ヒィー男爵家のご令嬢(前編)
前世の(チヒロ)がその乙女ゲームをしていたのは、
たった5日間のみ。しかも精神状態は最悪最低だった。
最愛の妻を失い、最愛の娘を泣かせて怒らせた・・・、
そんな状態での乙女ゲームのプレイだった。
だからゲームのあらすじも登場人物もうろ覚え、
覚えているはずもないゲーム知識が、あんなにも
出てくるなんて、愛の力って偉大だ!
・・・とアンジュは思ったものだ。
アンジュが自分の妻と娘を守るため、その乙女ゲームの
登場人物を調べているとき、アンジュは、
乙女ゲームのヒロインらしき男爵令嬢についても
調べようとしたが、彼女についての情報は調べるまでもなかった。
貴族の社交は、前世の世界のネット社会のように、
情報伝達が活発だった。良い噂よりも悪い噂の方が
早く大きく伝わるという特長があった。
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大昔から、この国だけではなく周辺諸国、どこの国でも
子どもが5才になる前に、亡くなってしまうことが多い。
5才になるまでの子どもは、貴族だろうと一般の国民だろうと
(神様の子ども)として、皆が、戸籍に載ることはなく、
人間の子どもとなるまでの5年間、大切に育てられる。
貴族の子どもは5才になるまで屋敷の中だけで、大切に育てられる。
貴族の子どもを育てるのは乳母や使用人や家庭教師だ。
一般の民の子どもは、大勢の家族の中で、大切に育てられる。
民の子どもを育てるのは、二世帯三世帯同居している家族だ。
貴族の子どもと民の子ども、両方に共通するのは、体の弱さ。
生まれ育っている環境・・・、その看病にかける手間や
治療にかけるお金の差が生存率を左右される中、
もう一つ共通するものがあった。
それは識字認識能力だった。物心ついても寝込むことが多い
子ども達に早くから読み書きを教え、退屈な病人生活を
少しでも気晴らしできるようにと、貴族や民の保育者は、
毎日のように、本を子どもに読み聞かせていたため、
(神様の子ども)から人間の子どもになる5才になると、
皆、簡単な文字なら読み書きできるようになり、6才に
なる前に生活に困らない一般的な文字を扱えるようになる。
そして民の子なら、家の手伝いをしながら、月に2回の
寺子屋通いを12才まで続け、算術も簡単な四則計算まで
なら扱えるようになり、その後、家業を引き継ぐための
見習いや、丁稚奉公などに出て独り立ちする。
貴族の子は、家庭教師による(一般教養)と(貴族教育)、
(行儀作法)、(茶会の作法)を5才から学ぶ。
令嬢なら(淑女教育)、(花嫁修業)etc.を学び、
令息なら(領地経営学)、(数学)、(閨教育)etc.を
その都度、追加で学んでいく。
5才になったら、母親に連れられて、昼間の茶会に参加する。
最初の茶会は、母親が損得抜きで親しくしている友人で、
同じ爵位を持つ貴族宅の茶会が一般的だ。
子ども達は母親の振る舞いを見て学ぶ。
友人なら多少のマナー違反も大目に見てもらえる。
それを経験することで実際に家庭教師が教えてくれることを
肌で覚えていくのだ。
茶会のマナーを完全に身に付けるのは、7、8才くらいで。
子どもが人前に出ても大丈夫だと判断した母親達は、
次のステップとして、大勢の貴族が集まる茶会へ
子どもを連れて行く。
子どもに話すことを禁じ、見学することだけを促す。
ここでは爵位の差があり、はっきりとした身分差が存在する。
子ども達は、上級貴族と下級貴族の差を知り、それぞれとの
付き合い方を見学して、覚えていく。
また親は子どもを常に傍に置き、自分たちが茶会で何を
目的として参加しているかを悟らせる。
茶会は貴族子女にとって、社交であるとともに戦場だった。
貴族としての横の繋がり、仕事を通しての上下貴族の
縦の繋がりを求め、情報収集や、ライバルへの牽制、
世情把握etc.・・・、小さな子どもにそこまでのものは、
求めてはいないが、これが出来るようになるように、
勉強に身を入れなければ、貴族社会は生きていけないと、
子どもにわからせるのが目的だ。
同時に、これは子どもの見合いの場でもある。
貴族の結婚は、政略結婚がほとんどだ。
相手の身分や、持っている領地から得られる物、
縁続きとなるのに適した相手かを、茶会や夜会や乗馬等の
社交で情報交換した大人達は、縁談の相手に当たりを付け、
最終決定の材料として、茶会に出てきた子どもを、
品定めするのだ。大抵の貴族子女は、この茶会で、
親同士により婚約者を決められてしまう。
決まらなかった令息令嬢は12才からの夜会参加で、
自分からも働きかけて、相手を見つけなければならない。
夜会の目的も、茶会と大して変わらない。
貴族としての横の繋がり、仕事を通しての上下貴族の
縦の繋がりを求め、情報収集や、ライバルへの牽制、
世情把握etc.・・・、違うのはここに来るのは、
母親だけではなく、父親も来るということだ。
母親達の闘いよりも、もっと苛烈で底が深い闘いを
男達はワイン片手に、にこやかな笑みのまま、
静かに繰り広げているのだ。
また男親同士が気が合えば、多少の身分差があっても、
縁談が成立する場合が乗馬の会や、
夜会では発生するので、16才が成人となる令嬢の
ほとんどは、16才になる前に婚約者が決まってしまう。
・・・と、このように貴族子女は育つのだが、
ヒィー男爵家のご令嬢は5才の時に、すでに、
(この令嬢は絶対売れ残るだろう!)と噂されるほど、
悪評が広がっている少女だったのだ。