第93話 ~初めて向き合った二人~
路地裏に逃げ込んだファインは、のんびり追ってくる少女の視界外には逃れられたものの、まったく安心できる状況じゃない。冷たい石造りの建物に背中を預け、上がりきった息をはぁはぁと整える。
「ん……っ!」
魔力を練り上げようとするファインだが、風の翼を生じさせるはずの魔力が形にならない。魔力自体は体内に作り出せても、自分の中に居座っている黒い魔力が、それを吸収している実感がある。作った魔力で何をしようとしても、その前に魔力が食われてしまい、一切の魔術が使えない。
しかし一方、足元からびりりと伝わる魔力の波動が、ファインの背筋をぞくりとさせる。ファインを見失った少女が全方位に魔力を発し、ファインの居所を探しているのだ。隠れても無駄だよ、と、言葉なく突きつけられるファインは、息を整える暇もなく、その場を離れるため背中で壁を押す。
「み~つけた♪」
「ひっ!?」
走り出そうとした真正面、少女が横道からにゅっと姿を現して、ファインの行く手を塞いできた。大人に近付きつつも幼さの残る、可愛らしい顔を微笑みに満たす少女だが、ファインの目の前で火球を掌の上に生じさせる姿は、かえって笑顔に狂気を匂わせる。
「あははは! 逃げろ逃げろ~!」
背を向け逃げだすファインめがけ、少女は火球を時間差で3つ投げつける。いずれもさほど速くはなく、殺気を感じ取ったファインが振り向きざまに火球を目にして、慌てて避けるぐらいの余裕がある。ファインをはずした火球はいずれも地面や壁に当たって爆発し、人に当たっていたら死をもたらす威力を、飛び散る瓦礫や火柱で物語っている。
「……意外と諦めてないなぁ」
小走りでファインを追う少女。わざといたぶるようにして、恐怖心を煽ってやっているのだが、ファインの足取りや動きには、絶望感よりも前向きさを感じる。何よりファインは走りながら魔力の捻出を続けており、魔術を封じられた状況を打開することも試みている。自分の魔力が、ファインの魔力を吸収し続ける実感を得ている少女だから、そういったファインの諦めの悪さもよくわかるのだ。
仲間と力を合わせてとはいえ、ニンバスを破ったと聞かされている相手だ。ファインに対する興味を強める少女は、再び地を走る魔力で見失ったファインの位置を確かめる。うん、今はその辺りか、と。
「お?」
角を曲がった少女の目の前には、背を向けずに立つファインが待っていた。少女は思わず、ぷっと笑ってしまう。行き止まりを背にしたファインが、路地裏のどこで拾ったのかは知らないが、デッキブラシを握って構えている。
「へぇ~、ふぅ~ん、そんなもので私と戦うつもりなんだぁ?」
逃げ場を失いそれしかないとはいえ、へっぴり腰で体を震えさせて。魔術も使えない状況でせめてもの武器を見つけて、それにすがるファインの姿は、追い詰められた彼女をわかりやすいぐらい表したものだ。それでも諦めてたまるもんかと、目だけは強く保っている辺りは、少女も笑わず感心してもいいと思っている。
ゆらゆらとファインに近付く少女は、ファインの武器が届かないぐらいぐらいの距離感で立ち止まり、右の掌をファインに向ける。そして、掌サイズの小さな石を弾丸のように発射して、デッキブラシを握っていたファインの拳に当てるのだ。小さな石でも速度は充分、痛みに小さな悲鳴をあげたファインがデッキブラシを落とし、後ずさる彼女の前方で、からんからんと唯一の武器が乾いた音を立てる。
「つっかま~えたっ♪」
痛みにうめくファインに近付き、彼女の胸元を強く押す少女が、ファインを背面の壁まで突き飛ばす。軽くとはいえ背中を壁に打ちつけたファインが、けはっと息を吐いた直後には、少女の両手がファインの両手首を握り、彼女の頭の上に持ってこさせている。
頭の上でファインの手首を交差させた少女が、魔力を軽く練り上げると、少女の手から発した粘土がファインの手首に絡み付く。そのまま粘土を少女が壁に押し付けると、壁にひっついた粘土がすぐに固まって、手枷のように硬直した粘土がファインを拘束する。
「あっ……あっ……!」
「えへへ、足も止めちゃおーっと」
縛られた手を見上げて動揺するファインをよそに、少女はファインの足元へも魔力を落とし込む。地面から発生した粘土が、ファインの両足に絡みつき、さらに固まってその足を固定してしまう。あっという間に、壁を背にしたファインが、挙げたままの両手を壁に縛り付けられ、足もまったく動かせない磔状態にされてしまった。
魔術も使えず手足も動かせない、最悪の状況。お願い消えて、と、全力で魔力を練り上げるファインだが、体内に内在する少女の黒い魔力が、絶えずファインの魔力を吸収して魔術を使わせない。
「近くにはだ~れもいないよ。私とあなた、二人きり♪」
「う、うぅ……」
「うふふふ、どきどきしてるねぇ。心臓張り裂けそう?」
誰も助けになど来ないという言葉でファインを追い詰めながら、少女がファインの左胸に手を当てる。自分はいったいどうなってしまうのか、怖くてたまらないファインの鼓動は、速く大きく弾んでいる。間近でファインの顔を見下ろす少女の目にも、怯えるファインの震えた唇が映っている。
しかし、全身かたかた震えさせている割には、魔力の捻出を諦めないファインの態度を、少女も見過ごしてはいない。魔術封じの闇魔術は、ファインの魔力を食い続けて魔術の行使を妨げるものだが、吸収できる魔力の限界を超えれば、少女の闇の魔力とて潰える。ファインもそれは、わかっているのだろう。魔術を使える結果に繋がらないのに、魔力を練り続けるファインの姿勢は、まだ諦めていない証拠である。
「私の魔力を打ち破っても、その頃にはあなた生きてるかなぁ?」
親指と人差し指の爪をファインの喉元に突き立て、ナイフで脅すように死を暗示する少女。ぞっとして冷や汗を噴き出させ、涙目になり始めるファインだが、それでも魔力の捻出は続けている。自分の魔力が絶えずファインの魔力を吸収している実感があるから、目に見えなくても少女は実感している。
「……あなた、諦めないね」
一貫して笑顔だった少女が、不意に無表情になった変遷は、さらにファインの背筋を凍らせただろう。しかし爪でファインの柔らかい首を傷つけるでもなく、少女は顔を少しファインから離す。
「生きたいの?」
当然のようなことを聞いてくる少女に、ファインも思わず一瞬魔力の捻出を止めかけた。当たり前です、と普通の回答を頭に浮かべても口に出さないファインは、回転の速い頭で、問いの真意を深読みしてしまう。
「混血児のあなたに、この世界で楽しく生きられる場所があるの?」
ずきりとファインの胸を痛めさせる言葉を発した少女は、混血児として生まれたファインの過去を想うかのような表情。蝿を疎むような目で天人達には蔑まれ、一緒にするな近寄るなと地人達には罵倒され、救いの手を求めても誰も助けてくれなかった過去が、ファインの脳裏に蘇る。
「私達は、そういう世界を変えたくて戦ってるんだよ」
ふと気付けば、いつの間に少女の瞳はこんな真っ直ぐなものに変わっていたのだろう。虐げられる地人達の嘆きや悲しみ、それがはびこる世界を変えようと、天人達に戦いを挑んだ魔女アトモス。それが亡き今も彼女の遺志を継ぎ、天人支配の世を終わらせようと戦う反乱軍に属する少女の目には、盟友達の代表者としても恥じぬほどの意志力が宿っている。
魔力を生み出すことも忘れて、ファインが動けなくなる。見つめる少女の瞳に吸い込まれそうになる。相手は、故郷クライメントシティに侵攻してきた者達の一人だというのに、その行動の裏にある確かな信念を差し向けられると、悪だと断じる想いも封じられかけてしまう。
「あなたは、私達のやってることが、間違っていると思う?」
クライメントシティを破壊し、多くの人を殺め、火を放つ少女達の行動を肯定など出来ようものか。そんなことはきっと、少女だって承知の上で問うているだろう。それを、曇りなき眼差しで確かめてくる少女を前に、試されているのはファインの方。
だって、すぐに否定できないのは。
「自分達にとって、苦しくて苦しくてたまらない世界を変えるため、武器を取るのは間違ってるの?」
誰も助けてくれない、みんな自分を苦しめる、こんな世界は壊れてしまった方がいい。ファインにとっては痛いほどよくわかる感情だ。何も悪いことなんかしていないのに、いじめられて、反発したらそれを理由にまた暴力を振るわれて。どうして自分は混血児なんかに生まれてしまったんだろうと、泣きながら夜を過ごしたのも一度や二度ではない。
なぜ、殺生や破壊が悪事と定義されるのかなど、誰でも簡単に説明することが出来る。しかし、先に奪われてきたのは少女達。アトモスの遺志に属した者達、差別される側として虐げられてきた者達だ。
「私達っていうのは、生まれに甘んじ一方的に奪われ、虐げられる日々を受け入れて、ただ慎ましやかに生きることが善行なの?」
揺さぶる少女も実感している。言葉を返せず、口の端をぎゅっと絞ったファインが、魔力を練り上げ始めていることを。少女に主張に対して、相手を納得させる言葉を見つけていられなくても、その思想を受け入れて肯定することは出来ないという、無言のファインの主張だ。少し寂しげに目尻を下げる少女だが、同時にそんなファインの態度から、彼女の生き方を感じ取って新たに問う。
「あなたは、混血児であることを理由に差別される今の世界のまま、幸せに生きていけるの?」
問いが変わったのはファインにとっては良いこと。先の問いには返す言葉を見つけられなかったが、これに対してなら言い返せる言葉がある。確たる自信を持って、はっきりと。
「生きて、いけます……!」
言葉を発せた、意志力がはじけた、ファインの精神力が生み出す魔力が一気に溢れた。それは、ファインの胸の中に居座っていた少女の黒い魔力を、逆に一気に呑み込んでいく。ファインの魔力を吸収し続け、飽食状態に近付いていた黒い魔力が、ファインの魔力を吸い取る許容範囲を超え、有から無へと変わっていく。魔術封じの魔力が失われていくのと反比例し、ファインの全身から彼女本来の魔力が溢れ始める。
急激な魔力捻出の激増に、少女が何か次の手を打つより早く、ファインの魔力が彼女をはりつけにした物質にはたらきかける。土の魔力で固められた硬直粘土を、同色のファインの魔力が侵食し、硬い様相を一新する。くっ、と小さくうめくような声と共に、両手に絡みついたままだった土を引き千切ったファインの足元、彼女を地面に縛り付けていた土も溶けている。
「混血児に、この世界を幸せに生きていける道があると思うの?」
「一人では、ありませんから……!」
一人ぼっちで生きていき、幸せに生きていくことなんて不可能だ。サニーやクラウド、リュビアに出会えた今はそうじゃない。今のファインには、世界がどうこう変わって欲しい思考回路をしていない。人生を幸せに生きるために最も大切なもの、それをはっきり"友達"と断言するファインの信念はそこにある。
「……まだ答えを聞いてない。奪われ続けてきた私達が、せめての平等を求めて武器を取るのは間違ってる?」
改めての難題。魔術を行使できるようになり、動ける状態になったからといって、強気になれるわけでもない。相手の心に真剣に向き合う前提が変わらぬなら、自身の状態など何も関係のないことだ。何も言えないはがゆさに表情をつらくするファインだが、それでも何とか絞り出した答えは。
「……間違ってなんか、いないと思います」
「だったらどうして、私達の邪魔をしようとするの?」
「壊して欲しく、ないんです……!」
育ちの故郷、クライメントシティを。つらい記憶も恨めしい記憶もいっぱいある。だけど今では、大好きなお婆ちゃんとの、楽しかった思い出も確かにある。サニーと知り合い、親友同士になれた大切な故郷だ。正しくあろうがなかろうが、あるいは神様が少女達の行動を正義と定めても、ファインはこの故郷をぶち壊しにされたくない。
数歩退がって臨戦の距離感を作る少女の顔は、今までのように浮ついたものではない。だけど、薄気味の悪い笑顔なんかよりも、ずっと何かを満足げに感じる小さな笑みは、彼女の胸の奥を僅かに溢れさせたもの。いくら理屈を重ねたって、破壊や殺生を肯定なんてして貰えるはずがない。否定されて当たり前だった自分達の行いを、ファインは否定しなかったのだ。その上で対立する理由が何かと問えば、私のエゴですと感情で答えを出してくれた。
戦いなんていうものは、正義と正義のぶつかり合いではない。矛盾する一つの思想を暴力によって封じ、服従を強いるための行動でしかないのだ。自分達の利得を守るため、倫理や道徳を以ってアトモスの遺志の活動を否定する天人達。それに吐き気すら覚えていた少女にとって、せめて地人達の憎しみや嘆きに一抹の理解を示してくれたファインには、こんな形で出会いたくはなかったとさえ思う。
対立するなら、戦わなくてはならないから。
「……邪魔をするなら、やっぱりいじめて殺すしかないなぁ♪」
にぱっと笑う、狂気の笑顔を纏った少女が、濃密な魔力を練り上げる。対するファインも同様だ。恐らく、現在クライメントシティにいる全術士と比較したとしても5指に入る術士たる二人が、終戦近き都の路地裏で対峙する。
「行くよ? あなたの選んだ道、後悔しないようにね?」
「っ……!」
両掌から火の玉を浮かせる少女と、魔力纏いし両手を淡く光らせ構えるファイン。暴徒達が撤退し始め、騒乱の終焉を迎えかけた今この時、最後の戦いが密かな一角で行なわれようとしていた。




