病室の中に鬼がいる
白い天井を見上げながら、俺はため息を吐いた。
忌々しい気持ちで足元を見れば、がっちりギプスで固められた右足が目に入る。
脛骨骨幹部骨折。
要はすねの骨をボキッと折ってしまったのだ。
2週間前に手術は無事終わり、今はただ病院で暇を持て余している。
まだ退院には時間がかかるらしい。
最初の1週間は友人たちが代わる代わる見舞いに来てくれたものの、2週間目も後半となるとまばらになり、今では妻の皐月の顔しか見ていない。
最初のうちは検査だなんだとそれなりにやることもあったけれど、今はただぼーっとベッドに横になっている時間が大半だ。
テレビを見るにも金がかかるし、退屈に殺されそうになっている。
この2週間、取り立てて何も変化はない。
あえていうなら、同居人が出来たくらいか。
これまで、この4人部屋に入院していたのは俺だけだった。
けれど3日前、一人の男が入ってきた。
随分と色の白い若い男だ。
ひょろりと背が高く、贅肉なんてどこにも見当たらない超痩せ型。
いつもボサボサの寝癖がついており、歩く時は背中を丸め、酷い猫背であることが分かる。
顔は悪くないのだろうが、顔色が悪すぎてまるで動く死体か幽鬼のような男だった。
俺のベッドは部屋に入って右手前。その隣、窓際のベッドが男のベッドだ。
いかにも人付き合いが苦手そうな隣人だけれど、案外毎日見舞客がやって来る。
と言っても、ヨレヨレのスーツを着た冴えないおっさん一人だが。
おっさんが来ると二人は小さな声で囁き合うように何かを話し、しばらくすると病室を出て談話スペースで長らく話し込んでいるようだ。
昨日、「面会時間が長過ぎます。患者さんに無理をさせないでください」とおっさんが看護師に怒られている所を見かけた。
隣人はどう高く見積っても20代だろうし、血縁関係がある訳でもなさそうで、一体何をそんなに話すことがあるのだろうと不思議で仕方ない。
まず関係性が不明な組み合わせだ。
俺は、この退屈な生活へのほんの少しの変化を求めて、男に話しかけることにした。
いつも男と俺の間のカーテンは、枕元から半分ほど閉めている。
だから体勢をずらして、ベッドの足元の方にもたれかかった。
本当はあまり動いてはいけないのだろうが、同じ体勢には飽き飽きしてしまう。
2週間も経てば、これくらいはお手のものだ。
カーテンの向こうに男の顔が見える。
彼は何か、資料のようなものを読んでいた。
大学の課題か何かだろうか。
「あの。いつも来る男性、あの人はご兄弟?」
そんなことはないだろうと思いつつ、あえてそう聞く。
確信のある答えに辿り着かない時は、わざと最も違いそうな事を言うといい、と誰かから聞いた。
後は相手に否定させて、本当のことを自然に喋らせればいいのだ。
「……ああ、いや。あの人はなんていうか……仕事関係の人、ですかね」
一瞬、自分に話しかけられたのが理解出来なかったのだろう。男は辺りを見回してから答えた。
当然この部屋には俺たちしか居ないのに、その姿が滑稽で思わず息が漏れる。
「急にごめんね。つい、気になったもんだから。あ、失礼しました。小早川といいます。小早川颯斗」
「あ……二川です」
ベッドの枕元の壁にかかっているネームプレートをちらりと見る。
プレートには「二川一」と書かれていた。
「この名前、気持ち悪くないですか?」
二川と名乗った男は、俺の視線に気付いたのかネームプレートに目をやってそう言った。
なんとも反応しづらい言葉だ。
「そんなことないけど。どうして?」
「バランスが悪いじゃないですか。『川』の字を90度回転させたら『三』なのに、1に戻るなんて」
そういう問題か?
『川』を90度回転させる意味も分からないし、1に戻るの意味もよく分からない。
確かに、なんとなく字面が悪いような気もするけれど。
「俺、こういう順序立ってないものって苦手なんですよね」
自分の名前だというのに、二川は随分と憎々しげにネームプレートを眺めた。
そこまで嫌うこともなかろうに。
「まあ、そういうこともあるよね。俺も小早川っていう苗字好きじゃないよ」
「『小早川秀秋』と一緒だからですか?」
思わず苦笑した。その通りだからだ。
関ヶ原の戦いで石田三成を裏切った小早川秀秋。
小学生の頃、先生がその話をした時にクラスのみんなにからかわれたことを思い出す。
日本史なんて全く頭に残っていないけれど、そのせいで関ヶ原の戦いだけはバッチリ記憶に残っている。
何せその授業の後、しばらくあだ名が『裏切り者』だったから。
とうの昔に死んでいる小早川秀秋の顔面をぶん殴りに行きたいと思うほどだ。
「そう、それ。まさかすぐに当てるとは思わなかったよ」
「当てずっぽうです」
さらりとそう言うと、二川は俺の足に目をやった。
「それ、骨折ですか」
随分と細長い人差し指でギプスを指さす。
まあ見れば分かるよな。
「うんそう。交通事故で」
本当に最悪だった。
まさかこんなことになるとは思わなかった。
今でもあの時のことは思い出したくない。
俺はため息を押し殺し、話題を変えることにした。
「二川くんは、どうして入院を?」
「ああ、栄養失調です。気付いたら1週間何も口にしてなくて」
「そんなことある!?」
どうりであまりに細いわけだ。
骨と皮、と表現するには多少筋肉が付いていそうなものの、にしたってかなり痩せているのには違いない。
「よくあるんです。何かに没頭すると、うっかり忘れるんですよね。例のおっさん……鍛原さんって言うんですけど、鍛原さんに倒れてるところ見つけてもらえたんで、運が良かったです」
「運が良かったって……」
きっとネットゲームか何かにのめり込んでいたに違いない。
不健康すぎる顔色を見るに、ほとんど外に出ることがないだろうことが窺い知れる。
俺はスポーツが好きで子供の頃から何かしらやってきたから、正反対の生き方だ。
正直、これまでの人生で一度も関わったことのない人種だと思う。
「二川くん、社会人?」
「いえ、大学生です」
「何年生?」
「4年です。でも留年が決まってるんで、来年も4年です」
案外迷惑そうな雰囲気はなく、淡々と答えてくれる。
時折資料に目を落としつつも、きちんと会話をしてくれる姿勢に好感を持った。
「仕事っていうのは、じゃあバイト?」
「まあ……そんな感じですかね」
なんとも歯切れが悪い。
あのおっさんと何のバイトをしているのだろう。
おっさんは雇い主なのだろうか。
もっと突っ込んで聞きたかったけれど、どうにもこれ以上答える気はなさそうだ。
仕方なく、口を噤んだ。
「交通事故って、小早川さんが運転してたんですか?」
思いがけず、二川が話題を戻して聞いてくる。
おいその話は終わっただろ。
話が途切れたからって、無理に会話を続けるなよ。
「いや……。友達が運転してた」
「ご友人は大丈夫でしたか?」
触れてくれるなという空気を隠そうともせず答えたのに、二川はずかずかと構わず聞いてくる。
かなり無神経なやつだ。
一度抱いた好感が泡のように消えてしまった。
内心苛立ちながらも、一瞬、言葉につまる。
車が電柱にぶつかる瞬間のあいつの顔を思い出し、密かに奥歯を噛み締めた。
今更後悔したって、時は戻らない。
「死んだよ。即死だった」
「それは、ご愁傷様です」
至って何の感慨もなく、二川は淡々と決まり文句を唱えた。
普通こういう時はもっと気まずい表情で謝罪をするものだろうが、その気配はない。
自分でずかずか聞いておいて、それはないだろう。
「あいつとは大学のサークルで知り合ったんだ。フットサル。社会人になった今でも、休日は集まってやってる。
あいつ、全然経験もないくせに、マネージャーに片想いしてたんもんだから急に2年から入ってきてさ。結構強いチームだったから、万年補欠だったよ。
まあでも、みんなに愛されてるやつだった。いじられキャラっていうか。あっ別に虐めてた訳じゃないよ? 本当に。あいつが何か馬鹿なことしたら、みんなでツッコむみたいな。それであいつとみんなも笑いあってさ。
いい奴だったんだよ……本当に……」
ついカチンときて、饒舌に語ってしまった。
けれど話しながら楽しかった思い出が次々に思い出され、涙腺が緩んでくる。
本当に、なんて馬鹿なことをしたんだろう。
「仲が良かったんですか?」
「そうだね……。好みも似てたし、何かと気が合ったんだ」
あいつが好きなもののことを語る時は、とても輝いた目をしていた。
最近面白かった映画だとか、偶然見つけた美味い焼き鳥屋のことだとか。
そんなあいつを見ていると俺も楽しくなったし、きっとすごく良いものなんだろうと興味が湧いた。
そして大概、俺も気に入ることが多かった。
残念ながら酒と車には興味がなかったようだけど、それでもあいつと俺は多くのものを共有したと思う。
「じゃあ、今さぞ辛いでしょう。お気の毒に」
言葉の割に、全く気遣いの見えない調子で二川は言った。
辛い。辛いか。
確かに、もの凄く辛い。
「俺が車で行かなきゃ良かったんだ。あの日はフットサルの試合があって、打ち上げがあることは分かってたのに、遅刻しそうでさ。つい車に乗っちゃって。
代行頼めばいっかってそのまま打ち上げ行ったら、あいつが運転してくれるって話になって。酒飲めないんだ、あいつ。だから俺が運転するよって……」
ついに涙が流れる。
時が戻ったら、遅刻してでも電車で行ったのに。
いや、車なんて置いてタクシーで帰ったってよかったんだ。
結果、こんなことになってしまった。
「じゃあ車は小早川さんのものだったんですか」
「そう。あいつ、普段はあまり運転しない奴だったし……」
「なるほど」
そこで二川は、顎に拳を当てて何かを考え込んだ。
それまで反応らしい反応を見せなかった二川が、唯一見せた姿に首を傾げる。
何かおかしなことでもあっただろうか。
「それで、事故の原因は何だったんですか?」
「あいつの運転ミスだよ。結構挙動不審な運転だったらしくて、たまたま居合わせたパトカーに止まるよう言われてパニクったんだ」
俺は酔ってたからそうは思わなかったけれど、側から見ればハンドル捌きが怪しかったようだ。
せめてあの時、素直に止まっていれば、あいつが死ぬことはなかったのに。
「変ですね。そこまで運転技術が危ういのに、どうして運転するなんて言ったんでしょう」
二川の言葉に、ぴたりと固まる。
変だって?
なんでこいつにそんなこと言われなきゃならないんだ。
「いけると思ったんだろ。あいつ、妙な自信がある時あったから。でも小心者だから、パニックになるんだ」
あの時もそうだった。
挑発的に俺のことを見ていた、あいつの瞳を思い出す。
『出来るさ。お前なんかより、俺の方がよっぽど』
あいつはそう言っていた。
その顔に腹が立ったのは、紛れもなく事実だ。
『なら、やってみろよ』
俺はそう返した。
あいつの挑発に乗るように。
きっとあの時、相当機嫌の悪い顔をしていたに違いない。
『お前、酔ってるだろ?』
『とにかく乗れ。じゃないと話にならない。だろ?』
そして二人で車に乗った。
やめておけば良かったのに。
『どうしたらいい!? 颯斗!!』
『馬鹿! ハンドル切りすぎだ!!』
パニックになり今にでも涙を流しそうな顔をしていた。
目の前に電柱が迫った瞬間の、呆気に取られた顔。
数秒後に自分が死ぬのだと、はっきり予感した瞬間の顔。
あの顔を、一生忘れることはないだろう。
「じゃあ小早川さんは、どうしてご友人に運転させたんですか。彼の為人はよく把握されてたんですよね」
二川の言葉に顔を上げると、真っ直ぐにこちらを見ていた。
思わず視線を逸らす。
「あいつが、あまりに絶対の自信があるみたいだったからさ。ならやってみろよって」
「なるほど」
そして二川は、また何か思案するように顎に手を当てる。
まるで話の流れに粗がないか探られているようで、不快だった。
「ねえ、何か問題でも?」
「ああ、いえ。いくら運転に慣れていないからって、警察に止められるくらいの危ない運転になるのかなって。仮にそうだったとして、警察に止められて逃げ出すっていうのにも違和感があります。そういうのは、何かやましい事がある人がする行動ですよね」
一瞬こちらに目をやっただけで、二川は思案するままに饒舌に喋る。
こんなに長く話せる奴だったのか。
「……これは言いたくなかったんだけど、スマホで電話してたんだよね。あいつ」
『もしもし、皐月? これからそっち行くから。起きててくれる?』
『おい、やめろよ』
『大事なことだろ』
あの時俺は、あいつが迷いもなく皐月に電話をかける横顔を苛つきながら見つめていた。
何も電話なんてする必要なかったのに。
「なるほど。今はスマホを使いながらの運転には厳しいですからね」
「そう。だから、警察に止められて慌てたんだよ」
二川はうーんと唸るように、顎に手を当てたまま首を傾げた。
「ちなみに、小早川さんの車ってリアガラス全面に英文のステッカーが貼ってありましたよね」
「何故それを!?っつ……!」
あまりの衝撃に身体を跳ね上げ、うっかり足を動かしてしまった。
まだ骨が完全にくっついておらず、動かすと痛みがあるのだ。
「すみません。大丈夫ですか?」
「うん平気……。それより、何で知ってるの? 実は俺ら知り合いだった?」
「テレビで映像を見たんですよ。2週間前ニュースになってましたよね。『フットサルの試合の打ち上げ帰りに、友人の車を代行した』と報道されていたのを、いま思い出しました。車から投げ出されて亡くなったのは、座間裕介さん、30歳」
まるでニュースキャスターの言葉をそのまま口に出したかのように、淡々と二川は言った。
確かに、人が一人死んだ事故だ。
ニュースになっていてもおかしくない。
警察が来て事情聴取も受けたし、その内容がニュースになったのだろう。
当初は意識も朦朧としていたし、テレビをそもそも点けていなかったから気付かなかった。
「そうだよ。なんだテレビに出てたのか。知らなかった」
「追いかけていた警察の話では、随分奇妙な運転だったらしいですね。蛇行運転をしていたかと思ったら、急に真っ直ぐ加速して、急ハンドルで電柱にずどん。深夜で歩行者も対向車も無かったのは幸いでした。
それで不思議に思ったんですよ。リアガラスのステッカーもそうだし、限定色のシートとか車体の模様とか、ホイールも普通のじゃなかったですよね。かなり車に愛着があるだろうに、なんで運転に慣れていない友人に任せたのかなって」
「二川くん……結構車に詳しいね」
「いえ、俺はあまり。鍛原さんの受け売りです」
またかおっさん。
おっさんとは趣味が合うかもしれない。
確かに、俺は車が好きだ。
金がかかっても自分好みにアレンジする。
妻の皐月はあまりよく思っていないようだけど……って。
いや、今はそんな事より、この二川青年の意図が掴めないことが気味悪い。
もしや、何か疑っているのだろうか。
「ねえ、もしかして俺疑われてる? 別に、さっき言った通りあいつが自信ありそうだったから任せてみようと思っただけだよ。俺は酔ってたしね。そんなにおかしいかな?」
不快感を隠そうともせず、俺は言った。
まるで犯人を問い詰める探偵のような二川の物言いが神経を逆撫でし、苛つきが抑えられなくなってきた。
「すみません。小早川さんのことを疑ってるというより、ただ釈然としないだけで。俺だったら、大切にしてる車なら運転に慣れてる人にも任せたくないだろうなと思って。しかも、まだ発売してから間もない車種なんですよね?」
二川の言う事は、全くもってその通りだ。
あの車はまだ買ってから一年経ってない新車だった。
確かに、普通だったら絶対に運転を任せようとは思わない。
けれどあの時は状況が状況だったから、仕方なかったんだ。
何も答えない俺を訝しむでもなく、二川はまた口を開いた。
「座間さん、外に投げ出されて亡くなったんですよね。シートベルトは締めてなかったってことです。小早川さんが足の骨折だけで済んだのは、シートベルトを締めてたからですか」
「ああ、俺は締めてた。あいつは、ちょっと調子に乗ってたんだろうな。何度も締めろって言ったんだけど。だから余計に、警察に止められて焦ったのかも」
「何で座間さんは締めなかったんでしょう。新しい車なら、シートベルトを締めない時のアラーム音がうるさかったでしょうに」
その言葉に、あの時の光景が鮮明に甦った。
『本気で言ってるのか颯斗!!』
『このままじゃヤバイだろ!? もし警察に捕まったら、仕事はクビだ! そしたら皐月はどうなる!?』
カンカンカンと耳障りなアラーム。
クソッと舌打ちをしながらハンドルをとる裕介。
皐月のことになると、あいつはとんでもない行動力を示すのだ。
『お前は、本当に最低な奴だ!!!』
「もしかして、シートベルトを外さなければならない状況だった、とかではないんですか?」
二川の声にハッとなる。
すっかり回想に耽っていた。
いまだに、頭の中にあいつの声が反響している気がする。
今更どうしようもないじゃないか。
何をどうしたって、あいつは生き返らないんだから。
「……普段車に乗らないやつほど、そういう習慣ってなかったりするだろ? それに、アラームは切ってたんだ。あの音嫌いなんだよね」
「ああ、そういうのも出来るらしいですね」
納得したのか、二川は頷いて再度資料を眺め始めた。
ホッと息を吐く。
まさか軽く雑談をするつもりが、こんなに嫌な汗をかくとは思わなかった。
もう十分だ。昼寝でもしよう。
そう思い、元の体勢に戻ろうと腰を浮かせる。
「そう言えば」
二川が、思い出したように声をかけてくる。
思わずぴたりと動きを止めた。
まだ何か疑問なことでもあるのだろうか。
「小早川さんの所によく来る女の人って、奥さんですか?」
これまでと違った質問に、肩透かしを食らった気になった。
まったく気にしていないように見えたが、案外向こうも観察していたらしい。
「ああそうだよ」
「綺麗な人ですよね」
気が緩んだのもあって、思わず笑みが漏れる。
女には全く興味がなさそうな顔をして、そうでもないようだ。
男が気にするものなんて、大体同じなんだろう。
「ありがとう。自慢の妻だよ」
「奥さんも座間さんのお知り合いのようですね。お二人が話しているのが聞こえました」
『裕介、なんであんなことしたんだろう』
あれは3日前だったか。
皐月の言葉が思い出される。
『車なんて全然乗らなかったのに。旅行だっていつも電車で移動してたし、なのになんであの日だけ……』
ベッドの脇の丸椅子に座って、頭を垂れ自分の手の甲を見つめながらぽつぽつと話していた。
ショックを受けているのだろう。
まだ現実が受け止められていないようだった。
無理もない。
誰しも知り合いが急に死ねば、混乱するものだ。
「その時は事情を知らなかったのでよく分かりませんでしたが、あれは座間さんのことですよね。随分親しかったみたいですけど、奥さんは座間さんのお姉さん、とか?」
二川の言葉に思わずきょとりと止まってしまう。
まったく的外れな予想だった。
何をトンチンカンなことを言っているのだろう。
「いや違うよ。彼女も同じサークルの仲間だったんだ」
「フットサルの? つまりマネージャー、ですか」
「あ、ああ……」
「ご友人が惚れていたという、あのマネージャーさんですか?」
その通りだった。
マネージャーは1人ではなかったのだし、すぐさま否定すれば良かったものを、言葉に詰まってしまった。
そんな俺を、二川はまるで反応を確かめるような瞳で見つめていた。
はたと気付く。
これは最初俺がやったのと同じように、わざと全く違うことを言い、相手に否定させて真実を喋らせる方法だ。
「ご友人が好きだった人と結婚されたんですね。もしかして奥さんは座間さんの元カノ、とか?」
二川の言う通りだ。
皐月は、裕介の元カノだった。
裕介があまりに皐月のことを話すものだから、興味が湧いて、口説き落として結婚した。
しょうがないだろ。
裕介に皐月は勿体無い。
「まあ、俺には恋愛のことはよく分からないですけど、よくあることですよね」
二川は自分で言いながら納得したように頷いた。そしてわざとらしく何かを思い出した素振りで手を打った。
「そう言えば、この前カーテンを閉める時チラッと見えたんですけど、奥さん、腕にすごい痣がありましたね」
こいつ、本当に目ざとく見ていやがる。
今まで接触がなかっただけで、かなり観察されていたようだ。
まるで覗き魔に対峙しているような気分になり、気味が悪いと同時に腹が立った。
「階段で転んだんだよ。ねえ、君さ、他人の嫁のこと不躾に見過ぎじゃない?」
「すみません。たまたま目に入っただけなので、誤解しないでください。てっきりDVなのかと疑ったので覚えていたんです」
怒りからギリッと奥歯を噛み締める。
こいつ、わざと言ってんのか。
その無表情な顔がすごくムカつく。
「おいお前いい加減にしろよ。喧嘩売ってんのか」
「そんなつもりは。すみません」
全くすまなそうな様子もなく、二川はぺこりと頭を下げた。
その様子に更に怒りが湧く。
「でも少なからず、あのアザに気付いた人は同じことを思う可能性がありますよね。例えば、座間さんとか」
『お前、まさか皐月に暴力振るってるんじゃないだろうな』
あいつの声がこだまする。
目を細めて、激しく俺を非難する顔。
正義の騎士にでもなったつもりか。
憎たらしくて仕方ない。
『そんな訳ないだろ。なんだよ、嫉妬か? ならお前が皐月を嫁にするか? お前なんかが皐月を幸せに出来るわけないだろ』
『出来るさ。お前なんかより、俺の方がよっぽど』
「好きだった女性を奪われて、なのにその女性が暴力を振るわれてると思ったら、普通、黙っていられないですよね」
「あいつがそうだったって言いたいのかよ!」
俺は思い切り二川を睨みつけた。
なんなんだこいつは。
さっきから好き勝手言いやがって。
なんで、そんなに全て言い当てるんだ。
「それはそうと、やっぱり変だと思うんですよね。運転に慣れていない人が急に運転の代行をかって出て、更にシートベルトも締めずスマホで電話なんて。それで俺思ったんですけど、もしかして、運転してたのって小早川さんだったんじゃないですか?」
あまりにも真っ直ぐ、二川と視線が合う。
その視線に射抜かれて、俺はぴくりとも動くことが出来ない。
「……何言ってんだよ。実際運転席に居たのは裕介で、それは警察も確認してるんだ」
「ええ、最後はそうですよね。だから、途中で運転を変わったんじゃないかってことです」
「ッ……!!」
こめかみに冷や汗が流れる。
なんなんだよ! なんでそんなことまで……!!
「そうすれば、警察から逃げた理由も、座間さんがシートベルトをしていなかった理由も説明出来ます。急にハンドルを握ることになったから、シートベルトが間に合わなかったんですよ。小早川さんのその足も、運転席から助手席に移った時に事故に遭ったと考えれば、最後に移すのが右足ですから、納得の怪我ですよね。右足をきちんと座席に収める前にぶつかったんです。電話だって、普通に助手席でかけていたんじゃないですか?
そもそも奥さんへの暴力を問い詰めて明らかにする為に、座間さんは小早川さんの車に乗ったのではないでしょうか。小早川さんの奥さんの話を聞く為、家に帰ろうとして。なかなか『では後日伺います』なんて言いにくいですよね。小早川さんが奥さんに何かするかもしれないし。
車の走行中に運転を変わるという無茶な行動も、奥さんの為だったと考えれば理解できます。小早川さんが飲酒運転で捕まれば仕事に支障を来たす可能性もありますし、奥さんにも少なからず影響があったでしょう。それを危惧して、咄嗟に承諾してしまうこともあり得ると思うんです」
一つ一つパズルのピースを嵌めていくように、二川は語っていく。
実際、彼にはパズルゲームと大差ないことなのかもしれない。
どう言う訳かそんな気がした。
「……けど、そんなことしてたら追いかけてる警察にもバレただろ」
「だってリアガラスにステッカーが貼ってあって、見えなかったじゃないですか」
「っ……そもそも運転を変わったりしたら、アクセルから足を離すだろ!? なのに車は加速したままだったんだ。どうやって車は走ってたんだよ!!」
「今、最新の車には便利な機能があるそうですね。自動運転とか、アクセルを踏んでなくても一定の速度で走れる機能が」
愕然とした。
全部、全部分かってるのかこいつ。
「すごい時代ですよね。車線をはみ出さず、前方の車両に追従して走行したり出来るそうです。カーブも曲がれるらしいですね。もちろん、その機能を使っている時も手動でのハンドル操作が出来るとか。本来は高速道路で使用する機能で、一般道では使わない機能らしいですけど、使うことは出来るんですよね。鍛原さんが言っていました」
『運転変われ裕介!! 今なら速度落ちねえから!!』
『本気で言ってるのか颯斗!!』
『このままじゃヤバイだろ!? もし警察に捕まったら、仕事はクビだ! そしたら皐月はどうなる!?』
俺は運転席から立ち上がり、無理矢理助手席に体を捩じ込んだ。
『クソッ……!! お前は、本当に最低な奴だ!!!』
そう叫びながら裕介は、運転席に移りハンドルを握った。
カンカンカン。
耳障りなアラーム音。
シートベルトを締めていないことを警告する音だ。
時速は60km。
『どうしたらいい!? 颯斗!!』
カーブに差し掛かり、曲がりきれないと思ったのか、裕介が急ハンドルを切る。
『馬鹿! ハンドル切りすぎだ!!』
カチャン。
俺は助手席のシートベルトをどうにか締めた。
けどあいつは、目の前の電柱に、呆然と固まっただけだった。
『あっ』
直後、激しい衝撃が俺たちを襲った。
咄嗟に目を瞑った。
ガラスや鉄板が破壊される音が響き、まるで天地がひっくり返ったんじゃないかと思った。
やがて右足の激痛に目を開けると、運転席には、誰も乗っていなかった。
「なんて、これは全部俺の想像です。証拠がある訳でもないですし。すみません、小早川さん」
「……」
ぺこりと頭を下げ、二川は興味を失ったようにまた資料をめくり始めた。
想像? 想像だって?
想像でここまでのことを言い当てるのか?
一体何が目的なんだ……?
警戒する俺を他所に、二川は俺の存在すら忘れてしまったかのように資料をめくり続ける。
俺を警察に突き出すとか、自首を促すとか、そんな気配は全くない。
本当に、これで終わりなのか……?
「なんだ、一がもう解いちゃったか」
突如聞こえた気の抜けるような声の元を辿ると、例の鍛原というおっさんが入口に立っていた。
今日は一人じゃない。
後ろに、2人のスーツ姿の男が立っている。
「小早川颯斗、近隣の防犯カメラにお前のやったことは全部映っていたぞ。さあ、事情を聞こうか」
そう言う鍛原が胸元から取り出したものには、見覚えがあった。
ドラマで何度も見たことがある。
あれは、警察手帳だ。
「言ってませんでしたけど、俺、警察の相談役っていうか、捜査協力をしてまして。なんて言うか、推理が仕事みたいなもんなんですよ。趣味でもありますし。あ、この資料も事件の資料なんです」
そう言って二川は、何故か照れくさそうに、資料を持ち上げて見せた。
資料には、ドラマで見たことのある遺留品と思しき写真が写っていた。
「同室になった日に奥さんと話しているのを聞いて、怪しいなと思って。鍛原さんに言っておいたんです。こういう交通事故は、本来あんまり捜査されないですからね」
全くすまなそうな様子はなく、二川はぺこりと頭を下げた。
「お前……じゃあ最初から……」
「いやあ、俺どうにも人と話すのが苦手で。話しかけて頂いて良かったです。あ、色々嘘をついてすみませんでした」
「くそ! 最初から分かって騙してたのか!」
「いえ分かっていた訳ではないですよ。詳しい事情は知らなかったので、何だか怪しいなと思っただけで。どうやら僕の想像は大体当たっていたみたいですね」
その澄まし顔に心底腹が立った。
このまま事故として処理されていれば、バレずに済んだのに!!
「それにしても小早川さん。小早川秀秋のことを言えないくらいの裏切り者になりましたね」
「裏切り者……?」
何言ってるんだ。
俺が誰を裏切ったって言うんだよ!?
「友人の彼女を略奪したのに暴力を振るって、更には咎めた友人に無理矢理運転を押し付けて、殺意はなくとも殺してしまうなんて。しかも、責任は全部友人になすりつけて。
座間さんに対しても、奥さんに対しても、酷い裏切りでしょう。友情も愛情も踏みにじったんだから。
後悔しているようでしたけど、自ら真実を語る気がなかったあたり、あなたに後悔する資格はないと思いますよ。鬼畜の所業です」
淡々と、しかし鋭い瞳で二川が俺を見つめる。
まるで喉元にナイフを突きつけられているようで、得体の知れない恐怖に震えた。
「小早川。お前はこれから個室に移動だ。話を聞こう」
「待ってくれ! 違うんだ!」
「抵抗するだけ無駄だぞ。早く車椅子に乗れ」
俺はベッドの上で、両手を警官に掴まれ慟哭した。
そんな俺を、
二川は幽鬼のような暗い瞳で見つめていた。