★☆☆☆☆
マッチングアプリを始めたのは、別に恋がしたかったからではない。
いや、したくなかったわけでもないのだが、少なくとも「自分から進んで」という感じではなかった。ちょっと前から、公共広告や駅構内のモニターで、同じ文句をやたらと目にするようになったからだ。
「出会いは、社会インフラです」
正気か、と思った。
水道や電気と同列に扱われるほど、我々は干上がっているらしい。政府はどうやら、少子化だの孤独死だのをまとめて解決したいらしく、一定の年齢に達した国民には、マッチングアプリの利用が「推奨」されるようになった。推奨、という言葉は便利だ。強制ではない顔をして、断った後味だけを悪くする。
登録は拍子抜けするほど簡単だった。顔写真、職業、簡単な質問。
質問の中には「あなたは恋愛に向いていると思いますか」というものがあったが、選択肢は「はい」「いいえ」「わからない」の三つしかなかった。「わからない」を選んだ人間を、果たして恋愛市場に放り込んでいいものかと思ったが、考えても仕方がない。僕はそういう人間だ。
そうして、早々に一人目とマッチした。
一人目の彼女と会ったのは、登録から一週間後だった。駅前のチェーン店のカフェ。なんとも無難で、逃げやすい場所である。彼女は時間ぴったりに現れた。白いシャツに控えめな水色のスカート。香水も強くないし、笑顔も自然だ。会話は途切れず、相槌の打ち方も適切で、沈黙が訪れそうになると、さりげなく話題を差し出してくる。正直に言えば、感心していた。ここまで「ちゃんとしている人」は久しぶりに見た。
だが問題は、彼女がカレーを注文した後に起きた。
彼女はスプーンを使わなかったのだ。フォークだけで、器用にルーとライスをまとめ、口へ運んでいく。その瞬間、僕の中で何かが引っかかった。喉に小骨が刺さった、というほど大げさなものではない。ただ、会話の端々で、その映像が何度も再生されていた。
理屈ではどうでもいいことだと分かっている。育ちがどうとか、マナーがどうとか、そういう話ではない。フォークでカレーを食べる人間が、道徳的に劣っているわけでもない。それでも、僕は確信してしまった。この人と同じ家で暮らしていたら、自分の中の何かが歪む。
別れ際、彼女は「楽しかったです」と言った。僕も同じ言葉を返した。嘘ではなかったが、どこか脳裏に霧が立ちこめる気がした。
帰りの電車でアプリを開くと、画面には質問が表示されていた。
『今の人はどうでしたか?』
五つの星が横一列に並んでいる。隅には「※相手に評価は届きません」「※今後のマッチングに影響します」という補足があった。僕は少し唸りながら、その注意書きに背を押されるよう、一番左の星を押した。画面が一瞬暗くなり、『評価を送信しました』という文言の後、次の予定候補が表示された。
その中から二人目を選び、また一週間後に会うこととなった。
二人目は、よく喋る人だった。こちらが口を挟む隙を与えないほど、よく。映画、音楽、学生時代の話、職場の愚痴。話題は次々と移り変わる。僕はうなずき、相槌を打ち、笑うべきところで笑った。会話というより、受信に近い。彼女はコーヒーに砂糖を三本入れた。それも、ブラックが一番好きだと言いながら。
些細なことだ。だが、僕はその「自己認識のズレ」に耐えられなかった。デートの後、聞かれる質問は同じだった。星も同じ配置だった。僕が下した評価もだ。すると画面が一瞬暗くなり、『評価を送信しました』という文言の後、次の予定候補が表示された。
その中から三人目を選び、また一週間後に会うこととなった。
三人目は、少し疲れた顔をしていた。仕事帰りらしく、肩の力が抜けている。僕はその感じが嫌いではなかった。さらには、沈黙があっても、彼女はスマートフォンを見なかったのだ。僕にとっては最高のスタートダッシュであった。
だが、彼女は歩くとき、常に半歩先を行った。待ち合わせ場所でも、店に向かう途中でも。気づけば僕は、少し遅れて小さな背中を追っていた。彼女のそれが無意識だということが、余計に引っかかった。悪意はない。だからこそ、修正されない。
別れた後、僕は少しだけ考えた。それでも、答えは変わらなかった。すると画面が一瞬暗くなり、『評価を送信しました』という文言の後、次の予定候補が表示された。
その中から四人目を選び、また一週間後に会うこととなった。
――――
彼は感じのいい人だった。少なくとも、そう振る舞う努力をしていた。話を遮らず、目を合わせ、相槌も適切。こういう人を「減点しにくい」と呼ぶのだろう。だから、最後まで愛想よく別れた。
それでも、私と決定的に合わない点があった。彼は料理が来るまで、ずっとメニューを閉じなかったのだ。もう選び終えたはずなのに、何度も同じページをめくり直していた。
……本当はどうでもいいことなのだろう。普通の人なら、気にも留めない。
このアプリは国が勧めている。恋愛に向かない人間にも、機会を与えるためだという。向いていないだけで、失格ではない。そう説明された。だから私は今日も、使う資格があると思い込んでいる。
彼と別れた後、画面に例の質問が表示された。
『今の人はどうでしたか?』
五つの星が、静かに並んでいる。私は少しだけ指を止める。
それから――




