木瓜の下
市蔵は、村を離れた。
どの道を選んだかは、覚えていない。
振り返った記憶もない。
足は、前に出ていた。
それだけだった。
山を越えたのか、
谷を下ったのか、
分からない。
水を飲んだ記憶も、
何かを口にした覚えもない。
昼だったのか、
夜だったのか。
ただ、歩いていた。
袖の内で、
草履が動かない。
音も、しない。
頭の中に、
一つの形だけが残っている。
焼け残った線。
重なった輪郭。
木瓜。
ほかのものは、
続かない。
家も、
村も、
声も、
数も。
考えようとして、
やめる。
考えれば、
足が止まる。
止まる理由が、
どこにもない。
日が傾いたのか、
また昇ったのか。
山の影が、
長くなり、
短くなった。
そのどちらかだった。
歩くうちに、
匂いが変わる。
焦げではない。
血でもない。
湿った土と、
汗と、
鉄の匂い。
足が、止まる。
今度は、
意識して。
木立の向こうに、
動くものがある。
人の数。
揃っていない歩調。
声が、飛ぶ。
短く、荒い。
怒鳴り声ではない。
合図だ。
さらに奥で、
何かが崩れる音。
木が裂ける。
土が落ちる。
市蔵は、
一段高い場所に立つ。
見下ろす。
旗がある。
白地に、
焼けも汚れもない布。
その中央に、
見慣れた形。
木瓜。
その下で、
人が倒れている。
動かない者と、
まだ立っている者。
刃を持つ手が、
震えている。
逃げようとして、
逃げきれなかった者。
押し込まれて、
崩れた列。
これは、
襲われる村ではない。
武器を持っていた。
立て籠もっていた。
戦だった。
市蔵は、
そこから目を離さない。
胸の奥で、
何かが沈む。
重く、
鈍い。
草履を、
握る力が強くなる。
木瓜は、
動かない。
だが、
視界から消えない。
ここにある。
それだけが、
はっきりしていた。
木瓜は、動かなかった。
風に揺れても、
形は崩れない。
その下で、
人が倒れていく。
叫びは、短い。
長く続く声は、ない。
刃が当たる音。
木に当たる音。
何かが折れる音。
市蔵は、
それを上から見ている。
胸の奥で、
沈んだものが、動かない。
怒りでも、
恐れでもない。
ただ、
ここにあるという感覚。
木瓜の下に、
人がいる。
そこから上へ、
線が続いている。
上へ。
市蔵は、
初めて考える。
外から見ていても、
何も変わらない。
叫んでも、
届かない。
恨んでも、
近づけない。
ここにいなければ、
上へは行けない。
上に行かなければ、
辿り着けない。
辿り着かなければ、
終わらない。
考えは、
そこで止まる。
それ以上は、
要らなかった。
戦は、
すでに傾いている。
立っている者の数が、
減っている。
逃げる者も、
伏せる者も、
戻らない。
市蔵は、
一段下りる。
草を踏む音が、
自分のものだと分かる。
もう、
隠れてはいない。
戦場の縁だ。
足元に、
倒れている者がいる。
陣笠が、外れている。
槍が、転がっている。
血は、
もう流れていない。
生きていない。
市蔵は、
立ち止まらない。
手を伸ばす。
陣笠を拾う。
軽い。
次に、
槍を取る。
重さは、
考えない。
持てる。
それだけで足りる。
誰かの名を、
確かめない。
顔も、
見ない。
そこにあったから、
取った。
それ以上の意味は、
要らない。
周りを見る。
誰も、
こちらを見ていない。
数は、
数え直されていない。
減った場所が、
そのままになっている。
市蔵は、
一歩進む。
木瓜は、
まだ視界にある。
遠くはない。
近くもない。
だが、
外ではない。
ここに立っていなければ、
届かない。
市蔵は、
槍を持ったまま、
息を整える。
足元に、
音はない。




