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第八話 距離感崩壊事件

 王立魔法学院の裏手、禁忌の知が眠る“錬金実験棟”。

 普段の授業では使われることのないその場所に、ヒロトとエリシアの二人は並んで立っていた。


 昼間だというのに、建物の中は薄暗い。古びた魔導灯が天井に吊るされ、かすかに明滅を繰り返す。その明かりに照らされ、無数の錬金釜やガラス瓶が並ぶ室内は、どこか重苦しい雰囲気を纏っていた。


 ヒロトは、その不気味な空間に圧倒され、無意識に隣のエリシアに寄り添うようにして歩いていた。


 「どうして……またこんな場所に……」


 不安げなヒロトの呟きに、エリシアはあくまで平然と答える。


 「今日は“魔力循環調整実験”。あなたの魔力量は並外れているけど、その流れが不安定なの。これを整えれば、より精密な魔法制御ができるわ」


 そう説明しつつも、エリシアの頬はほんのりと紅潮していた。

 彼女自身、自分が何をしようとしているのかは、よくわかっていた。――言い訳だ。本当は、もっとヒロトと二人で過ごす理由が欲しかっただけ。


 「で、その“実験”って……」


 ヒロトが指差した先には、青白く光るガラス瓶が置かれていた。

 中には瑠璃色に輝く液体がとろりと揺れている。


 「これが“魔力循環調整薬”。二人で服用することで、互いの魔力の流れを感覚的に理解できるようになるわ」


 「二人で……?」


 「そう。お互いの魔力が共鳴し合うことで、より精緻な制御感覚を養う……という理屈よ」


 本当は、未完成品だった。

 薬の調整はまだ甘く、教師陣からは「危険すぎる」と一蹴されたもの。

 だがエリシアにとっては、その“副作用”こそが今、欲しかったものだった。


 「じゃあ……乾杯、ですかね?」


 ヒロトの気軽な言葉に、エリシアの表情がピクリと揺れる。

 こんなに密着するような“共同作業”など、生まれて初めてだ。

 ――違う、自分は冷静に実験を進めるだけ。

 そう言い聞かせながら、彼女は無言で瓶を掲げた。


 二人の唇が瓶の縁に触れ、瑠璃色の液体が喉を滑っていく。


 ――その瞬間。


 「……っ!?なに、これ……」


 全身に電流が走ったような感覚。

 心臓が、耳元で爆音を鳴らしている。

 視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間、ヒロトとエリシアの距離は一気に縮まっていた。


 「ヒ、ヒロト……顔が……近い……っ!」


 エリシアの青い瞳が、至近距離でヒロトを見つめる。

 ほんの数センチ。互いの吐息が頬を撫でるほどの距離。


 「こ、これは……体が勝手に……!」


 ヒロトの動揺した声にエリシアも頷く。

 薬の副作用――“魔力共鳴による空間認識の狂い”が二人に襲いかかっていた。


 「ま、まさか……失敗作だったの……?」


 声が震える。普段の冷静沈着な氷姫の姿はそこにはなかった。


 「え、エリシアさん……これ、どうすれば……」


 「私に聞かないでよ! 私だって……っ!」


 焦りと動揺の中で、ヒロトがバランスを崩した。

 次の瞬間――。


 「きゃっ!?」


 二人は床へ倒れ込み、ヒロトの腕の中にエリシアがすっぽりと収まる形になった。

 銀髪がふわりと広がり、二人の顔がぴたりと重なる。


 「……っ!」


 エリシアの頬が、真っ赤に染まる。

 彼女の鼓動がヒロトの胸元に伝わり、ヒロトもまた、無意識に彼女の腰を支えてしまっていた。


 「エリシアさん、だ、大丈夫ですか……?」


 「だ、大丈夫なわけないでしょ……このバカ……」


 震える声とは裏腹に、エリシアはヒロトから離れようとしなかった。

 本能的に、彼の温もりを求めてしまっている自分に、戸惑いと高鳴りが止まらない。


 (だめ……離れたくない……でも、こんなの、私らしくない……)


 数分後、二人はどうにか薬の効果を解除し、実験棟を後にした。


 「ったく……あなたって、いつもトラブルを引き寄せるのね」


 エリシアは口を尖らせているが、その表情はどこか緩んでいる。

 ヒロトと一緒に過ごす“トラブル”ならば、それも悪くない――そんな想いが胸の内に芽生えていた。


 学院への帰り道、夕陽が二人の影を長く伸ばしている。

 どこか空気が変わったのは、薬のせいだけではなかった。


 「エリシアさん……さっきの、変なこと言ったらごめんなさい」


 「……別に、気にしてないわよ。

 でも……」


 エリシアは一歩だけヒロトに寄り添う。


 「こういう……距離感、嫌いじゃないわ」


 その声はかすかに震えていて、それでも確かに彼女の本音だった。


 ふとした瞬間、ヒロトがエリシアの手に触れる。

 彼女は驚いたように目を見開いたが――次の瞬間、そっと指先を絡めた。


 「……魔力循環の調整よ。ほら、感覚を研ぎ澄ませて」


 それが“言い訳”であることは、二人とも気付いていた。

 けれど、それでも良かった。

 この瞬間だけは、誰にも邪魔されない“二人だけの時間”なのだから。


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