最終話 ~"そばにいて"とはもう言わない~
「順調そうだな。見ていてこちらも、嬉しくなるよ」
「ふふふ、ありがとう。貴殿らに喜んで貰えると、私も嬉しくなる」
「嬉しいのは私達の方がもっとですよー。あぁ~、村の完成が楽しみ♪」
セシュレスがアボハワ地方の中央区の一角に、小さな村を作り始めてからもうしばらく経つ。天界が抹消され、完全終戦が宣言され、セシュレスがこの地に移って村作りに励み始めてから、ひと月経たぬもそれなりの日が過ぎた。
そんな折、ふとこの未来の村となる地を訪れたカラザとミスティが、セシュレスと木陰で切り株に座ってのお喋りだ。戦時中は世間話もろくに出来なかった、セシュレスと、カラザとミスティだが、こうした時代になってようやく、好きな時に好きなだけ和みの会話を交わせるようになった。
少し前はまっさらの平地だったこの場所には既に、畑となっていく区分地もいくつか体を為しており、骨組みの出来た建造物のつぼみも散見する。もう少し時間が経てば、農作物を作っていく下準備も完成し、人が住まおうと思えば住まえる家屋も多くなっていくだろう。実際に人が集まって、定着し、自活していける村として完成するのはもっと先のことになりそうだが、そのための下地作りは実に順調かつ速い進行の様相である。明るい未来を予感する要素は、早くも形になり始めており、豊富な資金と人材を得た大商人セシュレスの手腕、実現力には、カラザもミスティもただただ舌を巻く限りである。
「村の名前は、もう決めてあるんですか?」
「うむ。まだ完全に決まったわけではないが、"アトモスの郷"とすることを目指している」
「ふふ、やはりそうだよな。他にどんな候補があろうと、その魅力には敵うまい」
「勇気のいることだがね。今から決定とするのは踏み切れぬものがあるが、やはり私の目指すところはそれだよ」
アトモスの生まれ故郷であるクリマートの村の跡地を、ほんの少し南に見通せるこの場所に、やがて村が完成するなら名も必要になってくるだろう。セシュレスは、その村の名にアトモスの名を冠することを考えている。これは、彼にとっても大きな決心である。
やがてこの場所に完成することを目指されている村は、終戦後の時代に初めて生まれる新たな村。ここに一つの人里が出来ることで、豊かな東部と貧しい西部を繋ぐ橋掛けを作るとともに、アボハワ地方全体の発展を目指すための大きな足がかりとなるのは見込まれている。
天人が覇権を握っていた時代、地人しか過ごさぬアボハワ地方はずっと主たる統治者から放置されてきており、戦後の爪跡が残る場所など特に、荒廃したまま寂しく残っている。海岸沿いの東部が栄えているのは、戦後に人口がそちらに集中して地人達が尽力してきた結果であり、一方で西部と中央区の過疎化はなおも進行した側面もある。新時代を迎えたのち、ずっと荒廃したまま放置されていたアボハワ地方の全体が息を吹き返すことは、まさしく地人達の住まう地に新たな風が吹いたことの象徴的事象。今から作られる村には、そうした希望が込められているのだ。
革命の始祖アトモス。すべては彼女から始まった。セシュレスが世を変えるために立ち上がったのも、歴史に関与しないことを決めていたカラザが心変わりしたのも、アトモスの悲壮なる覚悟に遠因がある。サニーの実母、彼女がいなければ今の時代は決して訪れなかっただろう。セシュレスは、新たなる時代の第一歩として生まれるこの村に、かの才女の名を冠したいと強く願っている。
逆に、それほどの思い入れのある人物の名を掲げる、あるいは歴史的創始者の名を借りるということは、失敗が出来ないということでもある。アトモスの名を借りた村が、途中で上手くいかなくなって短命に終わったりしたら、あの世の彼女に対して顔向けできないばかりか、縁起の悪い文字列としてアトモスの名を歴史に刻みかねない。
だから、今すぐそれを決定とすることは出来ない。この村に長く続いていくという確信が持ててからだろう。最大の夢であるそれのために、今はただセシュレスも、村の完成とそれが長く存続するための下地作りに、身を粉にして臨んでいく心積もりである。
「究極的にはどんどんこの村を大きくして、街に、都に育て上げ、南のクリマートの村を含めるほどの大きな人里にしていきたいものだな」
「気が早すぎるよ。千年生きる者にしか立てられん長夢だ」
アトモスの故郷であったクリマートの村の跡地は、近代天地対戦が終わった後に天人達が塩を撒いてしまったせいで、今も農作物が育たない土地になっている。革命児の故郷にまで、二度と息を吹き返すことが無いようにと、大地にまで粛清活動を行なった当時の天人達の苛烈な仕打ちは今も尾を引いているのだ。本音を言えば、かの村を復興できればセシュレスも一番嬉しかったのだが、それが出来ずに今の形に落ち着いている。
だが、もしも何十年後か、わかりやすくは百年後、この村がどんどん土地を広げて大きくなっていった末、なおも存続しているならば、クリマートの村跡地の土壌も息を吹き返す頃合いと立ち会える。その頃まで"アトモスの郷"が存在し、かつてのアトモスの故郷もこの郷の一部として取り入れられればとカラザは言っているのだ。
まったく、何年後の話をしているのやら。そんな夢が叶うとしたって、その時にはセシュレスは寿命の関係で絶対に生きていないし、今16歳のミスティが生きているうちにそれが叶うかどうかも怪しい話。千年生きてきたカラザだからこそ、そんな発想が出てくるってものである。
「貴殿も、そういう夢含みでこういう場所に村を作ったのだろう? クリマートの村が近い近い」
「悪いが流石に偶然だよ。まあ、そういう発想を聞いて、自分がいなくなった後の時代を妄想するのも悪くない楽しみだとは思えるが」
「だろう? 元より死は終わりではなく、新たなる世界への旅立ちだ。己が去った後の現世の明るい未来を想像し、そのために努めていけるのも、短命なる人類の尊き所以というものだよ」
「長寿の古代人様の教訓だな。ありがたく拝聴しておくよ」
「私は天寿にほぼ限りは無いが、ゆえにこそ瞬くような人生を一途に生き抜く者達の姿はまぶしく映る。あまり口にはしてこなかったが、私は心からそう思っている」
「嫌味には聞こえぬよ。貴殿が若者達に無条件に敬意を払う態度からも、その言葉が心からのものであることは存分に感じ取れているからな」
「そう言って貰えると救われる。これでも勇気を持って言ってみたところだからな」
「ふふ、貴殿にも怖いものはあるのだな」
「親しい者を不快にさせることは誰だって怖い」
長寿のカラザはそれだけでも、寿命の限られた普通の人類には羨ましいものを持っている。そんな彼がそれを持ち得ない者の、つまりは自分と比べて短命な者の人生を、だからこそ輝かしいと表現するのは、持たざる者をして面白く聞こえるとは限らない。
セシュレスという人格者を信頼し、思い切ってずっと思っていたことを口にしてみたカラザからすればたまらなく嬉しい返答であり、今ほど朗らかな笑顔のカラザは過去になかったかもしれない。それを傍から見たミスティには、私にご主人様をここまで喜ばせることは出来ないんだろうなと、ちょっと悔しく、寂しく感じることですらある。
「頑張ってみるよ。幸いにも私は、この村の行く末を、長きに渡って生きながら見届けてくれる友人にも恵まれた。作り上げるだけでなく、長きに渡って存続していく希望の礎を、生きる限り完成させていくことに努めることを約束させて貰うよ」
「ああ、頼む。我々も、そのためになら助力を惜しまぬ」
「私も私も! やれること、全部頑張っていくから、何でも言って下さいね!」
「うむ。ありがとう、ミスティ」
無理にでも割って入ったミスティの行動は、この二人の世界に少しでも近付きたいと思った表れだ。セシュレスがミスティの気持ちに感謝の言葉を述べ、頭を撫でてあげる行動が彼女の表情を綻ばせるが、無垢な笑顔の奥にてミスティがより固く決意する、アトモスの名を冠する村のためにも我が身を尽くさんとする想い。彼女の保護者であり、ご主人様であるカラザは、表情の奥の内面もしっかり見抜いており、彼女の心意気を語られずして頼もしく感じている。
この二人にはずっと敵わないんだろうなと心から思っているミスティだが、彼女も既に大物だ。まだ若い彼女が、これからの人生で為していく多くのことが、革命後の世界を大きく支えていく。それ既にカラザが今から確信するほどには、ミスティだって未来を築くための大きな柱の一つなのである。
「来てよかったな、ミスティ」
「はい。セシュレス様と会えたのも嬉しかったけど、短い間にもたくさんのものを貰えた気がします」
「ふふ、まったくもってそのとおりだよ」
セシュレスに別れを告げ、平原を歩むカラザとミスティは、これだけ年が離れていながら考えることは全く同じ。つくづく、希望ある未来の予感は、今を歩くにあたってこれ以上ない推進力になる。懇ろであるセシュレスの夢が、実現に向け着々と進んでいることもそうだし、遠すぎるにせよ長い目で追える夢を明確に話せたこともそう。一人でだって生きていける力のある二人だが、やはり友や同朋ありし人生の幸福を覚えれば覚えるだけ、独りの人生では満足できないものだと間接的に痛感する。
「ミスティは、人の夢を聞いている時が一番楽しそうだな」
「勿論ですよ~。だって、元気出るじゃないですか。やる気が出ますもん」
「あまり張り切らなくてもいいんだぞ? 汚れ仕事は、私を含めた大人の仕事なんだからな」
「今さらそんなこと言わないで下さいよ。私、みんなのためなら何だって頑張れますから♪」
カラザとミスティには、新時代における新たなる使命がある。新生"アトモスの遺志"と呼ばれる、水面下組織の実質的な頭として、裏から今の世を保っていくために動き続けるという使命である。
革命成りしこの世界は良い方向に動いているが、決してそれを手放しに喜ぶ者ばかりではない。天人達の中には、そんな時代は嫌だと今でも考える者が少なくないだろう。たとえばそれらが蜂起して、平定されたこの世をかき乱す一因となることは、危惧して然るべきことである。表面上以上に、泰平の世に向けての動きは慎重に進められてはいるのだが、それでも生じる不安要素というものはどうしても絶えない。今も決して、完成した大安の時代ではないのである。
それらを封じるために動く、例えば鳶の翼の傭兵団など、革命組織に属した者達の多くで構成される地下組織が新生"アトモスの遺志"だが、目的上その仕事は美しいものばかりではないだろう。今の世を乱さんと立ち上がる者を説得するだけで話が済めば綺麗だが、話の通じぬ者には対話だけで片付かない。圧力をかけることだってあれば、最悪刃を抜くことだって必要になるかもしれない。
革命戦争の中でも、その手を血に染めていたミスティ。時代が移りしこの時になってなお、汚い仕事を自ら背負わんとするのは、彼女自身が決めたことである。一方で、それにはカラザも複雑なる本音がある。汚れ仕事は大人のものだと口にしたカラザの真意はそこにある。
「この組織が、一日も早く必要のないものになって、解散の時を迎えるまでが私達の戦いですもんね。少しでも早くそれを終わらせたいですもん。頑張らなきゃ!」
「……そうだな」
そうした集団にアトモスの名を冠したことは、カラザにとっては悩ましいことだった。誇りづらい仕事を主とする組織に、かの人物の名を借りるのは、やはり今でも亡き彼女に業を背負わせるようで気が引けるのも事実である。
しかし、"アトモスの遺志"は、かの才女が存命であった時代から、彼女の背を追ってきた者達が作り上げてきたものである。セシュレスが違う形で彼女の名を歴史に刻もうとしてくれているのは救いでもあるが、一方でこちらもその名を旗印から消すことは容易に叶えられない。別の名を考えて新たなる志の集団としても、そこに彼女の存在を匂わせないことは、歴史を振り返るにあたって正しいこととは限らない。実在したことを無かったことのように扱うことは、やがて過去を正しく顧みようとした時にただならぬ瑕となるのも事実である。
アトモスの実子、サニーともよく相談して決めたことだ。やがて、こうした抑止力が無くとも泰平の時代が訪れ、この集団が不要となり風化した時、治安維持組織の名として掲げられていたアトモスの名も消える。その時こそが、真の意味でのアトモスの夢が叶った時と、カラザも固く誓った上で旗を掲げているのだ。すべての始まりであった彼女の名を、決意なく軽々に掲げる者などいない。
天国より、かつての夫であったフェイルと共に、現世を見下ろしてくれているであろうアトモス。あの世の彼女達に向け、出来得る限りのはなむけを。カラザとミスティ、セシュレスやニンバス、多くの者達が、今もそれを望んでいる。
「ただな、ミスティ。ちょっと真剣な話をしよう」
「あ……はいっ。なんでしょう」
カラザと横並びに歩いていたミスティは、ご主人様が足を止めるのと全く同時に立ち止まる。すぐに体ごと向け、拝聴する構えに入る彼女は、真剣な話という単語に背筋を正している。
「お前自身に、夢はないのか?」
「ん……えぇと、今のところは、特に……」
「あるだろう?」
「いや、その……べ、別によくないですか?」
「良くないから聞いている」
「前にも一度お話しましたけど、私はもう諦めてますし……」
「変わってはいないのだな?」
「…………」
ミスティの夢。カラザはそれを知っている。何年か前、もっと幼い頃のミスティが、ふとしたきっかけに口にした夢を、その数年後の今になってもカラザは忘れていない。当たり前だ、彼しか知らないミスティの純粋無垢な夢を、彼女の育て親に近いカラザが忘れるはずがない。サニーとは違う形ではありながら、大事な大事な一人娘のような少女なのだから。
「私に、その夢を叶えることは出来ないか」
「……いくらカラザさまでも、出来ないことはあると思いますよ」
「違う、私がそうなると言っている」
背の低いミスティは、カラザを見上げて向き合ったまま、ほんの僅かな時間ながら思考が止まった。二人しか知らない秘密、行間を省略されても通じる二人だけの対話だ。カラザの言葉は、かつてないほどミスティにとっては重い。
「……カラザさま。私は、あなたのことが大好きです。でも、言わせて下さい」
「…………」
「……いくらカラザさまでも、本気じゃなく言っているんだったら、私は悲しくなりますよ」
「ならば、どうすれば信じてもらえる?」
「……無理ですよ。私、信じられないです」
「私の言葉でもか」
「か……カラザさまの、言葉でも、です……」
素直に受け取るんだったら、感涙したいぐらいの言葉である。だが、ミスティにはカラザの言葉を信じることがどうしても出来ない。
親殺し、大量虐殺、治安維持組織の筆頭。ミスティが背負う、過去と現在と未来の業は、彼女が彼女自身を誇るにはあまりにも重過ぎるのだ。これまでどれほど、非道なることに手を染めてきただろう。何度この両手を血で濡らしてきただろう。誇るべきことじゃない、たとえそのはたらきによって革命が為されたのだとしても。死後の世界があるのなら、自分が行くべきは楽園の逆だとミスティは思っている。
罪深き自分に、他者に奉仕する、人生を捧げる以外の形で幸せを感じてはならないと、今のミスティは本気で考えている。幸せになんか、なっちゃいけないのだって、心から思っているから、カラザの言葉を信じられない。
「ミスティ」
「や、やめて下さい……怒りますよ……」
カラザがミスティの両肩を持ち、その瞳を真っ直ぐにミスティの両目に向かわせる。直視できず、ミスティは目を伏せるが、ぐっと肩を握るカラザは、顔を上げろとその握力で以って伝える。なかなか顔を上げないミスティだが、カラザは彼女が顔を上げるまで何も言わない。
顔を上げろと言ってしまえば、命令になってしまう。今は、そうしたくない。主従の対話ではなく、一対の男女として話をすべきが今なのだ。
「…………」
「っ……カラザさま」
「家族になろうと言っているんだ。どうしても、信じられないか」
両親に見捨てられ、一人ぼっちで生きてきたミスティだ。寂しい人生を強要され、迫害されてきた彼女が最も望む儚い夢は、同じ境遇にあったファインと全く同じもの。
無条件で、手を繋いで共に人生を歩んでくれる家族。もしも子供が出来たなら、絶対に優しくするんだって、いっぱいいっぱい愛を注いであげたいって、ファインもミスティも幼少期の哀しい記憶から、何度も夢の彼方に決意してきたことである。
ファインがクラウドと結ばれそうだという話を聞いた時、それを心から祝福する彼女が、ほんの僅かに羨望と寂しさを心の奥に秘めていたことを、カラザだけが知っている。ファインの幸せを見送ると同時に、取り残された自分の暗き余生を対比する形で感じた彼女は、なぜなら自分にそんな資格はないと考えていたからだ。そもそも、数多の人を殺めてきた自分を、どこの誰が愛して契りを結んでくれるっていうんだろう、とも。心に根差した深すぎる罪悪感は、他ならぬ彼女自身から幸福への道を閉ざさせる心模様を強いている。
「わ……私、もう、あなたの部下でもいちゃ駄……」
「聞け! ミスティ!」
それだけは口にさせない。わかっている、ご主人様の言葉を信じられない自分は、あなたをご主人様と崇める資格も無いとでも言うんだろう。この忠誠心を養った自分のことを、過去最もカラザも悔いている。命令してでも、それより先を語らせない。
「私には、お前を幸せにすることは出来ないのか」
「だ、だって……だって……」
「私の部下をやめたいか? やめてもいいさ、家族に主従関係などないんだからな。だったら望むところだ」
「こ……っ、困らせないで下さ……」
「私には、お前が必要なんだ」
厳密な意味の求愛とは、きっと違う。カラザは、ミスティの幸せを世界一望んでいる。何らかの形で、いつかやがてミスティに、ファインにとってのクラウドのような人が出来るなら、それは自分じゃなくたっていいとも思っている。ミスティが幸せになってくれるなら、カラザは自分の幸せなんてどうだっていい。
だけど、自分にはミスティが必要だという言葉もまた、決して嘘ではないのだ。最もそばにいてくれて、カラザにとって最も愛しい人物とは、セシュレスでもサニーでもなく、確かにミスティである。彼女が自分のことをどう評価しようが関係ない。ミスティがどれだけ、数多くの同朋の夢を叶えるために、血の涙を胸の奥で流しながら戦い続けてきたかを見てきたカラザをして、彼女はそれだけ特別な人間なのだ。
ミスティが、純然たる恋心から始まる関係を誰かと結ぶことを夢見るのなら、それはカラザには叶えられない。カラザがミスティに注ぐ愛の形は、そう形容するには不純物が多すぎるから。それでも、想いの丈を伝えきるカラザの瞳は、決してご主人様として最愛の従者を慮る色ではなく、一人の男として少女の幸せを願う者のそれである。
「う……っ、ううぅ~っ……!」
「……信じられないのか。どうしてもか」
違う、ミスティだってもう目を逸らせない。最愛の人が、自分の幸せを心から願ってくれているこの現実から。たとえそのプロポーズに数々の真意の憶測を重ねても、揺るぎなく実在する、自分の幸せを熱望してくれる人がいるこの事実が、ミスティの表情と瞳を震わせる。
こんな幸せなことが、自分の人生であっちゃいけないって、ずっと思っていたことなのに。あなたのことが大好きです、ご主人様としても、一人の男性としても。不動の忠誠心、立場による呵責、それによって口が割けてもそれだけは口にしてこなかった少女の、絶対に叶わないはずだった恋心だったのに。
間違った現実を打ち砕いたのが、他ならぬカラザだったのだ。どんな顔をすればいいのかなんて、わかるはずもなければ考える頭もない。涙だけが理屈を超えて次々と溢れてくる。
「ミスティ」
「っ、く……! うううっ……!」
ぐしぐしと目を拭っても、それは決して止まらない。クラウドに告白を受け止めて貰えた時のファインのように。悲しみより、嘆きより、苦しみより、時に幸せの方が人の頭を真っ白にする。
「泣かないでくれ、ミスティ。今すぐに返事をくれとは言わん。お前はまだ、若いんだからな」
「ひぐっ、ううっ……! ふうぅっ……!」
「私のことを信じられるようになれば、その時返事をくれればいい。私は、いつまでだって待っているからな」
ミスティを抱き寄せ、両腕で包むようにミスティの頭を抱き、撫でるカラザのぬくもりは、今までのどんな時のそれよりもミスティには温かかった。きっと、これに勝るぬくもりは、今後の生涯二度と訪れないかもしれない。今よりも幸せなことがあるだなんて、とてもミスティには思えない。
泣きじゃくるミスティを、生涯守ることを誓っている男は、ミスティの頭の上で天を仰いでいた。完全なる泰平の世の完成までは、まだまだ時間がかかるだろう。その茨の道を歩まんとする少女は、自らの幸せも完全に捨て、他者に人生を捧げることに全てを尽くそうとしていたのだ。混血児として生まれ、迫害され、それを変えるために修羅の道を進まざるを得なかった彼女が過去にいたのは、天人達の築き上げた差別的な社会が根源にある。
そんな時代は終わりを告げたはず。少女には、少女たる普通の幸せを。そうだろう天よ、文句はあるまいと、気高き決意を挑戦的に掲げるカラザは、腕の中の少女を抱きしめる力により強い想いを馳せていた。
「――というのが、セシュレスさんからの提案です。どうかしら?」
「……異論はないが」
天人都市カエリスにそびえる真っ白な城にて、一人の少女と厳かな風格を持つ王が対談している。どちらも、天界王の名を冠した経験があるという、現代以降はこれ以外に組み合わせのない顔合わせだ。その対談において、戸惑うような表情を見せているのは、4倍以上年上の天王フロンの方であり、対するサニーは実に堂々としたものである。
「何か引っ掛かる?」
「……我々としては何も問題はない。だが、本当にこれでいいのか?」
「ずっとこうというわけじゃないですけどね。でも、急な政策施行はひずみを生むし、今のところはゆるやかな変化を求めて、こういう段階を踏んでいこうってセシュレスさんは言ってるわ」
年上相手に敬語を使いつつ、しかしあまりそれに拘ると慇懃無礼に聞こえかねないことも意識し、語り口に半端を含みつつ話すサニーに、フロンは腕を組んで考え込む。裏があるのかと邪推もするが、どうもそうした気配が一切ない。彼も王であった者、推察力は秀でており、だからこそサニーら、天人陣営との戦争に勝利した側が、"こんな"交渉を持ちかけてくることには首をかしげたくなる。
天人側の最高指導者はフロン、地人側の最高指導者はセシュレス、これが基本構図。セシュレスはアボハワ地方のお仕事で忙しく、現地を離れにくいため、セシュレスに並んで旧革命組織の筆頭であったサニーが、セシュレスの代わりに政治的対談を為す使者としての役割を預かっている。そんなわけで、今日はサニーがカエリスに赴き、セシュレスの考案した今後の政治方針を伝えにきたのだが、どうもこれがあまり地人側においしくないのである。
そりゃあ、ホウライ地方の復興支援に国庫を割いて欲しいとか、アボハワ地方に天人の商人を派遣して欲しいとか、セシュレス達の希望は数多く含まれているのは事実。しかし今の例の前者もそうだが、必ずしもセシュレス達地人ばかりに対して、純然たる有益が真っ直ぐ入らない要求もある。
加えて、それだけ要求するぶんこちらもカエリスに人材を派遣するだとか、フロン達に有益な話も含まれているのだ。天人ばかりのカエリスに地人が立ち入るというのはやや新しめの出来事だが、終戦後あれだけあって今さらってな話。
戦争で勝利した側が、敗北した側に対しての政治的交渉にしては、随分と同列だ。戦争に勝った側っていうのは、お前達の要求など聞かぬ、こちらの言い分を通すのみという要求もそう珍しくない。終戦直後なんて特にである。
それが、わざわざ天王フロンに事前承諾を貰いに来る手間を割くことや、サニーのちゃんとした態度も含めて、実に傲慢さを匂えない。覚悟していたよりずっと生温いサニーらの動きに、フロンも今の流れにはかえって現実味を感じないのである。
「私達は、虐げられていた側に、あなた達と同等の権利を得られるよう求めるだけであって、あなた達の上に立とうとしているわけじゃない。セシュレスさんもそう言っていたのをあなたも知っているでしょうけど、あれは建前じゃなくて、私達の総意にして真意なの」
「…………」
「お願い、わかって。信じられないかもしれないけど、私達はあなた達とも信頼関係を築いていきたいと思ってる。信じてもらえるまで時間はかかるかもしれないけど、私達は頑張っていくつもりよ」
心からの訴えをするこの時、サニーは思い切って敬語をはずしている。それだけ、その眼差しも真剣だ。それは70歳超えのフロンが17歳のサニーに、瞳から漂う気迫だけで一目置くほど強い。決して一度負けた相手だからというわけではない。
「平等を望む。私達の願いは、ただそれだけよ」
対談の最後は、この言葉だと決めていたサニー。これからも、ずっとそうしていくかもしれない。優位に立つことを主目的としていると思われたら、対等や平等は成り立たないのだ。戦後のアドバンテージを活かして、少しでも有益を稼いでおくのも手段の一つではあったかもしれないが、そうせずとも後を為していける算段がある以上、無理に欲を出すより人心を相手に誠実な交渉を持ちかけた方がよい。
権力や金銭が絡むと、人はいやに現実視したくなる。しかし、執政も所詮は人の心が根底にある。社会とは、指導者ではなく民が為すもの、人々の体と心が成すものであるからだ。対談を終え、去っていくサニーの後ろ姿に漂う信念は、彼女らを権威への侵略者としてしか捉えていなかったフロン達の心を、少しずつ溶かしていく結果に繋がっていくのである。
「フロン様、お疲れ様です……」
「…………」
対談は一対一で行なわれたため、フロンに近づいてくる側近の男は、サニーがどのような人物であるのかを目で確かめていない。あんな子供に舐めた口を利かれて、王様もさぞかし屈辱的でしたねとばかりに、おいたわしさを慮る態度で謁見する形を取っている。
「……フロン様がご希望なら、我々も武器を取りますよ。玉砕も覚悟で、我らの覇権を……」
「慎め。浅慮だ」
やはり、こうした者はまだいる。自分達の暗黒時代の始まりを予感し、苦しみの日々を迎えるより先に、伸るか反るかの再革命を希望する天人達のこと。そんな彼をして、フロンが即答でそれを一蹴したことは、意外なこととさえ言えることだ。我々の知る王様なら、きっと同意してくれると思ったのにというところ。
「サニー、セシュレス、カラザ、ミスティ。これらを討ち果たせる者が、我らの中にいるか? いたとして、どれかの首を取ったとしても、一人がそうなったことを奴らが知れば、今度こそ我々は為すすべなく滅亡を迎えさせられよう」
「そ、それは……」
「そうなれば、サニーを破ったというファインやクラウドさえをも敵に回しかねぬ。勝ち目を一厘でも見出せるか?」
「…………」
天人陣営が、武力で以ってもう一度世を覆すのは不可能だ。地人陣営の最有力者は所在もばらけており、旧革命軍の構成員も各地に散開しているため、情報の交換も早い。もしも天人陣営が戦争で勝利しようとするなら、挙がった辺りを全部同時に始末できなければ現実的ではないというのに、それが出来ようもないのである。
あの辺りの結束は実に強く、もしも天人陣営にとって非常に幸運にも、一人か二人か三人でもいい、討ち取れたとしても、残りがぶち切れて襲い掛かってくるのは目に見えている。勝てる戦になりようがない。だいたい、挙げられた数人ですら化け物の頂点一角であり、ザームやらニンバスやら普通に化け物な連中はまだまだごまんといる。
特にサニーやミスティがそうだが、まだまだ若い。絶対に、どう考えても、普通に生きたら今の天人のどんな強い奴より長生きして、この世に現存する。仮にあれらがご老体なら、それが天寿を迎えてからを見越して計画を作ることも可能だが、それすら出来ないのだからどうしようもない。
あれだけがちがちに固めていた覇権を崩されて革命が成就した時点で、天人側の武力行使による再逆転なんかそもそも無理なのである。希望を持ちたい、権力にすがりつきたい者は甘い夢を見るかもしれないが、これは明らかに捨てた方がいい夢というやつだ。フロンの見解の方が圧倒的に正しい。
「様子を見続けるしかあるまい。もしも向こうが、我ら天人の首を真綿で絞めるようなことをいずれやるなら、そうした選択肢も考えるがな」
「そうですか……」
事実上の、足掻こうが無駄宣言に、側近もがっくり肩を落とす。我ら最強のフロン様が言うのであれば、そうなんだろうなとしか思えない。フロンの言葉は正しい意味で、天人達を統制する魔力を持っているのである。
「まあ、もっとも」
露骨に落ち込む部下に、多少の優しさを見せてやるべく、フロンは続いて言葉を紡ぐ。側近はうなだれていた頭を上げるが、顔色には元気がない。
「私達が思っていた天人の行く末よりは、もしかしたら随分といい未来が待っているかもしれんぞ?」
「……そう、なんですか?」
「まだわからぬがな。ただ、意外に期待は持てるかもしれぬ」
フロンは現在、サニーやセシュレスを100パーセントは信用していない。そう簡単に、つい最近までの敵方を信用するのは賢明ではない。執政者は、人が良すぎてもいいことばかりではないものだ。
それでも、部下の前で公言するほどには、サニーらに歩み寄ろうとしている彼がいるのも事実である。天人と地人が手を取り合える第一歩は、まだ踏み出されたばかり。まだ始まったばかりである。かつては不可能であると言われたことも、そこからまずは始まるのだ。
「手応えは?」
「んーまあ悪くない。ちゃんと対話になってたしね」
カエリスから去る馬車に乗るサニーのそばには、ニンバスとザームがいる。サニーも一人で長々と旅をするのは寂しいだろうと、同行してくれる者がしばしばつく形を取るようだ。だいたいそれは男なので、サニーは天王フロンに使者として会いに行くたび、とっかえひっかえで色んな男の人とデートできるんだなと冗談口を叩いていたりもした。勿論、純然たる冗談で。
「あの聞かん棒の天界王……今は天王か、あれが元庶民のお前と、ちゃんと対話をしたとはな」
「いやらしいことを言えば優劣はっきりしてる部分もあるでしょうけどね。でも、それに加えてきちんと誠意を持って話せば、案外なんとかなることもあるってことじゃないかな」
勿論、絶対王の座に座っていた頃のフロンが相手では、誰がどんな風に話しかけても駄目だっただろう。ちゃんと人と誠意を持って話せるスノウが、一生懸命色々説いても聞く耳持たなかったんだから。時勢が変わったことによる影響は最も大きいが、サニーの言うとおり、勝者側として傲慢になったりしないことは、プラスにはたらく要素の一つである。
「時間かけて、信頼関係築いていくことにするわ。見てろよー、私がんばるぞー♪」
「頼もしいねー」
「……ふふ」
「なーんで二人ともそんなにリアクション薄いかな」
平常時のサニーを見ていると、単なるお転婆娘が楽観的なことを言ってるようにしか見えないんだもの。つくづくこんな女の子が、世界変革の切り札であったなんてのは、結果が出た今になっても信じ難く目に映るものである。ザームもニンバスも、冗談みたいな現実に笑えるというものだ。
「んで、お前はこれからどうするよ。ニンバスの兄さんは、アボハワに帰るみてえだが」
「ロカ地方に寄り道かな。一応、向こうのあれこれ覗いてくる仕事はするけど」
「ファインやクラウドに会いてえだけなんじゃねえの」
「それが第一目的だろって言われたら否定できない」
遊びに行くついでに仕事する、と堂々と言うこの態度。まあお偉い様だし、好きにしてねといったところ。
「そういえばサニー。お前、クライメントシティに学校を作りたいとセシュレスに相談しているそうだな」
「あら、ニンバスさんは知ってるんだ。セシュレスさんから聞いた?」
「俺は初耳だな。何だそれ?」
ふと、ニンバスが発した言葉にサニーが反応したところで、ザームが食いついた。勉強なんて嫌いな彼だから、学校を作りたいというサニーの発想は実に新鮮に聞こえる。
「ほら、これまでの時代では天人が上、地人や狭間が下、みんなそういう風に教えられてきたじゃない。千年間そうだったわけだし、それが常識として、どっちもそういう認識が根底に残ってるわ。天人じゃない人にもね」
「んー、俺はそうじゃねえが、確かにツレを見渡してもそんな印象がある奴はいるな」
「ザームさんだって、ちょっとぐらいそういう名残ない? 天人相手に話す時、過剰に舐められないように、少し普段より態度に張りを持たせたりするじゃん」
「あーまあ逆の意味でな。確かに全く意識してねえとは言い切れねえとこあ……つーかお前、よく見てるなぁ」
「今の時代の人達の心根に根付いちゃったそれは、時代が変わっても、どうしたって消せない部分があると思う。だから私、これから生まれてくる人達には、そういう世界は終わったんだよって教えていける、そういう学校を作っていきたいって思ってるんだ」
この時代まで長らく残ってきた常識は、人々の心に生活習慣として根付いたものであり、それを完全に塗り替えることはほぼ不可能だ。だって、みんな今までそれを前提に生きてきたんだから。時流に適応するため価値観を改めようとする人は増えても、心のどこかで昔の価値観が消えきらない者が殆どだろう。
サニーが変えようとしているのは、数十年後の世界だ。今より後に生まれる者達に、変わった世界の新常識を教えていける、そうした環境を作りたい。強い差別意識に端を発し、幾多の血が流れる戦争が起こった事実を忘れず、その再発を未来においても防ぐための、平等なる社会の永続を目指す。新時代の思想を連綿と伝えていくための礎を夢見るサニーは、その手段としてクライメントシティに学校を作ることを夢見ている。
「まだ、具体的なことが進んでいるわけじゃないけどね。これから色々計画立てつつ、天王フロン様とも話し合って、クライメントシティに行くたび話を進めていくつもりよ」
大掛かりなこと考えてんだなぁ、そんなの本当に実現出来るもんかよってザームも本音では思うが、それは口にしないでおいた。水を差すようなことを言うまいとした部分もあるが、この子なら長い時間をかければ本当にやり遂げてしまうんじゃないかとも、ほんの少し思えたりもしたからだ。
何せ己を秘めたる平民暮らしの中から、一躍天界王まで上り詰めた実績のある少女だ。知恵もあり、今は公の世界に協力者も山ほどいる彼女に、絶対不可能な夢なんかそうそうないんじゃないかと、ちょっと思えたりもするのである。
「いい話が聞けたよ。それでは、私はここでお暇するとしよう」
「ん、ニンバスさん行っちゃうの?」
「空を飛んだ方が山越えは早く済むからな。あいつらの前を留守にし続けるのも悪いし、急がせて貰うとするよ。すまないな」
「んーん、全然。ご同行ありがとうございましたっ♪」
座ったまま敬礼の手つきで礼を言うサニーに微笑み、荷台で立ち上がったニンバスは翼を広げて空へと飛び立っていく。まったく、どこが鉄仮面の冷静なる勇者様だというんだろう。タクスの都を戦いの舞台として相見えた時の、表情ひとつ揺るがさない戦場の勇者ニンバスの顔からはかけ離れた、あんなに優しい笑顔も出来るもんじゃないかって思う。
泰平なる時代が始まったことによる、良き副産物の最たるものはまさにこれ。気を張り詰めて日々を過ごしていた、戦人が今はあんな顔で日々を過ごせる。十年以上に渡って戦い続けた天人の勇者が、今はただの頼もしい大人として平安の世を飛翔する後ろ姿を、サニーは心温まる想いで見送っていた。
「ザームさん、前の彼女さんに会いに行くんでしょ?」
「おう。けっこう久々になっちまうけどな」
「ヨリ戻したりとか考えないんだ?」
「向こうにゃもう相手がいるからな。俺とあいつの子供を、事情を知りつつ養ってくれてるいい奴だぜ? 横からしゃしゃり出るつもりはさらさらねえよ」
「前カレと今カレが仲良しなんて、ザームさんの前カノさんも幸せだねぇ」
「優しくていい女だぜ? 幸せになって当たり前なんだよ」
ザームの昔の彼女、天人でありながら地人のザームとの間に子を設けた女性。その人物は、親にも見限られて悲しみに暮れて放浪した末、ロカ地方の小さな農村に辿り着き、そこで今は穏やかに過ごしている。事情もすべて知り及んだ上で、彼女を受け入れた男と共に、慎ましやかながらも静かに暮らしているのだ。
その今の彼氏にはザームも感謝するばかりで、任務と関わらない時間に時々会いに行って、飯や酒を奢ったりしてきたそうだ。普通はもう少し複雑な関係になりそうなところを、仲良くなれてしまったのは、相手方の人の良さもあるが、ザームの人間力もあるのだと思う。
「……お前やミスティ、セシュレスの爺さんが革命を叶えてくれたおかげで、あいつら夫婦もこれからは、天人様の顔を気にして子作りが出来ない状況が一新されていくんだよな。今度会ったら、それを伝えてやりたいってずっと思ってたんだよ」
「ふふ、どういたしまして♪ でも私より、ミスティやセシュレスさんにはもっと言ってあげてね?」
荷台の端に肘をつき、景色を眺めながら逆の手を差し出してくるザームの行動は、新たなる時代の幕開けに感謝を告げる意図を含めている。応えたサニーも嬉しいものだ。自分が心血を注いできた革命は、成ったことによって誰かを幸せにすることが出来るものだったのだから。
二人を乗せた馬車はマナフ山岳へ進み、坂を登り、ロカ地方へと。執政者の使者も、革命軍の戦闘要因だった一人の男も、これからは新しい人生を歩んでいく。サニーは天人、ザームは地人、その事実が暗喩するとおり、天人も地人もこれから新時代を、新しい生き方で歩んでいく。
結ばれた手が象徴するように、共に。そんな時代が、今ここにある。
「あぁ、楽しかった♪ クラウドさん、お疲れ様です」
「疲れてないよ、俺も楽しかった」
ある日の夕頃、二人で我が家に帰ってきた二人は、お腹いっぱいという顔を交換していた。もう自分の仕事を持っている二人だが、週に二日の休日は合わせており、その日は二人でめいっぱい休日を楽しむのだ。今日もその日であり、クライメントシティで二人の時間を半日楽しんできた二人が、ほっかほかの幸せ顔でいられるのは至極当然のことである。
「ご飯にします? お風呂にします?」
「いいよ、どっちも。少し休もうぜ。そんな帰ってすぐに働くこともないだろって」
「そうですか? ふふ、じゃあお茶でも入れて来ますね」
結局何か働きたいらしい。大好きなクラウドさんに、何でもいいからご奉仕したくてたまらないのである。あまり度が過ぎるとクラウドも気が引けてしまうが、これぐらいなら別に。ファインが夕食を作っている間は、クラウドがお風呂を沸かすのだろうし、クラウドも共同生活において行動的だから、どこかで仕事は片方に偏らないようになるのだし。
「はい、どうぞ。クラウドさん」
「ん、ありがとう」
小さなちゃぶ台を一つ挟み、縁側老夫婦のように二人がお茶を口にする。これがまあ、ただのお茶のくせして美味しいの何の。元より家庭的な技術には秀でるファインだが、お茶も随分上手に入れるものだ。恐らくお婆ちゃん譲りの技なのだろうけど、同居して初めてわかる、今まで知らなかったファインの魅力がまだまだあるものだ。
「…………」
「……な、なんですか?」
「いや、別に……ふふっ」
「もう、なんですか。うふふふ……♪」
幸せそうにお茶を飲むファインが可愛らしくて、ずっと見ていたクラウドだから、気付いてファインも頬を朱に染める。クラウドが濁しても、今の幸せに笑わずいられない彼の態度から、ファインにだってクラウドが二人きりの今を喜んでいるのは読み取れる。だからファインも、溢れる微笑みが抑えられない。
「……ファイン、こっち来いよ」
「えっ……い、いいんですか?」
「なんだったら、俺が行ってもいいけど……」
静かな居間にて、向き合う形で座っていた二人。クラウドが少し目線を漂わせかけながら呼びかけ、ファインもしどろもどろである。一方で、いいんですかなんて言ってる時点で、尻尾があったらぶんぶん振っているであろうぐらい嬉しがっている証拠。
そばにおいでと言ってくれたクラウドに、ファインはとくりと胸を高鳴らせながら、不意に緊張を得た顔で立ち上がる。歩いて向かう先は、クラウドのすぐ隣である。
座ったファインとクラウドは、急にそこからだんまりになってしまった。互いの顔を見るのも少し難しい今の空気だが、クラウドが一息挟んでファインの体に手を回す。そのまま、自分のそばに抱き寄せる。
「く、クラウドさん?」
「いや、まあ……別に、意味はないけど」
かあっとした顔色で目をぱちくりさせるファインが、クラウドと肌を合わせる形になり、クラウドもクラウドで目線をあらぬ方向へ逃がしながら、腕に優しい力だけを込め保つ。服越しに感じ取れる、ファインの体の感触は柔らかい。それ以上に、衣服を挟んでなお伝わる温かみが、クラウドの心の奥にまで沁み入る。
恋人と寄り添うこの心地を形容する言葉を、クラウドには上手く飾ることが出来ない。こうしているだけで、本当に幸せだ。何度も、彼女が死の間際に追い詰められた過去がある。それを乗り越えてきて、何も恐れることのない世界で一緒にいられることは、いっそう幸福なことに感じられている。
「…………クラウドさん」
「ん?」
「あの……お願いが、あるんですが……」
クラウドに肩をひっつけて、手のやり場に困るように指先で膝の辺りをこね回しているファインが、何らか言いにくそうなことを言わんとする表情。少し前、サニーに誘導された宿での一件があるから、クラウドも過剰に何かを警戒する。もしかして、また変な覚悟を強いられるのかなって。
「え、えぇと……その……重く聞こえたら、申し訳ないんですが……」
「……うん」
「わ、私、本当に、抜けてるところだらけで、不束者ですが……クラウドさんが大好きだっていう気持ちだけは、どうしても変えられそうにありませんので……」
知ってる知ってる、クラウド以外。ここまで好かれているとは驕れないわけで、クラウドは改めてどきどきさせられたりもする。絆だけは成熟した二人ながら、恋人生活は始まってまだ短く、男女の交際関係としてはまだ始まったばかり。この初々しい胸の高鳴りには、まだまだしばらく患わされそうだ。
「ず、ずっと……そばに、いさせて下さい……私もう、クラウドさんがそばにいない日々なんて、考えられなくなっちゃいましたので……」
自分の膝元をぎゅっと掴み、告白時に近いほど思い切った声色で宣言するファインに、クラウドの頭の中で何かがはじけそうになる。こんなにも愛されていることを、肌を寄せ合うこの近くで改めて思い知らされたら、誰だって相手のことが愛おしくて仕方なくなるというものだ。
「ひ、引いちゃいますか? お、重い女だって思わせたらすみま……っ、ひゃ!?」
衝動を抑えられなかった。ファインを、この女の子を、自分だけのものにしたいっていう衝動が。ファインを自分の体の横に抱き寄せていた形から、急に体を回して後ろに倒れ込むクラウド。それと同時に、両腕でファインの体をしっかり抱きしめたクラウドにより、ファインもクラウドの方に倒れ込む形になる。
床を背にして寝転がったクラウドの体の上に、彼の両腕に抱かれたファインが前のめりに倒れ込んだ形。胸と胸を合わせ、耳の横に互いの顔を置き、ぎゅっと抱きしめられる。胸の高鳴りは一気に弾み、重ね合わせた胸同士を介して、二人のそれは通じ合う。
「く、クラウドさ……」
「一生、大事にする……! 約束する……!」
気恥ずかしさも一切覚えず、強く、決意のこもった声でクラウドは発していた。心からの想いだ。そばにいてやる、お前がそうして欲しいと二度と頼んでこなくたって、俺がずうっとそうしたい。
可愛い可愛い、俺だけの彼女ってやつだ。恋人って、こんなにも、誰にも渡したくなくなるものだなんて知らなかったし、自分がこんな独占欲の持ち主だなんてクラウドは思ったこともなかった。
「大好きだからな、ファインっ……!」
「……はいっ」
ただただこの、幸せの海に身を預けるだけでいい。力を入れず、頼もしい恋人に体を預ける形で、潤んだ瞳を拭うこともなく、ファインはクラウドに抱きしめられる幸福を噛み締めていた。
人は生まれた時、与えられた環境を開始点として人生を歩んでいくことを余儀なくされる。富める者、貧しき者、生まれたその時に人生の行く末が、いくつか絞られてしまうことは、厳しく惜しむらくも現実だ。それは決して、天人と地人と混血種がそれだけで格差を定められたこの世界の一例に限らず、どこの世界でも実在する事情である。
幸せをどこに見つけるのかは、その人の心が決めるものだとよく言われる。客観視することが出来ないものだ。財こそ裕福なれど心に孤独を抱える者もいれば、持たざる者なれど己の世界周りに満足して慎ましやかに過ごせる者もいる。友達さえいれば、自信さえあれば、対話が為せるなら人生は幸福になれると定義する三人も、本来に追い求める幸せの形は全く別物だ。
ファインとクラウド、サニーの三人に共通される幸せの形とは何だろう。愛しい人が幸せに過ごしていることを目にすることが出来れば、彼ら彼女らはただそれだけで幸せになれる。きっとそれは、三人に限らず、殆どの人が幸せを得られる手段の一つである。逆に、愛しい人が不幸に見舞われた時、人はその痛みを我が事のように抱き、悲しむことが出来る生き物だ。
ひたむきに生きている人間が、不条理に見舞われて、苦境を強いられる世界を、多くの人は望まない。それで自分や、愛する人が不幸に見舞われる時、人は世界を、社会を呪う。ファインのことを愛するクラウドとサニーは、アトモスのことを愛したスノウは、混血種の二人が理不尽に迫害されてきた過去の世界を、決して肯定することが出来ない。それは差別を嫌う思想からではなく、大好きな人が苦しむ世界を、正しいものだと認めたくない想いが生まれさせる、どうしようもなく大きな世界にさえ立ち向かわんとする精神の叫びである。
誰だって、幸せになりたい。だから、ひたむきに頑張る。閉塞した動けない環境に押し込められ、動けず世間に評価されない者だって、息をしているだけで必死なのがどんな世界でも言えること。愛し、愛され、それが自分でも他人でも、誰かの幸せは必ず派生し、第三者に幸福をもたらすことの出来る大輪である。
一途に生きているはずの者が、報われずに不幸になるばかりだった世界。差別する側の天人も反抗による傷を受け、虐げられる地人や混血種は苦悶を隣人として毎日を過ごした世界である。この世界が、間違ったものだと形容されていた理由の本質は、言う者に言わせればそれにこそある。
クライメントシティの一角に建つ、小さな小さな一軒家の中に育まれ、これからやがてもっと大きくなっていく幸せが、きっとこの新時代に撒かれた種の芽吹いた一輪の花。もう、希望未満の幸せにしか恵まれなかった時代は終わったのだ。
そんな人々が、ファインとクラウドだけじゃなく、この世界には次々と生まれていくだろう。それは文字通り、今はこの世に生まれてすらいない者達が、平等を謳われた新時代で、当然の幸せを当然に享受できる中生まれてくる、そんな世界の始まりを告げる花々の歌声の前奏でもある。
幸せを求める者が、求めて足掻けば足掻くだけ、報われる世界になったのだ。愛娘の胸の奥に静かに眠る、二人の母親の魂は、これ以上ないほどの幸福なる想いで、未来に向けて歩んでいくファインとサニーを見守っている。
この世界はもう、間違ってなどいない。一途な少年と少女が、満たされた長い人生を、ずっと歩んでいける世界である。




