朝の刻
天正二年。
丹波の山間に、小さな村がある。
朝の霧が引くころ、村は動き出す。
家々の戸が開き、声が落ち、鍬が鳴る。
どこも同じ刻、同じ順番で。
市蔵は、戸口に立つ。
中の声を待つ。
短いやり取りで、用件は終わる。
村人が声をかけてくる。
短い挨拶で、用件だけを置いていく。
誰も立ち止まらない。
それで足りている。
市蔵が一つ返すと、話は進む。
指示は短く、繰り返さない。
それで村は回っている。
倉の戸が閉まる音を聞き、
市蔵は、次に呼ぶ名を思い浮かべた。
順は、決まっている。
刻限は、守られている。
ここまでは。
家へ戻る。
いとは、すでに動いている。
朝の支度を止めず、振り返らない。
市蔵の足音を聞いて、手元だけを整える。
市之助は、戸の脇に立っている。
声を出さず、父の動きを見ている。
目が合う。
一拍遅れて、背を伸ばした。
市蔵は、
そのまま目を逸らした。
見続ける理由が、なかった。
小夜は、足元にいる。
話の途中で、袖を引く。
意味は分かっていない。
市蔵は、一度だけ腰を落とした。
手を伸ばし、
すぐに引っ込める。
それで十分だった。
いとは、何も言わず、
子どもの草履を揃えて、戸口に置いた。
今日、城へ行く。
年貢の話だと、
言葉にするほどのことでもない。
この村では、そういう日が定期的に来る。
市蔵が支度を終えると、
市之助は、声をかけられるのを待った。
何も言われないまま、
一つうなずいて下がる。
それで伝わる。
いとは、見送りに出ない。
市蔵は、いつも通りに家を出る。
村を抜け、山道を行く。
道は知っている。
何度も通った距離だ。
手綱を緩める。
馬の歩みは、急がせていない。
今日中に戻れば、
話は進む。
城は、遠くからでも分かる。
高く、白い。
門をくぐると、
空気が変わる。
待たされる。
立っている刻が長い。
座らされても、声はかからない。
市蔵は、膝の上で指を組み直した。
ほどけた紐を、結び直す。
視線が、何度か動く。
だが、
こちらを見る者はいない。
日の位置が、少しずつ動く。
名を呼ばれる。
「丹波、波多野市蔵」
声は、淡々としている。
顔は、上がらない。
市蔵は、用意してきた順に話した。
言葉は遮られない。
途中で止められることもない。
問いも、挟まれなかった。
市蔵は、
一度も言い直しをしなかった。
それが、
良いことなのかは分からない。
書付が出る。
朱が置かれる。
乾くのを、待たせない。
拒まれてはいない。
少なくとも、話は聞かれた。
今から戻ると、暗くなる。
今日は泊まれと言われる。
理由は、それだけだ。
一晩遅れても、
支障は、出ない。
城下の役宅に通される。
夜は、静かだ。
寝具は用意されている。
外の音は、城のものだけだ。
考えるほどのことはない。
朝になれば、戻る。
夜が明ける。
再び城へ上がる。
軽く挨拶をする。
顔は、よく見えない。
目が合うこともない。
それで終わる。
門へ向かう。
扉の前で、一度立ち止まり、
そのまま外へ出る。
道に出る。
袖の内の紙に、指が触れる。
折り目は揃っている。
朱の色は、乾いている。
戻る場所があると、
疑う必要すら、なかった。




