【2】国境
もうちょっとシリアスな感じが続きますね。もうちょっとだけ‥‥。
荷馬車は城下町を抜け、のどかな田園をガタゴトと走り続けた。
帝国軍は真っ直ぐに城を目指したのだろう。村人達や集落に危害はなく、街から逃げてくる人々が行き交う程度であった。
ここまできて張り詰めていたセリーヌの心がようやく少し緩んだ。ずっと張り詰めたまま切れそうだった緊張の糸がほんの少しほぐれたのがわかる。
荷台でうずくまるセリーヌにヨーゼフが御者台から振り返って声をかけた。
「姫様。このまま国境まで向かいます。国境はなだらかな山になっていますから、歩いて越えられます。国を越えたらすぐにドルンという宿が見えるでしょう。そこの馬小屋にいる男にその手紙を渡してください。アルという、儂より十ばかり若い髭の生えた男です」
セリーヌは麻袋を握り締めて神妙に頷いた。
中には干し肉と干し栗に水筒、銀貨に加え、手紙が一通入っている。
祖国を滅ぼした帝国にたった一人乗り込む心細さは言い表すことが出来ないほどだけれど、自分一人を逃がすためにどれだけの人が動いているのか。小さな身ながら痛いほどわかった。それを考えると躊躇している暇はない。
「姫様、暗くなってもしばらく進みます。今日はあの山のふもとで野宿をして、明日はまた日が昇る前に出発します。雨は大丈夫ですよね?」
「ええ。数日はいいお天気が続くわ」
「よかった。荷馬車は揺れますが、我慢してください。道がなだらかなところでは少しでも眠っておいてくださいよ」
「ヨーゼフ、あなたは?」
首を傾けて尋ねる。
セリーヌには出来るだけ眠るよう促したヨーゼフだが、当の本人はこの三日間ほとんど眠っていない。
「儂はいいんですよ。姫様を送ったらいくらでも眠れますから」
そう笑うヨーゼフの眼の下の隈は、日に日に濃くなってきていた。
帝国軍の追手がくるかと怯えたが、途中見かけることも検問もないまま、三日後には国境付近にたどり着いた。
山の向こうに陽がおち、宵闇が辺りを包み始める頃、荷馬車はゆっくりと止まった。
セリーヌの銀の髪を大きな帽子で隠し、男物の平民服に着替えさせた後、ヨーゼフは言い聞かせるようにその腕をとった。
「姫様。儂が送れるのはここまでです。ここから真っ直ぐ西を目指してください。五時間ほど歩けば帝国に入るでしょう。道は一本きりなので必ずたどり着けますが、間違えないでくださいね。ドルンと言う宿です。三軒並んだ宿の、真ん中です」
ああ。
ここからは本当に一人なのだ。
セリーヌは滲み出る涙を堪えることが出来なかった。
「どうしても、行かなきゃダメ?私一人ではむり‥‥」
言うまいと思っていた弱音がこぼれ出る。
幾度も励まし続けてくれたヨーゼフだったが、最後まで国王一家の安否について触れることはなかった。それだけ彼らの生存は絶望的と言うことだろう。
一人で生きていくなんて、セリーヌには想像もつかなかった。
「少しだけ、無礼をお許しください」
ヨーゼフは両手を広げ、セリーヌを優しく抱きしめた。
耳元で低い静かな声が聞こえる。
「姫様、よく聞いてください。儂の娘が嫁いだ村は決して裕福じゃなかった。栄養が足りなくて赤子が育たないことも多かった。それを変えてくれたのは、姫様です。姫様のおかげで孫達は今も全員元気で暮らしています。儂らが今在るのは、姫様のおかげなんです」
穏やかな響きに少しだけ心の平穏を取り戻すと同時に、自分の事ばかり考えていた自分に気づき恥じ入った。彼らだって征服された国で生き残っていかなければならないのだ。
「これからヨーゼフ達はどうなるの?」
「儂らの事なら心配いりません。なに、大丈夫。なんとか生きけます。帝国の奴らだって、王国民を皆殺しにはしないでしょう。儂らの恩人である姫様がどこかで生きていている。その事実だけで、儂らは強くなれます。姫様は儂らの希望、なんです」
一人残される王家の血筋。
たった十二歳の女の子に託すには大きすぎる、国民の希望。
けれど受け取るしかない。
セリーヌはぐっと握りしめた手の甲で涙をぬぐい、顔をあげた。
「ありがとう、ヨーゼフ。私、頑張るね。頑張って、そして、‥‥いつかこの国に戻ってくる。必ず」
無理矢理こしらえた少し歪んだ笑顔を、ヨーゼフは痛々しそうに見つめた。
「ええ。ええ。待っておりますとも。どうか、お元気で」
セリーヌはもう一度涙をぬぐうと、しっかりとした足取りで歩き出した。
数歩進んで、もう一度だけ振り返る。
後ろではヨーゼフが、優しく手を振り続けていた。
小さく微笑んで手を振り返すと、ぐっと顔をあげ、再び歩き始める。
もう振り向くことはない。
セリーヌは一歩一歩踏みしめるように歩き続けた。
国境となっている山はそれほど険しくなく、馬車が通る大きな道路以外にも人が抜けられる細い道はいくらでもある。年若い少女が歩いて越えることが出来るその簡単さに、思わず乾いた笑いが漏れた。
防壁もなく、どこからでも入ってこられる国境。これでは攻め込んでくれと言っているようなものだ。形ばかりの協定に油断し国民は豊かに潤う我が国は、捕食者から見たら格好の獲物だったろう。
とはいえ、戦に乗じた盗賊が出ないとも限らない。
セリーヌは大きな道を避け、人の気配を読み取りながら慎重に歩を進めた。
やがて峠を越え、ひたすら下り続け、夜が明ける頃、たどり着いた街はずれにその宿はあった。
言われた通りに裏口に回り、馬小屋を探す。裏口から中年の女性が出てくるのを見つけ急いで身を隠した。そして馬小屋から人が出てくるのを待った。
しかし目的の馬小屋に人がいる気配はない。セリーヌはそっとその馬小屋に入り、物陰に隠れた。
かたりと音がして、人が入ってきた。馬たちが嬉し気に嘶く。
「よしよし、今日も元気だな。すぐに飼い葉をやるからな」
優し気な男の声を確認し、そっと顔を出した。
髭の男はセリーヌを見ると、目をぱちくりとさせた。
「ひめ‥‥さま?」
その言葉を聞いて、セリーヌはフードを外す。
男はその場に跪いた。
「まさか。本当に来られるとは」
「顔をあげてください。貴方は、アル?」
「はい。国王陛下から、姫様の救出を頼まれています、アルと申します。戦が始まり、もしかしてと思ってはおりましたが、まさかお一人でここまで来られるとは」
「手助けしてくださった方がいるのです」
そういうと、セリーヌは手紙を差し出した。
アルは一読するとすぐにセリーヌに返す。
「ここの女将には話が付いています。一度湯を浴びて埃を落としましょう。その髪色は目立ちすぎますので、女将さんが色粉を用意してくれています。服もこの国のものに変えた方がいいでしょう。俺はその間に出発の準備をしますから」
裏口から引き入れられたセリーヌを一目見た女将は声にならない悲鳴を口元で押さえ、潤んだ目でセリーヌを見つめた。
「まさか‥‥。本当に?よくご無事で‥‥」
「女将さん、時間がありません。急いで準備を」
「ええ…ええ、そうね。急がなければ」
アルの言葉に我に返った女将はセリーヌを浴室に連れていくと素早く湯あみをすませ、優しい指使いで髪を染めていった。
「どうして…」
セリーヌがぽつりとつぶやいた。
女将の手が止まる。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの?隣国の王女を助けたなどと知れたら自分の身も危ないでしょうに」
震えるセリーヌの髪を丁寧に撫でながら優しく語りかけた。
「姫様も見てお分かりのように、アングラード王国とトルメルン帝国は往来も多く、交流も盛んだったのです。アングラードから移り住むもの、トルメルンに嫁ぐ者、そんな人たちがたくさんいました。私だって実はアングラード出身なのですよ」
女将は悪戯っぽく片目を閉じた。
「アングラードに家族がいるものは皆、姫様を慕っております。私達がこうして元気でいられるのは姫様のおかげですから」
その言葉にまた涙がこぼれ出てきた。
この数日何度も何度も考えたこと。もし自分が力を使わなかったら。国を富ませることがなかったら、国が亡びることも城が戦火に覆われることもなかったのでは。自分が、安易に天候を読まなければ‥‥。
でも、そのおかげで生き延びられたという人がいる。助かったという人がいる。
今、自分がここにいることを認めてもらえた気がした。
「さあ姫様。すぐに出発しましょう。うちの買い出し用の馬車を出します。アル夫妻が送ってくれるから安心ですよ。少しでも身体を休めて、眠っていってください。お貴族様の馬車とは違って揺れが激しいので落ち着かないかもしれませんが」
セリーナはにっこり微笑んだ。
「大丈夫です。今ならどこだって眠れそうです。それに、ここに来るまでの荷馬車でも眠ってきましたから」
気丈な声に女将の眉尻も下がる。
「伯爵様の領地までは馬車で十日以上かかります。不自由なことも多いかもしれませんが、我慢してくださいね」
出発前にしっかり食べるようにと温かい朝食を用意してもらい、サンドイッチまで詰めてもらって馬車は出発した。
父さま達と別れてまだ数日しか経っていないのに、帝国にいる自分がまだ信じられない。しかし夜通し歩き続けた疲れに抗うことはできず、セリーヌはあっという間に眠りに落ちた。
やがて、がたごとと穏やかな揺れに目が覚め、辺りを見回す。
馬車は農村部を進んでいるが、その畑はアングラードに比べ元気がなく、どことなく殺風景だった。軍備に力を注いだ分、人々の暮らしは貧しいのだろう。だからこそ、アングラードを手に入れたかったのかもしれない。
「姫様、この先に少し大きい街がありますから。今夜はそこの宿に泊まります」
人気がないことを確認して、御者席から奥さんが声をかけた。夫婦二人して危険な橋を渡ってくれていることに心から感謝する。
「姫様は見たこともないようなボロ宿ですが、我慢してくださいね。部屋はあたしと一緒ですから」
「ありがとうございます。あの、宿代は…」
「ちゃんともらっていますから、心配はいらないですよ」
宿代を受け取っている…。
ヨーゼフと言いアルと言い、どれだけ前から準備がされていたのか。
なのに両親は、自分たちが逃げることは露ほども考えていなかった。セリーヌの身の安全だけが確保されているという事実に、また心が痛んだ。
「今夜はここでゆっくり休んでください。帝都近くでは不安なので宿に泊まらず夜通し走りますから、休める時に休みましょう」
そう言って奥さんはセリーヌに色粉を渡した。
「この帝国でも姫様の髪と目の色は非常に珍しいものです。湯あみの後は必ずこの色粉を使ってくださいね」
セリーヌは神妙な顔で受け取った。
王女と言う身分を隠して生きていくのに、この髪色は危険因子となる。今後どうやって生きていけばいいのか見当もつかない。ずっと色粉を使うわけにもいかないだろうに。なにもわからないまま、ただ人を頼って移動するだけの自分が情けなかった。
先の見えない未来に向かうように、馬車は帝国内を走り続けた。時に宿に泊まり、時に人目を避けて野宿しながら。
敵国、入りました!
セリーヌの運命やいかに!!??