第3話:かもねぎ男は固定客
カーテン越しの朝日が瞼を自然と開かせる。
身体が重くない朝はいつぶりだろう。
筋肉をほぐすようにのびをひとつする。
眠っている間に何もされていないのを確認しようと思ったが、隣の寝顔を見てその気も失せた。
無防備に呆けた顔は安らかに夢の世界を眺めており、人を疑う癖のついたヒツギでも疑いようのない事実。
この男、馬鹿である。
あんな場所で、あんな身なりでうろついて、襲ってくれとアピールしているようなものだ。
今頃は身ぐるみ剥がされた死体になって川に浮いていてもおかしくない。
誘惑した本人が言うのもなんだが、会ったのがヒツギだったのはラッキーとしか言いようがない。
だらしなく緩んだ頬をつつくと、灰色の瞳が眠たそうにこちらを見返した。
「おはよう、かもねぎ男」
「おはよう・・・ございます・・・」
声から疲労感が伺える。
こうした疲労で朝を迎えるのが初めてだと男は言い、事実目覚めたものの起き上がるまで時間を要した。
手の当て方、腰の掴み方、揺さぶり方抱き締め方息の付き方・・・昨晩のどこを思い出しても初体験なのは如実であった。
後で聞くと、性交どころか自慰の経験もないと言うから驚いた。
20半ばになってようやく性欲を満たした男が、あんなにも激しく恍惚とした表情をするのだと無駄な知識が増えてしまった。
男は寝そべったまま声を投げかける。
「なぜあなたは普通に私の相手をしたのですか?」
「なぜ?あんたが客だからに決まってるだろう」
「私一人の財布を盗むくらい造作もないでしょうし、眠っている間に金目のものをもって逃げることだってできたはずでしょう」
どうやら自分がかもねぎ男の自覚はあったらしい。
そこまで分かっていて自分についてきたこの男は、馬鹿なりに度胸はあるのかもしれない。
男の言うとおり、多くの同業者はそうするだろう。
「まずひとつ、あんたは客として正統に僕を抱いた。だから僕も正統な対応をした。
ふたつ、あんたみたいな金持ってる固定客がいた方が楽だから。
みっつ、あんたは手を出しちゃいけない部類の人間だから」
「前者二つは分かりますが、3つ目はどういう意味でしょうか?」
男が寝ている間に拝借したブツをシーツの上に置く。
ヒツギの手の中にも収まる程度の、小さなブローチ。
黒い黒曜石の台座に、プラチナで複雑な文様と靴のマークが描かれている。
「こいつは『アシューズ家』の家紋だ。あんた本当にいいとこの坊ちゃんだな」
アシューズ家。
ワドの街で知らぬ者はいないどころか、世界に名を馳せる貿易会社の一族。
ご自慢の大きな屋敷はこの街に住んでいれば嫌でも目にする。
その財力と権力は、ヒツギが一生をかけても把握できないほど巨万のものだろう。
「偉いさんには手を出さないってのが僕の流儀でね。
手出しして痛い目見た奴は山ほどいるんだよ」
それだけの権力があるということは、裏世界にも領域を広げていることは容易に想像できる。
警察とマフィアも黙らせる天下の一族、敵に回せば死の方が楽だと思える地獄が待ちうけるだろう。
ちょろまかすなら小金持ち程度まで、これがヒツギの自衛策だった。
男はブローチをぼんやりと眺め、力が抜けたふにゃりとした顔で笑う。
「つまり、私は貴方の固定客になって良いということですね」
「・・・今はあんたにおいたしない理由を説明していたはずだが」
話のメインは3つ目の理由だというのに、男にとっては2つ目の方が重要らしい。
手早く手帳に連絡先を記し、ここはいつかけても繋がるからと渡される。
固定の身売りという物珍しいものを買えたからか、あるいは肉体の快楽が楽しかったからか。
自分としても固定客はありがたいが、こう無邪気に笑われると作り笑顔も作りがたい。
売ればそこらの労働者の年収を超えるであろうブローチを、ぞんざいに服の上に放りなげる。
男はのそのそと鈍間に起き上がり、ヒツギに向かって手を差し出した。
「私はハク。ハク=メルヒ・アシューズと申します」
身体を重ねた相手の自己紹介は初めて聞いた。
「・・・僕はヒツギ。名字はない、ヒツギ」
身体を重ねた相手に自分の名前を初めて告げる。
その立場なら、娼婦どころか愛人を何人囲ってもおかしくないと言うのに。
ハクという男は、みずぼらしく幼い身売りの固定客になれると笑っている。
そんな男をほんの少し、ごくごく微かにだが、面白いとヒツギは思うのであった。