放課後のあの人
校舎裏からそっと、様子を伺う。
陸上部が放課後の練習に励んでいた。1人だけ、ものすごいスピードで短距離を走り終えた人がいた。彼は他の部員に囲まれながら、その真ん中で笑顔を見せていた。
彼の名前は石川晃。私の1つ上の先輩にあたる。彼はまさに陸上部の華のような存在で、ただいるだけでも、妙に存在感があった。
私はこの学校に入学してすぐに、彼のことが好きになった。もちろん、顔がいいのが理由の1つなんだけど、それだけではなかった。
今年の春のことだった。
私は入学式そうそうに遅刻をしてしまい、焦っていた。通学路を一生懸命走っていると、何もないところで思いきりこけてしまった。
「いったぁ」
顔を地面につけてしまい、最悪だと思いながら埃をはらっていると、右足に痛みが走った。目を向けると、膝から血が出ていた。なんとか歩けるけれど、絆創膏は持っていなかった。学校入学そうそう、保健室に世話になるなんて、情けなかった。
「大丈夫?」
その時、声をかけられた。顔を上げると、同じ高校の人だった。私は顔を真っ赤にした。こんなところを見られたとは、しかも男子に! 穴があったら入りたい気分だった。
「血、でてんじゃん。ちょっと待って、絆創膏持ってるから」
彼は学生カバンをあさって、絆創膏を取り出した。
私がボーッとしている間に、彼は自分の持ってたハンカチと水筒も取り出して、水筒の中に入った水をハンカチにかけて私の膝を拭いてくれた。それから絆創膏でその傷をふさいでくれた。
「はい。もう怪我しないようにね」
「はい…」
それが私たちの出会いだった。
そして、私の初恋だった。
彼に近づくためには、いろいろな手段があったと思う。そのうちの1つが陸上部に入部することだった。でも、私は何もないところでいきなりこけてしまうほどのひどい運動オンチだった。だから、陸上部なんて絶対無理! だったらマネージャーが最適だなんて思うかもしれないけど、私の学校、陸上部はマネージャーの募集はしていないんだもの。どうすれば彼に近づけるのか、気がついたら私は校舎裏から彼を見つめ続けている日々を送っていた。これじゃあストーカーと同じだよ!
晃先輩は見ての通り、人気が高すぎる。彼女の噂は聞いたことがないけど、晃先輩は最近、1人の女子ととても仲が良い。彼女の名前は野田楓。私と同い年で、なんでも晃先輩とは幼なじみの間柄らしい。傍目では、2人はとてもお似合いだった。
下校を知らせるチャイムが鳴り響いた。仕方ない、今日も帰るか。
校門のあたりでもう一度陸上部の様子を伺う。片付け中だった。晃先輩は相変わらず野田さんと仲良く会話をしていた。
それからしばらくして、私の前に野田さんは現れた。
「あなたが、如月真央さん?」
私は今まで知らなかったけど、野田さんは私のクラスの隣らしかった。
「ねぇ、如月さん。そろそろ晃くんのストーカー、やめてくれないかな。晃くん、迷惑してるんだよね」
野田さんは他の子達に会話が聞こえないように小さな声で私に言った。
私はその場に凍りついた。
「今まで、晃くんにべったりだった子は多いけど、あなたはその中でも最低の部類だわ。晃くんを思うなら、身を引いてくれると嬉しいな。私にとっても、彼にとっても…」
野田さんは、未だ凍りついている私を見て微笑むと、「それじゃあね」と言って、自分の教室に戻っていった。
どうしよう、野田さんは私のことを晃先輩のストーカーだと思っている。実際、そうなのかもしれないけど、もしかしたら野田さんは晃先輩のことが好きなのかもしれない。だから、あんな風に言ったのだ。晃先輩が私のことに本当に気づいているのかは定かではないけれど、もしもこのままバレたら、私は一生。晃先輩に振り向いてもらえないに違いない。
そんなの嫌だ!
だから私はその日を境に、晃先輩の走っている姿を見るのをやめてしまった。
運動場を通らずに、黙って校門を通り過ぎようとした。
「おーい、待ってよ」
声をかけられて振り向くと、そこには晃先輩がいた! 私は途端に緊張して、その場に固まってしまった。
「今日は練習を見てかないの?」
「え?」
「だってほら、いつも校舎裏から陸上部の練習を見てるじゃん。今日は来ないのかなぁなんて思ってさ」
「え、あ、えーっと…」
まさか晃先輩にバレていたなんて! 私は緊張しながら「家の用事があるんです」と蚊の鳴くような声で答えた、我ながら情けない…。
「そっか、それは残念だね。でもま、待ってるからさ。いつでもきなよ。俺はもちろん、他の部員も歓迎するよ」
「ありがとうございます…」
私は顔を真っ赤にさせながら、なんとか言った。内心ではとても嬉しかった! だって、あの晃先輩が私に声をかけてくれたんだもの!
晃先輩が部活に戻っていく後ろ姿を見つめながら、私は嬉しくてどうにかなってしまいそうだった。
「ウザ」
そこへ、木の陰から野田さんが姿を見せた。
「何顔真っ赤にしてんの? それでお近づきにでもなったつもり? ふざけないでよね、晃は私のものなんだから」
そう言って彼女は晃先輩のところまで行って、彼にダイブするように飛びついた。2人でじゃれあっている。晃先輩は笑いながら野田さんを自分から放そうとしていた。それから野田さんはこっちを見て、舌を思いきり突き出した。
次の日、学校に行くと、下駄箱から上履きが消えていた。なんで! 昨日まであったはずなのに。
「あーあ、かっわいそ〜」
声のした方を見ると、そこには野田さんがいた。
「上履きなくしちゃったのぉ?」
これをしたのはきっと、野田さんなのだろう。
私は下唇を噛み締めながら、彼女を睨んだ。
「え、何よその目。まさか疑ってんの?」
野田さんは私のことを思い切り突き飛ばした。私はよろけて床に倒れてしまった。
「にっぶ」
「あれ、楓じゃん」
この声!
やっぱり、晃先輩だった。
「何してんの。あ、君も。えーっと、如月さんだっけ」
「晃!」
急に野田さんは晃先輩に飛びついた。
「わ、どーしたんだ?」
「ひどいの、如月さんったら。私に晃には近づくなって、晃は自分のものなんだからって言ってた。それで私、ムカついて突き飛ばしたら、嘘泣きしようとするんだよ? でも良かった、晃がいてくれて」
私は驚いて野田さんを見た。それから晃先輩を見ようとしたけれど、怖くて、責められそうで…、見ることができなかった。
「わかったから、楓は教室に行ってな」
「うん」
野田さんは涙を流しながらうなずいて、その場から立ち去った。
晃先輩に見えないように、私に舌を突き出しながら…。
「えっと、如月さん?」
晃先輩が声をかけてきたけど、 私は怖くなって、その場から走り去った。
教室に着くと、クラスメイトの由美ちゃんが声をかけてきた。
「どしたの、真央? なんか元気ないし、上履きもないし…」
「由美ちゃん、私、石川先輩に嫌われたかも…」
「は?」
由美ちゃんは私が晃先輩のことを好きだと知っている友達だ。彼女はポカンとしていたけれど、すぐに心配そうな顔になって「話してよ」と言ってきた。
私は涙を流しながら、昨日から起きたことを由美ちゃんに話した。
話し終えると、由美ちゃんはため息をつきながら言った。
「その子、石川先輩の幼なじみでしょ? 関わっちゃマズイよ。だってここだけの話だけど、彼女、石川先輩に近づいた女子は容赦なくいじめるらしいよ」
「そう、なの?」
「うん」
由美ちゃんは難しい顔をしながら「かと言って、恋を諦めるわけにはいかないものね…」と言う。私は涙をハンカチで拭きながら、ちょっと安心した。
「ありがと、話聞いてくれて。なんかスッキリした」
「そう?」
由美ちゃんに心配をかけるわけにもいかなかった。
「ちょっとトイレ行ってくるよ」
「え、もう朝のホームルームが始まっちゃうよ?」
「すぐに済むから、へーき」
私は急いでトイレへと向かった。
個室からでようとドアのロックを解除して、押そうとした。
「あれ!?」
開かない! どうして!?
どうしよう。もうすぐ始業のチャイムが鳴るから、ここには誰もこない。
「ふふっ」
ドアの向こうで笑い声がした。
「誰かいるの?」
笑い声は続いている。
「ねぇ、開けてよ! ここを今すぐ開けてよ!!」
「せーのっ!」
何人かの女子の掛け声が聞こえてきた。
バシャァァァァッ
冷たいと思った時には、全身がびしょ濡れだった。
「アハハハハハハハッ」
笑い声がトイレの中でこだまする。
きっと、野田さんだ…。
仲間を呼んで、私をここに閉じ込めたんだ…。
「うっ。ううっ…」
ドアを開けるのが怖かった。
こんな格好で教室に戻るのが嫌だった。
バタバタと、走る音が聞こえてきた。
きっと、野田さんたちがここからでていったのだろう。
学校中に始業のチャイムが鳴り始めた。
おぼつかない足取りで、如月真央が今日も廊下を歩いている。
先週からずっと、野田楓の如月真央いじめが起こっているのだ。
あたしはそれを見ていることしかできない。
だって、学校の裏サイトに「如月真央をかばった者は、次の生贄となる」っていうメッセージが出回っているから。
あたしは、真央の友達なのに…。
真央が時折、こっちに目を向ける時がある。
その目はまるで、「どうして助けてくれないの?」と、責めているようだった。私はそのたびに、目をそらし続けた。
真央いじめはひどくなるばかりだった。
物を隠されたり、机の中身をゴミだらけにされたり、トイレで、水をかけられたり…。
あたしはそれを、見て見ぬ振りをしていた。
「ほぅら、如月。ここ汚ねぇから掃除しとけよ」
クラスメイトの男子が雑巾を真央の顔をめがけて投げてきた。真央はどんくさいから、それをまともに受けてしまう。
「うっげぇ、きったねぇ」
クラス中が笑いの渦に包まれる。
「あはは、男子ったらサイッテー」
そう言ってから、その子はあたしを見て、
「あんたも友達のフリすんのやめたら?」
真央が驚いたように、こっちを見てきた。
あたしは口をモゴモゴさせた。
もし、ここで否定したらあたしもいじめられるのかもしれなかった。
「そう、だね」
真央の絶望したような顔、クラスメイトの笑い声…。
あたしもその中で、うっすらと笑っていた。
「あなたが林さん?」
野田さんが声をかけてきた時、あたしは心の底から震え上がる思いで、彼女を見つめていた。
「あなたにお願いがあってきたの」
野田さんはあたしの耳にこそこそと話しかける。
あたしは驚きで目を見開くしかなかった。
「じゃ、お願いね。もしも如月真央をかばったら、あんたが如月真央と同じ目にあっちゃうんだから。ふふふっ」
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い…!!
野田さんは高らかに笑いながらその場を立ち去った。
「あ、君!」
声をかけられてそっちの方を見ると、そこには石川晃がいた。
「君って確か、如月真央さんの友達だよね」
私は思わず、彼の胸に飛び込んで叫んでいた。
「助けて、真央を助けてあげて!」
その一言が、彼にどのような意味を抱かせたのだろうか。
「わかった」
そう1つうなずくと、走ってどこかへ行ってしまった…。
「ゲホッ、ゲホッ」
野田さんが私を見下ろして、さも愉快そうにケタケタと笑っていた。周りにいる野田さんの友達もやはり、笑っている。
「このストーカー! さっさといなくなっちゃえ」
また蹴られるーー!
「やめろっ!」
この、声…。
「きゃっ、晃!?」
体がふわっと浮いた。
「大丈夫か、如月」
私はただ、うなずくことしかできなかった。
そのまま気を失ってしまった。
目を覚ますと、そこには由美ちゃんと保健室の先生、それから晃先輩がいた。
「良かった、真央!」
由美ちゃんが私に抱きついてくる。
「ごめんね、ごめんね!!」
私は訳が分からず、ぼんやりと保健室の天井を見つめていた。
「良かったよ、如月さんが無事で。林さんのおかげで君は助かったんだよ」
私はその晃先輩の言葉に、涙が溢れてきた。
良かった、私。由美ちゃんに裏切られてなかったんだ!
「由美ちゃん、重いよ」
どう言っていいのかわからず、とりあえず文句を言ってみた。由美ちゃんはごめんとまた謝って、私から離れた。
「さて、じゃあ先生は生徒指導室に行ってくるわね」
「あたしもちょっとでてきます」
保健室の先生と由美ちゃんが一緒に出て行った。
あれ、この状況…。
もしかして私、先輩と2人きり!?
「本当に良かったよ、如月さんが無事で。林さんなんて、ずっと泣いてたんだから」
なんだか、由美ちゃんに申し訳ないことをしちゃったな。
「楓のことは心配しないで、あの子は今、生徒指導室で注意を受けてるんだ。もしかしたら、休学処分が下るかもだけど」
私はまた、泣きそうになった。
「泣くなよ」
晃先輩が私の頭を撫でてきた。
「先輩のこと、好きです…」
気づいたら、声に出ていた。
晃先輩は驚いた顔のまましばらく止まっていたけれど、やがて私に向かって微笑んだ。
「なら、これからも陸上の練習を見に来てくれるか?」
「もちろんです!」
私は思わず晃先輩に抱きついた。