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婚約破棄が流行してしまった学園で貴族令嬢があたふたするお話

「私はこのアクシオーネ嬢と出会ったことで、真実の愛を知った。その愛を貫くため、君との婚約を破棄する!」


 ある日、学園で催された夜会。

 そんな芝居がかったセリフが会場に響き渡った。

 わたし、男爵令嬢エンネージュはその夜会に参加していた。もちろん、そんな演劇みたいなセリフ、はわたしに向けられたものではない。

 

 声のした方に目を向けると、皆の視線の集まる先には、三人の男女がいた。

 立派な洋服に身を包んだ凛々しい青年は、公爵令息クライミラーだ。そのそばに寄り添う淑やかで清楚な少女は、伯爵令嬢アクシオーネ。

 

 そして、今の言葉を浴びせられたのは、伯爵令嬢フェニクシーアだ。

 美しく着飾ったドレスを整った高貴な顔は、その身分にふさわしい豪華さだ。クライミラー様と婚約していたはずだ。まさに公爵令息にふさわしい威厳があった。

 

 三人とも学園でも優秀な生徒であり、誰もが知っている有名人だ。

 そんな生徒たちが婚約破棄の場面を繰り広げるだなんて、思ったこともなかった。

 本当に演劇の一場面のようだった。目の前で起きていることなのに、現実感がない光景だった。

 

 婚約破棄は、小説や演劇ではよく描かれる定番の状況だ。だが、現実においてはそうそう実現なんてしない。貴族の間の婚約は、利害関係に基づく契約だ。当事者の恋愛感情で一方的にそれを破棄するなんて、許されるはずがない。

 

 恋愛は人を愚かにするという。そのことを今まさに目の当たりにした心境だった。

 わたしにも婚約者はいる。だが、まだそうした強い感情をもったことはなかった。

 

 ふと、隣に立つ私の婚約者、ドゥアイソート様を見た。ドゥアイソート様は、整った顔をしているけれど、目を隠すように前髪を伸ばしている。普段、感情を表さないこともあり、何を考えているのかわからないところがあった。

 

 今日もその瞳は静かだった。やはり、騒ぐことのほどではないのだ。わたしはそれこそ演劇でも眺めるような気分で、婚約破棄の一部始終をのんきに眺めていた。

 

 

 

 恋愛感情に基づく婚約破棄など、実現しない。

 その私の考えは覆されてしまった。

 伯爵令嬢フェニクシーアは本当に婚約破棄されてしまった。そして、遠い小国の王族に嫁ぐこととなり、学園を去った。

 そして公爵令息クライミラー様は、伯爵令嬢アクシオーネと正式に婚約してしまった。

 

 まさかあんな無法な振る舞いが実を結ぶなんて思いもしなかった。

 それから一か月の時が過ぎた。


「ねー、聞きました? 一学年上の伯爵令息が、本当に婚約破棄しちゃったそうですわ!」

「え、あれはただの噂だって聞きましたけど……」

「それが本当だったらしいですのよ! 学園の令嬢たちの間では、それが今、一番の話題ですわ!」


 寮の一室。夜のひととき。明日の予習に励んでいると、ルームメイトのユーディーナからそんな噂話を教えてくれた。

 

 彼女は明るい金髪のかわいらしい少女で、交友関係も広く、いつも噂話を教えてくれる。

 一方のわたしはと言えば、暗めの茶色という地味な髪で、交友関係は控えめで、ひたすら勉学に打ち込んでしまっている目立たない令嬢だ。

 

 彼女の教えてくれる噂話は大抵は初耳で、興味深いものだった。しかし今日のそれは、あまり聞きたくない種類のものだった。


 もともと貴族は、本人の意思にそぐわない政略結婚が多い。不満に思っている令息や令嬢も少なくない。

 だから、公爵が婚約破棄をした流れに乗って、婚約の破棄や解消を言い出す生徒が出始めたのだ。


 そんな無茶なこと、通常なら家族から反対をされてすぐに頓挫することだろう。

 だが、今はそれが難しい。

 なぜなら、彼らの婚約破棄に異を唱えることは、公爵令息の婚約破棄を否定することになりかねないからだ。

 公爵と言えば貴族の階級ではほぼ最高位だ。その行いを表立って否定できる貴族は限られる。


 そのことにより、学園では婚約破棄が流行り始めていた。

 信じがたい事態ではあるが、上位者の行った理不尽がまかり通ってしまうのが貴族社会というものなのだ。

 

「あなたもお気をつけなさい。ちゃんと婚約者のことつかまえとかないと、婚約破棄されちゃいますわよ」

「あはは、わたしのところは大丈夫ですよ……」


 わたし、男爵令嬢エンネージュは、伯爵令息ドゥアイソート様という婚約相手がいる。

 わたしの家は経済的に少々苦しい状態にあり、それを援助してもらう形で伯爵令息との婚約が決まった。完全に家の都合による婚約だった。

 

 婚約したと言っても、卒業までは特に何もない。

 同じ学園で過ごすことで、仲を育むよう両親からは言われている。

 

 そうは言っても、ドゥアイソート様との接触は少ない。

 伯爵との婚姻で、家の状況は安定はした。でも、それは一時的な回復であり、また窮状に陥る日が来るかもしれない。そんなことにならないよう、わたしは今、ひたすら勉学に励んでいる。そちらの方で忙しく、他のことに(うつつ)を抜かしている暇はなかった。


 ドゥアイソート様は内向的な方で、こちらに積極的に接触してくることはない。

 先日の夜会のような場では同席するけれど、普段は特にこれといって話すこともない。

 

 ドゥアイソート様とは、たまに学園で見かけたら挨拶をかわすくらいの距離感だった。

 仲が良い悪い以前に、関係が薄い。婚約破棄されるほど嫌われる理由がない。だから大丈夫……。

 

「全然大丈夫じゃありませんでした!」


 そう、わたしとドゥアイソート様は関係が薄い。だからもし、ドゥアイソート様が他の誰かに心を奪われたとき……彼はわたしを、切り捨ててしまうのではないだろうか。

 貴族の婚約は本来なら強固なものだ。しかし、今の異常な状況下において、少々頼りないつながりとなってしまった。


 ドゥアイソート様はそんなことをしない人のはず……いや、確信が持てない。なぜならその人となりについて断言できるほど、彼のことを知らなかった。


 婚約破棄で伯爵家からの援助が打ち切られれたら、わたしの家はどうなってしまうだろう。再び経済的に困窮し、最悪、お家断絶の憂き目に遭うことになる。


「どうしましょうユーディーナ! 婚約破棄されたら大変なことになってしまいます!」

「落ち着きなさいな。相談にのってあげますから」


 ユーディーナにこれまでのドゥアイソート様との間柄について話した。

 

「……うーん、それはあなたの怠慢ですわね。婚約したなら、殿方との関係をきちんと育むのが貴族令嬢の義務というものですわよ」

「勉強に忙しくてそんな暇がなくって……どうしましょう? どうしましょう?」

「だから落ち着きなさいな。ドゥアイソート様は控えめな方で、他の令嬢からはさほど注目されていませんわ」

「それなら安心ですね……?」

「でも、ドゥアイソート様は、顔立ちはとても整ってますからね。内気なところも、『ミステリアスで素敵!』、なんて感じで好意的に受け取られ、一部には熱狂的なファンがいるという噂もありますわ」

「やっぱりピンチなんですね!」

「そうですね。この状況はよくありません。あなたは努力しなければなりません」

「わかりました。ええ、わかりました。努力するのは得意です!」

「その意気ですわ! 今までの遅れを取り戻すくらい、努力なさい!」


 そして、婚約破棄を回避するべく、ユウディーナと二人で作戦を練った。




 次の日。午前の授業が終わり、昼休みに入ると、わたしは迅速にドゥアイソート様のクラスへ向かった。そして昼食に向かうドゥアイソート様を見つけた。

 

「ドゥアイソート様!」

「どうしたんだい、エンネージュ嬢?」

「お昼をご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」

「どうしたんだい、急に……?」


 訝し気に首をひねるドゥアイソート様。当然だ。彼にこんな申し出をするのは初めてだった。


「わたし、婚約者としてなまけ過ぎました! 怠惰なのはいけないことです! そこで、まずは昼休みにドゥアイソート様と過ごしたいと思うのです!」

「え、ええっ!? う、うん。そういうことなら……わかったよ」


 ユーディーナから授かった作戦は「二人で過ごす時間を増やすこと」だった。

 ドゥアイソート様は内気な方だ。焦って急に距離を詰めようとすると、引いてしまってかえって距離が離れることになるかもしれない。

 だから、まずは昼食を一緒に摂る。そこから始めることにしたのだ。


 声をかけるにあたっては、とにかく真っ正直に押し切ることにした。

 わたしは暇さえあれば勉強しているような令嬢だ。真面目な態度はいつものこと。その調子で言い切ると、ドゥアイソート様も不審に思うことなく納得してくれたようだった。

 

 料理人からランチを受け取り、ドゥアイソート様と向かい合わせで学食の席に着く。


「いただきます」

「いただきます」


 二人して食事を始める。周囲の喧騒の中、お互いの食器の音がやけに耳に響いた。


 ……会話が始まらない。

 

 ドゥアイソート様は内気な方なので、滅多に自分から話しかけてくることはない。わたしはわたしで、ひたすら勉強重視の学生生活を送っていたので、こういうときに何を話せばいいのかわからない。

 

 そこでユーディーナからのアドバイスを思い出した。会話と言うものは、まず共通の日常的な話題から入るのがコツらしい。

 そこで、コップに入った牛乳が目についた。

 

「そう言えばご存じですか? この学食の乳製品は、全てミルターク農場から仕入れたものなのですよ」

「へえ、そうなのか」

「ミルターク農場は『豊かな食が心を豊かにする』というスローガンを掲げてまして、それに感銘を受けた学園の初代学長が契約を結んだとのことです」

「そんな昔から関係してたのか……」


 よし、ドゥアイソート様はこの話題に興味を持ってくれたようだ。

 普段から勉強しているわたしにとって、初代学長とミルターク農場の関係など当たり前に知っていることだった。

 でも、ドゥアイソート様はご存じなかったようだ。ユーディーナも言っていた。

 

「あなたの異常な知識量をいい感じで小出しにすれば、『おもしれー女』として殿方の興味を引けますわ! でも、お気をつけあそばせ! 知識を示しすぎると『やべー女』としてドン引きされますわ!」


 『おもしれー女』とは貴族らしからぬ表現だったが、言わんとしていることはわかった。

 思えば出会ったばかりの頃、あれこれ語りすぎてユーディーナに引かれてしまったことがあった。あの時のわたしは確かに『やべー女』だった。同じ失敗を繰り返してはならない。

 

 ミルターク農場についてはまだまだ語れる。でもさすがに、品目別の年間生産量や農作物の価格変動について話したら引かれてしまうかもしれない。

 そこで更なる共通の話題に繋げることにした。

 

「ミルターク農場は農作物の生産・加工に積極的に魔法を取り入れています。この学園を卒業して、ミルターク農場で研究を続ける人も少なくないそうです」

「農場で使う魔法か……少しだけ聞いたことがあるけど、実際どんなことをやっているのだろう?」

「例えばチーズの加工ですね。チーズの加工の工程では加熱と冷却が必要になります。これを魔法で行うことで、通常の手法より短期間かつ高品質で生産する研究が進んでいるとのことです」

「先日の授業でやった火魔法では、チーズの加工なんてできるとは思えなかったな……」

「授業でやったのは一般的な攻撃魔法の手法ですからね。生産においては、攻撃魔法のような瞬間的で爆発的な熱量より、持続する安定した熱量が必要となります。究極的には火をおこすのではなく熱量だけを発生させることが目的です。そのためには術構築時の魔力の圧縮率の調整と、効果範囲の厳密な設定が必要で……」


 食事の話から、うまい具合に学園の授業の話に繋げることができた。ドゥアイソート様も興味を持ってくれたようで、質問してきてくれる。

 こうした感じで、充実した昼食の時間を過ごすことができた。

 



「それで、ドゥアイソート様とはどうですの?」


 ドゥアイソート様と昼食をともにするようになってから一か月ほど過ぎた。

 夜。寮の一室。

 わたしが明日に向けて最後の軽めの予習をしていると、寝間着に着替えてベッドに腰掛けたユーディーナから、そう問いかけられた。

 

「あなたにもいつも話してるように、昼食時はとても楽しく過ごせていますよ」

「食堂で何度か見かけましたが、いつも会話が弾んでいるようですわね。それで、お二人の関係はどうなりましたの? 教えてくださいまし!」

「関係……そうですね。あえて言うなら、教師と生徒……と言ったところでしょうか」

「教師と生徒、ですの?」

「ドゥアイソート様は最近授業が楽しくなったとおっしゃっていて、成績も上がったとのことです。それを聞いて、わたしも誇らしい気持ちになりました。これが教職に就く人たちの喜びというものでしょうか?」

「……あなたたち、いつもどんなお話していますの?」


 これまでのドゥアイソート様とのやりとりを簡単に話した。

 食堂の料理から始めて学校の授業に関する話に繋げるのが基本となっていた。

 先日、おいしいアイスクリームを5秒で生成する氷魔法の精密調整技法に関する話が好評だったと話したところで、ユーディーナからストップがかかった。


「……待ってください。確かに共通の話題を最初にするべきと言いましたわ。食事に関する豆知識はいいでしょう。それで授業の話につなげるのも悪くありません。ですが、それらはあくまで会話のきっかけでしかありません! それだけで話が終わってどうしますの!?」

「でもその話だけで昼休みは終わってしまいます。むしろ時間が足りないくらいです」

「そうではなくって! 話の主題はあくまで婚約者として関係を進めることでしょう? 会話のきっかけだけで話が終わってどうしますの!? それが一か月も継続しているなんて、呆れるを通り越してむしろちょっと怖いですわ!」

「いやー、ドゥアイソート様は聞き上手なんですよ。こちらの話は黙ってきちんと聞いてくれて、それでいて要所ではいい質問をしてくださるんです。話していて楽しいんですよ」


 普段、わたしは自分の家が再び経済的に苦しくならないよう、勉強に励み知識を詰め込んでいる。それを披露する機会はなかなかない。

 ドゥアイソート様との会話ではその知識を示せる。彼も興味を持って聞いてくれる。とても楽しい。彼とのやりとりを思い出すだけでなんだか顔が緩んでしまう。

 

 そんなわたしを見て、ユーディーナはやれやれと肩をすくめた。


「……まあいいですわ。仲良くなれたのなら、それはそれでいいことなのでしょう。それで、男女の仲の進展はありまして?」

「進展……と言いますと?」

「例えば、手を握られたりとか、抱きしめられたりとか、そういう触れ合いの機会も少しは増えたのですか?」


 改めて振り返ってみる。

 楽しい会話をしながら、向かい合っての昼ごはん。言葉で触れ合うのみで、物理的な接触はなかった。

「……指一本触れていませんね」

「なるほど。ドゥアイソート様は奥手そうですものね。学園内ではそういうことをしない方なのかもしれません。それでは、週末にデートに誘われたりはしませんの?」

「話題に出たことすらありませんね」

「……そもそも昼休み以外にお会いする機会はありませんの?」

「言われてみればないですね」


 ユーディーナは深々とため息を吐いた。

 なんだか不安になってきた。何かまずい状況なのだろうか。


「エンネージュさんに残念なお知らせがあります」

「お、お知らせっ?」

「あなたは異性として認識されていない可能性があります」

「え、そんなことは……」


 思い出されるのはドゥアイソート様と過ごす昼食の時間。料理に授業に魔法の話。色気はゼロ。魔法へのロマンはたっぷりあったけれど、男女間のロマンチックは皆無だった。

 

「た、確かに世間のカップルのような浮ついた話はしていません。でも、価値のある時間を過ごしていますし、仲良く会話できてますし……」

「冷静に考えてくださいまし。年頃の男女二人が毎日食堂で仲睦まじく語り合う。それなのに、その先がない。おかしいと思いません?」

「そう言われると……なんだか不自然な状態に思えてきました……」

「あなたが異性として意識されていないのなら、別に不思議ではないのです。先ほどあなたもおっしゃったように、『教師と生徒』。ドゥアイソート様にとっては、そんな関係なのかもしれません」


 わたしの髪は暗めの茶色で、地味だ。顔立ちも、特に悪いわけではないが、普段クラスで目にするきらびやかな貴族令嬢たちと比べると、とても勝てる気がしない。

 勉強にとにかく励んでいる。他のことはどうでもいいとさえ思っていた。

 

 でも。

 婚約者に女の子として見られていない。

 そう思うと、胸が痛んだ。気持ちが沈んだ。

 自分が色恋沙汰でこんな風にショックをうけるとは思わなかった。


 ユーディーナは、そんなわたしの肩に、そっとやさしく手を置いた。


「……ごめんなさい。少し言いすぎましたわ。でも、あなたの目的は婚約破棄を回避すること。お昼に仲良くお話しできているだけで、満足してはいけないのですわ。もう少しだけ、がんばりなさいな」

「でも……どうすればいいんでしょう? わたしには女の子らしい話題をうまく話せる気がしません……」


 女の子らしい会話と言うと、ドレスやアクセサリの流行とかを話せばいいのかもしれない。

 わたしは知識をためこむことが好きだ。そうした情報についても、調べれば覚えることはできるだろう。

 でも、それをかわいらしく話せる自分がまったくイメージできなかった。たぶん、魔法について語るのとは、まったく別な技術が必要となるのだろう。

 

「そうですわね……なら、わたしがとっておきの『おまじない』を教えてさしあげますわ」

「『おまじない』……ですか?」


 わたしは思わず怪訝な顔をしてユーディーナのこと見てしまう。

 『おまじない』というのは、専門的に言えば「魔力を使用しない民間伝承の呪術儀式」だ。

 砕けて言えば、子供のおままごとみたいなものだ。

 高度に魔法の発達したこの世界では、時代遅れの迷信に過ぎない。


 魔力のない庶民の間で流行っているのはわからないでもない。だが、魔力を持ち、魔法を学んでいる貴族令嬢の間でも意外と広まっているのが不思議で仕方ない。

 『おまじない』とは、わたしにとって胡散臭くて得体のしれないものだった。

 

「あなたが『おまじない』を嫌っているのは知っていますわ。でも、『おまじない』にはきちんと効果はありますのよ」

「効果がある? 『おまじない』に、ですか?」

「あなたにもわかるように言いますと、『おまじない』というのは……自己暗示ですのよ」

「自己暗示?」

「そう。願いを決めて、そのために定められた手順を踏んで儀式を行う。その儀式自体には意味がなくとも、『儀式を行ったこと』に意味がありますの。歪つとは言え、願いを形にするために一歩を踏み出すことになる。それは立派な自己暗示。その結果、普段の行動にも影響がでることになりますの。それで『願いが叶う確率が上がる』という仕組みですわ」

「つまり……『お金が儲かる』という『おまじない』をすると、そのことが印象に残って、普段からお金が儲かるように行動するようになる、ということですか」

「さすが理解が早いですわね。その通りです。私たちが魔法を使う時、イメージを固めてから魔力を注いで儀式を行います。『おまじない』はその逆。『イメージを固めるために儀式をする』のですわ」


 ユーディーナの言うことは、それなりに筋が通っているように思えた。

 『おまじない』を毛嫌いしていたので、その手の本は読むことさえしなかった。あまり知らない分野の理論に対し、知識欲がうずいた。

 

「とにかく! いまのあなたに必要なのは、意識を変える事ですわ! そのための『おまじない』! 騙されたと思って、やってごらんなさい!」


 そこまで言われるなら試してみてもいいかもしれない。

 そう思い、まずはユーディーナの『おまじない』の手順を聞いてみることにした。

 

 

 

 翌日の午後。

 わたしは保健室に訪れていた。

 まだ放課後ではない。身体の具合が悪いと言って授業を抜け出してきたのだ。勉強好きのわたしにとって、授業中にウソをついて教室を抜け出すというのは心苦しいものがあった。


 普段まじめに授業を受けているおかげか、講師はわたしのウソを疑いもしなかった。保健室の治癒魔導士も同様だ。簡単な問診だけで、すんなりベッドで寝かせてくれた。

 保健室のベッドは、カーテンで仕切られて周りから見られることはない。治癒魔導士が去ったのを見計らい、わたしは『おまじない』を開始した。

 

 制服の上着は既に脱いで、近くのハンガーにかけられている。わたしの上半身を覆うのはシャツ一枚。このシャツのボタンを上から三つまで外して、ちょっとはだけさせる。下着が少し見えてしまうのがなんとも落ち着かない。

 そしてベッドに横たわり、掛け布団は下半身だけを覆うようにかける。上半身はさらしたままにする。

 

 ユーディーナによると、衣服をはだけることによって開放的な気分になり、恋愛への行動力が高まる自己暗示になるとのことだった。

 手順を聞いたときはなるほど、と思ったものだけど、こうしてやってみると……ただだらしないだけのような気がする。

 

 目を閉じると、教室からの喧騒が遠く聞こえる。普段は授業を受けている時間に、こうして仮病まで使って保健室のベッドを使うのは、日常から離れた場所にいるようで、不思議な気分になった。

 子供のころから寝相はいい方だったから、こんな寝乱れた状態も初めてだ。いつもとちがう感覚。なるほど、これは自己暗示として有効なのかもしれない。

 

 だんだんと眠くなってきた。掛け布団をきちんとかけずに眠ると、風邪をひいてしまうかもしれない。でも夕方にはユーディーナが迎えに来てくれることになっている。その程度の時間なら、眠ってしまっても風邪は引かないだろう。

 うつらうつらしながら、そんな益体ないことを考えていた。

 

「こちらにエンネージュが来ているというのは本当ですか?」


 ……なんだか、知っている声がする。

 やや低めの、男の人の声。昼休みでもないのにこの声を聴くのは、なんだか違和感があった。

 まさか、保健室で寝ているときにドゥアイソート様の声を聴くなんて思わなかった。

 

 ……ドゥアイソート様の声!?

 

 半分眠りかけていた意識が一気に覚めた。

 

「あら、あなたは確か……」

「はい、エンネージュの婚約者のドゥアイソートです。彼女が体調が悪くなって、ここに来たと聞いて……」

「はい、エンネージュさんはあちらのベッドで眠っていますよ。彼女は勉強熱心ですから、どうも疲れが溜まっていたようです。それ以外には異常は無いようなので、しばらく寝ていれば回復するはずです」

「ああ、それはよかった……」

 

 なんでドゥアイソート様が!?

 いや、婚約者が保健室で寝込んでるともなれば当たり前か。

 本当は体調なんて悪くないのに。『おまじない』のために心配をかけてしまった。罪悪感が押し寄せてくる。

 

「あらいけない。わたし、ちょっと急ぎの用事がありました。しばらく部屋を空けます」

「え? あの、治癒魔導士さん!?」

「それじゃ、失礼します~」


 引き戸が開き、閉じる音。ぱたぱたと遠ざかる足音。

 治癒魔導士は本当に部屋から出て行ってしまったらしい。

 

 おかしい。変だ。いくら許嫁だからと言って、女生徒が一人寝かされているところに、訪れた男子生徒を残して治癒魔導士がいなくなったりするものだろうか。

 

 ベッドに寝ているわたし。

 残されたドゥアイソート様。

 放課後の、他に誰もいない保健室。

 ものすごく作為的なものを感じる。

 

 そのとき、ユーディーナの言葉が脳裏によみがえった。

 

「とにかく! いまのあなたに必要なのは、意識を変える事ですわ! そのための『おまじない』! 騙されたと思って、やってごらんなさい!」


 騙されたと思って、やってごらんなさい。

 騙されたと思って。

 騙された。

 

 ユ、ユーディーナ! あの令嬢! わたしのことを騙したのですねっ!?

 

 心の中で叫んでしまった。

 この不自然過ぎる状況。どう考えてもユーディーナの仕組んだことだ。

 まずベッドで寝ているわたしはユーディーナの『おまじない』で言われたがためだ。

 そして訪れたドゥアイソート様は、きっとユーディーナから、保健室でわたしが寝込んでいると聞いてきたに違いない。

 そしてあっさり職務を放棄して立ち去った治癒魔導士も、おそらくはユーディーナの手引きだ。あの令嬢はそのくらいの工作はやってのける。

 

 ユーディーナは親友だ。わたしを害するような騙しなんてするはずはない。

 それなのにこの状況。もしドゥアイソート様とわたしが間違いを起こしたらどうするつもりなのだろう。

 

 間違いが起きたら……それはそれでいいことなのでは?

 間違いが起きて既成事実ができれば、そうたやすくは婚約破棄できないはずだ。自分が傷物にした令嬢を捨てて婚約破棄する貴族など、誰の支持を得らえるだろう。

 

 でもここで間違いを起こしてしまっていいのだろうか。

 乙女の貞操と言うものはこんな形で捨ててしまって許されるのか。わたしはわたしを許せるのか。ドゥアイソート様のことを許せるのだろうか。

 そもそもそんなこと、わたしは受け入れられるのだろうか。

 

 それよりまず考えるべきことがあった。

 今のわたしの格好ときたら、下着が見えるほどにシャツのボタンをはずし、掛け布団をはだけた、あられもない姿なのだ。まずはこれをどうにかすべきなのではないだろうか。

 いやでも、既成事実を作るのならこの姿の方がいい。いいのかな? 本当に?

 ああ、わたしはいったい何を考えているのだろう。

 

 その時、ベッドそばのカーテンが開かれる音がした。

 ドゥアイソート様がわたしの様子を見に来たのだ。

 乱れに乱れていた思考が、その瞬間止まった。

 

「エンネージュ?」


 ドゥアイソート様の呼びかけに、しかし私は答えない。

 わたしがとっさに選んだ行動は、「寝たフリ」だった。

 

 ドゥアイソート様に声をかけ、入ってくるのを制止することはできたはずだ。

 逃げることもできた。そこまでしなくても、掛け布団を引き寄せて、ひとまず体裁を保つこともできたはずだ。

 

 しかし混乱のただなかにあったわたしは、「寝たフリ」という、最も安易で愚かな選択をしてしまったのだ。


 見られてしまっている! わたしのだらしない寝姿が! ドゥアイソート様に!

 恥ずかしくてたまらない。この世にこれほど羞恥があるなんて知らなかった。

 

 羞恥に震えていると、そっとやさしい感覚が上半身を包んだ。

 どうやら、掛け布団をかけてもらったらしい。

 そして、ベッドのわきに椅子が引き寄せられ、その上に誰かが座る音が続いた。

 

 あられもないわたしの寝姿に、起こさないようそっと掛け布団をかけてくれた。そして、ベッドわきの椅子に座って看病してくれるらしい。

 どうやらドゥアイソート様は、紳士だったようだ。


 そのことを理解した瞬間。

 わたしはムクリと起き上がった。

 驚きに目を見開くドゥアイソート様に向かって、掛け布団をかき抱きながら、問いかけた。

 

「どうして手を出さないのですか……?」

「エ、エンネージュ……!?」


 わたしの問いかけに答えようとして、ドゥアイソート様は絶句した。

 ぽたぽたと、掛け布団に零れ落ちるものがあった。

 それは掛け布団の上ではじけて、濡れた。


 これは、涙だ。

 ああ、そうか。わたしは泣いているのだ。


 泣いていることを自覚したら、何か心の中にあった何かが崩れた。

 止まれなくなった。


「ど、どうして手を出してくださらないのですか……わ、わたしは、そんなに魅力が無いのですかっ……!?」


 涙と共に、言葉が吐き出された。

 

「や、やっぱりそうなんですね……わたしみたいに、魅力のない女は、愛してもらえないのですね……婚約破棄されて、捨てられてしまうのですね……!」

 

 後から後から不安が口からこぼれてしまった。

 止められなかった。そんな制止ができないくらい、悲しくてたまらなかった。

 

 ドゥアイソート様に異性として意識されていない。そんなことはわかっていたはずだった。

 

 暗めな茶色の髪。大してきれいでもない顔立ち。口を開けば勉強のことばかり。そんな面白みのない女がちょっと肌を見せた程度で、男性の気を引けるわけがない。

 頭ではわかっていた。それなのに、事実として目の前に示されると、悲しくて仕方がなかった。


 頭の中はぐちゃぐちゃで、顔も涙でぐちゃぐちゃになって、わけがわからなくなってしまった。

 ああ、これではますます嫌われてしまう。もうなにもかもおしまいだ。


「エンネージュ!」


 ドゥアイソート様を一声叫んだ。


 そして、わたしは……ぎゅっと抱きしめられた。


 ドゥアイソート様は線が細く、控えめな男性だった。それなのに、思ったより力が強かった。華奢に見えて、体つきはがっしりしていた。

 男の人なのだと意識すると、心臓が早鐘を打ち始めた。

 今、わたしは、男の人に抱きしめられている。

 なんで。どうして。

 

「君は……学園で婚約破棄の噂が広まって、不安になっていたんだね。僕は、君との会話を楽しむばかりで、君の不安に気づいてあげられなかった。すまなかった……」


 なぜ、この人は謝っているのだろう。

 バカなことをして、一方的に文句を言ったのはわたし。

 どう考えたって悪いのはわたしなのに。


「心配しないで欲しい。僕は君のことだ好きだ。好きなんだ。だから婚約破棄なんて、絶対にしない」


 今、この人は何を言ったのだろう。

 そのことを理解する前に、ドゥアイソート様は動いた。

 

 額に、一瞬。

 熱く、濡れた、やわらかな感触があった。


 なにが起きたのかわからないまま、ドゥアイソート様はそっとわたしから離れた。

 額がひどく熱かった。さっき触れた何かの熱が、ずっと残っているみたいに、熱くて、熱くて、溶けてしまいそうに思えた。

 

「すまない。今日はここまで。僕もいろいろ限界なんだ。またあらためて、きちんと話をする!」


 そう言って、ドゥアイソート様は去っていった。

 

 しばらくわたしは動けなかった。

 ただ、経験のないわたしでも、じっくり考えたらわかった。

 ドゥアイソート様は、したのだ。わたしの額に。

 

「キスを……」


 そうつぶやいて、そっと額を撫でた。

 額ばかりか、首から上が全部、すごく熱くなった。クラクラした。

 わたしはそのまま気を失った。

 

 次に私が目を覚ましたのは、夕方になって心配したユーディーナが迎えに来たときだった。

 それまでずっと、意識を失っていたらしかった。


 

 

 翌日の放課後。

 学園のテラスの席で、わたしとドゥアイソート様は向かい合って座っていた。

 今日は授業がなんにも頭に入ってこなかった。昼に食堂にも行く気になれず、購買で買ったパンを昼食にした。

 放課後になって、ドゥアイソート様に呼び止められ、二人で話すことになった。

 

 屋外に設けられた広いテラス。各テーブルは程よく距離が空けられている。

 大声で話せば隣の席に聞こえてしまうが、普通に話す分には聞こえない。二人きりで話せるが、人目はある。そういう場所だ。

 本来は人のいない場所で話すべきことだと思ったが……昨日の今日で、人目のない場所で話す勇気は湧かなかった。

 

「昨日は急にあんなことをしてしまって……すまなかった!」


 開口一番、ドゥアイソート様は深々と頭を下げて謝罪してきた。

 

「あ、頭を上げてください! 悪いのはわたしなのですから!」

「君は何も間違ったことをしていないじゃないか。すべての非は僕にある!」

「そうじゃないんです……そうじゃ……」


 観念して、わたしはこれまでのことを語った。

 婚約破棄が学園に広まって、不安になったこと。

 婚約破棄を阻止するため、昼食を一緒に摂るようになったこと。

 友人の計略によって保健室であんなことになったこと。

 

 ドゥアイソート様は真摯に謝ってくれた。

 それに応えるべく、わたしの方もなるべく脚色せずに事情を伝えた。

 でも……例の『おまじない』の件についてはぼかした。さすがに肌をさらして殿方を待ち構えていたなんて言えるはずがなかった。

 

 ドゥアイソート様はわたしの言うことを、いつも以上に真剣に聞いてくれた。


「……やはり婚約破棄のことを不安に思っていたのか。でも心配しないでほしい。僕は君のことが大好きだ。婚約破棄なんて決してしないと誓う」


 どうしよう。

 あの控えめだったドゥアイソート様がグイグイ来る。

 この人にこんな一面があるだなんて知らなかった。

 でもそれは、嫌なものじゃなかった。好ましくさえ思える。そう感じている自分が、なんだか不思議だった。


「そ、そんな風に言ってもらえるなんて、一か月努力した甲斐がありましたね……」

 

 気恥ずかしくて、ごまかすみたいにそんなことを言いながら紅茶を一口含む。

 

「もちろんこの一か月はとても楽しかった。でも最初から心配することはなかったんだ。だって、君に惹かれるようになったのは、初めて出会った時からなのだから」


 思わず紅茶を吹きそうになってしまった。

 ドゥアイソート様と初めて出会ったのは、婚約を結んだときだ。

 つまり、彼はその時、わたしに一目ぼれしたということになる……?


「なんでですか? わたしなんかのどこが良かったんですか?」


 思わず素で問い返してしまった。

 わたしは暗めな茶色の髪の、ぱっとしない令嬢だ。わたしに一目ぼれする人がいるなんて、想像もつかなかった。


「君には申し訳ないけど、僕は最初、婚約には後ろ向きだった。家の都合で顔も知らない誰かと結婚させられるなんて嫌だった。でも家に逆らう勇気も無くて、言われるがままに婚約の場に赴いたんだ……」

「それは……わたしも似たようなものですよ。家の都合です」

「違う、違うんだ。初めて出会った君は、物おじせず堂々と僕と父に名を告げた。家のために覚悟をしているのだと、伝わってきた。君は誰よりも立派な貴族の令嬢だ。その姿が、僕には何より美しく思えたんだよ……」


 そう言われて、婚約が決まった時の気持ちを思い出した。

 家の財務状況が悪いことは知っていた。その状況をなんとかするため、勉学に励んできた。でも、それが実を結ぶのは何年も先になる。だから、伯爵令息と婚約することで援助してもらうことは仕方のないことだった。

 

 わたしは確かに覚悟をしていた。

 それは打算だ。人に好まれるものではない。貴族にとっては珍しいことですらない。

 

「そんな、あんなの貴族なら誰だってできることです。そんな大げさに……」

「やめてくれ」

「え?」

「あの時の君の美しさは、誰にも否定させない。君自身であってもそんなことは言わせたくない。誰がなんと言おうと、君自身が認めなくても……僕にとって、あのときの君は、世界で一番美しい貴族令嬢なんだ」


 いつもは前髪で隠れているドゥアイソート様の瞳が見えた。

 澄んだ瞳だった。まっすぐでひたむきな顔だった。

 心臓が、どくん、と、大きく鼓動を打った。

 初めて知った。何かを守るために、まっすぐに前を見る人は、こんなにも素敵に見えるのだ。

 この人は、初めて出会った時、わたしのことがこんなふうに見えていたのだろうか。

 

「し、失礼しました。ドゥアイソート様の想いを否定するような発言は、すべきではありませんでした」

「僕こそすまない。少しムキになりすぎた」


 そうして、二人して黙ってしまう。

 会話が途切れて、少し冷静になると、とても恥ずかしい気持ちになってきた。

 勢いの任せてお互いにいろいろと恥ずかしいことを言ってしまった気がする。

 心臓の音がうるさすぎて、ちっとも考えがまとまらない。

 

 でも一つ、どうしても不思議に思えることがあって、気づけば口を開いていた。

 

「わたしに最初から、その……好意を持ってくださっていたのなら、どうして学園ではあまり話しかけてこなかったのですか……?」

「それは……君は勉強にいつも忙しそうにしていた。それを邪魔するのはいけないことだと思ったんだ」

「そうだったんですか……」

「すまない、嘘だ」

「え?」

「勉強の邪魔をして、君に嫌われてしまうことが怖かったんだ。僕は臆病者だったんだ。それが君を不安にさせてしまったなんて……なんて愚かなんだろう」


 そう言って、ドゥアイソート様は縮こまってしまった。

 そんな姿を見て、なんだか少し、安心してしまった。

 

「そうですか。ドゥアイソート様も不安だったのですね」

「情けない限りだ……」

「情けないなんてことはありません。わたしたちは、二人とも不安だったのです。結局、ただそれだけのことだったのですね」

「そうか……そうだね……僕たちはきっと婚約だけではダメだったんだ。それだけだったから、不安になったんだ。君と一か月、昼食の時間を過ごして分かった。僕たちは、もっと関係を積み重ねなければいけなかったんだ」

「そうですね。一か月前に、わたしは言いました。『婚約者としてなまけ過ぎました』と。あれは話しかけるための言い訳みたいなつもりだったんですが、まさにそうだったんですね」


 二人して、顔を見合わせて苦笑した。

 そして、ドゥアイソート様は姿勢を正してわたしに宣言した。


「エンネージュ。改めて、婚約者として君と付き合いたいと思う。どうか、よろしくお願いします」

「こ、こちらこそ! ふつつかものですが、よろしくお願いします」


 二人して深々と頭を下げた。

 不器用で、かっこわるいけど、でも、それがわたしたちだ。

 婚約破棄する以前の問題だった。

 わたしたちの本当の婚約は、この日この時から始まったのだった。

 

 

 

「どうでしたか……?」


 夕方。寮に戻ると、部屋の隅で縮こまったユーディーナから声をかけられた。

 

「大丈夫でした。ドゥアイソート様とは仲直りできました。それと、わたしはもう怒っていません。そんなに部屋の隅にいなくてもいいんですよ?」

「それはよかったわ……」


 ユーディーナはおそるおそる部屋の隅から出てくると、いつもの場所、彼女の机へと席を移した。


 昨日の保健室の一件のあと。ユーディーナにはちょっとお説教をした。

 反論を一切許さない一方的なお説教を2時間ほどしたくらいで、そんなに怖がることもないのに。

 でも次に同じようなことを繰り返したら、そんなものでは済まさないつもりだ。

 

「あなたの婚約破棄の心配は無くなったようですし、学園の婚約破棄の流行もようやく終わりそうです。いいことが続きますわね」

「え? 学園の婚約破棄の流行も終わりそうなんですか?」

「ええ。最初に婚約破棄した公爵令息クライミラー様の噂が伝わってきましてね……」


 ユーディーナから聞いた婚約破棄の顛末を聞いた。


 公爵令息クライミラーは婚約破棄後、伯爵令嬢アクシオーネと婚姻を結んだ。

 これに親族が反発。クライミラーも頑張っていたようだが、その過程でアクシオーネの素行の悪さが発覚した。どうもクライミラーを誘惑するために裏で色々やっていたらしい。あんな無茶な婚約破棄が通ってしまったのも、その暗躍あってのものだったようだ。

 そしてクライミラーは失脚した。爵位は次男が継ぐこととなった。そんなクライミラーを見限り、アクシオーネも去った。

 

 再起を図り、クライミラーは前の婚約者である伯爵令嬢フェニクシーアの元を訪ねた。

 クライミラーは彼女に復縁を迫った。だが、彼の行動は遅すぎた。彼女は優秀な才女であり、既に小国の王の王妃として確かな立場を築いていた。王との関係も良好で、その仲睦まじさは誰もが羨むほどだったという。

 クライミラーはまったく相手にされず、逃げ帰ることとなった。家の恥になるとして、クライミラーは王都から離れた辺境に追いやられた。


 

「……なんだか、ずいぶんとひどいことになりましたね」


 そんな感想を漏らすが、ちっとも同情心は湧いてこなかった。

 なにしろ、わたしだってあの婚約破棄に振り回された一人だ。

 そもそも結局のところ、クライミラー様の自業自得というものだ。


「あくまで噂です。どこまで本当かはわかりません。でも、婚約破棄でクライミラー様が失脚したのだけは確かなようですわ」

「そうですか。そういう噂が広まれば、流れに乗って婚約破棄しようなんてする人は、いなくなるのでしょうね」


 異常な状況もこれで落ち着く。ほっとした。

 そうすると、次に考えるべきことが頭を占めた。

 

「それで、その……ユーディーナに、相談したいことがあるんです」

「なんですか?」

「ドゥアイソート様と、もっと婚約者として関係を積み上げるべきだとお話ししました。それで、あの、やっぱり、デートみたいなことを、するべきだと思ったりするわけです」

「まあまあ! それはいいことですわね!」

「それで……どこに行けばいいかとか、どんな服を着て行けばいいとか……わたし、全然わからなくて……」

「あらあら、それなら私にお任せあれ! 最高のデートプランをご提供してさしあげますわ!」

「で、でも! えっちなのはダメです! そういうのはまだ早いと思うのです!」

「わかってますわ。それはもう、昨日のお説教でよくわかりましたわ……ちゃんと清く正しい正統派のデートの作法を教えてさしあげますわ!」


 その日は夜まで、二人であれこれと相談した。

 

 おかしな状況のもと、追い立てられるようなお付き合いは終わった。

 これからは、自分の気持ちと向き合って、自分の意思で関係を進めていくのだ。

 それはわたしにとって初めてのことで。ちょっと不安で、でも楽しみで。

 なによりとても、ドキドキすることだった。



終わり

最後まで読んでいただきありがとうございました。

楽しんでいただけたなら幸いです。


いいね、評価ポイント、感想などいただけたらうれしいです。


2024/7/3 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!


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