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【6】穏やかな時間



 コンコン、と小気味いいノックの音に子爵夫妻が顔をあげた。

「お義父さま、お義母さま、お茶にしませんか?」

 リリアが顔を覗かせて声をかける。

「ああ、いいね。ちょうど一息入れようと思っていたところだ」

 子爵は読んでいた書類の手を止めた。


「もしかして、リリアが淹れてくれるのか?」

 リリアが嬉しそうにカートを押して入ってくるのを見て、子爵が眼鏡を外しながらのぞき込んだ。

「はい!ようやくマーサから合格をいただいたので、やはり最初はお義父さまとお義母さまに飲んでいただきたいと思って」

「まあ、嬉しいわ。まさか娘にお茶を入れてもらえる日が来るなんて、ねえ」

 穏やかな日差しを背に受けて、母ヘレナは目を細めて微笑んだ。


 マーサに習った通り、温めたポットに湯を入れ、カップに慎重にお茶を注ぐ。

 見ている二人の方が緊張しているのではないかと思う程張り詰めた空間が妙におかしい。


 音を立てずにそうっとカップを置くと、ヘレナはそれを一口飲み、ほうっと息を吐いた。

「美味しいわ」

「習った通りに入れただけですが」

 リリアは隠しきれない嬉しさで頬を赤らめた。ここにきて五年もたつのに自分でお茶を淹れたことが一度もないなんて、甘えた生活を送っていたとしみじみ思い返しながら。

「師匠がいいのよ。マーサのお茶は天下一品だから」

「そうですね。それは否定しません」


 元はアングラード王国の筆頭侍女。お茶を入れる技術も一級品だ。

「侍女としていろいろ教えてもらうはずが、気づけばお茶の講習ばかりになってるんですよ」

 少し不満げに口をすぼめる様子にはまだあどけなさが残る。

「マーサはお茶を入れるのが得意だし、大好きですものね。でも」

 ヘレナはカップを置いた。

「それでいいと思うわ。貴方には教育だけは十分に与えてきたし、どの講師からも太鼓判をもらっているんだもの」

「でも城に勤める者のほとんどが学院を卒業したものばかりだと」


 帝都にある二年生の貴族学院では、成人後に必要な経営や社交、歴史などを学び、帝都に住むほとんどの貴族の子息子女が通うという。

「そうでもないわよ。それに貴方の知識は学院を卒業した人と何ら遜色はないわ。学院を卒業した私が保証するんだもの。自信をもって」

 確かに。リリアはこの五年間を振り返り改めて礼を言った。

「お義父さまとお義母さまには過分なほどの教育を施してくださったこと、本当に感謝しています」

 それは心の底からの想いだった。


 十二歳までの間、アングラードで王女として十分な教育を受けて来たのだから子爵家ではそのままにしておいてもなんら問題はないのに、この両親はリリアの将来のためにと出来る限りの教育をつけてくれた。優秀な講師に学んだあとは視察に連れて実践を見せてくれ、領地経営さえも教えた。元々教育熱心な家系であったらしいこの家には相当数の蔵書もあり、好奇心旺盛なリリアは暇さえあれば読み漁り、両親の期待に応えて様々な知識を身に着けてきた。

 ‥‥まあ雑食気味でどこまでが実践で使えるかは甚だ疑問ではあるが。

 その経験と知識はこれからの人生にきっと役に立つだろう。


「荷造りは順調?」

 ヘレナが尋ねる。

「ええ。持ち込める数には限りがありますから、すでにほとんど終わっています」

「必要なものがあれば何でも言ってね。後から送る方法も教えていただいたのよ」

「ありがとうございます」


 相変わらず若干過保護気味な、穏やかな会話が一段落すると、ヘレナはふう、とため息をついた。

「クリスがね、最近言うことを聞かないらしくて」

「ああ、お義姉さまが愚痴をこぼしてました」

 リリアがこの地を離れることを敏感に感じ取ったのか、はたまたマーサについて教えてもらっている時間が長く、遊べる時間が少ないからか、甥っ子のクリスは最近ぐずりがちになっているらしい。クリスにふりまわされ、疲れた表情でソファに体を預けている義姉の様子を思い出しながら頷いた。

「寂しいのかもしれませんね。後で話してみます」

「お願いね。お昼寝ももうすぐ終わるだろうから」



 リリアは夫妻の部屋を後にすると、一階の日当たりのいい小さな子供部屋を訪ねた。

「リリアねえさま!」

 小さな天使が駆け寄ってくる。

「あら、もうお昼寝から目が覚めたの?」

 リリアは満面の笑みで両手を広げる甥っ子を抱え上げた。


 クリスが言葉を発し始めた頃、どうしても「リリア」と発音できず、「リーねえたま」となってしまったのを、リリアは根気強く「リリア」と呼ばせるよう教えた。

 「リー」というのは本当の娘であるリリア、彼女の愛称だったのだから。彼女がこの家で確かに存在したというたった一つの証を残しておきたかった。


「リリアねえさま、今日はもうお勉強はいいの?」

「ええ終わったわ。だから今日はたっくさん遊びましょう」


 その言葉にクリスがのけぞるほどに喜ぶ。

「わあい!そしたらまずお庭でかくれんぼ!それから絵本を読んでそれから‥‥」

「あらあら大変。全部やりきれるかしら。今日はお天気もいいし、まずはお庭に出て遊びましょうか」

 リリアはクリスの手を取って庭に誘う。


 小さな子供が他にいないこの屋敷で、クリスに次いで若いリリアはいつも遊び相手になっていた。

 しかし帝都に行ってしまえばこうやって遊ぶことももうできなくなる。

 リリアは噛み締めるように、クリスとの時間を過ごした。


「リリア、クリスと遊んでくれていたのか。忙しいだろうに、ありがとう」

「とうさま!」

「お義兄さま!」

 義兄のアルーニが庭に顔を出すと、リリアとクリスは競うように駆け寄った。

「とうさま、抱っこ!」

「はいはい。クリス、リリアを困らせてなかったか?ちゃんといい子にしてたか?」

 一回り以上年の離れた義兄は優しい父親の顔でクリスを抱き上げた。


 しかしリリアを見るその表情は一転心配そうで。


 あまりにも人の好い一家に思わず笑みが零れてしまった。

「リリア、笑っている場合ではないよ。兄として本当に心配しているんだから」

「御心配ありがとうございます。でも私は大丈夫ですから」

「僕も年に三回から四回は帝都に行くから、必ず会いに行くよ」

「嬉しい!では、天候の話などはその時にお伝えしますね」

 アルーニは真剣な顔で頷いた。


 アングラードの地で嵐や洪水などが起きそうなとき、リリアはアルーニの伝手を頼って情報を流してもらっていたのだ。

 王女でいた時のように無邪気に祝福の力を使い、どこでも話すなどということはもう二度としないと心に誓いつつも見ないふりは出来ない彼女の精一杯の献身だった。


 アングラードに情報を流すのは簡単だ。

「今年の夏は暑くて水不足になる」「今年はろうそく祭りの翌週に嵐が来る。刈り入れはそれまでにすませるといい」

 そんな情報も、セリーヌ王女からの伝言だというだけでアングラードの民たちは無条件で信じる。そしてそれはことごとく的中するのだ。

 だからこそ、未だにセリーヌ王女はどこかで生きていると信じられているし、アングラードの民たちのコンテスティ王家への忠誠心が衰えず、帝国の皇族たちの頭を痛めているとの噂が聞こえてくる。



「皇宮から出す手紙は全て検閲されているというからね。何も書いてはいけないよ」

「心得ています」

 アルーニはようやく安心したように微笑んだ。


「そうか、よかった。リリアはいつもずっと先のことを視てくれるからこの領のことは心配いらない。それに、この領地もここ数年ですっかり豊かになった。もうリリアなしでも十分にやっていけるんだよ」

 リリアは嬉しくなって顔をほころばせる。

「少しはお役に立てたのなら嬉しいです。それに、城に上がってもお義兄さまには会えると思うと心強いです」


 その笑顔に思うところがあったのだろう。アルーニは眉を顰めると、クリスを下ろしリリアを手招きした。

「リリア、ちょっとこっちへおいで」


 言われるがままにリリアは体を寄せる。

 アルーニは少し屈むと、リリアの頭に優しく手を置いた。

「リリア、僕にはね、君が生き急いでいるように見えるんだ」


 ‥‥のほほんと話す義兄はいきなり核心をつく。


「今回の件だってそうだ。確かに一介の子爵家としては断ることは難しい。僕たちのために城に上がるんだってことはわかってる。だけど」

「城では孤立無援だ。アングラードの情勢が安定していない今、万一君が危険な存在だと認識されたら、一瞬で消されてしまう。皇族にとっては造作もないことだよ。リリアはそんな場所に行こうとしているのに、なんの躊躇も感じられない」


 リリアは返す言葉が見つからず、黙り込んでしまった。


 決して死に望んでいるわけではない。

 けれど、この優しい家族を守れるのなら、自分の命などどうでも‥‥。

 そんな思いがあることなど、するどい義兄にはあっさりお見通しだったのだろう。


「今のリリアに生きる意義を見出せと言うのが無理な話なのかもしれない。亡くなったご両親の分まで生きろと言うのも酷だろう。でも、私達がリリアを想う気持ちや、亡くなったご家族、君に希望を託した人たちの事を忘れないで欲しい」

 そのまま優しくリリアの頭を撫でる。

「覚えていてね。僕たちはいつでもリリアの幸せを願っているんだよ」


 その言葉にリリアは泣きそうになりながらも、しっかりと頷いた。





お義兄さん、やさしい‥‥。

いい人がたくさん出てくるお話が、好きです。

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