第89話 ~闘士クラウドの決死行~
クラウドの拳が、交差させたタルナダの腕のガードに突き刺さった瞬間、大鉄槌が一枚岩に激突したような衝撃が両者間に走る。その波動は大気までもをびりびりと震えさせ、二人の肉体がめぎりと軋むような音には、離れた位置に立つ者達も背筋が凍りつく。骨が軋む実感を奥歯で噛み潰し、修羅の形相を表すタルナダ。衝撃がずたずたの体を貫く激痛すべてを、獅子のように荒い息で吐き殺して睨み返すクラウド。虎もたじろぐような眼光が正面衝突するも、怪物二人は怯まない。
僅かな時間停止、直後まず動いたのはクラウド。振り上げた脚でタルナダの腕の交点を蹴り上げると、不動の豪傑の腕が跳ね上げられる。一瞬タルナダへの道が開けたと思ったその直後には、素早い回転後ろ蹴りを放つタルナダが、足をクラウドに正面から迫らせている。振り上げた方の逆の脚を軸にして回転するクラウドが、振るった裏拳でタルナダの足の側面を殴りつけ、鐘突き棒のような巨大な蹴りを横に殴り逃がす。しかしタルナダは突然の反撃にも体勢を崩すことなく、足を振られる方向へ素直に体を回し、さらに加速させて素早くクラウドに向き直る。そして振り上げさせられた両手を組み、クラウドを頭上から潰すハンマーのように振り下ろしている。
横っ跳びに回避したクラウドだが、今しがたまで立っていた石畳が、タルナダの組んだ拳によって粉砕される。そこまで体勢を下げたタルナダは、逃れたクラウドに向かって素早く地を蹴り、肩口から突撃するタックルの形へ移行。隙めいた体勢から、体すべてを狂牛のような武器に変えて迫るタルナダに、クラウドも両腕を前に構えて防ぐしかない。大人二人ぶんの体重をゆうに持つタルナダの激突に、踏ん張りきれずに後方によろめくクラウドだが、即座にタルナダが側面から太い腕を振り抜いてくる。
確実に入ったと思える剛腕のスイングを、まさかクラウドが素早く両腕で抱えるようにして捕えてくるとは、タルナダも予想していなかっただろう。さらに捕えた瞬間にその場でぎゅるりと急回転、タルナダの腕をひねりながら引っ張るクラウドが、殴ろうとしてきた敵の勢いすら利用して、一本背負いの要領で投げ飛ばす。誰もが見上げるような大男が、攻めたと思った瞬間に巨大な弧を描き、亜光速で投げられる圧巻図だ。
しかし背中から叩きつけられたタルナダが、ダメージに怯むどころか自分の腕にしがみついたクラウドを、なんと寝たままの体勢で腕を振るって浮かせる。投げた直後に自分の方が振り回され、瞬時にまずいと悟ったクラウドがタルナダの腕を手放し、タルナダの足先向に投げ飛ばされていく。タルナダから随分離れた場所まで飛ばされつつも、空中で猫のように体を翻したクラウドが、両掌と両足で地面に着地して、地を擦りながらブレーキをかけていく。
クラウドが地に到達するより前に、仰向けの体勢から身を縮めたタルナダが、後転さなかに一瞬つむじを下にした瞬間、地面を両の掌で押す。同時に上空へ蹴り出す脚の勢いも加え、腕力を主にして巨体を逆立ちのまま跳躍させたタルナダは、そのまますぐに膝を抱えて空中で丸くなる。さらに一気に首を引き、前方回転し始めると同時、瞬時に周囲に発生した礫岩の数々が、タルナダ目がけて集まってくる。
あっという間にいびつな球形の巨岩となった礫岩の塊は、着地した瞬間にクラウド目指して一気に驀進する。掌と足裏を擦りながらようやく後退速度が落ちてきた矢先、自分の倍ほどの巨岩が転がってくる光景は、普通どうしていいかわからなくなるようなものだ。
まさに巨岩がクラウドを踏み潰さんという瞬間、振り上げられたクラウドの足が、タルナダを核に据えた巨岩を蹴り上げる。声だけで草木も震わすほどの短い絶叫とともに、自分よりも大きな岩石を後方へと蹴っ飛ばすクラウドの姿には、周囲は勿論タルナダも愕然。地を離れて浮かされたまさかの実感に、すぐさま魔力を解放したタルナダは、纏っていた岩殻を周囲に飛散させる。日の下に再び現れたタルナダを、蹴り上げざまに背中を地に落としたクラウドが顎を上げて視認、空中で身を翻すタルナダと視線をぶつけ合う。
泣き叫ぶ体の痛みも、すべて黙れと押し込めて、素早く身を反転させて立ったクラウドが地を蹴った。負傷しているはずの体であの速さ、俺の目がおかしくなったのか、とタルナダが自分を疑うほどクラウドの速度は異常。やや高い場所からとはいえ、重力に引かれて落ちていく自分が着地する瞬間へ、あの速度は確実に追いついてくる。かわしようがない。
ほとんど最終手段、空中でぐるりと我が身をひねったタルナダは、着地の瞬間にクラウドに背を向け、自分の体で最も頑丈な背筋でクラウドの拳を受けた。前方へと吹っ飛ばされそうな体を、瞬時に全力で重心を落として踏ん張るタルナダは、まるでダイヤモンドの一枚岩のような頑強さ。エンシェント、蝸種最大の特性である背面守備力は、あらゆるものを破壊するクラウドの拳でも砕けず、逆にクラウドの右拳の骨が残酷な音を立てた。
拳が砕け、反動で腕がみしつき、貫く衝撃がボディを揺るがし、地獄のような痛みの中でクラウドが後ろによろめく。力なく背中から離れたクラウドの拳を感じたタルナダは、片足軸に振り返った瞬間に最速の前蹴りを放つ。飛びそうだった意識の中、かろうじて残った最後の本能で腕を構えたクラウド。しかし交差させた腕にタルナダの足が激突した瞬間、今まで吐いたこともないような悲鳴がクラウドの口から溢れる。
腕の交点、タルナダの一撃を受けた場所から広がる衝撃は、砕けかけていたクラウドの右拳にとっての致命傷。蹴られた勢いで後方に跳んだクラウドだが、タルナダから離れた位置で構え直そうとしても、右手を握り締めることが出来ない。拳が完全に死んでいる。
今こそ勝負の決め所だと正しく判断したタルナダが、凄まじい速度でクラウドに差し迫る。苦痛のあまり目の焦点が揺らいでいたクラウドが、はっとしたその瞬間には、すでに目の前に怪物の姿。明らかに前後不覚寸前だったクラウドを見受け、勝負を懸けたタルナダの前腕が、クラウドの首を狩る勢いで正面からフルスイングされている。
それでもクラウドは動いた。勢いよく前の下方めがけて体を沈め、タルナダの剛腕をくぐるように回避する。体を傾けるようにして沈み込んだクラウドの髪をかすらせ、タルナダの腕が風を切る。これをかわされても、すぐに体を翻して放つ蹴りでのとどめを想定していたタルナダにとって、この回避劇すら勝利へ繋がるプロセスに過ぎなかった。
だが、クラウドがかわした手前に残してきた右腕が、タルナダの腕とがっつりと噛み合った。90度に曲げたクラウドの腕と、鎌のように振り抜いたタルナダの腕が、肘の内側同士を激突させる形で食い止め合う。体を回転させるつもりだったタルナダが次の行動に移れず、同時に壊れかけていたクラウドの右腕全体が、いくつもの筋をぶちぶちと切られて使い物にならなくなる。
奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばったクラウドが、絡み合っていた腕を引き抜く。そして、背面斜方に背を向けて立つタルナダに素早く向き直ると同時、決死の想いでその背中に飛びついた。背高いタルナダが前のめりになっていた背中に体ごと飛び乗ったクラウドが、最後の力を振り絞ってタルナダの首に右腕を巻きつける。
「ぐっ……が……!?」
ここまで明確なうめき声をタルナダが発するのは今日初めてだ。タルナダの喉元に右腕の肘の内側を押し付けた直後、左の肘の内側で右の手首を捕まえ、左の掌でタルナダの後頭部をがっちりと捕まえる。活きた左腕の全力を投じ、右腕を締め縄代わりにタルナダの首を絞め、頚動脈を圧迫するスリーパーホールドの形だ。
人間離れしたクラウドのパワーで、頭への血流を止められるタルナダの危機感は半端なものではない。暴れる牛のように我が身を振り乱し、背後から食らいつくクラウドを振り落とそうとする。しかし、両脚でタルナダの胴を挟み込み、下半身まで使ってしがみついたクラウドを引き剥がすことが出来ない。クラウドの右腕に両手をかけ、絞めをこじ開けようとするタルナダだが、クラウドも左の掌でタルナダの後頭部を押し込みながら、左腕で右手首を引く。がっちり捕まえたタルナダの首を、決して解放しない。タルナダの腕力に比肩するクラウドの怪力が、完璧な形で首元を捕えてしまえば、力任せでそれを剥がすのは不可能だ。
落とされてしまう数秒後を予感したタルナダの行動は早い。石造りの建物に背を向けたと思えば、後ろ走りで勢いよく、背中にしがみついたクラウドを叩きつけにいく。しかし、迫る石壁が近付いてくるのを察したクラウドは、激突寸前でタルナダの胴に巻きついていた脚をほどき、腹でタルナダの背中を押して体を僅かに浮かせる。そして、背中から壁にぶつけられる直前、振り上げた足の裏で壁に着地する形を作り、挟まれて体を潰される危機を回避する。
クラウドを叩きつけた手応えがないことをタルナダが察する頃には、勢いよく石壁を蹴ったクラウドが、タルナダを前方によろめかせて、すぐに再び胴に足を巻きつかせる。前のめりになった瞬間、揺れたクラウドの体に伴い、さらに首元に食い込んだ腕が、タルナダの意識を圧迫する。視界がちかちかしてきたこの瞬間、いよいよタルナダも失神後の世界が見え始めてきた。
落とされてたまるかと、胴に絡みついたクラウドの足を、タルナダが両腕で捕まえる。手放したクラウドの腕が、邪魔者を失ってさらにタルナダの首を絞めるが、クラウドの脚が動かせない状況になった。そして、よろめいた勢いで石壁から離れていたタルナダが、再び後方へと勢いよく走り始める。
「はっ……が……!」
「げぐ、ぁ……!」
タルナダの巨体と加速度、硬く不動の石壁に、体を勢いよく挟まれたクラウドの悲鳴。激突の瞬間、一瞬最も強く絞まる首に、嘔吐めいた声を溢れさせるタルナダ。あばらの砕けたクラウドにとって、この一撃がどれほど痛烈であったかは計り知れない。緩みかけたクラウドの右腕に、素早く手をかけにいくタルナダの動きは、脱力したクラウドを首から引き剥がす一手だったはず。
だが、ぎらりと眼光に鋭い光を取り戻したクラウドが、タルナダに捕まるより速く両腕に力を投じた。一瞬、血流が回復する猶予を与えられていたタルナダを、再び地獄へと叩き落とす絞め付けだ。タルナダも絶句して、目を白黒させたものだ。これがクラウドの血に流れる怪物的な何かを象徴する、根性や執念を超越した、不屈の精神と肉体の為すタフネスだというのか。
壁を近しくよろめくタルナダも、今にも意識が吹き飛びそう。片手で背後のクラウドの頭を探すように、手をばたつかせるタルナダも必死。クラウドの顔面をかきむしってでも、最悪目の中に指を突っ込んでもいい、何としてでも逃れなくては。タルナダの大きな手で髪をわし掴みにされたクラウドも、ここを逃せばもう勝機がないとわかっているから絶対に怯まない。
だが、クラウドの髪をつかんでいたタルナダの手が離れた直後、その掌が拳に変わる。クラウドの視界外で握り締められたそれは、見えない角度にあるクラウドの頭の位置を捕捉した、タルナダ最後の武器。その濃厚な殺気にクラウドが気付きかけた瞬間、クラウドの側頭部を、タルナダの巨大な握り拳がほぼ全力で殴りつけた。
脳まで揺れる衝撃と共に、クラウドの目の前に無数の星が飛ぶ。失神しかけたクラウドの全身から力が抜けかけ、ここしかないとタルナダが首を絞める腕を引き剥がそうとする。決して離れなかったクラウドの腕が首から離れた瞬間には、タルナダもほっとしただろう。だが、彼がクラウドの腕をようやく引き剥がしたその瞬間、タルナダの背中を蹴った少年の行動は、生存へ必死だったタルナダの意識の範囲外。
タルナダの背を蹴って我が身を浮かせたクラウドは、敵に握られた右腕を軸に前方へと回転。突然目の前に背を向けて落ちてくるクラウド、さらにタルナダに握られた腕を振りほどくクラウド。そして、首を一気に引いて、前方の地面に頭を向けたクラウドの縮めた足は、ほんの一瞬タルナダに向いている。
一気に脚を伸ばしたクラウドの突き蹴りが、意識朦朧だったタルナダの顎元を、カンガルーのような勢いで蹴り上げた。どんなに体を鍛えても強化できない、戦人において絶対的な急所だ。舌を噛むのは免れたものの、脳まで揺らされのけ反るタルナダが、後方によろめいて石壁にもたれかかる。タルナダを蹴ったクラウドはどうだ。蹴った勢いで前方の地面に頭から突っ込む形の彼だが、すぐに片腕を巻き込む形で不格好に受け身を取った彼は、立ち上がると同時にタルナダの方を向き、片膝立ちでいる。
前が見えていないタルナダに、隕石のような勢いでクラウドが飛来した。石壁に背をつけたタルナダを、串刺しの形で突き刺すクラウドの左拳は、みぞおちへの決定的な一打を形にした。かっと目を見開いたのがタルナダ最後のリアクションだ。ぎゅうと目をつぶって拳を押し込むクラウドのパワーが、大口開いたタルナダの意識を彼方まで吹き飛ばす。クラウドが離れたその直後、タルナダはまるで糸の切れた人形のように、前のめりに崩れ落ちていく。
タクスの都で不敗神話を誇っていた、唯一無二の絶対王者。それが陥落した光景は、頼みの綱を失った地人を顔面蒼白にさせる一方、最強の難敵が崩れた事実に天人達とて言葉を失う。あれだけ強く、誰が何人束になってかかっても適わなかったタルナダを、一対一で打ち倒したのがあの少年なのだ。一気に戦況が吉に傾いたこと以上に、その快挙には驚く想いの方が勝る。
しかし、やはり3秒もすれば現実に立ち返った天人達が、歓声にも近い雄叫びを上げた。タルナダを撃破した以上、ごく少数の地人との決着はついたようなものだ。憔悴しきった上に、頼りの親分まで打ち果たされた地人達が流石に撤退していく中、クラウドはかすれた息を切らしてタルナダを見下ろしている。
今までに自分が出会ってきた誰よりも強い人物だった。それに、勝ったのだ。動く方の左手を、小さくぐっと握り締め、クラウドは腰砕けにその場に座り込まずにいられなかった。ずっと耐えてきた痛みが改めて騒ぎ出す。その場で寝そべるように倒れることだけはせず、片膝立てて座り込んだクラウドは、勝利の喜びとその代償に得た凄まじいダメージで、しばらく動くことさえままならなかった。




