1.コトノホッタン
「やった、ついにやった! 成功だ!」
しゃがれた女性の声が耳朶を打った。
血生臭い地下室と思しき部屋。
窓はなく、通路と室内を繋げる錆付いた鉄扉は固く閉ざされている。
壁一面。床一面。所狭しと書き込まれた幾何学的な文様。
石室は鈍い橙色の明かりに照らされている。
その中心には僕がいて、僕の前には白髪を振り乱して喝采する老婆がいた。
老婆は黒いローブを着込み、削った木で出来た杖を突いている。幼い頃、童話で見たような魔女そのものといった風体。後は山高帽があれば完璧だ。
そんな常軌を逸した光景を前にして、僕は、ただもう見っとも無く泣いた。
皺くちゃの顔を、もう元に戻らないんじゃないかってくらいに歪めて狂喜乱舞する老婆と泣き喚く僕。
なんて嫌な光景だ。おぞましい。
一目見たら網膜に焼き付いて一生忘れられないこと請け合いじゃないか。
ぎゃあぎゃあ泣いている内に、今度は自分の声に異変を感じた。
高いのだ。とっくに変声期を迎え、野太くなってしまった僕のものとは似ても似つかない。
他に誰かがいるのではないかと狭い室内を見回すが、やはり僕と老婆の二人っきり。そもそも遮蔽物は何処にもないのだから、隠れようにも隠れられない。
ということは、これは、僕の声だ。
認めたくないが仕方がない。
思えば、さっきから奇妙奇天烈な周囲に目を奪われていて、自分の状態を碌に確認していなかった。
見るか。
見るぞ。
恐る恐る、掌を見やると、そこから生えていたのは長年連れ添った僕の掌ではなかった。
小学生の頃、図工の時間に彫刻刀で誤ってつけてしまった傷跡がない。友人とキャンプに行った際、バーナーの操作を誤ってつけてしまった火傷のあとがない。先日、包丁で切ってしまった傷がない。刻まれてきた歴史がない。
全体的に丸っこく、ぽっちゃりしている。
そう、まるで生まれたての赤ん坊のような綺麗な掌。
おいおい。
慌てて両の脚を確認。
つるっつる。脛毛の一本も生えていない。
さようなら、古い自分。こんにちは、新しい自分。
気がついたら、異世界に呼ばれていて、おまけに赤ん坊になっていた。
最悪だ。災厄だ。
実に笑えない。
極めつけは僕を呼んだのがどう好意的に考えても危ない人だってこと。
自分で言うのもなんだが、無垢な赤ん坊を前に血走った瞳で暗黒舞踏を踊るのは正気じゃない。
こういう時のお約束って、召喚される先は何処かの豪華絢爛な王宮で、可愛らしいお姫様がいて、伝説の勇者様が云々じゃなかったのか。
そもそも召喚のされ方がおかしい。
綺麗な光を放つ円形の魔方陣を使って、そのままの姿で喚ぶべきだ。
なんだ、この何かの血液で滅茶苦茶に書き殴られた記号は。整理整頓もあったもんじゃない。どう考えても外法じゃねぇか。
それとも、異世界人は誰でも召喚できるような割とポピュラーな存在なのか?
いや、先程の老婆の様子ではそれはない。
兎にも角にも情報不足だ。判断材料が少なすぎる。まずはこの老婆が誰なのか、何を思って僕を喚んだのかを――
「魔王様! 私はやりました!」
頼んでもいないのに、解答を老婆が吠えた。
これは、あんまりだ。
早くも死亡確定じゃないか。
僕の所在は恐らく魔王陣営。魔王がいるなら勇者もいる。それはもうツーといえばカーくらいの確立で。勇者というからには絶対チート気味な戦闘能力を備えているに違いないのだ。なんかやたらと強力な魔法と、悪いやつ皆殺しみたいな剣。
対する僕は大学生から赤ん坊にジョブチェンジ。ただでさえ低かった戦闘能力が今やマイナスだ。
「これで、これで、今貴方様が封じられてしまっても次の機会には必ずや、必ずや我等の悲願を! 道は私が開きました!」
腰を折り、祈るように手を組んで誓う老婆。僕に勝手な期待をされても困る。
老婆は必死の形相で閉め切られた地下室の分厚い鉄扉の外へ言葉を投げかける。その間僕は完全に無視されていた。
「それでは、暫しの別離です」
未練を振り切るように勢いよく僕の方へ向き直ると、ローブの中から箒を取り出した。老婆の背丈より遥かに大きい。今までどうやって格納していたのか甚だ疑問だ。
箒を小脇に抱え、僕を抱きかかえようとこちらへ近づいて来る。逃げたいが、逃げられない。赤ん坊の脚力では、相手が腰の曲がった老婆であろうと逃げ切ることは不可能だ。
一歩。また一歩。数歩で距離が詰まる。身長が赤ん坊そのものとなってしまったため、視界一杯に老婆の姿が広がった。
半ば諦めかけた僕が見ている中、突如、老婆の胸から剣が生えた。
遅れて聞こえてくる、鉄扉が倒壊する音。
事態の推移を目で見て確認したいが、動けない僕の視界に有るのは老婆と鈍い光を放つ剣のみ。
ただ、誰かが、部屋に入って来たのだけは間違いない。
老婆の表情が苦痛に歪み、口の端から血の泡が零れる。
「な……どうやっ……て」
「簡単なことだ」
老婆の背後にいる誰か、若い男の声。
そこに含まれる響きは嘲り。
「お前が儀式の準備で引きこもっていた間に、魔王は封印されたんだよ」
この破魔の剣でな、と付け加え、剣を更に深く捻じ込む。
老婆の瞳が、眼球が飛び出そうなほど、大きく見開かれた。
「何をやっていたかなんてお見通しさ。だから待ってたんだ。異世界人の召喚、そうだろう? 全く有難い話だよな。俺がやろうと思っていたことを敵が勝手に実行してくれるなんてさッ!」
そして、哄笑。
彼の声は地下室の扉の外に広がっているであろう通路にまで響いた。
「随分勝手だよな。こっちの連中は。逃げないのをわかった上で俺を拉致して、自分達の為に死ねってか? それで、俺が『ハイ、ワカリマシタ』と従うとでも? 過大評価もいい加減にしろッ!」
偽らざる本心。それは、彼が発した心の底からの叫び。
男が荒い息を吐く。
老婆は口の端を吊り上げた。
「……生まれが違うだけじゃないか。……住んでた世界が違うだけじゃないか。なんでこんな目に遭わされる。勇者なんて名ばかりだ。発射したら戻れない人間ミサイルに便宜上聞こえの良い呼称を付けただけ」
ぽたり。ぽたり。
老婆の体から抜け出る血液が血溜まりを形成し、冷たい地下室の床を濡らす。
「真実を知った、か。憐れだね。だから散々忠告したじゃないか。夢の国が在るのは夢を見ている間だけだ。醒めてしまったら、其処に在るのは冷たい現実。この世界でお前は人類じゃない。勇者という異端なのさ。訪れる繁栄を享受して良いのは人だけだ。だからアンタは――此処で死ね」
不意に老婆が哂い出した。
「てめぇ、何がおかしいッ!」
憤る男に老婆は答えない。
途切れ途切れ、されど力強く、一心不乱に奇怪な言葉を発し続ける。
それが呪文の詠唱だと気が付いたのは全てが済んでからだった。
如何に強力な剣であろうと振るえなければただの飾りに過ぎない。
老婆に唯一の武器を突き刺してしまった男は今や隙だらけ。
命を振絞って放った必殺の一撃に抗う術など有りはしない。
閃光。
爆音。
土煙。
後に残されたのは、剣と無傷の地下室。
そして――僕のみ。