7
この時間に、戻ったとして。
何をやり直せばいい?
電話を切らずに最後まで聞く?
いっそライブを中止にする?
それが何になるというのだろう。
彼女は今も、きっと戦っている。
事故の怪我に打ち勝って、またここへ戻ってきて、僕にその『決心』を伝えるために。
それなのに、僕はどこに戻ろうというのだろう。
僕は顔を上げて、鏡の中を見つめた。
マーコと楽しそうに買い物をしている彼女。
君はずっと、僕自身も知らない僕を、たくさん見てくれていたんだろうな。
僕の知らない気持ちを。
僕の知らない思い出を。
僕の歌が背中を押したという『君のやりたいこと』を。
君の言葉で、僕に話して聞かせてよ。
だから――。
「僕は、この時間へは戻りません」
光は、ふっと消えた。
奥のほうから、再び青白い光がさしてくる。
僕はまた、その光をのぞき込んだ。
カーテンは、あけっぱなし。
時折、前の道を通る車のヘッドライトが、灯台の光のように闇を照らしては過ぎ去っていく。
雨はまだ、激しく降り続いているんだろうか。
そばには受話器が転がっている。
彼女の母さんから電話があってから、どれくらい経ったんだろう。
頬には、いくつもの涙の跡。
床に倒れこんだまま、僕は窓のほうをぼんやり見つめていた。
何やってんだよ、オマエ。
こんなとこで泣いてる暇なんかあるのかよ。
僕は、鏡に手を当てて言った。
「僕をこの時間に戻してください」
鏡全体が、青く輝きだす。
鏡に当てていた手が、するりと光の中へと入っていく。
僕はためらわず、鏡の中へと歩みを進めた。
時計が一秒を刻む音だけが聞こえる。
雨は上がったんだろうか。
僕は床から立ち上がった。
振り返ってみたけど、後ろには薄汚れた壁があるだけ。
扉も、不思議な空間もなかった。
夢だったのか?
分からない。
そうだ。そんなこと、どっちだっていい。
僕が今、やらなければいけないことは、ただひとつ。
玄関に向かう。
雨はやっぱり上がっていた。
僕はくたびれたスニーカーをはくと、夜の町へと飛び出した。
雨上がりの月が、僕らの町を優しく照らしてる。
その下を、僕は全速力で駆け抜けた。
やりなおしたいこと、ありますか?
僕にはたくさんあります。
来週になれば忘れてしまうような、くだらないことも。
今でも夜に歯を食いしばって泣くほど、忘れられない痛みも。
やりなおしたいことなら、いっぱいあります。
その全ての思いを背負って、僕らは明日に向かうんだ。
いや、それ以前に『今日』を精一杯生きるんだ。
誰も、過去を修正することなんてできやしない。
やれることは、いつだって未来にある。
やりなおしたい過去にも、たくさんの思いがあることを、もう僕は知っている。
後悔するほど強い思いなら、そいつを背負って前へ進むんだ。
彼女は今、事故の怪我と戦っている。
必死で生きようとしている。
だったら、僕が今やるべきことは何だ?
泣いて部屋に逃げ込むことでも、あの時こうしていればと嘆くことでもないじゃないか。
今、行くよ。
君の名前を呼ぶよ。
君の背中を押したっていう歌を、歌ってあげる。
だから、負けるな。がんばれ。今すぐ行くから。
水たまりを飛び越えて、僕は病院までの道を駆け抜ける。
静まり返った町に、僕の足音だけが響いている。
病院まで、あと少しだ。
気のせいかもしれないけど。
公園の横を通りすぎたとき、風にゆられているブランコが僕に「大丈夫」と言った気がした。
(「ブランコ」終わり)