第五話 雨の中
午後の授業が終わり、学院の空に重たげな灰色の雲が立ち込めていた。
「今日は降りそうだな……」
ヒロトが呟いた通り、空気は湿り気を帯び、時折遠くで雷鳴が響いている。
「ヒロト、帰り道は気をつけなさいよ。学院の周りはすぐに冠水するんだから」
エリシアが普段よりも少し柔らかい声で注意する。彼女も空を仰ぎ見て、眉間に皺を寄せていた。
「エリシアさんも一緒に帰りましょうか?」
「べ、別に……私のことは心配しなくてもいいの。雨ぐらい平気よ」
ツンとした態度を取りつつも、エリシアはヒロトの言葉にどこか安心したような表情を浮かべていた。
その予感は的中し、二人が学院を出た瞬間、バシャリと勢いよく雨が降り出した。
「わっ、土砂降りだ!」
「こんなに急に降るなんて……!」
二人は慌てて近くの渡り廊下の屋根下に駆け込んだ。
目の前は白く霞むほどの雨。強い風が吹き付け、時折雨粒が跳ね返って顔に当たる。
「……エリシアさん、傘、持ってます?」
「……持ってないわ」
「僕も……」
二人は顔を見合わせて、気まずそうに笑った。土砂降りの雨音だけが、静かな空間に響いている。
「エリシアさんって……雨、嫌いですか?」
ヒロトが何気なく問いかけた。
「嫌いよ。髪が濡れると広がるし、服も汚れるし……」
「うん、それは分かります。でも、雨って……なんか落ち着くんですよね。僕の世界では、こういう雨の日に家でゴロゴロして本読んだりするのが好きだったなぁ」
エリシアは一瞬驚いた顔をして、ふっと微笑んだ。
「ゴロゴロして、ね。あなたらしいわ」
「エリシアさんも、家でゴロゴロしてた時期とかあるんですか?」
「そんなわけないでしょう。アルクトゥルス家の令嬢が、ゴロゴロなんて……」
言いかけて、エリシアは少し顔を赤らめた。
「……でも、たまにね。家族が誰もいない時間に、こっそりベッドで本を読んで過ごすのが、密かな楽しみだったの」
その言葉にヒロトの胸がぎゅっと締め付けられる。彼女の“普通”がどれほど窮屈なものなのか、少しだけ理解できた気がした。
「エリシアさん、こっち来てください」
ヒロトは急にエリシアの手を引いて、さらに屋根の奥へと連れて行った。
「ちょ、何を……!?」
「ここなら風が当たらないんですよ。さっきからエリシアさん、髪が濡れちゃってたから」
驚いたようにヒロトを見つめるエリシア。しかし、その顔はすぐに赤く染まっていった。
「……ありがとう」
か細く呟いた彼女の声は、雨音にかき消されそうだった。
その時。
ヒロトがカバンの中から取り出したのは、一枚の大きめの布――彼の外套だった。
「これしかないけど、一緒に被ります?」
「……え?」
「さすがにこのまま雨が止むまで待つのも退屈だし、最寄りの馬車停までなら走ればなんとかなるかも」
エリシアは一瞬戸惑った。しかし、ヒロトの差し出すその外套の下で、二人の距離が限りなく近づく未来を想像し、心臓がドクンと跳ねる。
(……いいわけがない。でも……でも……)
「……仕方ないわね。風邪を引かれても困るし」
エリシアはそっぽを向きながら、ヒロトの隣に立った。
「よし、行きますよ!」
ヒロトが外套を二人で被りながら走り出す。狭い空間の中で、二人の肩が何度も触れ合う。
(近い……!近すぎる……!)
エリシアは顔を真っ赤にしながらも、ヒロトのペースに合わせて懸命に走った。
馬車停留所の小さな東屋に駆け込んだ時、二人はすっかり息が上がっていた。
「はー……助かった……!」
「こ、こんなに……走るなんて……」
エリシアは額に浮かぶ汗を拭いながら、横目でヒロトを見た。その姿は、雨に濡れながらもどこか嬉しそうで、まるで子供のように無邪気だった。
「エリシアさん、さっきの……楽しかったですね」
「……楽しかったわけないでしょ。濡れたし……髪もボサボサだし……」
そう言いながらも、エリシアの頬はふんわりと紅潮している。
「でも……」
エリシアは小さな声で呟いた。
「でも……少しだけ、楽しかったかも」
その一言で、ヒロトの顔に満面の笑みが広がった。
「それ、録音しておけば良かったなぁ……氷姫が“楽しかった”なんて、貴重すぎるし」
「言ったわね、田中ヒロト」
エリシアの手がヒロトの腕を軽くつねる。しかし、その表情はどこか幸せそうだった。
馬車が到着するまでの間、二人は東屋の小さなベンチで並んで座った。
「……ヒロト、あんたって本当に不思議な人ね」
「え、なんでです?」
「私、他人とこんな風に並んで座って話すなんて、今までなかったもの」
「じゃあ、これからは僕と一緒に並ぶのが普通になりますね」
「な……っ!?」
ヒロトの言葉に、エリシアは肩を震わせた。心臓の鼓動が耳元で鳴り響いている。
「……本当に、アンタって……ずるいわ」
エリシアは小さく笑った。
馬車が到着し、二人は再び外套を被りながら並んで乗り込んだ。
その道中、ヒロトは何気なくエリシアの手に触れる。
「冷たいですね。濡れちゃったから……」
「……いいわ。温かいから」
エリシアはそのままヒロトの手を握り返す。濡れた手のひんやりとした感触と、心の奥に広がる温かさが、妙に心地良かった。
その日、エリシアは自分の頬がこんなにも熱くなるとは思っていなかった。
(……こんな日が、これからも続けばいいのに)
言葉に出すのはまだ怖いけれど、心の中ではもう“彼”を、特別な存在として認め始めている――そんな一日だった。




