第47話 ~忍び寄る悪意~
何かまずい。クラウドが早期にそう直感できただけでも、彼は勘のいい方だ。はやる気持ちを抑え、密室状態の一室で落ち着いていたクラウドだが、ある瞬間から耳鳴りがし始めた。明確な異常を体が訴えかけてきても、人はすぐには事の緊急性を自覚しづらいものだが、やがて頭痛がし始めた時点で、クラウドは腰掛けていたソファーを立っていた。
「くそ……まさか……!」
じっとしていると何かやばい気がして、部屋を出ようとした時、ようやく今がただならぬ状況下にあると確信出来た。ドアノブを回し、開けようと引いた扉は、びくともしなかったのだ。鍵がかかっている状態で、僅かな稼動範囲で扉が動くという、がちゃんという感触ではない。まるで扉そのものが、見えない角度から溶接されているかのように、全く動かないのだ。これは、鍵をかけて閉じ込められたとか、そういう手応えではない。普通じゃない。
クラウドの心臓がばくばくと鳴り始めたのは、ただならぬ状況下で危険を意識したからだろうか。耳鳴り、頭痛、加えて目まいまで覚え、クラウドはよろりと後ろにふらつきそうになった。ドアノブを握っていなかったら、そのまま数歩後ろに後ずさって膝をついていたかもしれない。それほど強烈な目まいに襲われる中、異様に自らの脈が速くなる実感には、クラウドも自分の体に現れた兆候に強い危機感を抱く。
鉄製の扉を何度強く蹴飛ばしても、決して扉は開かない。時が経つにつれて、クラウドの目の前も、霞がかかったかのようにぼやけてくる。数秒後の自らの気絶さえ思わしめる、強烈な眼前の光景の揺らぎに、クラウドはがしりと左脚を踏みしめる。ぜえっ、と必死で息を吐き、遠のきそうな意識の中で、片足軸にして体を半回転。
「っ、るあっ!!」
元より人並みはずれたクラウドの脚力ではあるが、全力全開で扉を蹴破ろうとした彼の行動は、彼をこの部屋に閉じ込めたオラージュも想定外の結果を導き出す。引いて開けるはずの鉄製の扉、それも溶接されたその扉が、凄まじい回し蹴りの一押しによって、廊下側にぼこんと盛り上がったのだ。溶接された扉はそれでも彼を解放しなかったが、扉の縁で踏ん張っていた溶接金属は、今の一撃でみしりとひび割れている。
自分の足も痺れそうな一撃で扉を蹴破りかけたクラウドだが、開かない扉にもう一発の蹴り。一つ前と、全く変わらぬ威力を乗せてだ。二連続で凄まじい衝撃を受けた扉は、さらにへこみを大きくする。その衝撃は溶接金属の一部をばりっと剥がれ落ちさせ、続けざまの手甲つきのクラウドの正拳突きが、動かなかった扉をさらに大きく揺るがす。
激烈な最後の回し蹴り、総計4発目となるクラウドの猛撃は、頑丈な鉄製の扉を蹴飛ばして、ついにクラウドに室外への道を明け渡した。人の力では到底こんな形にはならぬはず、それほどひしゃげた扉は力なく倒れ、よろめきながら室外に出たクラウドは、何里も駆けた後のように荒い呼吸を繰り返す。今にも倒れそうなほど、体がおかしい。
扉の下敷きにされた小瓶の存在など、クラウドには意識する暇もなかった。不完全燃焼によって発生する、無色透明の気体だけを生み、黒煙を生み出さない薬品を沁みこませた、特殊な包み紙を擁した瓶のことなんて。この瓶とその中の炎が生成した、無味無臭の気体で充満していたクラウドのいた一室とは、きっと彼があと一分も室内にいたら、取り返しのつかないことになっていたであろう危険地帯である。
「ちくしょう……嵌められた……!」
苦々しげに一言吐き、クラウドは闘技場を駆け始める。頭痛も目まいも耳鳴りも、異常に高鳴る鼓動も静まっていない。さらに言うなら、握り締めた拳も痺れ始めた気がする。明らかにおかしな体を引きずって、しかしクラウドは闘技場を飛び出すための道へと踏み出していく。つまづきそうなほど、言うことをきいてくれているのかわからない足を、全力で駆けさせてだ。
何かが起こっている。フルトゥナに殺されかけたことといい、赤毛の青年に騙されて閉じ込められたことといい、不安要素は山積みだ。宿に待つファインやリュビアのことが、今のクラウドには心配でならなかった。
「こんなに堂々辻斬りなんて、いくらなんでも目立つんじゃない?」
夕暮れ時、しかし人通りもまだ少なくない時間帯、通行人の目もはばからず、サニーの命を取りに来た大胆さには恐れ入る。ケイモンの振り抜いた刀は、とても通行人の目に留まるものではなかったし、何が起こっているのかわかっていない者しか周りにいないが、この剣呑な空気を前にして、不審の目で立ち止まる者はいる。腹を押さえるサニーの手、その指の間から血が流れているのを視認できた者だけが、非常に危険な状況だとわかって後ずさっているぐらいだ。
「……ねえ、教えてよニンバス様。どうして私の命を狙うの?」
かつ、かつと自分に歩み寄ってくるニンバス、その少し斜め後ろからついて歩くケイモン。向こうと同じ速さで後ろ歩きし、対話を試みるサニーに、ニンバスは何も応えない。異様な雰囲気の中、実力高さが風格から滲み出る男二人が、小さな少女を歩み寄るだけで追い詰める。
やがて、街灯の支柱に背中を当ててサニーの動きが止まると、ニンバス達もその足を止めた。数歩分の距離、しかしどちらから素早く動けばすぐにでもゼロになりそうな間合い。歴戦の猛者二人を目の前にしたサニーにとって、この距離感は安心できるものではない。
「心当たりはないのか?」
初めて口を開いたニンバスの問いが、サニーの胸を小さく打つ。ニンバスの声は、低くとも棲んだ美しい声だったが、どきりとしたのは決してそのせいではない。命を狙われ得る心当たりがあるからだ。
一瞬の思考の中、サニーの脳裏ではいくつもの想定が飛び交った。こいつらの狙いはリュビアか、ならば自分が泊まる宿も目をつけられているのか、そしてリュビアを匿っていることを口にしていいのか。果たしてこいつらは、確信もなく容疑だけで自分を狙ってきたのだろうか。確信があるからこそ、人目もはばからずに自分の命を狙いに来たのだと、刹那の思考でサニーは現実を視る。
「人攫いの野望を挫いたことなら……!」
「それが答えだ」
ニンバスの後方の剣客、ケイモンの姿が周囲には一瞬見えなくなった。サニーには見えている。瞬迅の剣客の足は、その肉体を一気にサニーに迫らせ、射程内にサニーを捉えた瞬間、隻腕の手に刀の柄を握る。そしてサニーが跳躍した瞬間、今しがた彼女がいた場所を通過する刀は、とても一般人の動体視力で視認できるものではない。
サニーが背中合わせにしていた、太い街灯の支柱を、ケイモンの刀が容易に切断した。予想できていたのは当事者のサニーだけであり、大きな街灯が崩れ落ちる光景に、周囲は一斉に悲鳴に包まれた。空中に身を置いたサニーは、倒れかけた街灯の支柱を蹴り、ニンバス達から離れた地表へと舞い降りる。
「ケイモン」
「承知しておりやす」
サニーはそのまま踵を返し、ニンバス達から逃れる方向へと駆け出した。その後を追って走り出すケイモンとは裏腹、ニンバスは落ち着いて跳躍する。とても人間の跳躍力とは思えぬほどまで跳び、二階建ての建物の屋上に降り立ったニンバスは、建物と建物の上を飛び移って、サニーを追いかける。地上からはケイモンが、そして上から俯瞰的にサニーを追うニンバスの図が、これによって完成する。
やはりニンバスは、ケイモンは、リュビアを匿う自分達の命を狙ってきた。嫌な想定が的中したことに、サニーも痛む腹の傷を押さえて逃げ続けることしか出来なかった。ファイン達が待つ、宿の方とは真逆に向けてだ。
「おや、いらっしゃい」
とある宿の受付に、夕暮れ時に顔を見せた赤髪の青年がいる。これが、ほんの少し前にクラウドを闘技場の一室に監禁し、殺人ガスで謀殺しようとしたオラージュだとは、宿の女将も夢にも思うまい。
「相部屋希望だ。クラウド、って奴、この宿に泊まってるっしょ?」
「クラウド、クラウド……ええ、まあ、泊まってるねぇ」
「そいつ、俺の連れでしてね。この宿で落ち合おうって話になってたんすよ」
息を吐くように嘘をつき、宿の女将さんからクラウドの泊まっている部屋を聞き出そうとするオラージュ。とても悪人面には見えない、オラージュの快活なスマイルを前にして、女将さんも警戒心を抱きようもない。クラウド達が泊まる部屋の情報をあっさりと与え、泊まり客一人増えるぶんの追加賃を受け取り、狭い部屋にもう4人も泊まっているから、狭いかもしれないよと気遣いまでする始末。まさか、オラージュがクラウドやリュビアを狙う悪漢の一人だなんて、何の情報もない女将さんに気付けるはずがない。
その辺は連れのクラウドとまた相談しますよ、と、当たり障りなく女将さんをあしらい、オラージュは教えられた一室に向かっていく。階段を上り、他の宿泊客のうろつく姿も見えない宿内を、悠々とした表情で。誰も自分を疑っていないこの状況、実に気楽なものだ。
「……ここか」
クラウドの寝泊まりする部屋、すなわち彼らが匿う少女も共に泊まっているであろう一室。その扉の前にて足を止めたオラージュは、この宿に来て初めて一般人を装った表情を崩し、にやりと笑った。
「ファインさん、今日の献立はなんですか?」
「うふふ、食べてみてからのお楽しみですよ」
昼食を終えたすぐ後の時間から、ファインは既に夕食向けの仕込みを進めていた。小さな鍋に、山菜や魚肉と水を入れ、弱火で長らくことこと煮込んだ、出汁のよく出たスープの作成だ。あれは自信作。何日間かは、ちょっと簡素な料理ばかりを披露してきたものの、そろそろ気合入れてじっくり仕込んだものを披露しようと、今日は早くから計画的に作ってきた。
今頃、出来かけたスープの火が宿の人達によって止められ、完成した様相で眠っているだろう。クラウドやサニーが帰ってきたらお披露目だ。リュビアのみならず、クラウドやサニーも喜んでくれるだろうという自信が、彼女にしては珍しくファインにも満ち溢れている。何せ、故郷クライメントシティにてお婆ちゃんが得意としていたスープと同じものなんだから、とても美味しいのは自分の舌がばっちり覚えている。今からファインも、それでリュビア達をびっくりさせるのが楽しみだ。旅の中では作れなかった、ちゃんとした料理場あってこそ作れる一発料理は、きっとクラウドも喜ばせることが出来るはず。
そうしてささやかな幸せやサプライズを作ることで、ファインはリュビアの窮屈な日々にさえ、温もりに近いものをもたらしていた。そうした彼女の気遣いがわかるから、内緒と言われたリュビアも、えーっとばかりに口を尖らせつつ、ファインの笑顔を受け入れていた。短い付き合い、しかし二人の少女の間に生まれた絆は、確かに育っている。
「どうもー。ルームサービスっすー」
「はーい?」
そんな折、一室の扉をノックするとともに、向こうから聞こえてきた声。聞き慣れない声だったが、それを理由に不審を感じる要素がどこにあろうか。腰を上げたファインが、扉の向こうの誰かを迎え入れるべく、ドアに向かって歩いていく。
あまりにも、日常的な事象。警戒心のひとつも抱かず、不用心に扉を開くファインの目の前に、悪意の主が姿を現す一秒前だ。




