第61話 ~捨てられない敬意~
今日は曇天。薄い雲に覆われた太陽の周囲に、丸い暈もかかっている。雨の前触れを物語る空模様の下、獣道を歩く旅人ならば、足を早めて屋根を探さねばならない状況だ。
北へと向かう、とある少年少女の一行もそう。雨の予兆を目の当たりにして、普段よりも足を速く進め、旅中よくある野良小屋に滑り込んでいた。ぽつぽつと雨が降り始めた頃に屋根を確保できたので、間に合ったと言える結果だろう。
「セーフ! いいとこに小屋あったわね~」
「リュビアさん、汗びっしょりですね。けっこう汗っかきさんですか?」
「あっ、あっ、あんまり近づかないで下さい……恥ずかしいですので……」
駆け込むに際して少々走ったこともあったが、小降りの雨に濡らされる以上に肌を艶めかせるリュビアは、ファインが指摘したとおり汗をかきやすい体質のようだ。体臭を気にするのか、汗にまみれた自分に近づかれるのが抵抗あるようで、リュビアはさりげなく他の3人から距離をとっている。
「え~、別に変な匂いなんてしないよ~?」
「わっ、ちょ……さ、サニーさん、お気持ちは嬉しいのですが……」
後ろから近づいて、リュビアの頭の横から顔を出し、汗の匂いなんかしないよと鼻をすんすんさせるサニー。心配には及ばないよと優しく表明しているのはリュビアにも伝わっているが、だからってこんな極端な形でやらなくても。機があれば親しい女の子、つまりファインやリュビアにすぐべたべたひっつきに行くサニーの相変わらずさには、傍で見るクラウドもファインも苦笑してしまう。比較的、出会って日の浅いクラウドもそろそろ見慣れてはきたが、あの節操のなさは未だに無表情で見守れない。
「気になるようなら先に湯浴み済ませちゃう? 軒先なら雨も当たらないでしょ」
「そうして頂けると助かります。やっぱり気になりますので……」
湯浴みというのはファインの魔術の力を借りた、温水浴びのこと。外はまだ小降りだし、本降りにならない今のうちに済ませておけば、雨にやられず軒先でさっぱり出来そうだ。そうと決まれば、と、湯浴みの立役者ファインの手を握るサニーが、リュビアを引き連れて外に行こうとする。行きましょ、とサニーに手を引かれると、急でもすぐに足をついて行かせる辺り、ファインもサニーのリードにはよく甘えている。
「ん、クラウドはいいの?」
「いいよ、3人でお先にどうぞ」
「別に服着たまま出来るんだしいいじゃない。二回に分けるのって非効率よ?」
「いやいや、そういうわけにもいかないだろ……」
ファインの魔術によって温水を生み出す湯浴みは、その後の体を乾かす温風の魔術もセットである。服を脱がなくても体を洗えて、その後は濡れた服ごとからっと乾くので、男女同時に居合わせてもまずくはない。ただ、やっぱり濡れると服が透けるし、クラウドの方が気を遣って枠からはずれようとするのは、紳士的な対応と言えるか。
現に、上が薄いアンダーウェア一枚のサニーは、小降りの雨に少々濡れた今の時点で、服の下のさらしも少し透けているのだ。もっと濡れればへそまで浮かぶだろう。既に目のやり場に困っているクラウドは、少し目線を上向きにして顔を逸らし、サニーを直視しないようにしている。
「クラウドは清純派だねぇ。いいよいいよ~、そういうとこ可愛いから大事にししていこう」
「うるさいな、さっさと行けよ」
にししと笑ったサニーがファインとリュビアの背を押し、女の子3人で野良小屋の外へ。やがて、ファインが生み出す温水のシャワーの水音が聞こえ始め、きゃっきゃ騒ぐサニーを中心に談笑する3人の声が聞こえてくる。あぐらをかいてくつろぐクラウドも、いちいち気が気でないものだ。
音だけが情報だと、まるで女の子3人が、壁の向こうで裸になって体を洗っているようにも聞こえるもので。特にサニーがリュビアさん大きいね(何が?)とか、ファインがそんなとこ触らないで(どこを?)とか言うもんだから、いけないことを想像してしまう頭が刺激されてしまう。
じっとしているとムズムズしてくるので、野良小屋の中を掃除する作業に入るクラウド。竹箒や金属製のちりとりなど、腐りにくい掃除道具は野良小屋には必ずあるので、それを使って一夜泊まる小屋の中を軽く掃除していく。よく働く子だ。
「はーい、終わったよ。ファイン外で待ってるから、クラウドも行ってらっしゃい」
しばらくしてからさっぱりしたサニーとリュビアが、とっても上機嫌な顔で帰ってきた。お先です、とクラウドにぺこりと頭を下げたリュビアなんて、夜明けに喜ぶ朝顔のような笑顔。やはり旅慣れしていない女の子にとって、汗でねばついていた数分前というのは、内心気になって仕方なかったのだろう。
サニーに言われるまま小屋の外に出れば、両掌を自分の頭にかざし、温風を発生させて髪を乾かすファインがいる。ちょくちょくツインテールを手櫛で整え、自分好みの形に整えている辺りは、やっぱり日常的な日々においては、身だしなみに気を遣う普通の女の子。荒事の際には泥んこになるのも全く厭わないファインだが、やっぱりそうした事態に巻き込まれず、普通にしている時の方が、仕草も女の子らしくて可愛いものだ。
「目を閉じてやりますので、何かあったら言って下さいね?」
「あ、うん……わかった……」
クラウドと両掌を天に向けたファインが向き合い、念じたファインの掌から多量の湯が生じて、クラウドを洗い流す。異性のびしょ濡れ姿を見ないよう、きゅっと目を閉じたままのファインだが、真正面のファインと向き合う形のクラウドは逆に落ち着かない。別に脱いでるわけでもないのだけど、服の上からぎゅぎゅっと体をこする挙動を、近い位置女の子の前でやるのは、つくづく変な気分である。
「湯加減どうですか?」
「……ちょうどいい」
以前よりもぬるま湯なのは、先日の戦いで全身に傷が残るクラウドの体を気遣ってなのだろう。沁みない。そわそわする想いで体を洗いつつも、細かい配慮はしっかりした子だなと、クラウドも感じていた。
金属製の箱の中に収められた、比較的きれいな布団が入っていたので、ファイン達もそれを使って床につくことにした。前に使用した旅人様も、ちゃんと次に使う人のために、綺麗にしてくれていたようだ。ファイン達も見知らぬ人のご厚意に甘え、代わりにこの宿を出る際には、布団を綺麗にして行くだろう。公共物は、善意のリレーで良好が保たれるものだ。
ただ、布団が2枚しかなかったので、それを並べて敷いて、ファインとサニーとリュビアがその中に入ることになった。少し狭いが、1枚の布団に2人で入るより、2枚の布団に3人で入った方がまだ広い。クラウドはと言うと、離れた場所であぐらをかき、壁に背中を預けて眠っている。十歳過ぎの頃には、既に形になりつつあった驚異的な身体能力を活かし、傭兵稼業でお金を稼いでいたという彼。ああして寝るのは苦でも何でもないらしい。どっちにしたって、女の子と同じ布団で肌を合わせて寝るなんて、クラウドの価値観が潔しとしないのだけど。
「やっぱり、不安?」
「…………」
ファインと自分の間に挟まれたリュビアが、やや縮こまった体でいることに、サニーも寝る前に少しだけ語りかける。本当なら、大丈夫ですよと嘘でも応え、心配させないようにしたいリュビアのだが、上手くいかない。やはり今の状況は、リュビアにとって気丈を演じられるほど、気楽なものではないのだ。
遠き地で人攫いに遭ったリュビアは、遠路を経てこの地方まで運送され、闘技場に奴隷として売り払われる予定だったという身。数奇な巡りでファイン達が、そんなリュビアを救出するに至ったのだが、リュビアを逃したくない連中の魔の手が、またいつ襲い掛かってくるかわからない。実際、一つ前の街では、リュビアを再び捕縛するためなのか、強力な刺客4人がファイン達と衝突し、命懸けの戦いが生ずるにまで至った。
いつ、どこで、自分を狙う悪者の襲撃に遭うかわからない旅路は、18歳の少女にとってはきついものだ。ある日いきなり夜襲をかけられでもしたら、と思ってしまうと、安心して眠りにつくことも出来ない。そんな自分を守ると言ってくれる、ファイン達には感謝しているが、どれだけ頼もしい3人が常にそばにいてくれたって、やっぱり不安を拭いきれるものではない。
「……ニンバス様が、あんなことに手を貸すなんてなぁ」
大丈夫だよ、私達がついているから。そんな言葉もかけてあげたいサニーだが、それは常々言っているようなこと。今さら言っても効果は見込めまいとしたサニーは、世間話で空気をはぐらかす方向に持っていく。話の種は、前の街で交戦した、かつて天人の英雄と呼ばれた人物だ。
「サニーさん、ニンバス……っていう人と戦ったのに、"様"をつけて呼ぶんですね」
「そりゃそうよぉ。私、あの人のこと話に聞いただけでも、けっこう尊敬してたのよ?」
ニンバスと言えば、数年前の魔女アトモスが起こしたクーデター、その果ての近代天地大戦において、天人陣営の英雄の一人に数えられる人物。天人の支配体制を覆そうと武器を手にした地人達を、幾多の戦で撃退し、天人陣営の勝利に何度も貢献してきた人物である。寡黙であったが人格者で、天人地人問わず敵対陣営含めても、ニンバスのことを悪く言う人物は少ない。
何より特筆すべきは、彼が"鳶の翼の傭兵団"という傭兵集団の首領であった点。この傭兵団の何が特別かって、首領のニンバスを除く全員が、地人で構成されていたことだ。天人と対立したアトモスの目的は、天人が地人を支配する体制を終わらせることであり、地人は革命を掲げるアトモスの味方をするのが自然だ。なのに、天人陣営に属するニンバスが"地人を"導き、天人側の勝利のために率いていたというのが特殊なのだ。その事実だけで、ニンバスという人物が、率いた地人の面々に、どれだけ信頼されていたかがわかるというもの。特にサニーのように、利害を超えた人の繋がりを重んじるタイプにとって、そうした絆を育める人格者というのは、まさに尊敬する人物の一人に数えられるのだろう。ファインも同じで、今のサニーの一連の言葉には、無言ながら神妙にうなずいている。
それだけ万人に愛されたニンバスという人物が、誘拐されたリュビアを救うどころか、むしろ追い討ちをかけるような強襲を仕掛けてきたことは、少なからずファインにはショックなことだ。事情一つ挟めば人は容易に変わり得るものだが、やはり広く尊敬されてきた人物が、悪に手を染めていることを目の当たりにすると、一般の目には胸が苦しくなるものである。
「……何か、事情があってのことだと思いたいけどな」
「それでも、敵である事実には変わらないのよねぇ」
ファインは無い希望を、サニーは定まった残念を口にする。現実は勿論わかっている。それでもそうした想いが口に溢れてくるぐらいには、敬意というのは重たいもの。いったい何がどうなって、偉大な人物と知られたニンバスが、リュビアの人攫いに一枚噛んでいる状況になったのか、知りたい気持ちは消しきれない。
「ニンバス様って本当に凄いんですよ? 私が聞いた話だと――」
過去に聞いた、偉人ニンバスのエピソードの一部を、ファインがつらつら語り始める。今や敵対する、悪に身を染めた人物の輝かしい過去など、復唱しても虚しくなるだけかもしれない。しかし、他者の善行を見て聞いて、倣おうとしてきたファインにとっては、口伝に聞くニンバスの偉大さは忘れられないものだ。話したところで後に虚無感ありとわかっていても、伝えられるニンバスに偉大さを話し始めるファインは、近いリュビアの位置からでも楽しそうに見える。
たった一人の包囲された部下を守るため、数十人の敵の群れに単身飛び込み、それらを退け部下を救出したニンバスの過去は、確かに聞いててセンセーショナルなものだ。ただ、それを語るファインの表情が本当にきらめいていて。そうした人の生き様を見習い、自分もそうなっていきたいと口にする彼女を見るにつけ、本質的には暗い話を聞くリュビアも、微笑みを返さずにいられなくなる。
ファインって無邪気で真っ直ぐだ。同時に、どうしてここまでそうなんだろうと、密かにリュビアが思っていたことは、この夜だけの秘密である。




