第50話 ~1対3~
「絶対、ここを動いちゃダメですよ?」
リュビアを抱えて飛翔したファインだったが、袋小路を飛び越えた後、すぐに地表に降り立った。自分とリュビアの二人ぶんを浮かせる魔力は行使できるが、彼女を落とさず抱える腕力は長持ちしない。すっかり陽も沈み、ほぼ真っ暗な裏路地の一角、腰が抜けたように座り込んだリュビアに語りかけている。
路地裏によくある、下水道に繋がる丸い蓋を開ければ、そこは普段誰も立ち入らない地下の隠れ家だ。ファインにしてみれば、これをいいタイミングで見つけられたのは幸運だった。オラージュやフルトゥナの追跡から一時でも逃れ、誰も見ていない中で蓋を開け、リュビアを隠せる場所に辿り着けたのだから。裏路地には、下水向けの黒い丸蓋も多いから巡り会う見込みはあったが、それでも巡り合わせ悪く見つからない不運もあり得たので、運は味方してくれていると思う。
「ファインさん……」
「真っ暗で怖いかもしれませんけど、我慢して下さいね……? 必ず、私達が、迎えに来ますから」
この期に及んで、闇に押しやられるリュビアの恐怖心を案じてくれるファインに、リュビアも涙目で地下へのはしごに足をかける。怖いのも本当だけど、涙の所以はそうじゃない。彼女の胸を締め付ける要因は、他に山ほどあったから。
絶対に、守ってみせますから。その言葉を最後に、蓋を閉じるファインの手により、リュビアの目の前は闇に染められる。はしごを手探り足探りで下りていき、やがて足の裏で地面を踏みしめられる状況にまで至ると、リュビアはそのままへなへなと座り込んでしまった。
汚い水が流れる下水道、匂いもひどく、少女にはつらい環境だ。くぐもった声を漏らして泣き出すリュビアの胸にあったのは、どうして自分がこんな目にという想いもあっただろう。それでも彼女の胸中の多くを占めるのは、必死で自分を助けようとしてくれたファインのこと。
助けてくれたのは嬉しい。だけどそのため、ファインはどれほどの犠牲を払ってくれただろう。連中に狙われるリスクを背負うばかりか、戦いの中で自分が混血児であることも明かす動きを見せ、自分の立場を悪くして。ファインが天人地人の両方の血を引くことは、自分達の間だけの大事な秘密じゃなかったのか。それを周囲に知られれば、自分がどういう立場に置かれるかも知っているだろうに。
ただただつらい。妹と静かに暮らしていた暮らしを剥奪されたことも、そんな自分を助けてくれる親切な人々が、並ならぬ犠牲を払っていることも。無力な立場で誰かに救われるのみの者が、胸を痛めるのは極めて自然なことだ。無償の安寧を手放しに喜べるほど、人の心は冷たいものではない。
「サニー……! クラウドさん……!」
リュビアを隠した地下道への入り口から離れたファインは、我が手に魔力をかき集める。大通りの中心に立ち、両手に集めた火の魔力を、上空めがけて放つのだ。火球を上天に放ち、特大の爆裂花火を打ち上げた少女の姿には、周囲の人の目も集まるだろう。ある意味で、それは目的に合致している。
一人でこの状況を打破するのは、ファインも不可能だと思っている。自らの位置を、遠方のクラウドとサニーに知らせるための打ち上げ花火は、敵の目も引く危険と表裏一体の策。大いなる賭けに出たファインは、続けざまに同時に背中に風を集め、空を舞うことの出来る翼を背負う。そして地を蹴り、空へと舞い上がる。
地人だけが使える火の魔術、天人だけが使える風の魔術。その両方を人通りの多い場所で堂々と行使した彼女に注がれる目は、推して知るべきと言えよう。だが、これしかない。最も目立つ場所、そこでこれを果たさなければ、ファインの目的は達成できない。一つは、頼る辺であるクラウドやサニーに、自分を見つけて駆けつけてもらうこと。
そしてもう一つは、そんな自分を敵視する者の目を引くことだ。
「っ、く……!」
遠き空から飛来する、電撃の槍のような魔術を、鳥のように空を舞うファインは回避する。きりもみ回転するように、強引に体を大回ししての、ぎりぎりの回避だった。それでようやく当たらずに済み、我が身をかすめていく電撃の槍が、火花でファインの肌をちくちくと刺す。
それが飛来した方向を目にしたファインに迫るのは、稲妻の槍以上に恐ろしい敵。鞘から愛剣、波打つような剣身を持つフランベルジュを手にした戦士が、まさに風のような速度でファインに急接近したからだ。血も凍りつくような危機感とともに翼をはためかせ、空へと急上昇したファインの行動が、歴戦の英雄と呼ばれた人物の剣から彼女を逃れさせる。
「なるほど、オラージュ達が手を焼くわけだ」
自らと交錯して空の向こう側に滑空し、再びこちらに体を向ける敵の姿には、話を聞いていたファインもぞっとする。鳶色の翼を背中に生やし、フランベルジュを片手に空を舞う英雄の姿は、彼がそうだとファインに知らしめる。近代天地大戦において、天人側を勝利に導く立役者とされ、英雄視されたニンバスが、今やファインと敵対する空にいるのだ。
誘拐されたリュビアを助けたファイン達を襲うのは、その悪行に繋がりがある者だけのはず。英雄ないし勇者と呼ばれたニンバスが、そんな悪事に携わっていたことを、ファインだって信じたくない。そんな彼女の惑いを一蹴するかの如く、空中より迫るニンバスは、逃れる方向に滑空するファインに向け、風の刃を無数に飛ばしてくる。
殺意の気配に旋回飛行し、無数の刃を回避するファインだが、ニンバス本体も彼女めがけて飛来する。少女の柔肌を血みどろにするのも厭わぬ、正義の刃であったはずのフランベルジュを、接近した瞬間に振り抜いてくる。必死で首を引き、翼を畳んだファインが身を沈めて回避、そのままニンバスは彼女の上を通過する形になる。
返す掌をファインに向け、無言で大きな風の刃をファインに放つニンバスが続く。強引に飛空体勢を切り替えたばかりのファインは対応できず、それでも無理くり体をひねってそれをかわした。しかし、ニンバスの放った風の刃はファインの翼に触れ、風の魔力で構成された翼の形を崩す。ファインを飛翔させていた力が乱れ、低空で飛ぶ力を失った彼女は、形の悪い紙飛行機のように、荒れた軌道で地上に向かって落ちていく。
「あっ、ぐ……!」
足よりも上半身が下になって、ファインは地面に叩きつけられた。もう駄目、そう思った瞬間に集めた土と水の魔力で、なんとか体へのダメージは最小限に抑えたが、すぐに立ち上がることは難しいほど痛い。それでも体をぐるんと上に向け、上空のニンバスに向き直ったファインじゃなかったら、すぐさま飛来したニンバスによってとどめを刺されていただろう。
その体勢を作られては、迂闊に踏み込めば迎撃される可能性が高い。冷静に、ファインから離れた場所に降り立ったニンバスは、背中の翼をたたんだ。魔力によって作った翼ではない、彼自身の肉体が持つ、実体ありし特別な翼だ。
「っ……あなたが、ニンバス様ですか……!?」
よろりと立ち上がるファインに、歩み寄ってくるニンバスは何も応えない。己の名をあらかじめ知る者に名乗るのは無意味だし、己の名を知らぬ者にわざわざ名乗る意味もない。昔からニンバスはそういう考え方だ。
「ニンバスの大将!」
ファインの声に答えを示したのはニンバス本人ではない。ニンバスと向き合うファインの後方から駆け寄ってくる、オラージュの声だ。それに伴い、ファインに近付いていた足をニンバスが止めたのは、彼女にとって幸運なことだっただろうか。
振り返る後方にはオラージュとフルトゥナ、前方にはニンバス。山賊に囲まれるよりも恐ろしい状況下、ファインも弱気な表情で道の脇に後ずさるしかない。前後に敵という状況から、左右に敵という立ち位置に移るのが精一杯で、挟み撃ちにされた本質は変わらない。一人でも相当な手練だとわかっている相手を、1人だけの状況で3人も視野内に一望する恐ろしさは、ファインの心臓を締め上げる。
「例の娘はそいつが連れ去ってたんだが、いつの間にか消えてやがる。居場所はそいつが知ってるんじゃねえかって思うんすけど」
「ならば、生け捕りだ」
オラージュの報告から状況を察したニンバスは、短い言葉でオラージュ達に指示を下す。まだ殺すな、殺すのは娘の居場所を吐かせてからでいい。そんな真意を理解したオラージュとフルトゥナが、ゆっくりとファインに歩み寄ってくる。
粉塵煙幕は一度見せた手、もう一度使っても通用するだろうか。空に逃げても、空中戦の名手たるニンバスがすぐそばにいる。近付いてくるニンバス、オラージュ、フルトゥナを前にして、後ずさるファインが建物の壁に背を着けるのはすぐのこと。動けなくなったファインの目の前で、にじり寄る3人の動きは、ファインとの距離を彼女の余命に見立てた、死神の砂時計のよう。
「ファイン……!」
そんな窮地に響いた声。その声の主にニンバスが振り返った瞬間、その人物は既に大将首のすぐそばに迫っていた。どこから地面を蹴って飛来したのか、弾丸のように自らを飛来させた少年が、ニンバスの予想さえも上回る速度で、彼と目と鼻の先まで迫っていたのだ。
手甲を携えた拳を容赦なく突き出した少年の一撃は、ニンバスに回避を許さなかった。完全な不意打ち、それでも武器を引き上げ、剣身の横で受け止めたニンバスは見事だっただろう。しかし規格外の速度とパワーを持つ少年の拳は、ニンバスの肉体をそのまま押し出し、遠き建物の壁まで吹っ飛ばす結果を残す。そのまま壁面を砕き、壊れた壁の向こうまで消えていったニンバスを、フルトゥナも目で追わずにはいられない。
かつてファインも見たことがないほど、息を乱した彼の姿があった。荒い呼吸を繰り返し、真っ青な顔になるほど必死に駆けつけてくれた彼の姿は、ファインにとっては朝日よりまぶしく、オラージュにとっては死者が蘇った光景に等しいもの。
「クラウドさん……!」
「くそったれ……! 想像以上の連中ばかりだ……!」
闘技場の一室に監禁し、不完全燃焼気体によって暗殺したはずが、まさか脱出不能なはずの密室から抜け出して、この場に駆けつけるとは。驚きを隠せないオラージュの眼前、彼を睨みつけるクラウドの目は、手負いの獣によく似た覇気を擁していた。




