしているけれど、まさか、そんな。純粋なイメージがあったレオン像が、メリアの中でガラガラと崩れ落ちる。
「騎士団長、様……ですよね?」
「あ、ははは……。やぁ、メリア。今日も慌ただしいね」
床に乱雑に落としたズボンを手早く拾い上げながらズボンを履く姿は少し情けなくも映る。
しかし、メリアは床に落とした新聞を拾い上げながら思い出す。こんなことで心を乱している場合ではないと。
冷静さを取り戻し、苦言を呈す。
「お嬢様、噂になるのが早いのですから、男遊びはほどほどにと、あれほど御忠言申し上げましたのに……。この間、隣国の宰相と夜遊びしたことが話題になったばかりじゃないですか」
「それ、本当なの? セレフィ……!?」
普段新聞をみないレオンは光の速さでセレフィーナを見た。
不機嫌に眉間に皺を寄せてメリアに言った。
「メリア。他の男の前で、その話をしないで。それよりも、私に用事があったんじゃないの?」
「そうでした!今日の朝刊、見てください!」
メリアは新聞をセレフィーナに渡すと、セレフィーナは手を払ってメリアを退室させる。
朝刊の一面を飾る話題の文字に視線を滑らすと――。
『アルフレッド王子の新婚約者ミレイユ・ソレイユ男爵令嬢、会食で失言――リーフ公国との関係に亀裂が入る!!』
そう、一面には書かれていた。
「ああ、これね。僕、会場の護衛をしていたんだけど、酷かったよ」
ズボンを履き終えたレオンはベッドの縁に座り、セレフィーナの肩越しから記事を除くレオンにセレフィーナはキスを強請って問う。
「ン、フ……ッ。……なにが酷かったのかしら?」
「リーフ公国は信仰国家で有名だろう? 特に、神牛様――牛に対する扱いには過敏だ。だというのに、何て言ったと思う?」
その話の続きは、新聞に掛かれていた。――新聞の一面には、その時の失言がまるで記者がその場に居合わせたかのように、一言一句記載されていた。
『公王様は、なにか好きな物はございますか? 私、牛肉が好きなのです。この国でも慣れ親しんだ食材なので、ぜひ、自慢の牛肉を、公王様にも食べていただきたいですわ』
「――プッ、フフフフフッ」
「笑いごとじゃないよ。相手の神殿騎士がミレイユ様に襲い掛かる勢いだったんだから」
「フフッ。……大変だったわね?」
「面の皮が厚いのはいいが、無知は勘弁してほしい」と気苦労を思い出してレオンは深く肩を落とす。
「神牛はリーフ公国が疫病と飢饉で滅びそうになった時に救った、神が遣わした動物として神格化されているわ。食材とするにしても、加工するにしても、家畜として育てるにしても、最大限の敬意を払うことが公国の常識よね?」
「そう。神が遣わした敬意を払われるべき動物を、「誰でも食べられる慣れ親しんだ食材」だなんて、侮辱以外の何者でもない。……おかげで問題視した公室側から、あらゆる取引を止められちゃって、内部は大騒ぎさ」
「世界有数の鉄鉱山を所有している公国の流通を止められるのは、不味いわね。馬車の車輪や、武器なんかが作れなくなるじゃない」
「今、それを王室内部が問題視している」
「アルフレッドも、女を見る目がないわね」
新聞に興味を失い、セレフィーナは床に投げ捨てる。
きっと、午後のベッドメイキングの時間の時に、誰かが拾って片付けてくれるだろうと予想して、視線を外す。
――さて、続きをしようと、レオンの首に腕を絡めた時だった。
レオンは、ぽつりとつぶやいた。
「セレフィは優しいよね」
「――はぁ?」
セレフィーナにとって告げられた言葉に、意味が分からなくて反射的に不満の声を漏らす。
レオンは、頬を紅潮させて、自分の中の熱い思いを淡々と告げていく。
「こうなることがわかって、ミレイユ様に辛く当たっていたんだろう? 常識も、教養も。彼女は貴族社会で生きていくのに、足りないことが多かったから。じゃないと、みんな、セレフィのこと、嫌ってる。皆、セレフィが正しいって、わかっているんだよ」
レオンはセレフィーナにまつわる噂をそう解釈していた。
――もし、心からセレフィーナに悪意しかないのなら、好意的に解釈しないはずだ。
でも、セレフィーナの行動には意味があった。ミレイユが、婚約者の存在を知っていて近づいているのなら、立派なマナー違反だ。
仮に、セレフィーナから婚約者の座を奪おうとするにしても、マナー違反、教養不足は致命的になる。将来、国王の妻になるかもしれない女性はこの国の最高の女性を目指さなければならないのだから。
けれど、アルフレッドの庇護がある以上、彼女の教養不足を指摘する役は限られている。彼女が、口で言って理解するほどの知能があるとは、とても思えない。
――だから、セレフィーナが、憎まれ役を買って出た。
「いつもそうだ。僕がスランプで落ち込んでいる時も、誰かが困っていると、いつも手を差し伸べてくれる。だから、皆、セレフィーナを慕うんだよ?」
レオンにとって、目の前の小さな光が愛おしくて胸の中で抱きしめる。
慈悲深くも、素直ではない愛しい女性。いつか、その可愛らしい唇が、自分の名だけを口にしてくれたらどれほど――。
レオンは、セレフィーナに対する激情を抑え、俯いたセレフィーナの顔色を伺う。
照れているのだろうか、と覗き込むが……。
セレフィーナは端麗な顔が崩れるほど嫌そうに顔を歪ませ、口角を引きつらせていた。照れているのではなく、明らかに、心の底から怒りと不快を滲ませた表情。
甘い空気だったのが、一転して険悪な雰囲気を漂わせている。
「それ以上、言わないで。私に優しいは、最悪の褒め言葉よ。次、口にしたら、二度と会わないから」
セレフィーナはレオンの腕を叩いて拘束から逃れる。
「せっかくの気持ちが良かった朝が台無しだわ」
レオンの方を向かないので、レオンはセレフィーナがどれくらい機嫌を損ねているのか判別がつかなく、これ以上機嫌を損ねないように泣きそうな顔で謝った。
「――ごッ、ごめん!」
ドレッサーを開けてネグリジェを羽織る。
濃密な朝は終わりの合図に、先ほどまで紅潮していた身体の熱は真冬の風に晒されたように、急激に冷えていく。
慌てた様子の彼を慰めるわけでもなく、セレフィーナは淡々と言葉を突き刺す。
「なにをどうしたら誤解するの? あの子は本当に気に食わなかったから相手にしてあげただけ。だって、人の婚約者に色目を使って、私に喧嘩を売るのよ?買わないと私の気が収まらないじゃない」
「そうだよね……!」
鼻息をひとつ、強く吐いて速足でバスルームへ向かう。
彼女より大柄なはずのレオンは、床に脱ぎっぱなしだった自分のシャツを拾い上げてから小走りでセレフィーナの一歩後ろで立ち止まる。
「セレフィ、もう行くの?」
「当たり前でしょ。興が削がれたわ。……お風呂入って支度しなくちゃ」
ちらり、と部屋の窓を見ると、庭木の枝が差し掛かった、向こう側の空の色はすっかり青く色づいていた。行為が始まったのは、青紫だった綺麗な星空だったことを考えると、随分長く共にしていたのだと、漠然と考える。
セレフィーナは流石に失言で気を落とすレオンを気の毒に思い、彼の手を引く。
「一緒にお風呂に入ってから、支度しましょ。……私、今日は登城する日なの。あなたも午後から出勤でしょ? 馬車に乗っていきなさいよ」
不安だったレオンの顔色はわかりやすく明るくなる。変わり様に、セレフィーナは可愛らしいと思い、徐々に機嫌が直っていく。
――すぐに上がるつもりだったのに、予定時間のギリギリまで愛し合い、メリアに叱られるのは、想像に難くなかった。
…………。
セレフィーナは久々に王城の長い回廊を歩く。
王城の高貴で冷たい印象を持たせる白亜の内装は、いつも見事だと関心しながら歩くほど、セレフィーナは気に入っていた。
白亜の壁面は顔が映るほど、丁寧に磨き上げられ、雪を切り出したように冷たい光を放っている。
天井には繊細な銀細工と、広間や、玄関ホールなどの大きな場所では、巨大なシャンデリアが日中は灯は灯っていないというのに、氷のような輝きを散らしている。
家具も、すべて白を基調としているのにも関わらず、不思議と温かみがない、厳かな空間を作り出していた。
――いつかは、ここも自分の物になるのだと思っていたが、まさか、今度は客としてここに来ることになるなんて。
薄く笑って、様々な白の光景を通り過ぎる。
王城に来れるのは、王族と、そこで仕事をしている者、招待された客など、一部の者に限られる。
王族の婚約者から任を解かれたセレフィーナが足を運ぶのは、実に半年振りだ。
王子妃候補の仕事の為に奔走していた頃を思い出すと、感慨深いものがある。
――さて、目的の場所まで、もう少しだ。というところで、逆方向から、一人の青年が静かに歩みよってくる。
セレフィーナは気づいて足を止める。
ついでに、一緒に登城したレオンも一緒だった。
二人の顔を見て、黒髪に灰青色の瞳を持つ、微笑を張り付けた美青年は眦を細める。
「昼過ぎまで寝ているだなんて、良いご身分だな」
「――ルシアン」
セレフィーナは感情が籠らない声で呼ぶ。
――ルシアン・アークライト。
王国歴史至上最年少で中枢入りを果たした怪物。セレフィーナとは幼い頃から知った中だ。
数少ない、彼女の幼少期を共に過ごした人物であり、彼女の本性をよく理解している者に一人。
ルシアンは、腕を組んで、首を傾げる。
「騎士団長と、仲良く登城か」
「ええ、そこで会ったの。……ねぇ?レオン」
「はい、セレフィーナ様」
背後にいるレオンを一瞥すると、レオンは上司に、恭しく一礼をする。
ルシアンは、レオンを、上から下まで視線でなぞると、嘲笑を浮かべた。
「騎士団長、首にキスマークがついているぞ」
「――ッ!!」
騎士服越しで隠れているというのに、レオンは反射的に右首筋に手を当てる。
ぺちん、と間抜けな肌を打つ音が響く。愚直なまでの素直さに、セレフィーナはルシアンとレオンを交互に睨みつけ、ルシアンは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「嘘だ」
「――チッ」
隠す気もない舌打ちに、レオンは反射的に「すみませんでした、セレフィーナ様」となるべく彼女の機嫌を損ねないように謝罪を口にする。
そんなレオンを無視して、ルシアンはセレフィーナの悪癖に深くため息を吐いた。
「羽目を外すなとは言わないが、節度は守ってくれ」
「私が、どんな男と遊ぼうが、あなたには関係がないでしょう。別に浮気していないし、不倫もしていないもの。互いの同意の上での関係よ?」
「それでも、風紀が乱れる。副騎士団長と騎士団長の痴情の縺れは勘弁してくれよ」
ルシアンは、セレフィーナの男癖の悪さを理解している。
アルフレッドの婚約中は周囲の目もあり、控えてはいたようだが。
婚約が決まる前は、彼女を取り合う男たちが毎日何かしらの形で言い争っていたのを、ルシアンは目撃していた。
その尻脱いを何度させられたことか。あの苦労の日々を思い出しながら、幼馴染でもあるセレフィーナにもう一度、意図を理解してもらうために深く、深く、ため息を吐き出した。
「ところで、私に用事ってなにかしら」
「……用事は俺じゃない」
お小言が長引く前に、セレフィーナは本題を切り出すと、ルシアンが立っている背後にある、廊下の曲がり角に隠れていたミレイユが姿を現す。
「あら、ミレイユ様じゃない。久しぶりね。やつれた?」
一年前のガーデンパーティーの時から、姿を見ていなかったが、ふっくらとした頬ややせこけ、薄ピンクに色づいた唇は乾燥してガサガサ。目の下にはファンデーションでも隠し切れないクマが、目を凝らすとついている。
――ミレイユは、セレフィーナが婚約破棄を告げられた後、請け負っていた王子妃業務を碌な引継ぎもなしで処理をし、同時並行で王子妃教育に励んでいた。
ミレイユは思っていた。あの我儘で傲慢なセレフィーナが務まっていたのだから、私も十分に務まる程度のものなのだと。
――認識が甘いと気づいたのは、王子妃教育が始まってすぐの頃だった。
セレフィーナが行っていた王子妃業務は膨大だった。王城の予算確認、孤児院や教会などの福祉施設への寄付金集めと管理、外交、社交、――次期王族として、アルフレッドがするべき業務までを担っていたのだ。
アルフレッドは政治能力が低く、事務作業も得意ではないため、彼の差配のままにしてしまうと業務が滞ってしまう。そのため、アルフレッドの分まで、セレフィーナが行っていた。
その分の負債を、ミレイユ一人では肩代わりできなかった。
ミレイユは、学園時代の成績は中の下、勉強より、恋愛に勤しんでいたので、当然王子妃業務を満足にできるわけがなかった。文官がほぼ処理を行い、ミレイユがそれを確認するだけでも、かなりの激務だった。
また、マナーについても同じことが言えた。
下位貴族で平民に近い生活を送っていたミレイユが、王族のマナーを身に着けるのは過酷な物だった。
――セレフィーナが幾度も、口うるさく注意していたマナー、教養の部分を、まったく同じことを、教育係は指摘した。
公共の場で男性とベタつかない。ティーカップの持ち方。敬語を使うこと。上の者から話しかけるまで、話しかけてはいけないこと。大声を上げて笑わないこと――。
誰も困らないからいいではないかと馬鹿にしていたもので、ミレイユは苦しめられた。
――婚約破棄の時は、すんなり受け入れられたのに、と。婚約者になる前の幸せな日々を思い出して、ミレイユはベッドの上で何度も泣いた。
ミレイユは、冷静に考えて、その理由は理解できた。
アルフレッド側には正当な理由もあったため、婚約破棄自体はすんなり受け入れられたこと。
ミレイユとの婚約も早期に決まったのは、空いた空席を埋めるため。アルフレッドが公にミレイユとの婚約を宣言してしまったため。
ミレイユは、王子様に愛されていると有頂天になっていた。
婚約者になれば、全てうまくいくと思っていたのに――甘い考えだった。
最初に壁に当たったのは、教育係だった。
下位貴族が王子妃など前代未聞で、さらには能力も低く、当初やっとついた教育係にも身分を振りかざすような発言をし、問題を起こしたことで、誰も、彼女の教育係になりたいという貴族が現れなかった。
仕方がないので、アルフレッドの元教育係だった者が、王命で継続してミレイユの教育を行っているが、当時強い反発心があった彼女に身に入るはずがなく。
その調子で、あの外交の日が来てしまった。
失態が痛い打撃となり、今は、完全にミレイユの味方はいない。
新聞に失態を大々的に取り上げられ、誹謗中傷の嵐はやまない。
業務を放りだして、体調不良を装って、部屋の中でふさぎ込んでいる時、ふと、メイドたちの話声が入ってくる。
「セレフィーナ様がいなくなって、もう一年経とうとしているのね……。寂しいわ」
「そうね。私たち侍女にも気を遣って下さるのは、セレフィーナ様しかいないもの」
「気難しいけれど、有能で、気高い方だったわ。侍女長の横柄な勤務態度と横領の罪を暴いてくれて、私たち下の者たちにも激励のお言葉もかけていただいたのは今でも忘れないわ」
「だというのに、アルフレッド様は婚約破棄をして、ミレイユ様を婚約者に……なにを考えているのかしら」
「セレフィーナ様は、自分から媚びを売る方ではありませんし、ミレイユ様は婚約者がいながらアルフレッド様に言い寄ってたって噂じゃないですか。単純に心移りされたのでは……?」
「えー、まさか。王子様なのに浅慮なわけないでしょう? たしかに、ミレイユ様は殿方からしたら都合の良い女性かもしれませんけど、セレフィーナ様は能力、容姿、家柄……性格まで優れたお方よ? 優先するならセレフィーナ様でしょう?」
「けれど、アルフレッド様はご自分の業務を全てセレフィーナ様に押し付けて、ミレイユ様と逢瀬を重ねていたのでしょう?セレフィーナ様の御心を考えると、胸が痛いわ」
「そうね。だから、その寂しさを別の殿方で埋めようとなさっているのかも……」
「え、なにそれ。詳しく教えてよ」
「実は、セレフィーナ様ね……。騎士団長と、副騎士団長を……」
「「「「きゃーーーーーッ!」」」」
扉越しに談笑をしていたメイドたちの声が遠のいていく。
最後の話題はなにを話しているかはミレイユには理解できなかったが、全て、セレフィーナを賞賛する声だった。
あんなに、公の場で人を辱める人間が、虐める人間が、なんでこんなにも慕われているのだろう。
侍女たちにも、分け隔てなく、優しくしてきたつもりなのに、何故、自分ではなく、セレフィーナを……。ミレイユは頭を掻きむしって考えた。
――もしかして、侍女たちの言う通りなら、セレフィーナは自分の間違いを、正そうとしてくれていたのではないだろうか。
あの辛く当たっていた日々を思い返すと、たしかに、筋が通っていた。
理不尽に当たり散らすことは、セレフィーナはしてこなかった。全て、ミレイユ側の行動による暴発だったのだと考えると、敵だったセレフィーナは――。
ミレイユは、一縷の望みをかけて身体を起こす。
彼女と幼馴染で、連絡が取れそうな人物――ルシアンにお願いをして、謝って、これからのことを話そうと決心をした。
ミレイユは両手を組んで頼み込んだ。
「お願いします!私に礼儀作法を教えてください……ッ!」
「はぁ? なによ、いきなり」
不快な感情を隠す気がない嫌味な声音に、ミレイユは胸を締め付けられる思いだった。
逃げ出したいけれど、セレフィーナの気持ちをないがしろにしてしまったのは、自分のせいだと、逃げるわけにはいかない。逃げ出したい気持ちを、理性で押さえつけながら、声を震わせた。
「あれ以来、他の貴族の方や教育係も良い人に巡り合えなくて、頼れる人が、セレフィーナ様しかいないのです!」
「…………」
「最初、なんでセレフィーナ様は、辛く私に当たるんだろうと考えていたんです。最初は、嫉妬なんだろうな、とか、色々考えてました。……でも、外交の場で失敗して、色々な人から話を聞いて、気づいたんです。聡明なあなたが、無意味に、人を虐めるわけじゃないんだって……!」
滲む視界の中で、セレフィーナの姿が映る。
うげ、と言いながら、鳥肌が立っている両腕を摩っている。
ミレイユは、セレフィーナに許しを請うために一歩前に出る。
「私が恥をかかないために、教えてくださっていたんですよね!」
――最後の言葉に、シン、と当たりが静まり返った。
鋭い風の音が、窓を叩く音だけが聞こえる、静寂の中。
セレフィーナは、大きく息を吸って、拳を握った。
「面倒だわ。自分で茨の道を選んだのだから、自分で切り開きなさいな」
「些末なことで王城に呼び出さないで頂戴!」と、最後にルシアンを睨みつけて踵を返す。レオンに肩が当たるが、詫びのひとつもなくヒールの音は遠くなっていく。
我に返ったミレイユは廊下を走って、セレフィーナの後を追った。
「セレフィーナ様ッ!お待ちください!セレフィーナ様ッッッ!」
背中を見送ったルシアンとレオン。ルシアンは呆れながら肩を落とした。
「あれで、激務なはずの王子妃業務を卒なくこなすのだから、性格さえ改めれば、貰い手なんて引く手あまたなのにな――」
「え、セレフィーナ様、今婚約者がいないのですかッ!?」
「身体の関係があるのに、知らなかったのか」
「詮索されるのが好きではない方なので、勇気を出して、聞けなくて……」
レオンは手をもじもじさせて、頬を赤らめる。大男が乙女のような仕草をしていることに、頭が痛くなったルシアンは目頭を押さえながら言った。
「お前は、地位はもちろん、性格も容姿も良いんだからアレじゃなくて、もっと別の、素敵な女性を選べば良いのに」
「嫌です。僕は、セレフィーナ様が良いのです。最悪、結婚できなくても、愛人のままでいさせてくれたら、俺はそれで……」
「お前の趣味は……、お前たちはよくわからん」
お前たちというのは、レオンだけではない。他に彼女との関係を望む男性たち全員を指しているのだろうと、レオンは感じ取る。
レオンが知っている限りでは、部下の副団長と財務大臣補佐、財務大臣――隣国の遊び人王子まで……、彼女の気持ちを狙うのは一人ではないのだと、
それもそうだ。レオン自身、セレフィーナを敬愛している人物の一人で、あわよくば、を狙っているのだから。
「憎まれ役を買ってでてまで、厳しく教育してくれていたのに……。聖女様の気持ちをまったく理解できなかったのですね。ミレイユ様もアルフレッド王子も見る目がないですよ」
レオンはセレフィーナの前であえて口にしなかった裏の通称「聖女」を口にする。
セレフィーナが問題を起こせば、いつも様々な問題やトラブルが浮き彫りとなって解決に導く。侍女長の汚職から連合国の外交問題、隣国との関係改善――国に、人に、大きな影響を及ぼし、利益をもたらし続けた行動を、当事者を含む周囲は高く評価した。
巷では悪役令嬢だなんて呼ばれてはいるが、彼女に助けられた人間はセレフィーナこそ、聖女足り得る存在だと。「聖女」と呼称する者も少なくはないのだ。
ルシアンは、セレフィーナにとって分不相応な呼称に笑顔を引きつらせた。
「――どこが。あいつは聖女でもなんでもない。底意地が悪い、性格最悪な女だぞ」
浪費癖がある、我儘で、口が悪い。好き嫌いがはっきりしていて、嫌いな人間はとことん虐め抜く。悪役令嬢なんて呼ばれた日には、たしかにな、と一人っきりで、自室で笑い転げたほどだ。
それでも、ルシアンは思う。彼女の行動で、救われている人間がいたのは確かだと。
それだけは、認めなければならないが――。
職務に真面目で、純粋で素直なレオンが、彼女の毒牙に掛かり、また仕事が増えるのだと思うと、心の底から彼女の行動を認められなかった。
「宰相補佐も、口が悪い。セレフィーナ様はたしかに悪役令嬢のような振る舞いをされてはいますが、根は誰よりも思いやりのある、心優しい方ですよ」
「……本気で言っているのか?」
レオンは、強く断言した。
「はい。でないと、俺のような剣しか才能のない男、相手にしてくれませんよ」
「――お前も、難儀だな」
「ルシアン様は、セレフィーナ様を幼少期から知っているはずなのに、偏見が過ぎますね」
「…………」
どちらが、とルシアンは心の中で吐き捨て、職務に向かうレオンの背中を見送る。
セレフィーナが今後、また厄介な案件を持ち込まないことを願いながら、自分に割り当てられた執務室に戻っていった。




