第277話 ~人生で一番長い夜~
「……えーっと」
「な、なんでしょう? クラウドさん……」
二人で寝ても余るような大きなベッドを椅子代わりにし、ファインとクラウドが並んで座っている。薄暗い部屋の真ん中で、二人は目を合わせられていない。あらぬ方向を向いて、紅に染まった頬を指先でかりかりと触るクラウドと、もっと赤い顔でうつむいたままのファインである。
「……もう寝よっか。今日はもう疲れたろ」
「そ、そうですね……楽しかったですし、そのぶん、ね……」
大丈夫、まだ冷静な方。後ろを見ると、つまり今から寝る場所を目にすると、過剰にそわそわしてしまうので、寝ようと言われてもファインは振り返らない。クラウドさんと一緒に寝るベッド、直視するとなんかおかしくなる。
「風呂、入ってこいよ」
「わ、私が先でいいんです?」
「いつもそうだろ?」
「ま、まあそうですね……じゃ、お言葉に甘えて……」
いらないやり取りが一つ余計に挟まるぐらいには、ちょっとテンパっているのは表面化しているけど。立ち上がり、いそいそと部屋を出て行くファインを見送って、クラウドはこの部屋に残される形となる。
かちゃん、と扉が向こうから閉められた瞬間、クラウドの全身が力を失い、ぼふんと背中からベッドに倒れ込む。手の甲を額に当て、触れなくてもわかるほど熱くなっている自分の顔に自覚を持ち、大きくはあっと息を吐く。この状況で落ち着いていられるか。
「ぐうぅ……サニーのやつ……」
恋人同士の男女が二人きりで、二人で一緒に寝られるベッドにて一夜を過ごす。クラウドだって16歳、恋には弱くても流石にこの意味はわかる。赤ちゃんはコウノトリさんが運んできてくれるものだと信じるような年頃ではないのだ。
あぁなんでこのタイミングで、ファインとの変な思い出の数々が、抜粋されたかのように脳裏に蘇るんだろう。ファインを背負って駆けた時に触れていた、彼女の体の感触とか、海で水着姿になっていたファインのこととか。空色の服を纏うファインの姿を見てきた時間が一番長かったはずなのに、今ふと脳裏に蘇るファインの姿は殆どが肌色多し。
何を思い出してんだよ俺、と、気付いてぶんぶん首を振る始末。愛しくて愛しくてたまらない恋人のことを、こんないやらしい思考で思い出すなんてどうかしてる、最低じゃねえかと頭を抱えたくなるほどだ。
別に、好きな女の子のことで頭がいっぱいになるのは、むしろ健全なことなのだが。一方で、好きな人を自分の妄想も含めて、何者にも汚させたくないという感情は、この年頃の男の子女の子にはよくある話。思春期ってやつは難しいもので、この辺りの上手な割り切り方は、経験不足のクラウドにはわからない。
「……ぜってー何もしねえぞ。まだ早い、絶対にそうだ」
自分に言い聞かせるように独り言。恋人同士になってから三日も経っていないのだ。お盛んな年頃にあって、実にしっかりした貞操観念の持ち主である。
「はああぁ~……」
一人きりで湯船に浸かるファインは、蛸のように体をふにゃふにゃにさせ、上半身を水面から出して浴槽のふちに胸を預けていた。寄りかからないと体ごと溶けそうだ。考えが纏まらない。
お風呂はもちろん丸裸で入るもので、誰も見ていない場所だから衣服も全て脱ぎ捨てられる。恋人同士となったからには、その先のことも視野に入ってくるのは確かであり、人前でこの姿を晒す未来だって当然含まれる。クラウドと恋人同士になれたことは、ファインにとってあまりにも幸せなことであり、ここ最近はいちいちそんな先のことまで想像できていなかったが、サニーに妙なお膳立てをされたせいもあって、つい意識してしまう。
自分の裸を見せてきた相手と言えば、親友サニーや育てのお婆ちゃんフェア、可愛い妹のようなレインと実母のスノウぐらいのものだろう。要するに、全部とても親しい同性のみ。異性の前で、この体の全てをさらけ出すなんて、そんな恥ずかしいこと考えたこともない。
一方で、サニーが悪い顔して整えてきたこの状況は、いつかは自分もクラウドの前で……という未来をファインに想起させてしまう。火のように顔が真っ赤なのは、熱い湯にのぼせたからだけではあるまい。
「そ、そんなの、まだ……そりゃあ私も、クラウドさんなら、って……思うけど……」
誰も聞いちゃいないのに、あるいは誰にも聞かれていないからこそ、こんな恥ずかしい独り言が出るのか。そこまで言って、両手で口を塞ぐようにして、ぷるぷる震え始めるファインは、計らずして自分の本心を改めて知ってしまった心地。
頭から煙を出し、羞恥に満ちた瞳を伏せたファインは今、サニーの言葉を思い出している。あんたスケベよねっていう、アレのこと。もしも今の独り言を誰かに聞かれていたとしたら、そう呼ばれても反論できない。
「ち、違うし……サニーの、せいだし……」
一人で勝手に自己嫌悪し、一人で勝手に人のせい。サニーがこんな状況を作るから、こんなこと考えちゃってるだけであって、私はスケベなんかじゃないよと自己暗示をかける。湯の底に沈めた太ももをすり合わせるのは、どうにもこうにも纏まらない頭に悶絶する表れであり、恥も問わぬなら今すぐ転げ回って頭を抱えたいぐらい。
比喩抜きで頭がくらくらしてきた。熱い湯に浸かっているせいもあるが、単にのぼせてこの症状が出るにはまだ早すぎる。知恵熱と湯攻めで体がぐらつきかけたファインは、浴槽のふちを掴んでざばりと体を湯から脱出させる。
「……うん、おかしいおかしい。私達まだ、そんなの早すぎだよ……」
少し冷静になるよう努めたら、ファインの価値観の中では当然の答えが出て、一息入れた後シャンプーを手に取り頭を洗い始める。付き合い始めて何日目よ、って話。唇を繋ぐ以上に、体と体が繋がり合う関係になるのはまだ早すぎる。少なくとも、ファインの常識の中ではそうである。
雑念を振り払うように、無心で体を洗って綺麗にしたファインが風呂場から上がり、湯上がり仕様の服に着替えて部屋に戻っていく。お風呂に入ったことで体はさっぱりした、心はどこかもやついているけど。気の迷い、ありえない、私はスケベなんかじゃないぞと言い聞かせ、ふぅと部屋の扉に手をかける。
この扉の向こうにはクラウドさんがいる、姿を見ても動揺しちゃだめ、普通にしようと心の準備を整えるファインは、いくらか冷静な頭を取り戻していたと言えそうだ。逆に言えば、努めてそうしないと冷静になれないってことだけど。
「――クラウドさん、上がりました」
「ん……」
「クラウドさんもどうぞ。お湯は変えておきましたよ」
よしよし、完璧、普通のやりとり。湯浴みの終了を告げ、クラウドさんもお風呂へと促す流れは、完全に普段どおりである。お湯をいちいち変える気配りも普段どおりだし、何もおかしいところはなかった。
「…………」
「…………」
「……クラウドさん?」
「……あっ? あ、あぁ、いや、別に……悪い、ぼーっとしてた……」
しかしクラウドが普通じゃない。ファインが浴場で悶々としていたのと同じで、クラウドも混乱寸前の頭のまま、ずっと一人で何もせず待っていたのだ。その矢先、お風呂上がりの浴衣姿のファインの姿を見た瞬間、ごくりと生唾を飲んでしまったことを数秒遅れて思い出したクラウドは、ぼっと顔を赤くして冷や汗を流している。
どうしてこんなに、普段と違う格好をしているだけで、好きな女の子ってやつはここまで目が離せなくなってしまうんだろう。帯をきゅっと結ぶファインは細いウエストを際立たせる着こなしだとか、そのせいで決して小さくもない胸の隆起も目立つとか、そういう要素もあるがそれ以前の問題だ。こんな部屋で一人で待っていて、あれこれ煩悩の精霊にからかわれまくっていたクラウドをして、風呂上がりでほかほかのファインの姿を目にするのは、封じ込めていた雑念もあっさり蓋を開けて出てきてしまうほどの事件なのだ。
ベッドから立ち上がるクラウドがドアの方へ向かい、今しがたクラウドが座っていた位置にファインが歩いていく。すれ違うその瞬間に、二人とも意図的に目を逸らしている。お互いのことを直視できない、今はクラウドが特にそう。
「あ……そ、そうだ、ファイン」
「な、何ですか?」
高鳴る心臓にばかり意識がいっていたファインは、ベッドに腰を降ろすために体を半回転させようとしていた瞬間、不意打ち気味に話しかけてきたクラウドに驚き気味に振り向く。別に突然の声かけでも何でもないのに、この反応はちょっと度を越している。よっぽどヘンなことばかり考えている証拠。
「お、俺、ゆっくり入ってくるからさ……先に寝ててくれていいぞ?」
こっちもだ。寝ていてくれていいというか、寝ていてくれた方がよっぽど助かるよっていう真意。余計な選択肢が無くなるもの。何もせず寝たい、そうあるべき、理性を利かせる必要もない状況が整ってくれていた方がラクだもの。
「わ、わかりました、気が向いたら……」
典型的な、出来たらそうするけど出来ないと思う的な返答である。行けたら行く、みたいなもので。ファインも今の自分の精神状態で、すぐに寝られるわけが無いとわかっているのである。
「そ、そんじゃな? おやすみ?」
「は、はーい……とりあえず、おやすみなさーい……」
二人とも、実に拙い笑顔を作り合って見せ合い、クラウドが扉の向こうへと消えていく。後ろ手でかちゃりとドアを閉めたクラウドは、ぱっと無表情に戻り、やたら早足で浴場へ。とてもそわそわしている。
ファインもだ。ベッドに腰かけ、もう立っているのも、あるいは座っている姿勢も限界とばかりに、ぼふんと脱力してベッドに背中から倒れ込む。右手で胸を握り締めるが、こんなどきどきした心臓で眠れるわけがない。ふはぁと気の抜けきらない溜め息をかろうじてついて、半身で寝転ぶ形になり、空いた左手で掛け布団にしがみつく。
「ううぅ……どうしよう……」
誰にも見られていないのに、今のこの真っ赤っ赤になったこの顔を、誰にも見せたくないかのように、布団に顔をうずめてファインは震えていた。くぐもった声でぷるぷると全身を震わせて、悶々とし過ぎた頭の中身を解決方向に導こうとする。きっと、クラウドが帰ってくるより先に寝ちゃった方が、色々何事もなくすべての悩みが解決するのもわかっているのだが、出来ないもんは出来ないから、自分で自分の気持ちに整理をつけるしかない。
数分前にはクラウドの寝転がっていたベッド。彼の残り香が確かに残るそのベッドに顔をうずめてしまったことは、図らずしてファインにはとんでもなく刺激的なことであることに彼女は気付いていない。
別にファインが、そういう性癖の持ち主だからとかじゃなくって。これが本当にまずかったのだ。
「どうもー、ザームさん。ご協力ありがとうございましたー」
「おー、上手くいったか」
「とりあえずね。後は二人の甲斐性次第ってとこかな。んふふふふふ」
自分は別の所に泊まるから、と言ってクラウド達から別れたサニーだが、思わぬ人物の泊まる部屋を訪れていた。別に彼と一緒の部屋に泊まるというわけではないのだが、泊まる宿はここであり、寝る前にちょっくら"協力者"にご挨拶しに来た形である。
「まー薬の効果もあんだろうし、お前さんの期待どおりの展開になると思うけどねぇ。俺は男だから効果のほどは全然わかんねえんだが、随分強力なやつらしいからな」
「そんなに凄いの? あの香薬」
「ネブラの兄さんが、かなりの自信作だって言ってたからな。正直、悪い奴の手に渡ったら極悪な使い方も出来るから、開発したこと自体がちょっとどうなんだろうって苦笑いしてたぞ」
香薬。それはザームがクラウドに、宴会の席で吹き付けていた香水みたいなものである。あれは香水でも何でもない。有り体にながら、ちょっとだけオブラートに包んで言えば、すげぇいやらしい薬である。
「それ、今もある?」
「ん? ほい、これか?」
「貸してよ。ちょっと私も試してみたい♪ どんな感じになんのかなって」
「知らねえが、やめといた方がいい雰囲気なんだがなぁ」
ザームはサニーに近付いて、その香水らしきものが入った容器を手渡す。ひょいっと投げて渡す手癖もあろう彼がそうしなかったのは、落として割れたら大変だからだ。容器が割れて香が拡散、蔓延すると、ちょっとしたテロに近いことになる。
「そいつは俺の汗を採取して、それを原料成分の一つとして作ったやつでな。俺の古き血を流す者・蟻種の体質の一つ、異性にはたらきかけるフェロモンをさらに濃厚にして、女に対して抜群な興奮剤になるって話でよ」
「主にエロい意味で?」
「主にじゃなくてエロい意味でしか……おいこら、あんま使うな。危ねえぞ」
贅沢に、自分の手首の内側に二度三度しゅっしゅと香を噴き付け、反対の手首の内側ときゅっきゅとすり合わせるサニーに、ザームも少し真面目な声で警告する。それはマジでやばいんだぞ、と。
「俺は男だから、その香がどんだけ効くのかわかんねえけどよ。ネブラの兄さんいわく、効果ありすぎてどんな女もド淫乱にしちまいかねないって、かなり強く警告受けてんだぞ」
「一応実験は済ませてあるんだ。……あ、いい匂い」
「部下の女に事情も説明した上でな。サンプルの皆さんが全員、これはやべえって証言したらしい」
「ふーん……」
香を噴き付けた手首をくんくんと匂い、普通の香水と同じように、フローラルな香りを醸し出す秘薬の鼻への味わいをサニーは確かめている。吸えば吸うほどガンガン効いてくるのに、効いてきた自覚がないうちにすんすんと吸いまくるサニーを見て、ザームもちょっと心配になってきた。一方で、お強いお強い革命組織の裏ボス様が、今からうろたえる姿が見られそうで、ちょっとわくわくしてきてもいるけど。
「これ、どれぐらいで効いてくるの?」
「いや、すぐ効くよ。まだ自覚ねえか?」
「まだ別に……あっ」
効いてきた、すぐ効いてきた。みるみるうちに、サニーの頬が朱を増してきて、その自覚もあるのかサニーが手の甲で、自分の口元と顔を隠した。鼻に手首が近付く、そしてサニーは、これ以上香を吸うのはまずいと気付いて鼻で呼吸するのをやめている。
「ちょ、ちょっと、コレめちゃめちゃヤバくない? すっごいムズムズするんだけど……」
「俺は男だからわからん」
「いやいやいや、これ……あーヤバいっ! ものっすごくヘンな気起こしそうになるっ!」
急に部屋の中を徘徊する熊のようにうろうろ歩き始めたサニーに、その悶々を共有できないザームもにやにやする。恐らく戦場では最強であろう女の子が、薬一つで冷静さを失ってしまう姿は、見ていて無性に面白い。
「うわー、うわー、コレ……ええっ? コレをクラウドにぶっかけたの?」
「ファインの奴、ずっとクラウドのそばだろ? それでじわじわ効いてきて、部屋に着く頃にはどっぷり薬漬けよ。今頃、頭の中ピンク色まっしぐらなんじゃね?」
「わー、ヤバいヤバい! 私クラウドと離れ気味に歩いててよかったわぁ!」
知ってたもの、あの宴会でザームがクラウドに香を噴き付けることは。だから件の宿までクラウド達をご案内させる道のりでも、サニーは念のためにクラウドとは少し距離を作っていたのだ。もしも普段のように、クラウドと近く歩いていたら、香を吸ってクラウドに変な気を起こしていたんじゃないかと、はっきりこの香の威力を知った今では想像してしまう。
「で、どうする? ムラムラすんなら、一晩付き合ってやってもいいが」
「我慢するわよっ! こんな形で処女捨てたくないわっ!」
「辛抱すんのキツいだろ?」
「あーうん、すっげえヤバい……私がちょっとでも淫乱な性格してたら、抱いてって言ってそうだもん」
男のザームを見ているだけで、異様なまでにどきどきする。心も体も開いて、全部預けてしまいそう。確かにネブラの言うとおり、この香薬を邪まな考えを持つ男が手にしたら、本当に外道極まりない使い道が出来そうだ。今のザームとサニーも、充分悪い使い方をしている気がするが。
「もう行くわ……身の危険、感じるから……」
「ここで俺がお前に抱きついて逃がさねえようにしたら、お前きっと耐えられねえぞ?」
「殺すっ」
「おお怖ぇ怖ぇ」
冗談だけど絶対にやめてね、とサニーは引きつった笑いを浮かべ、サニーはザームに香を返した部屋を出て行った。ザームは笑って見送ったが、香の入った容器を眺めて、ちょっと神妙な顔になる。
最強無欠、しかもカラザが育てて倫理観も貞操観念もしっかりしているサニーが、あそこまで動揺している姿を見たら、流石に笑って済ませるだけではいられない。この香の自制心破壊力がどれほどのものか、その目で確かめた直後である。
「これ、やっべぇな……捨ててもいいって言われてたが、ちゃんと捨てておくことにするか」
この後ザームは、夜中にも関わらず井戸まで行き、多量の水をすくって香の中身を注ぎ込み、何十倍にも希釈して近場の公園の湖に捨てにいった。ここまで薄めたらもう効果は無い。こうすることが、世に出てはいけないこの香のあるべき結果だったのだと、ザームには確信できたのだ。ネブラも、もう二度と作るつもりは無いって言ってたし。
こんな真夜中に、わざわざ宿から抜け出してそうするぐらいには、社会の風紀に影響を及ぼしかねないと判断される劇薬だったということだ。ファインは今、既にそれを山ほど吸っている。
「……ファイン~、起きてるか~?」
風呂上がりの浴衣着クラウドが、薄暗い部屋に帰ってきた時、ぱっとファインの姿は目に入らなかった。代わりにベッドの中でもぞもぞ動く山型を視認できたので、そこにいることはわかったが。
「お、おかえりなさい、クラウドさん……」
「あ、あ~うん、ただいま……」
お風呂で何度も何度も自問自答して、幾許か冷静さを取り戻したクラウド。深呼吸百回ぐらいしたけど、おかげである程度は普段どおりの調子である。ファインに話しかける、おかえりの言葉に相手の顔を見て返答する、普通のことが出来ている。出来ていた。
だが、掛け布団から目だけを覗かせ、鼻の高さの位置で布団を掴んだ手を震わせるファインを見て、何やら色々内面で揺らぐ。乙女顔やめて欲しい、可愛いから。今日以外なら何度だって見たいけど、今日だけは駄目だ。
「……ね、寝よっか?」
「は、はぃ……」
左寄りの位置でベッドにもぐりこんだ形のファインと対の位置、右よりの位置にクラウドも体をもぐらせる。一つのベッド、大きな掛け布団、長い枕一つに頭を乗せる二人。両者の間には、レインが二人ぶん入れそうな間が設けられている。二人とも、今体を近付いたらやばそうだとわかっているのだ。
「お、おやすみ?」
「お、おやすみなさい?」
「…………」
「…………」
寝られるわけないのである。目がらんらんとしてしまうファイン、とりあえず目を閉じたはいいがまぶたがひくつくクラウド。ファインに背を向け、絶対の決意をより固めるクラウドさんは大変紳士である。
「…………」
「……………………あの、クラウドさん」
辛抱ならないのはファインの方。今はお風呂上がりのクラウド、体に吹き付けられた香はすっかり落ちているが、ファインがお風呂に入っている間、彼はベッドの上にしばらく横たわっていた。そこにファインは、クラウドがいない間、しばらく寝そべっていたのだ。何も知らず、その場所に顔を押し付けてである。
吸っちゃいかんものを山ほど吸っているのだ。ただでさえ、この環境で色々意識してしまう中、大好きな大好きなクラウドさんをすぐそばに置いて、呼吸が荒くなりそうなのを必死で堪えているほど。
「な……なに?」
「え、えと……あの、その……」
ファインとは逆の方を向いているクラウドの後方で、布団の中でもぞもぞ動いているファインの音が聞こえる。なんだこいつ、まさか脱いだりしてないよな――いやいや何考えてんだ俺と、クラウドも頭の中がめちゃくちゃだ。彼は香を吸ったりしてないが、健全な男の子が恋人と一緒の布団に寝ていて、煩悩ゼロでいられるかという話。
「手……」
「……て?」
「手を、その……つなぎ、たいなって……」
ファインもファインで、淑女たろうと精一杯頑張っている方。落ち着かない、壊れそう、一線の向こう側に足を踏み出しそうな想いを必死で抑えようと、すべを探してこの発言。困って困って、自分じゃどうしようもない時は、クラウドさんの手を握ればほっとする、その経験則に則っての提案だ。悪手の予感がぷんぷんするが、ファインはそれに気付かない。
「えぇと……」
「ご、ごめんなさい……無理に、とは……」
「い、いやいや、いいよ……手、つなぐだけだろ? それぐらい、全然……」
なんだか桃色の泥沼に足を踏み入れる予感しかしないが、クラウドは天井を仰ぐ形に寝返りし、布団の中でファインの方へと手を伸ばす。俺の手はここにあるよ、と、手先を上下させて場所を伝える。寝返りをうったことで、ファインとの距離は近付いたし、背中を向けていた姿勢も崩されてしまったが。
で、なんで両手で掴んでくるんでしょうねぇってやつ。小さな両手で、ファインがクラウドの手を握り、ふるふる震える全身の気配が、目を閉じたままのクラウドにも存分に伝わってくる。恋人関係になって以来、手をつないだだけでどきどきする相手に、こんな場所こんな環境で手を握られると、いよいよクラウドも心臓の高鳴りが大きくなってくる。
クラウドさんの手を握るだけで我慢しようと思っていたファインも、最愛の人の体と体温に直接触れてしまったことで、余計に良くない状況に陥っている。あったかいのである。枕に耳を乗せていた頭、その顎を引き、布団の中に目まですべてファインは隠してしまう。
呼吸が荒くなっている自覚があって、それを隠したいからだ。全部クラウドには聞こえているけれど。
薄暗くって、お互いの姿を視認できない状況だからこそ、互いの姿は脳裏でより鮮明に、想像力で補って現実味を増す。クラウドのそばにはファイン、ファインのそばにはクラウド、たった二人きり。触れ合う手を介して伝わる確かな存在、体温が、二人の血を一気に頭まで昇らせる。だからこんな状況で手を握るのは悪手だと。
「っ……クラウド、さん……」
「な、なんだよ……」
「…………」
「……………………」
「そ……そっちに、行っても……いいですか……?」
ダメ、絶対にダメ、そこまでいったらマジで俺おかしくなる。クラウドの中では、その模範解答が既に出来上がっている。やばいやばいと胸の奥で早鐘が鳴りまくる中、クラウドもクラウドですぐ答えを返せない。
言葉を選ぼうとする優しい性分があだになっているのだ。来るな、なんて冷たく突っぱねることが、クラウドには出来ないのである。かと言って、今近寄られたら俺がお前をどうにかしそう、なんて言うのはもっと無理、そこまで自白するのは恥ずかしすぎるってなもん。おかげで、ファインに握られた手に全神経を集中させたまま、クラウドの思考回路はほぼ空回って不動のままである。
「べ、別に……いい、けど……」
ああ優しいクラウドさんですこと。結局いい言葉が見つけられなかったから、何をされても我慢する俺でいるぞと新しく覚悟を決めたようだ。包容力のある彼氏に甘える形で、もそもそファインがクラウドへと近付いていく。
「っ……はあっ」
「…………!」
そんな近くまで近付いてくんのかよと、クラウドは寝返りを打って逃げそうになった。そんなことしたらファインが傷つくかなと思って耐えたが、逃げてた方がいいんじゃないのかってぐらいの状況だ。クラウドの手を握ったまま近付いてきたファインは、恐らくその胸がクラウドの二の腕にひっつくんじゃないかってぐらいまで距離を詰めてきたのである。
しかも、恐らく息を止めたまま近付いてきた彼女は、今の位置に移って体を止めた瞬間、耐えかねたように淡い息を吐く。あまりにも艶っぽいその息遣いに、クラウドの中で大事な何かに、びしっとひびが入ったものだ。これは危ない、本気で危なくなってきた。手はファインに握られたままであって、逃げ場もない。
「な、なぁ、ファイン……近すぎじゃね……?」
やんわり、離れろと。ほぼ足先まで硬直したまま、目も開けないクラウドは、向こうから離れてくれないとこの状況を変えられない。
「そ、そうでしょうか……?」
駄目でした。消え入りそうな声を発するにあたり、くっと首を引いたファインの挙動で、指先ひとつぶんほど、さらにファインの顔がクラウドに近付く始末。この微弱な接近も、クラウドにとっては強烈だ。
お風呂上がりのファインの髪の、ほのかな匂いもうっすらクラウドの鼻まで届いてくる。ここまで近付かれたら、さっきまでは必死で無視していたそれも無視できない。鼻で呼吸するのをやめにするクラウドは、口だけで息をするが、昂ぶる鼓動に伴って少し荒めの呼吸になる。一息吐いた瞬間に、恥ずかしくなって口での呼吸も一度止めるが、じゃあ鼻と口どっちで息をするんでしょうか。このままでは死んじゃう。
「ふっ……ふぅ……」
静かな部屋に響くのは、布団にうずめたファインの口から溢れる呼吸音だけだ。近いし荒い、色っぽすぎる、本気でちょっとやめて欲しい。思わずクラウドは歯を食いしばり、ファインの両手で握られていた手に、ぐっと力をこめてしまう。
「いた、っ……!」
「!?!?!? ご、ごめっ、ファイ……」
切に迫ったファインの声を耳にして、思わずファインの方を振り向いて目を開けてしまった。焦った表情からは、一瞬確かに煩悩が抜けていた。本当に、この一瞬だけ。
「ぁ……」
布団に入ってから、初めて二人が目を合わせた。こんなに、近くで。耳まで真っ赤なファインの顔は、その中心で両目をとろんとさせており、柔らかな唇が力なくわずかに開きっぱなし。不意に真正面から見せて貰えた、クラウドの顔を視界におさめた瞬間、彼女の心臓がどくりと跳ね上がっている。
クラウドだってそう。今まで見てきたいくつものファインの顔、それらの一つとも一致しない、女としてのファインの表情を目にした途端、びきばき理性が傷ついていく。ぐっと閉じて絞った口の奥、ごくりと生唾を飲んだ音は、ファインにも聞こえたかもしれない。そんなクラウドの、必死で堪えるような表情も、今のファインの瞳には新しい世界を想起させる。
わかる、二人とも。自分が意識していることを、相手も意識しているって。口では絶対に説明できない、この空間が二人に期待する何かから、ファインもクラウドももう目を逸らせなくなった。
「く、クラウドさん……その……」
「な、な、なんだ……? へ、ヘンなこと、言うなよ……?」
もう隠しようがない。俺こんなに我慢してんだから、劣情をかき立てるようなことお前も言うなよ、と、殆ど直接言っている。これ以上アクションされたら、ちょっとクラウドの方がもたない。そういう自覚がある。
「そ、その……お願い、が……」
「う……な、何だよ……」
吐息すら届き合うような距離感で、ファインの震えた声がクラウドの顔面を刺激する。呼吸音をクラウドも隠しきれない。むせかえるような空気が、両者の間で沸き立っている。
「…………」
「……ね、寝ようぜ? な? もう、これ以上は……」
嫌な予感がしてならない。よほど言いにくいことを言おうとしているのか、ファインがクラウドの胸元を見るように視線を落として唇を震わせている。クラウドが、自分から話を終わらせようとアクションを起こすのは、この先をファインに口にさせたら、一線を超える予感しかしないからだ。
「ぎゅっと……してもらえま、せんか……?」
だがもう手遅れ。突っ走り出したら止まらない、ファインの性格はクラウドもご存知のとおり。クラウドに襲いかかる試練は加速度を増す一方だ。
「あ、あのな、ファイン……!」
「で、でないと、耐えられなくって……そこまで、そこまでに、しますから……」
俺だって男なんだぞ、わかんねえのかよとクラウドは必死に突っぱねようとするが、ファインは聞かない、引き下がらない。ぎゅっとして貰えたら、もうそれ以上は求めない、だからお願いと希望をかけている。
一応、それで満足して、それ以上はやらないんだって彼女の中では必死の線引きをしているらしいのだが、どうせそこまでいっちゃったら余計にまずいことになろうのは見え見え。ファインだけがわかっていない。
「っ、ぐ……」
「だ……だめ、ですか……?」
その尋ね方、本当にずるいと思う。ファインにそんなに頼まれて、断れるクラウドではないんだから。懇願を通り越して、哀願するようなファインの震え声に、クラウドは一つの答えしか出せないのである。
「わ、わかった、わかったけど……ぜ、絶対お前、動くなよ……!」
「は、はい……やくそく、します……」
「絶対だぞ……!」
ファインがクラウドの手を離し、ふうーっと長い息をうつむいて吐いたクラウドが、その両腕をファインの体を包み込むように伸ばす。片腕をファインの体の下にもぐり込ませ、もう片方の腕をファインと掛け布団の間に通し、彼女の後ろで腕の交差点を作る。それを、自分の胸元へと引き寄せれば、クラウドの前腕がファインの背中を押し、彼女の体全体をクラウドに引き寄せる。
「うぁ……っ……」
「へ、ヘンな声出すなっ……!」
布団の中で、クラウドがファインを抱きしめる。ファインが声を溢れさせたのは苦しいからではない。そういう力の入れ方をクラウドはしない。胸と胸が引っ付き合う形に至った瞬間、喘いだファインの声はクラウドの理性にただならぬダメージを与え、耐える彼の口から必死の抵抗の言葉を溢れさせる。
二人の浴衣だけを挟み、クラウドの胸にほぼ直接伝わる、ファインの膨らんだ胸元の感触も。腕全体で触れているファインの華奢な体のぬくもりも。クラウドの頬の横に顔を侵入させたファインの荒い呼吸音も。
応えるようにクラウドの脇の下に手を伸ばし、きゅうっと抱き返してくるファインの行動も全部やばい。どくどく脈打つクラウドの心音は、浴衣と肌を介してファインにも伝わっており、逆も然り。全く同じ心持ちの二人が体を重ね合わせ、心は正し過ぎるほど通じ合っている。
「はっ……はあっ……」
「ふぁ、ファイン、動くなって……頼むからっ……!」
悶えるように太ももをすり合わせるファインの行動が、浴衣の間からはしたなく出たファインの生脚を、クラウドの脚にすり合わせる結果になっている。本当に正味な話、ファインだって苦しいのだ。必死で、必死で、耐えている。クラウドさんに抱きしめられ、幸せの海の中に漂う幸福の悶絶を、じっと動かず耐えることなんて出来ない。クラウドを抱き返す力をさらに込め、しがみつくようにして、動くなの声を発するクラウドに従おうとはしているが、むずつく体が止まらないのだ。
布団の中で揺れる二人の体が触れ合い、揉み合う形になり、その肢体の柔らかさを伝えられるたび、クラウドも頭がくらくらする。サニーやザームが用意した香なんかより、ファインの香りそのものが、クラウドにとってはそれ自体がよっぽど効くっていうのに、懐まで彼女の侵入を許した時点でほぼ詰んでいる。
「く……クラウド、さんっ……」
「な、何だよっ……! 俺に、これ以上、どうして欲しいっていうんだよっ……!」
勝負を賭けた。ここまできたって、クラウドはまだ、ぎりっぎり冷静な頭で駆け引きに臨めた。これより先に何があるのかは、ファインだってわかっているはずだ。絶対、ファインのような恥ずかしがりやさんに、これ以上のことは口に出来まいと読んだ。それをファインに押し付けることで、行き止まりを作り、これ以上ことを発展させない最終手段にクラウドは移ったのだ。少々ずるいが、これしかない。
「っ…………」
「も、もういいだろ? 寝るぞ? な? もう充分だろ?」
言葉に詰まったファインの反応を見て、クラウドはたたみかけるように就寝の流れに持っていこうとする。そろそろ終わってくれないと。あやすように言うクラウドの口は、その実、頼むから寝てくれっていう懇願のような真意が含まれている。
「く、クラウドさんの……」
「ま、待て待てファイン、もう寝ようって……」
「クラウドさんの……好きなように……」
ああちくしょう、その手があったか、こっちに投げてきやがった。クラウドも同じような手段でファインに丸投げした直後だから、ずるいと批難は出来ない立場である。好きなように、の意味するところを、今さら知らんぷり出来る空気でもないからどうしようもない。
「わ、私、ヘンなんです……どうにか、なっちゃってて……」
「ふぁ、ファイン……」
「こ、こんな私……キラいですか……?」
心から臆病に、かたかた震えてそう言うファインを、ずるいぞお前となじるのも無理な話。どこをどうやったらクラウドが、ファインのことを嫌いになれるっていうんだろう。サニーに、スケベ疑惑をかけられた時は必死で否定していただけに、ファインもそういう自分とクラウドに思われるのは駄目だと思っているんだろうが、そもそも男のクラウドからしたら、下心の一つや二つあったからって何を嫌う理由になろうかっていう話。
浴衣越しに伝わるファインの体の感触、それに加えて彼女の決死の踏み出し。ここまで過去最も強固なる決意で、あらゆる誘惑をはねのけてきたクラウドも、自分の中で何かが崩れるのを感じた。頭の奥で、ぷちんと何かが切れる音がしたのもだ。怒っちゃいないが、もう知らねぇぞとは思った。
「クラウドさ……」
「ふぁ……っ、ファインが、悪いんだからなっ……!」
ぎゅっとファインを抱きしめていたクラウドの腕の力が、ゆっくりとほどけ始める。ほんの僅かな時間をかけての脱力が、目の覚めるような時の進みとしてファインには伝わり、この時間は何倍にも感じられた。ファインの体の下から腕を抜き、ぐっとファインの両肩を持って、僅かな距離を作ったクラウドの行為も、なまめかしく蕩けていたファインの意識を目覚めさせる。
付き合ってから三日経っていない、まだまだあれこれするには早いって、理性と倫理観は伝えてくる。残念ながら人間は、理性だけで生きていけるほど利口には出来ていないのである。好きな人とここまで体を重ね合わせてから、はいはいここまで、終わり終わりで寝られたら、それってなかなかたいしたものである。特に男の方はそうだと思うんだが、どうだろう。
「い、いいんだな、ファイン……? 俺も、腹、くくるからなっ……!」
「っ……は、はい……なんでも、してください……」
羞恥でいっぱいの色合いになった顔でそう言うファインの態度も、発言内容も、今度こそクラウドの理性を崩壊させたと言っていい。据え膳食わぬはなんとやらと言うが、そういうの抜きにして、ここまで言われて引き下がったら、せっかく勇気を持って踏み込んでくれた彼女に恥をかかせることになるのは間違いない。
「か……っ、覚悟しろよ、ファインっ……!」
「……はいっ」
最愛の人が、これからお前を自分だけのものにしてやると宣戦布告する発言に、ただそれだけでファインの背筋が震えた。クラウドに肩を押され、背中を下にしてベッドに横たわる姿勢にファインが収まった次の瞬間、クラウドが体を起こし、二人の体に乗っかっていた掛け布団が解き放たれる形となる。
今一度、生唾を飲み込んだクラウドが自分の両膝を、細く閉じられたファインの両膝の左右に置き、膝立ちの姿勢になる。見下ろすクラウドの目の前にあるのは、体を重ね合わせていたせいで胸元が少しはだけ、だらしない着こなしで仰向けにクラウドを見上げるファイン。自分の頭の左右に力なく自分の両手を置き、それは正しく、完全なる無防備。クラウドに何をされても抵抗しない彼女が、今この状況で目の前にいる。
はだけた胸元を自覚したのか、ファインが両手で自分の胸を隠した。浴衣を整えずにだ。劣情を催すような振る舞いを、計算抜きの素でやってくるから天然って怖い。湯立つクラウドの頭にはもう、今すぐファインを抱きしめたい衝動と、乱暴なことはしちゃダメだっていう1パーセント程度の理性しかない。
最大限にその理性を利かせて、クラウドがゆっくりと体を前倒しにし、両手をファインの頭の横につく。ほぼ四つん這いのクラウドの体の下、どこにも逃げないファインの全身がある。その姿勢に移った途端に、びくりと体を跳ねさせたファインは、ふいっとクラウドから顔を逸らす。至近距離に来たクラウドの顔を直視できない。
この先のやり方なんか、具体的には何にも知らないけど。必死で覚悟の種類を改めたクラウドの言葉に、ファインは顔を逸らしたまま小さくうなずいた。閉じたままの柔らかい唇は震え、両手で隠した胸元をぎゅっと握り締める彼女は、すべてを奪われる覚悟をとうに固めている。
忘れられない夜、運命の日。二人が、この先、永遠に、天寿を全うするまで共に生きんとする誓いへの第一歩に向け、クラウドがそっとその手でファインの肩に触れていた。
「っ……」
「…………!」
この時、クラウドを見上げる方向から顔を逸らしていたファインが、きゅっと目を閉じて、まぶたの間から一雫の涙を溢れさせたのは、別に怖いだとか嫌だからとか、そういう負の感情によるものではない。 いや、正直心の準備も完璧じゃなかったし、どうなっちゃうんだろうと怖い部分もあるにはあったが、何せ相手はクラウドさん。いろんな意味での自分の最初を捧げるならこの人しかいないし、そうなったって絶対に悔いはなかった。涙の真意が何かと言えば、思い描いていた想定のさらに先、未知なる新世界への扉を開いていくことへの、喜びとは厳密に意味は違えど、感極まった感情だと形容して正しい。
それでも、それを目にしたクラウドには、ある意味で絶大な効果をもたらした。ファインの涙を目にした途端、この瞬間まで抑えようもないほど昂ぶっていた情欲がさあっと引き、思わずファインに触れようとしていた手を引っ込めたクラウドが、自分の体を起こして膝立ちになる。再びファインの全身を見下ろす体勢にまで戻ったが、それもほんの一瞬の間のこと。
「っ、ぅ……?」
目を閉じていたファインにもすぐわかる、素早く動くクラウドの気配。ファインの上から体をどけ、ベッドから降りていそいそと自分の帯を締め直すクラウドに、ぽうっとしたファインの涙目が振り向く。完全に空気は出来上がっていて、ほぼほぼ覚悟も決めていた矢先、逃げるようにクラウドがドアの方へと早歩きしていく後ろ姿は、ファインからしたらよくわからない。
「ごめんファイン、俺自信ない……!!」
それだけ言ってクラウドは、逃げるように部屋を、宿から飛び出した。はっきり言って、忌憚なく言って、へたれた。ファインは覚悟を決めた、自分も覚悟を決めた、もう完全にそういう雰囲気だった、それでもファインの涙を見た瞬間、それ以上手を出せなくなってしまった。
ファインを大事にしたいクラウドにしたって、挑むことは不安でいっぱいだったのだ。初めての時は女の子の方が苦労するらしいという話は聞いたことがあるし、覚悟を決めて数秒で挑むには、この案件はクラウドにはちょっと重すぎたらしい。もっと己の欲望に対して正直でもいいというのが、こういう互いに心を開き合った夜の正解であるのだが、どうしてもその勇気がクラウドには持てなかったのである。
去り際、お前のせいとかじゃない、俺の度胸不足のせいだって全部の責任をひっかぶって、部屋から立ち去るのがクラウドにとっての最終手段であった。この後彼は、浴衣姿のまま適当に外をうろつき、雨が降っても大丈夫なように川べりの橋を見つけると、その下で野宿するのであった。恋人同士の高級宿から一転、まるで浮浪者のような。
一方で、クラウドさんにほったらかされる形でベッドに残ったファインはと言えば。
「う、ううぅ……わ、わたし……」
さっきまでの蕩けきった顔や感情はどこに行ったやら。クラウドが去って数秒、徐々にだが我に返ってきたファインの頭から、ぼすんぼすんと煙が何度も噴射される。クラウドに言った自分の言葉やら、自ら肌を合わせにいったことやら、言い訳しようもないようなスケベ事をおねだりしていたことやら、それらがぐるぐる頭の中で巡りまくる。一つや二つじゃない、はしたない自分の言動が、この数分間でいくつもある。
大きなベッドで掛け布団にくるまって、枕に顔を押し付けたファインは、ぼふぼふと脚をばたつかせ、少し前の恥ずかしい自分と向き合うことに苦しむことになった。ぎゅっとして下さいとか、好きなようにして下さいとか、しかも私ヘンなんですとかバカみたいな言い訳までして。すけべ~、すけべ~と笑って指差してくる、架空のサニーが頭の中で大量発生し、しかも言い返す言葉はたった一言も思いつかない。
「んむううぅぅ~~~~~っ……! ん~っ、んんん~~~~~っ……!!」
枕にうずめたままの口で悲鳴をあげ、その夜ずうっとファインは悶えっぱなし。さっきまでの幸せな愛の悶絶とは全くの別物である。冷静な頭で考えれば考えるほど、羞恥に悶えるしかない記憶に苦しめられ、ファインはこの夜まったく眠れなかった。
野宿しているクラウドもそうである。ついでに彼は、とてもへこんでいた。自分をヘタレだと自虐したのは、彼の人生の中では完全に初めてのことであった。
「も~、暗いわぁ」
翌日、タクスの都を出発してクライメントシティに向かう馬車に乗った三人だが、いかにもクラウドとファインはどんよりである。ファインは馬車の隅っこでがっくんとうなだれたままだし、クラウドも遠い目で景色をぼーっと眺めているばかり。今朝からこんな調子のクラウドに、また乗せてと言うのも憚られて、今日は馬車を借りているわけである。
「何を上手くいかなかったのかは知らないけどさ~。あなた達、まだまだ時間はいっぱいあるじゃないの」
サニーが両手でクラウドとサニーの手を引き、二人の距離を縮めて体を逃がすと、馬車の後方でファインがクラウドに寄りかかる形に。急に引かれてびっくりして、さらには顔を上げた途端にクラウドさんの顔が間近、どきんとしたファインは赤くなった顔を隠すように逸らす。クラウドも似たような反応である。
「クライメントシティに帰ったら、あなた達二人暮らしでしょ? いくらでも機会あるからさ。何度だって、上手くいくまでやり直しゃいいのよ。わかった?」
何だか勘違いされているような気がする。やることやったけど上手くいかなかった、とでもサニーには解釈されているんだろうか。そもそも何も出来なかったんですが。
「あのな~、サニー……」
「後はお二人、ゆっくりね。私、お邪魔みたいだから先にクライメントシティに行っとくわ」
そう言ってサニーは呆れ気味に溜め息をついて、がたがた揺れる馬車の上で危なげなく立つと、赤い翼を広げて飛翔する。そのまま足元を踏み切ると、空へと舞い上がり、一人でクライメントシティの方角へと飛んでいく。
まったく、マイペースな奴だって思う。溜め息つきたいのはこっちの方だ。は~ぁと実際に溜め息をついて、クラウドがちらりとファインの方を見ると、クラウドの体に寄りかかったままのファインは顔を伏せている。一夜明けて、昨夜ほどの羞恥心決着がついたようだが、今でもクラウドさんと顔を合わせるのは恥ずかしいようで。
「……ファイン」
「ひゃ……?」
昨夜のように、あんな場所で肌を合わせていた時よりは、クラウドだってずっと冷静だ。片腕でファインを抱き寄せるようにし、より自分の体に寄りかかれるようファインを導く。驚きの声を短く漏らしたファインが、女の子座りのままクラウドにほぼ体重の殆どを寄せ、片手をクラウドの胸元に添える形で体勢を崩さない。
「……昨日はごめんな。でも、俺も別に、イヤだって思ったわけじゃ……な、ないんだからな」
「く、クラウドさん……」
「俺も、さ……その……お前と、そういう関係になっても相応しい奴になるまで、頑張るから……」
一晩かけて、一生懸命心に整理をつけたのか、随分としっかりした態度でその言葉を言えたものだ。言葉はたどたどしく、頬をかりかりと指先でかいて、口にするのも気恥ずかしいというのは態度にも表れている。それでも真っ直ぐな気持ちを口にしてくれるクラウドの顔を、ファインはぽうっとした顔で見上げている。
「もうちょっと、心の準備が出来たら……俺の方からいくから、な? だから、その……待っててくれたら嬉しいなって、思うよ……」
「…………」
ファイン目線では、ドン引きされても仕方ないぐらい迫った自覚があって、嫌われたかなとさえ思っていた朝、クラウドのこの言葉は救いですらあった。男の子だって女の子だって、そういうことを考えたりはするし、どっちがどっちにそういうことを考えたら下品だとか、そんな理屈があるはずがない。二人は恋人同士である。手はもう繋いだし、実は口付けも交わした仲、それ以上のことに発展することを期待して、何がよくないことなのか。
「お、おい、ファイン?」
「~~~~~っ……♪」
クラウドの言葉に、全てを許して貰えたような気がしたファインは、両腕でクラウドに抱きついていた。今度こそ、純粋な意味での感無量。寛容で優しい、私の尊敬してやまない彼氏さんは、全てを許容して自分を受け入れてくれる。
もう離さない、離したくない、離れていって欲しくない。きゅうっと女の子の力でクラウドに抱きつくファインの姿は、お姉ちゃんに甘えるレインと同じか、あるいはそれ以上に無垢である。
愛されることって、本当に幸せなことだ。朱に染めたままの顔ではありながらも、クラウドは確かに微笑んでファインを振り向き、優しく彼女の頭を撫でていた。幸せいっぱいのファインは、ふにゃんふにゃんの表情を隠すように下を向いていたが、漂う幸せオーラはクラウドにも感知できたものである。
仲睦まじいことで何より。被害者は、人目も憚らずに馬車でイチャつく二人を、決して振り返らないように空気を読み、馬の尻ばかり眺めていなきゃならない御者さんである。




