第49話 ~ニンバスとタルナダ~
目の前で少しの距離を保ったまま立ち止まるタルナダから、サニーは二歩ほど後ずさる。挙動不審のように、後方をちらちら振り返りながらだ。何も知らないタルナダとて、傷を負い、これほど周囲に目を配る彼女の姿を目にすれば、ただごとでないのは見て取れる。
「……何があったか知らねぇが、なんて目で睨んでくるんだよ」
不快感を口にしたわけではない。先日あれほど明るく語らった間柄だというのに、警戒心でいっぱいの眼差しで自分を見るサニーに、タルナダも強い疑問を抱いている。そしてサニーもタルナダの声色から、知らぬふりをして自分を手にかけようという気配は、あまり感じ取ってはいない。
だけど、近付けない。心を許すことが出来ない。判断ひとつに命が懸かったこの状況、後方にいるであろうニンバスから意識を切れぬまま、タルナダからも一定の距離を保たざるを得ないのだ。
やがて、ニンバスの接近を感じ取ったサニーは、張り詰めた想いで道の端へ跳び退く。大通りの真ん中にそびえ立つタルナダ、サニーの背後近くに舞い降りたニンバス。そして、サニーが移動したことによって、タルナダとニンバスが対峙して、その脇離れてサニーが立つ形になる。三角の立ち位置だ。
「お前がタルナダか」
「あ?」
タルナダとニンバスの両者を警戒し、交互に双方を見やって身構えるサニー。しかし、まるで彼女を蚊帳の外にするかの如く、向かい合うニンバスとタルナダが言葉を交換する。
「彼女は邪魔者だ。手を貸せ」
「……お前、ニンバスって奴か?」
タルナダの助力を求めるニンバスの前、サニーは脇腹を押さえた手に魔力を集め、治癒の魔術をようやく行使する。深い傷は裂傷によるもの、傷口を塞ぐ肉体の接続、雷の魔力を集めているのだ。ずっと走り逃げてきた中、ようやく応急処置程度に、息を落ち着かせる時間が出来た今が好機だろう。しかし、ニンバスとタルナダのやりとりを耳にする限り、そんな時間もあと僅か。
「そうだ。お前は闘技場の人間だろう?」
サニーを見やるニンバスの行動は、殺意を自らに向けられたことをサニーに感じさせ、肌をひりつかせる。ニンバスにタルナダが加勢する未来を予示されたサニーが抱く危機感は、並大抵のものではない。
「……何を言っているのか知らねえが、ガキをいじめる趣味は俺にはねえぞ」
タルナダの言葉に反応を示さず、ニンバスはサニーに一歩近付く。ざり、という足音に呼応するかの如く、サニーも一歩退がって、建物の壁に背を当てる。
「冗談はその程度でいい。仕事は果たして貰うぞ」
「だからお前、何を言ってるんだ?」
二つ目のタルナダの言葉に、ニンバスは立ち止まってタルナダを向き直る。加勢しろと言っているのに、その場から動こうともしないタルナダに、何故だという感情を演じた無表情でだ。
「……まさかお前、何も聞かされていないのか?」
「何の話をしているのか、わかるように説明しろや」
傍でそれを聞くサニーにもわかるほど、両者の会話が噛み合っていない。場を走る沈黙、タルナダのしかめっ面、ニンバスの冷徹顔、サニーの怪訝な表情。不可解な空気が漂う今の状況を、正しく理解しているのは、意図あって言葉を紡ぐニンバスただ一人。
「そこの娘は、我らの"財"を掠め取った鼠だ。こう言えば伝わるか」
「意味がわからん。具体的に言えねえのか」
ニンバスの言葉の意味はサニーにもわかる。"我ら"とはニンバス含む誘拐犯、"財"とはリュビア、"鼠"とはニンバス達の段取りを狂わせたサニー。闘技場の人間たるタルナダが、リュビアを攫って闘技場に売りさばこうとしていたニンバスと繋がりがあるなら、今の言い方で充分に伝わるはずだ。
だが、抽象的な物言いに苛立つかのような声を発するタルナダには、ニンバスのメッセージが伝わっているようには見えない。そういった演技にすら見えない。サニーにではなく、ニンバスの方向に歩み寄るタルナダの行動は、意外にもニンバスを一歩退かせた。
ここだ、とサニーは勝負を懸けた。足に纏った風の魔力を、一瞬で炸裂させると同時、地を蹴り高く跳躍する。そして、ニンバスが見上げた上空で、風の魔力によって何もない空中を蹴り、進行方向を折る。勿論彼女が進む先は、ファイン達の泊まる宿がある方角だ。
ニンバスは追わない。ちっ、と、タルナダにも聞こえるほどの舌打ちをし、逃がしたか、という想いを言葉なくタルナダに伝えるのみ。一方で、不穏な気配を感じさせるニンバスに、タルナダが大きな足で近付く光景が続く。
「てめえ、いったい何を企んでやがる」
近付いてくるタルナダから、ひょいと離れる方向に軽く跳び、一定の距離を保とうとするニンバス。お前と今は関わる気はない、という態度に、タルナダも近付きかけた足を止めてしまう。
「さあな。どうやらお前には、関係のない話のようだ」
呆れたような声色とともに、ニンバスは再び跳躍して、建物の屋上にまで飛び移る。彼の持つ千里眼は、空を駆けるサニーの姿を遠方に見据え、もはやタルナダのことなど振り返らない。
ニンバスは、サニーを追うようにして建物の屋上を飛び移っていく。段取りに多少の狂いはあったものの、予定外の形で種をまくことが出来た。一貫された無表情の下、これはこれでよし、と内心うなずくニンバスの策謀の真は、今は誰も知りえないものだ。
ファインは決してこの土地には明るくない。がむしゃらに都を駆け、ともかくオラージュとフルトゥナから距離を取るために走ることしか出来ない。せめて、闘技場の方に向かって駆け、帰宅途中と思えるクラウドと距離を近づけるぐらいしか、やれることがないのだ。
同時に、自分ほどの体力がないリュビアが、それほどもたないこともわかっている。長く逃げ続けるのは不可能だ。いくらか走って、そばに追っ手の気配が無くなった頃合いに、勝負手に出るしかない。リスクも伴う策ではあるが、一人で実力未知数の追っ手を複数相手取り、自分はともかくリュビアまで守りきれる自信はないのだから。
「よし……!」
「ファインさん!?」
やがてファインが辿り着いたのは、裏路地の果てにある袋小路。目の前が壁に阻まれ、逃げ道を失ったことに青ざめるリュビアの横で、ファインは小さくうなずいている。袋小路を目の前にして、足が止まりかけたリュビアの反応の方が自然なのに、ファインはそのままリュビアの手を引き、壁へと近付いていく。引き返すことが出来なくなっていく。
ファインの行動の真意がわからず、自ら追い詰められるような行動に踏み込む彼女に手を引かれるリュビア。今にも泣きそうな顔で、頼れる唯一のファインに運命を委ねるしかない。やがて壁にまで辿り着いたファインが、そのまま壁を背にして振り返り、リュビアの顔を少し下から見上げている。走り続けてきたことで、ファインも小さく息が乱れている。
「心配ありません……! これは、好機です……!」
乱した息、一箇所途切れた言葉、しかし自信に満ちた表情。リュビアは何も言わず、己の命運を託すしかない少女に、今すぐにでもしがみつきたい。本当に大丈夫なんですか、という不安を隠せない一方で、どうか何とかして欲しいという切望を滲ませるリュビアに、ファインは大きくうなずいた。何を問われていたとしても、それに対するイエスを表す行動に、絶対に守ってみせるという意志力が込められている。
「さあ、追い詰めたぜ! 行くぞ、フルトゥナ!」
「はい……!」
ファイン達の行く末を追う二人の追っ手も、彼女らを袋小路に追い詰めた実感はあった。ニンバスとケイモンがサニーをそうしたように、多角から相手の逃げ道を塞ぎ、誘導してきたのだ。地理に明るいのは周到に下調べをしてきたこちらの方。やがて、袋小路を背にしたファイン達の正面に、オラージュとフルトゥナの二人がほぼ同時、別角度から姿を現すのが間もなくのこと。
長身の赤髪の男、短剣を握った暗殺者のような風貌の女。自分を捕らえにきた刺客を目の前にしたリュビアは、裏返った悲鳴と共に、自分より小さなファインに身を寄せずにいられなかった。震える彼女の体を実感しながら、乱れていた息を既に整え、鋭い眼差しで敵対者を突き刺すファインの横顔がリュビアのそばにある。幼い顔立ちのファインの目から漂うのは、殺気めいた覇気ではなく、オラージュ達のような闇の世界で生きてきた者にとって、恐れるような顔ではない。
「悪いが、こっちも仕事でな……っ!?」
フルトゥナと並び、ゆっくりと距離を詰めるため、ファイン達ににじり寄ろうとしたオラージュ。しかし、充分な間合いのままにして、ファインの初手の方が早い。十歩分離れた位置にオラージュ達が差しかかった瞬間、その位置に撒き散らしてきた自らの魔力を、ファインが発動させたのだ。土と風、火の魔力を同時に炸裂させた結果、発生したのは多量の粉塵。地表から無数に発生する灰が、ファインの起こした風によってまき上げられ、オラージュ達の周囲広くを砂色でいっぱいにする。
敵を怯ませられても短時間、ファインの次の行動は早い。後ろからリュビアの背中に抱きついて、切り札とも言える風の魔力を、自らの背中に集約。あっという間にファインの背中に、風の塊とも言える大きな翼が生じた。
「びっくりしないで下さいね……!」
「えっ……ひゃわああっ!?」
次の瞬間、地を蹴ると同時に背中の風をはためかせたファインの行動が、リュビアを抱えたまま高く跳ぶ彼女の姿を実現させる。突然の粉塵に怯むも、煙幕を駆け抜けてファイン達に駆け迫ろうとしたフルトゥナが、そんなファインを目にした唯一の目撃者だ。目の前で、風の翼をはためかせ、壁を越えた向こう側に消えるファイン達を、フルトゥナは見送ることしか出来ない。
決して追えないわけではなかった。地人にしか使えぬ土の魔術で粉塵を起こし、天人しか使えぬ風の魔力で飛んだファインに驚いたフルトゥナは、後続のオラージュを待つ安全策を選んだ。僅か遅れて粉塵から脱出したオラージュは、奴らはどうした、とフルトゥナに問う。
「……混血種です」
「ちっ、そうか。只者じゃねえとは思ったが、そういうことだったか」
奴らはどこに行った、と問いたかったオラージュに、違う返答が返されたが、彼も回答に不満を抱かない。土と風の魔術を両立したファイン、それが混血種であると確信した情報を吐くフルトゥナの言葉は、連中の一時的な行き先の情報よりも重要だ。
「念には念をだ……!」
ぐっと握った拳を開いた瞬間、その掌に大きな火球を宿したオラージュ。続いてそれを空に投げたかと思うと、空に放たれた火球ははじけ、大きな爆音とともに火花を散らす。その炸裂した大きさたるや、遠方からでも音と光でわかる花火のようなもの。つまりそれは、離れた場所にいる仲間達に、自分の位置を知らせるための炸裂弾である。
「行くぞ、フルトゥナ! 油断するなよ!」
「わかっています……!」
難敵を意識した二人は、ニンバスやケイモンの助力を乞う形で、なおもファイン達を追う足を駆けさせる。標的を追う動きは振り出しに戻った、それで結構。どうせ無力なリュビアを引きずっての逃亡劇、いかにファインが優れた使い手であっても、大きく逃げるには限度がある。それは間違いない事実だ。
我らが主、ニンバスさえ駆けつけてくれるなら詰み。目的を達成できるなら、功績を上げるのは自分達でなくていい。そう思える一兵こそが、集団組織において優秀な結果を残す礎となる。オラージュもフルトゥナも、そうした判断が出来る人物だ。




