第7話:綺麗な彼と汚い僕
嫌われ者の幼い子。
面倒ごとはごめんだから。厄介な種は抱えたくないから。
そんなものはお家に入れてあげません。
追い出された子どもがどこへ行ったのか。
そんなことは誰も気にしない。
だってその子は嫌われ者だから。
「すみませんでした」
「なにが?」
日が昇る前の起床が日課のヒツギが、目を覚ましたのは太陽が真上に上った時刻だった。ぼやける頭をこんこんと小突いていると、すっかり馴染みとなったハクが頭を下げてきた。綺麗にぴしりと背筋が伸びた謝罪は、この場では逆に違和感しかない。
「昨日は何か不快なことを言ってしまったようで…」
「…あー…ごめん、気ぃつかわせたね」
客に気を使わせる身売りなど、笑い話にもならない。人に弱みを見せてはならぬ立場であると言うのに、嫌悪の感情を悟らせてしまった事実が苦かった。ハクに対してではなく、自分が自制できなかったことが、自分が軟弱になったのではないかと思わせる。
ヒツギの心情を知ってか知らずが、未だ頭を下げていたハクの顔がようやく見える。
「いえ、ヒツギさんを不快にしてしまったのは事実。客としてでなく、一人の人として、謝罪をしたいのです」
「あんたくそまじめだねぇ、さすが良いとこの坊ちゃん」
ヒツギは無表情と言う意味で表情が薄いが、ハクも表情が薄く見えた。いつでも穏やかな笑みではあるが、逆にそれ以外の表情も大きく変わらない。そして今も、少し眉が下がる程度だが穏やかな顔つきをしている。
その無垢さが、少しだけ気に障った。
「で?僕がいない間にロゼと何話してたか知らないけど、帰らず起きるまで待って、謝りに来たわけだ」
「え、なぜロゼリープさんに会ったことを」
「ロゼの香水の匂いがぷんぷんするもん。あいつ、僕があんたと会ったって教えるためにわざとマーキングしたんだろうね」
立ちっぱなしのハクを隣に座らせ、見上げるヒツギの顔は笑っていた。
「知りたいんでしょ?僕がなんで娼婦館に所属してないのか」
真っ黒な瞳は光を移さず、鉛玉が顔にはめ込まれたように虚ろだ。それでいて眉をしかめて唇を吊りあげるその顔は、嘲笑や侮蔑を魂のない人形が浮かべているような違和感を醸し出していた。
「一言で言うなら、僕は嫌われてるの。だからどの娼婦館もいれてくれない」
子ども特有の高い声が淡々と紡がれ、それをハクは静かに聞いていた。
「娼婦館なんて厄介事の溜まり場みたいなもの。もっと言えば欲の肥溜め、人間様の性欲発散のための養豚場だよ。そんな場所にもいれてもらえないんだよ、僕は」
肩まで伸びた黒髪の隙間から見える瞳は、ハクでない遠くを見ているようだった。その静かな言葉の裏に孕んだ、嘲笑や侮蔑の意は、目の前の男でないどこかへ向けられている。
「豚以下の僕はなんだろうね?畜生?オナホ?っは、どうでもいいや。僕ねぇ、生きるために結構苦労してきたんだよ。死にたくなかったからね。家も家族も金も価値も僕にはない。ただこのみっともない身体売りさばいて名前も素性も知らない野郎どもに股開いて腰振って、道行く娼婦の言葉を見よう見まねで媚び売って、そうやって生きてきたんだよ」
言葉はどんどん速度を重ね、平坦なトーンに負の感情が上乗せされていく。その声も、ハクは静かに穏やかな顔で聞いていた。
「貴族のあんたには分かんないと思うよ。寝てる間に玩具気分で人の穴ん中に瓶だのパイプだのつっこまれたり、警官にとっつかまって牢できったねぇイチモツ咥えさせられたり、それでザーメンとゲロが混ざったもん吐いたらあいつらげらげら嗤いやがる。同じ娼婦共からは軽蔑されて、明日を迎えることが約束されてない人生なんてさ」
穏やかな静かな綺麗なお貴族さまの顔が、どうしようもなく憎らしくて。
「そんな澄ました面して平然と頭下げられるほどの価値は、僕にはないんだよ!!!!」
そんな彼を妬む自分と、あまりに綺麗な立場の彼に比べた自分の立場の惨めさに、苛立ちの矛先が自分自身に向かっているとようやくここでわかった。
貴族と言う立場の彼が妬ましい。しかしそれを上回る、自分の醜い部分への嫌悪が吐き捨てられる。自分は自分として、どんな立場でも胸を張って生きればいいと、そう思い続けていた。その思いが、上っ面の薄い膜で覆われた脆い見栄だなんて、気づきたくなかった。自分が惨めで浅ましい思考の、見下してきた奴どもと同じだなんて思いたくなかった。
一気に言葉を吐き捨て、角ばった肩を震わせ、手にぽとりと雫が落ちた。額からにじむ汗だと気づいて、自分が声を荒げて怒鳴り散らしたことに少し遅れて気づく。
目はすっかり下を向き、シーツに食い込む指が鬱血して白くなっていた。隣でハクがどんな顔で話を聞いているのか、見たくもない。
「…ヒツギさん」
「みっともないでしょ。僕ってこういうのなの」
「ヒツギさん」
「いくら澄ました面しても、結局腹の中は腐ってんだよ」
「ヒツギさん」
「幻滅したなら、今度こそちゃんとした遊郭にでもいきな。貴族のにーちゃんならいい思いさせてくれるしさ」
「ヒツギさん!」
首がふいにがくりを上を向き、両頬を包む感触と一緒にハクの顔が飛び込んだ。
相も変らぬ薄い表情だ。けれど、頬に感じる彼の手の力が、彼の目の光が、視線をそらさせてくれなかった。
「私は貴方が良い」
「…ヤり捨てがきくから?」
「人として、貴方を選んだのです」
頬に添えられた力が緩むと、代わりに背中にまわされた腕で抱きよせられ、一気に距離が近くなる。仕事の時以外で、抱き合うように肌を寄せ合うのは、初めてのことだった。
高そうな服、名門貴族の証のブローチ、苦労を知らない肌。どれも腹立たしいはずなのに、ハクの体温と匂いが身体に満ちて、ゆっくりと息を吐いた頃には力が抜けてもたれかかっていた。肺を満たすその香りは、慣れ親しんだ、初めての固定客の彼の匂いだと、すっかり頭が覚えてしまった。
「貴方の苦労は、私にはきっと理解ができない。けれど、貴方が辛い思いをしてきたのだけはわかります。だからどうか…どうか、自分を嫌わないでください」
欲や侮蔑以外の柔らかな声など、ロゼの声以外知らない。低くて耳にすっと馴染み、内側からじわりと何かがこみ上げるように熱を感じる声など、ヒツギは知らない。そんな声がもっと聞きたくて、ハクの服の裾を握りそうになるのを、拳をつくって我慢した。
「…あり…がと」
「礼を言われることではありません」
身を任せたい心地よい体温を振り払うように、そっと背中にまわされた手をほどく。
少しお尻を後ろへずらし、皺のよったシャツをそっとまくりあげる。細すぎる白い脇腹と形のよいへそが見え、そのまま上部へ続きなだらかなやわ肌が覗いた。
突然のストリップショーにやや困惑したような顔で、ハクは服をめくる手を止めた。
「あの…そんなことを望んで謝罪したんじゃありません」
「誰が仕事でもないのに抱かせてやるって言ったのさ」
苦労知らずの大人の男の手をぺちっと跳ねて、色気もなにもなく乱雑に身にまとう布をとっぱっらった。これから湯あみでもすると言わんばかりに堂々とした全裸に、羞恥も花もあったものではない。
「教えてあげるよ。僕が嫌われてる理由」
幾度も肌を重ねた、幼く貧弱な白い身体をヒツギはなぞる。わずかな胸のふくらみと、脚の間へ続く秘部がより幼さを強調しているようだった。
「僕はね、男でも女でもないの」