16戦い
誠は、幽霊たちの動きを頭の隅に追いやり、動き出した滝に打たれた。
今までより、確実に楽になっている。
(誠、誠)
颯太が耳元で囁く。
(お前、うんこ穴に入って無いぞ)
(え、朝、したけど?)
(神がリセットしたぜ)
誠は改めて丹田に入った。
滝の衝撃をほとんど感じない。
凄い防御力だ。
「よし、上がれ」
疾風が声をかける。
体を拭いて昼食を取る。
食後の勤行、座禅の後、再び剣舞をする。
「うむ、ずいぶんと成長した」
滞っていた誠の運動神経が水分り神により修正されたようだ。
足の指先から手に持った剣の切っ先まで神経が行き渡った剣舞は、即、合格だった。
「よし、それでは少し早いかと思ったが、試合を行う」
「え、試合ですか?
型しか習ってませんが?」
「全ては型に入っている。
慌てることはない」
慌てる事が無いわけはなかった。
誠は踊りを習っただけなのだ。
だが、板張りの道場に、すぐに剣道の服を着た男が入ってくる。
誠にはどうなっているのかは知らないが、上着は洋服のような筒袖の着物で、下半身は袴を履いた大人の男だ。
誠は、膝までの白い浴衣のようなもので、中は子供用という、布の前後に紐を通した褌一枚だった。
衣服だけでも不利だ。
袴の男は、背丈も百八十近くあり、手足の長いスリムな体型だったが、袖から覗く腕や袴から出た足にはしっかりした筋肉がついていた。
痩せマッチョという奴だ。
袴の男は、子供が相手か、という風な視線を誠に送る。
そういう視線に、反骨心を燃やすタイプでは、誠はない。
むしろ否定的な視線に縮こまる。
だが、疾風はさっさと二人に竹刀を持たせ、向き合わせた。
剣舞のようにしゃがみ、向き合った。
「始め!」
疾風の掛け声と共に、男は上段に構えて打ち込んでくる。
誠は、体を横にして、男の剣を交わした。
そのまま前に出て、男の肩を突いた。
「1本!」
あれ?
勝っちゃった?
袴の男はポカンとしていたが、
「もう一勝負、してもいいか?」
決めるのは普通、勝った誠だと思うが、疾風が、いいだろう、と答えてしまう。
次は男は警戒して、剣を前に出して防御を固める。
誠は、その竹刀を交わして面を打った。
「一本!」
男は啞然としていたが、
「速いな」
と、言い、去っていった。
うむ、と疾風は納得し、
「それでは水分り神の社に向かい、儀式を行う」
急に言い出し、そのまま水も持たずに山に出ていく。
すぐに道も無い傾斜を、木や草をかき分けて進み、岩をよじ登り、谷を走り抜け、尾根を超えると、小さな社があった。
疾風は背中にナップサックのような袋を持って来ていた。
「これらを、その清水で洗え」
社の傍の大岩から、水が流れていた。
それで白磁の、銚子にお猪口を被せたような器や小皿、コップなどを洗う。
洗った銚子に酒を注ぎ、コップに水、皿に塩、米、のし鮑を供え、社を仰ぐ。
お経を唱え、瞑想をしてから、清水を飲む。
「さて、今夜は寝ないでこの社で一晩中お経を読み続ける。
何も口にしない。
水もダメだ。
夜明けを迎えれば、水分り神の力がお前に宿るだろう」
まだ昼飯からあまり経ってないから辛さは分からないが、だいぶ荒業になるようだ。
誠は社の前に座り、ひたすら読経を続けた。
これまでの読経は長くても三十分程度だったから、だんだん疲れも出てくるし、何よりずっと土の上に座っているのが苦しい。
明日の日の出までと言うが、まだまだ昼間も始まったばかりなのだ。
疾風は帰ってしまったのか周囲には居ないが、水分り神は何処かで見ているはずだし、手は抜けない。
何より、尻が直に土に触れるのが嫌だった。
誠は、虫に触れないタイプなのだ。
魚にも触れないことにYouTubeをやっているとき気がついた。
子供は、前は嫌だったが、勇気たちは小さいとは言え五年生なので、まあまあ話も通じる。
だんだん慣れてきていたが……。
虫は嫌だし、特に名も知らぬ得体の知れない昆虫は嫌だった。
だが、動けない。
そう言えばトイレについて何も言っていなかったが、どうなのだろう?
漏らすのか?
お経を止めない、ということなら、そうなるが……。
足の上を、たぶんアリだと思う昆虫が歩き出した。
見るのも嫌なのだが、この虫は、なぜか太ももに歩いていく。
子供用褌は防御力ゼロだ。
気をつけないと、横から出てしまうことも、ままある。
中に入られるのは最悪だったが、まさか殺生も出来ない。
誠はムキになって大きな声を出した。
脅かそう、と思ったのだが、虫は全く意に介さない。
だが、だんだん虫を気にしている場合ではなくなってきた。
どうやら尻の下に小石があったらしく、痛くなってきていた。
動けないのは想像以上に辛かった。
ふと気がつくと、太陽はだいぶ傾いてきていた。
夜になるのか……。
山の中だ。
社の周りの木は手入れがされており、陽光も誠に当たるのだが、周りは深い森だ。
同じ山と言っても、寺で寝るのとは訳が違う。
だんだん暗くなっていく森に、誠は痛みも忘れた。
風は無いが、気温は少しづつ下がっているようだ。
社も森の影に飲み込まれ、ぼんやりとしたシルエットになっていく。
ただ、誠の周りは真っ暗にはならなかった。
星明かりが木立を浮き上がらせていたのだ。
バサリ、と社に何かが舞い降りた。
鳥のようだが、輪郭さえ分からない。
誠は読経を続けながらも、鳥を見上げた。
音はしたのだからいるはずだが、星明かりでは何も見えなかった。
影のようなものか……。
闇を纏って姿を消すのは、まさに影だった。
しかも羽音こそしたが、後は身動ぎをしないのか、まったく音を立てない。
視線も感じないが、見られている気はする。
誠も影を纏えば、暗視能力も上がって鳥が見えるかもしれないが、今は影を使うときじゃなかった。
虫は嫌いだが、鳥は特に好きでも嫌いでもない。
フンをされるのは嫌だが、それにしても洗えば落ちる問題だ。
無神経に寄ってくる虫は嫌いだが、鳥なら逃げることはあっても、変に懐くことは無いだろう。
鳥が気にならなくなると、誠は暗闇が気にならなくなってきた。
少し眠いのかな……。
なんとなく、座禅のように深い呼吸になってくる。
あまり考えることも面倒になってきた。
ただ読経を続ける。
と、誠の肌に、ヒヤリ、と空気が当たった。
風ではない。
湿度を持った空気が、誠の肌に触れたのだ。
不意に、誠は気がついた。
目の前にいるのは鳥じゃない。
野生の鳥が、動かないとは言え、読経を続ける人間の前に、こんなに長時間、止まるハズは無いのだ。
この感触は、誠が影繰りになった夜、誠の影の中から現れた、このまま死ぬか、影繰りになるか、を選択させた何かだ。
「よく気がついたじゃねーか。
なかなか、分からないもんなんだけどよ」
誠は読経を続ける。
「お前にもう一度、聞く時が来た。
お前はこのまま影繰りを続けるのか、それともあの夜に戻って、死骸になるのか、だ」
時間を戻せる、というのか?
誠は、常に殺人者として生きることを悩んできた。
可能なら普通の人間には戻りたかったが……。
この影が言っているのは、死か、継続か、だった。
誠は読経を続けた。
「いいんだな?
これからも、お前は人を殺し続けるんだな」
死ぬのなら、戦って負ければいい。
別に、あの日に戻る意味はなかった。
「少なくとも、人殺しじゃ無くなるんだぜ」
その代わり、大勢が死ぬことになる。
Aやアジアンマフィアが存在しているのだから。
それならば、誠は構わなかった。
「まー、クズほど命は惜しいって訳だ」
誠は読経した。
ふと、光が差した。
まだ山の中に陽は出ていないが、空が微かに明るくなったのだ。
鳥は、羽音を残して飛び立った。
まだ闇が深く、どんな鳥かは判らなかった。
夜の闇からでられない鳥だ。
誠と、同じだった。
と、不意に山頂から朝日が注いだ。
誠の左側の谷に、朝日が登りかけていた。
「お前の覚悟、見せてもらったぞ」
疾風がいつの間にか立っていた。
と、疾風が透き通り、水分り神になった。
「水の加護がお前を強くするだろう」
これだけさせたのだから、もっと技でも貰えるのかと思ったが、水の加護が付く、のだという。
また、ふと疾風に戻り、寺に帰ることになった。
下り道の方が危ないのだが、疾風は速度を緩めない。
三十分ぐらいで寺に戻り、誠は軽く食事をしてから、風呂に入った。
この寺には、洗濯機など無いので、衣服は手洗いだ。
外に干しておいて、誠は浴衣で寝た。
葉山は三十代のJリーガーだった。
去年膝を怪我して以来、元々のプレイができなくなっていた。
手術もリハビリもしたのだが、元に戻った訳ではなかった。
怪我をした瞬間の、激痛や喪失感を恐れて、思い切ったプレイが出来なくなった、とも思うし、自分の思い描く理想のプレイは二十代前半の、最も脂の乗った時期の万能感が忘れられていないのだ、とも考える。
一時は代表入りも確実視されたのだが、タイミングが合わず、ムキになって必死のプレイを続けてきたことが、結果、怪我に繋がった、とも思う。
引退、の文字も見えてきていた。
だが、ユースからJリーグ、と模範的なアスリート人生を送って来た葉山は、サッカー以外に何をするか、明確なイメージは全くなかった。
シャワーを浴び、更衣室を出ると、見知らぬ少年が立っていた。
「葉山さん、もう一度、最高のプレイがしたい?」
ファンだろうか?
しかしロッカールームに少年ファンが入れるはずはなかったが?
「ああ。
無論だよ。
絶対、代表になりたいと思ってた。
世界で戦いたかったよ」
この膝では無理なのは、気がついていた。
「その気があるんなら、この薬を飲んでみてよ」
精力剤のような小瓶だ。
無論、プロである葉山は、ドーピング検査になど引っかかったら代表も何もないのだが……。
引退するぐらいなら……。
不意に、葉山はビンの栓をねじると、一息に、水に近いその薬を飲んだ。
「流石、葉山さんだ。
今日は薬が馴染むまで、ゆっくり寝てから、明日、ピッチに立ってみて」
少年は嬉しそうに言うと、バイバイというように手を振り、去っていった。
葉山は、信じた訳ではなかったが、家に帰ると、そのまま寝た。




