第270話 ~彼女の素顔~
「は~、終わった終わった。ご苦労だったな、ミスティ」
「お疲れ様です~。あ~、ホントに終わったんですねぇ~」
夕頃、"天人都市カエリス"の、とある宿の一室ではカラザとミスティが祝杯を上げていた。グラスをかちんと鳴らして中身を飲み干し、長い長い戦いの終わりをまず祝い合う。二人とも、酒を飲まない上に甘党なので、グラスの中身はえらく甘ったるいものだが。
「今まで本当に、嫌な仕事ばかりで大変だっただろう。よく頑張ってくれた、助かったぞ」
「えへへ~、もっと褒めて褒めて♪」
空になったカラザのグラスに二杯目を注ぐミスティの頭を、空いている方の手でカラザが優しく撫でてやると、ミスティの表情はふにゃんふにゃんになる。敬愛するカラザに褒めて貰えることも幸せの一因だが、何より、長い長い革命への道のりが完全に終わりを迎えた、この一区切りが幸せを倍加させてくれる。感無量である。
結局サニーは王の地位を退き、代わりにその座にはフロンが再び就く形に。天界が無きものになったことで、"天王"フロンという新称号が設けられ、今後は今までと同じように、天人と地人と混血種が住まう大陸全土の主導権を握ることになった。これにてひとまず、一件落着である。
それでは革命前と一緒ではないか、と思う者が多いのも当然のことではある。しかし、過去とは状況が大きく異なる。天界が無くなったことで、王であるフロンは地上に降ろされた城に住むことになった。その上で、現在の地上には、フロンより強い連中が結構いる。サニーがその筆頭、カラザもそう、ミスティやセシュレスも恐らくはそう、サニーに勝利したクラウドやファインもそうだろう。
今までフロンが、彼の許可した者しか立ち入ることの出来なかった、天界という安全圏にいた頃と違って、彼が良くない政治を進めようとしようものなら、誰でも文句を言いに行ける状況になったのだ。例えばの話を有り体に言ってしまえば、フロンが今までと同じように、天人優勢で地人と混血種が差別される政策を取ろうとすれば、サニーやカラザ、ミスティが黙っておらずに飛んでくるという話。最高指導者という肩書きが手元に帰ってきたフロンではあるものの、今までと同じように好き勝手をすることは出来なくなったのである。
戦争に敗れた側の王だから概ね当然のことだが、フロンは革命組織の三本柱であるサニーとカラザとセシュレス、この三人の言うことに今後従っていかねばならない。これまでと変わらないのは肩書きのニュアンスだけである。地位はあっても実質的な主導権がフロンに無い以上、はっきり言って、サニーが王であった時とそんなに状況は変わっていないのだ。
天界が存在しなくなったことで、カエリスは"天人都市"と名を変え、フロンの肩書きは"天王"に。ほんの僅か、文化の象徴的な単語を書き換えられただけに見えても、それは社会情勢が大きな変化を迎えた証である。
「ね~ご主人様。一つだけわかんないことがあるんですけど、教えて貰っていいですか?」
「うん? なんだ、ミスティ」
「これからの政治も、全権はあくまで天王フロンにあって、サニーさんやセシュレス様がフロンに口出しする形で、私達の言うことを聞いて貰うっていう話ですよね?」
「そうだな。あくまで全ての政治的な決定権は、フロンに残されたままだ」
「なんか非効率じゃないですか? ひと手間挟む必要はあるのかなって」
「……お前」
カラザがさっそく溜め息である。呆れたような溜め息を放つご主人様の姿に、えっ、えっとミスティも目が泳ぐ。何かまずいこと言っちゃったのかなって。言いました。
「お前、一番大事なことをわかってないじゃないか。そんなことで、新生"アトモスの遺志"のリーダーは務まらんぞ」
「あ、あうぅ……すみません……」
「いいか、しっかり説明してやる。以前も一度話したことだが、しっかりお前が理解するまで何度でも言うからな。というか、今回でちゃんとわかれよ」
叱られた。ミスティもしゅんとしてしまうが、カラザもミスティのグラスに飲み物を注いでやろうとして、はっとするミスティを誘発する。ご主人様に注いでもらう形なので、背筋をしゃんとしてグラスに両手を添えるミスティだが、これで姿勢を正して話を聞く体勢が自然と整えられた形である。
「そもそも、これで"普通"なんだ。今までは、天界という、天界王フロンが許可を与えねば誰一人近付くことも出来ない世界があったせいで、王が横暴な政治的判断を下しても、誰もそれに異を唱える場も作れなかった。今はそうじゃなくなったんだ、天界が無くなったことでな。強い強いフロンにも、力で対抗できる人物も組織も実在する。そういう状況に変わっただけだろうが」
「うぅ……」
「フロンは天人達の総意を纏め、地人側の総意はセシュレスが集め、使者としてサニーがそれをフロンに伝え、その対話の末に政治的な最終決定を天王フロンが下す。民意が反映されやすくなった政治体系に変わり、今後は普通にそのための段取りが踏まれていくだけだ。何が非効率だ、言葉を選べ」
静かな声だがイントネーションが辛辣で、ミスティもしゅるしゅる縮んでいく。でも、カラザの言うとおり。天人陣営が戦争に敗北した直後であって、フロンも確かに立場が弱く、しばらくはセシュレスやサニーの言うことに従わねばならない空気が続くだろうけど、それって不平等なことだろうか。ようやく、不平等を促す王様の政治方針に誰かが異を唱えられる環境が出来ただけだっていうのに、それでフロンが傀儡王みたいな言われ方をするのはおかしな話である。
もっとも、ミスティのそうした誤解も、ある意味では自然なものでもある。実際、フロンは"今までを思えば"不自由な為政者となるだろうし、サニーが王であった時期が少し前にあるから、そのせいもあって"状況は少し前と同じなのに手間が一枚挟まって増えた"と感じる部分もあろう。時流を追い、それを一番そばで見続けてきた者ほど陥りやすい落とし穴かもしれない。
「新体制の本質は、政治的最終決定権を天王フロンの手に収め、まあ言わばフロンにとっては絶対に無視できないご意見番サニーが存在する、といったところだな。もっとも、フロンがいい加減な執政を取ろうものなら、サニーを筆頭とした集団がまた行動を起こすという地雷つきだがね」
「そうなんです、そうなんですよぉ。それがあるから、フロンが王に戻っても、サニーさんが王様であった頃とはあんまり変わらないような気がして……」
「だから、なぜそうなる。労働者だって、雇い主が賃金を上げてくれない、労働環境を良くしてくれないとなればストライキを起こすだろうが。その高次元版というだけであって、王たる者も民を満足させる政治が行なえねば反感を買い、暴動を受け王位から引きずり下ろされるのが普通だぞ。今はサニーを含むこちら側の武力的な力が勝るという現実があるだけで、別に向こうがこっちの言うことを全て聞かねば叩き潰すような圧力を、はなからかけるわけではない。そうだと勝手に被害者妄想されては、それこそお前もサニーを見損なうつもりかと言いたくなる」
「そ、そういうわけでは……なななないんですけど……」
「言い訳をするな」
「す、すみません……ごめんなさいぃ……」
育て親に近い立場であることもあり、カラザはミスティを叱る時はそれなりに厳しい。彼にしてはえらく饒舌になるほどに。誤解を抱えたまま育たれては、今後大事な役割を担ってもらう彼女として頼りないので、彼女の教育に対してカラザは熱心である。
「とりあえず、今後は様子を見ながら社会を動かしていくことになる。天人とそのトップであるフロン、地人とその総意を纏めるセシュレスとサニーの両者が対話し、政治方針を定めていくわけだ。懸念されるのはそれを見た天人と地人と混血種、すなわち民の反応だな」
「あの、すいません」
「うむ、的外れなことを言ったら怒るぞ」
「あっ……じゃ、じゃあやめときま……」
「言え。間違いなら正してやらねばならん」
カラザ様が怖い事を仰るので、話を逸らそうと質問タイムに逃げようとしたミスティも言葉を引っ込めたが、逃げ道は塞がれてしまった。怒られる可能性があるのに、言いなさいと言われるのは気が重い。
「え、えぇ~と……天人達が、今の政治体制に変わって文句を言う可能性があるのはわかるんですよ。あの人達は、今までと違って、地人や混血種を見下せなくなるわけですもんね。いや、間違ってるんですよ? でも、向こうの立場を加味するとですね……」
「そうだな。で?」
今までの天人達は、地人や混血種は下に見ていいと幼少から教育されてきたわけで、その優越が失われる今後は、相対的に損をするように感じるだろう。そもそもその差別思想が、正しいものであるのか疑問符つきまくりだが、少なくともそれが今までは天人達の間では長らく"普通"だったので仕方ない。それに異を唱える立場でありながら、それでも天人の立場というものを想像できるミスティは、他人の気持ちを考えられる子であると、褒めてあげてもいいところ。
彼女のそういうところはカラザも評価しているのだが、今はいちいち褒めたりしない。おかしなことを言ったら怒るからな、というオーラをカラザは消さず、ミスティの目がくるんくるん泳ぐ。
「あ、あのそのあの……ち、地人が不満を上げることって、ありますかね? 世の中は自分達にとっていいように変わっていくのに、騒ぐ人はいないんじゃないかなって……」
「ふむ、まあその程度の疑問なら構わんな。気持ちはわからんでもない」
セーフ。ご主人様の機嫌を損ねることを言わずに済んだと、女の子座りで背筋を正していたミスティが、へなへな体じゅう柔らかくなった。うなだれる直前じゃないかってぐらい、肩から腕全部溶けて脱力してしまう。よっぽど叱られたくなかった、あるいはカラザに呆れられたく、ひいては嫌われたくなかったようで。
「天人と、地人と混血種の完全平等を目指して今後の執政は行なわれていくわけだが、急激な変化は叶えられん。例えば、天人と地人で差別化された市場の価格設定もそうだが、この風習を無くしてこそまず平等という目標は当然あるにせよ、この制度も急には廃止できん」
「え、えぇと……?」
「お前は商売人の経験がないから想像しづらいかもしれんが、天人の商人などは、今の市場価格を念頭に置いて、以降の資金繰りなども全て計算している。天人には普通にものを売り、地人にはそれ以上の価格でものを売れると計算して、借金の返済計画を組んだりしているわけだ」
借金とまでいかなくても、支払いの計画立てや、緊急時の金銭面の立て替えを良しとするか無しとするかなど、後の見込みも含めての金銭繰りはどこの商人でもやっていることだ。まあ、起業時に誰かに融資をお願いするなどは多くの商人がやっているわけで、独り立ちから隠居まで一切の借金ナシで過ごす商人なんて相当にいないけど。
「急に市場の体系を変えるようなことをすると、多くの商売人、特に天人の多数が計画を狂わされる。となると、それに対応することが出来なかった商人の中には、破産に追い込まれる者も現れる。さてミスティ、"破産"という言葉の意味するところを、お前は想像できるか?」
「ええと、そうですね……首くくり、とほぼ同じ?」
「そうだ。つまり早計に情勢を動かしていくことは、間接的に多くの人を殺すことに繋がる。決して大袈裟な話ではないということだ」
破産する、つまり商売人として駄目だとはっきり烙印を押されてしまうと、今後商人として生きていくことはほぼ不可能になる。商売とは売り手と買い手の信頼関係が根底にあるんだから、商人として駄目だと周知されると、銭も物も集まってこなくなるのだ。その上で、破産するところまで至ればだいたい借金が重なっているものであるし、その後に人生を立て直そうとしてもそう簡単にはいかないのだ。
よく誤解されるが、破産イコール借金ゼロで人生やり直し、ではない。信用は最底辺であるし、お金を貸した側も黙っていてくれるとは限らないのだ。身銭を貸しているんだから、なんとかして取り返そうとする。一番多いのはこの辺りの時代、自分の手元でびっくりするほど安い賃金で雇い、徹底的にこき使って取り返そうとする、など。どちらにしたって、破産した側にろくな人生は待っていないということである。
そうして潰れた商人は、家族も含めて飢え死にするのも時間の問題となる。生きていけても、低賃金で苛烈すぎる仕事をするとか、体を売るとか、生きているとは言い難いただの生存が殆ど。よっぽど優しい人に拾って貰える、期待できない超幸福があれば、まあまあもしかしたら助かるんじゃないですかねっていう程度であろう。
早計な政策施行が破産者を誘発することは、政治的暗殺と暗喩しても過言ではない。天人優勢の不平等な社会を肯定するセシュレス達ではないが、急激にこれを変えていくのは危険なことである。
「市場価格の新設定もそうだが、すぐに進めていくことは出来ん。変わり行く多くの制度の将来を明示しつつ、時間をかけてゆっくりと変化させていくことになるだろう。セシュレスも、そのつもりだと言っていた」
特にセシュレスは元商人だから、そうした事情には詳しいのだ。あくまで一例として紹介された商人事情だが、新体制にセシュレスが大きく関わる以上、今後を語る上では具体的な一望を述べるきっかけにもなった形である。
「しかし、ゆっくりと変えていくということは、一般の人々にはその変化がわかりやすい形で目に映りにくいということだ。話を戻すが、せっかく革命が為されたと告知された地人達が、それを見て何を思うか想像できるか?」
「…………?」
「まあ、お前はわからんかもしれんな。頑張り屋さんだもんな」
褒められたのか、諦められたのか。問いに首をかしげたミスティは、カラザの反応に不安な気持ちも沸くが、別に見損なわれたわけではない。
「有り体に言えば、話が違うじゃないかと不満を垂れる奴が出てくる可能性は充分にあるということだ。革命が成ったというのに、俺達の暮らしは全然変わらないじゃないか、とな」
「えぇ嘘、そんな人……」
「いるよ、必ず。念のために言っておくが、"アトモスの遺志"に関与して革命のために動いた者達は、あまりそんな馬鹿なことは言わんと思うぞ。むしろ、革命を為すために何も協力しなかったくせに、ただ安穏と過ごしていたある日、革命成りましたという情報を聞いて舞い上がった奴こそ、変わらない世の中に対してぐちぐち文句を言う傾向が強いだろうな」
「……あの、すいません。全然意味わかんないです」
「世の中そういうもんだよ。お前ももう少し大人になればわかるよ」
なんだか逆に聞こえるかもしれないが、実際世の中ってそんなものなのである。何もしない、行動を起こさない、そんな奴ほど誰かを批判する、文句を言う時に限って声が大きい。ちゃんと努力する人、してきた人は、いちいち世の中に文句垂れる暇があったら、自分周りの環境を良くしようとすることに前向きになれるし、行動できるのである。
「それに、もう少しわかりやすく言うならば、今まで差別され続けてきたお前としては、世界を変えられた今となっては、ちょっとぐらいは美味しい想いをしたいとは思わんか?」
「え、えぇと……」
「無欲を主張してもいいし、素直に答えてもいいぞ。どちらにせよ、お前はそれぐらいのことを言ってもいい資格がある」
革命のためになんら努力もしてこなかった地人や混血種が、世の中変わったんだから俺達が得をしなきゃおかしいだろって騒いだら馬鹿丸出しだが、ミスティのように革命組織の核として尽力してきた立場なら、そりゃあちょっとぐらい利益を求めたってばちは当たるまい。ここは何と答えても、筋が通る話である。
ミスティはもじもじしつつも、まあちょっとぐらいは……程度の言葉も発せずにだんまりである。若いからか幼いからか、あんまり利己主義的なことは口にしたくないのだろうか。こういう潔癖さは、彼女ぐらいの年頃の無垢な女の子には、ままあることである。
「でもまあ、革命が成立した現代において、自分達の地位向上を夢見る地人が現れることは想像できるかな?」
「まあ、それはちょっとわかります……」
「しかしながら、世界は急には変わらない。革命が為され、明るい世界を期待した者達には、その結果が明確な形ですぐには訪れない。正直ここまでやってきた立場として、そんな批判をくらうのは筋違いだと思うが、そういう心理が地人の大衆側に生じることは、ある程度見込まなければならんということだ」
「むぅ~、理不尽……」
「人間社会だからしょうがない。いつの世も、群集は賢くて愚かなんだよ」
政治体制は整えられたが、それについてくる民衆には、その美点が完全に行き渡って理解されるには時間がかかってしまう。元より人は、悪しき点や懸念すべき点にばかり目がいきがちなんだから。天人だけでなく地人や混血種も含め、どれだけ上が上手くやっていても、騒ぐ者が現れても不思議ではないということだ。革命という事象において、一番大変なのは、それを叶えること以上に、変化を迎えた後の世の平定である。
「そうした不安要素があるから、私とセシュレスは新生"アトモスの遺志"を作った。ニンバスにも協力して貰ってな」
「あ~、わかりました。ほんと、敵はまだまだ多いんですね」
「今想像できる範囲など、本当に氷山の一角だぞ。水面下で、よからぬことを企む天人も地人も必ず生じる。そうした芽を摘むのが、今後の私達の役目だということだ」
そんなこんなで、裏組織が半ば合法的に作り上げられ、それがカラザの言う新生"アトモスの遺志"。有り体に言ってしまえば、今の上手くいきそうな社会をかき乱しかねない奴は、すかさず見つけてぶっ飛ばしますよ軍団である。必要悪めいた、ちょっと過激な手段も取り得る集団なのだが、これから新体制に移り行こうというこの時期はしばらく不安定な世相になるし、こうした抑止勢力がいないと、防げるものも防げない。綺麗事ばかりで物事を円満に進めていくのは、流石にちょっと難がありすぎる。武器よさらばはまだ少し遠い。
余談だが、こんないかにも汚れ仕事に手を染める組織に、あのアトモスの名を借りるのはカラザも少し気が引けたのだが、色々考えた末にこうしたらしい。アトモスの実子である、サニーにも相談して決めたことなのだが、彼女もカラザの話を聞けば同意してくれた。まあそれは別の話。
「そんなわけでだ、ミスティ。本当なら、すべてが仮にも終わった今、お前にはもう汚いすることもないんだよと言ってやりたかったのだが、そういうわけにはいかなかった。それは申し訳ないと思っている」
「いえいえそんな! 私、カラザ様の命令なら何でも喜んでやりますよ!」
「殺生は嫌だろう。本音を言えば」
「うっ……ま、まあそれは否定しませんけど……」
狂気を纏って殺人鬼の顔をずっと貫いてきたミスティだが、彼女の本来の性分として、そういった仕事で手を血に染めることが好きでないのは、カラザが一番よく知っている。人の痛みがわかる子だ、虐げられてきたからこそ。それでも、大願のためならばと無理をして、虐殺と抹消を繰り返してきた彼女が、今も壊れきらない心で生きている奇跡は、親のようにミスティを育ててきたカラザにとっては、嬉しい限りのことである。
「ミスティ、おいで」
「えっ、あっ?」
カラザは自分のグラスの中身を飲み干して、それを自分から離れた横に置く。空いた両手で、ミスティの持つグラスを優しく自分の手元に移すと、それも同じ場所へ。急なカラザの行動にミスティが戸惑う暇もなく、カラザが両手でミスティの両腕を持ち、自分の方へと引き寄せる。膝立ちのままのミスティが、あぐら座りのカラザに胸と胸が近い距離まで引き寄せられ、すぐ目の前の見下ろした所にカラザの顔がある状態になる。
「あ、あのあのあの、カラザ様……?」
「こうして見ると、やっぱりお前は可愛いな」
「かわ……!? やっ、あの、そんな勿体な……へわわわっ!?」
元より身内間では、可愛らしい顔立ちが評判で、五年後が楽しみだとも、可愛いとも言われてきたミスティだが、同じ言葉をこの人に向けられると事情が違う。世界で一番大好きな異性に、可愛いなって言われた女の子が、頭からぼふんと煙を出して、顔を真っ赤にする不意打ちだ。
そうして取り乱しかけたミスティが繕う暇も与えずに、さらに彼女を自分に引き寄せたカラザは、膝立ちのミスティと完全に胸同士をひっつけ、抱きしめる。あまりの出来事に、カラザの顔の横でまばたき一つ出来ないミスティが、心臓をばくばく鳴らしている鼓動も、触れ合う胸からカラザに伝わっているだろう。
「ありがとう、ミスティ。お前は、本当に頑張ってくれた」
「あっ、あぅ……はゎ……」
「私やセシュレス、アトモスの夢が叶ったのは、多くの者達が尽力してくれたおかげだ。私が感謝したい相手は沢山いる。だが、サニーやセシュレスやアストラを差し置いてでも、私はお前に一番感謝していると告げたい」
ミスティの顔の横、彼女には見えない角度で、カラザは確かに真顔だった。心からの感謝を告げる表情だ。表情にも表れている確かなる真意は、ミスティの耳元から静かに沁み入り、彼女の胸の奥まで手をかける。
「ずっと、苦しかっただろう。それでもお前は、よくやってくれた。お前ほど若く、それでいて気高い覚悟で、目的に向かって突き進み、戦い続けられた者は他にいない。此度の革命戦争の第一人者である、ファインやクラウドやサニーでさえ、その点においてお前には決して勝れない」
「か、カラザさま……」
「お前のおかげで、私達の夢は叶った。ありがとう、本当に。感謝している」
苦しくないよう力加減し、しかし強く抱きしめてくれるカラザに、ミスティは体を預けるばかり。全身骨抜きにされて、頭が蕩けて気を失いそう。好きな人に抱きしめて貰えて、これほどの言葉を向けてもらえる幸せは、心で実感することに頭が追いつかない。何これ夢ですか状態。
そんなミスティのとろけっぷりなど露知らずなのか、そっとその手の力を抜いたカラザは、もう一度近くミスティの顔を見ようと、彼女の両腕を持って距離を作る。茹蛸のような顔色をしたミスティが、呆けたような顔で自分と向き合うが、カラザの表情は真剣そのもののまま。
「……偉いぞ、ミスティ。お前は私の、誇れる……んむ?」
主らしく、優しく微笑んでミスティの頭を撫でたカラザだが、それは手を離すより早く終わってしまった。感極まってぎゅうっと目を閉じたミスティが、我慢できなくなった勢いでカラザに体を寄せてきて、抱きついてきたからだ。あぐらしたカラザの股の間にお尻を侵入させ、両脚でカラザの腰に巻きついて、両腕をカラザの両肩から背中に回し込んで、ぎゅうっと抱きしめる。強い強い、もう二度と離れませんよと言わんばかりの全力の抱きつきだ。
「こらこら、ミスティ。頭を撫でてやってるところだろ……」
「~~~~~~~~~~っ♪」
駄目だ、話が通じない。頬をカラザの耳元にすり寄せ、じゃれる猫のようになついて、離れない。もうたまらないのである。カラザに褒めて貰えたことは今までも多い優秀な子だが、ここまで熱烈に褒めて貰えたのは流石に初めて。嬉しくて嬉しくてしょうがなくて、幸せいっぱいのその顔をカラザが見られないのが勿体ないぐらい。
しょうがないなとその姿勢のまま、カラザはミスティの頭の後ろを撫でてやった。こんな所を撫でるのも初めてだが、ミスティにとっては幸せ具合に拍車をかけるさらなる追い討ちだ。もう泣きそう、幸せすぎて。傷だらけの16年間を生きてきた彼女にとって、今日を越える幸福が今後あるかどうかは正直言って怪しいほど。
「まったく、褒めてやったらこれだ……まだまだ子供だな」
すりすり頬ずりしてくるばかりのミスティに、カラザも苦笑するばかりである。年相応のミスティを実感できるだけでも、カラザにしてみれば心が温まるけど。年のほどには決して不相応な、苛烈な戦いをずっと彼女は突き進んできた。今やっと、こんな顔をする彼女を、落ち着いて抱きしめてやれる時代が訪れた。これもまた、新時代を迎えて得られた副産物だ。
頭を撫でてやるその手をカラザは止めない。ミスティが冷静さを取り戻すその時まで、ずっとだ。夢よりも幸せな夢心地の中にいたミスティは、なかなか長い間離れてくれなかったので、最終的にはカラザの手も少々疲れていた。それでもずっと手を動かしていたのもまた、カラザの親心の表れである。
「…………」
別の宿にて、ある一室の入り口前。赤毛の少女が、ドアノブにかける寸前の手を止め、静かに深呼吸を繰り返している。かつての親友二人が泊まっているというこの部屋に、これから入ろうとしている彼女にとっては、ここからの第一歩が相当な勇気を要することなのだ。
日中、天界の城を地上に降ろしてすぐ、ファインに声をかけられた。忙しいみたいだけど、今晩会えるかなって。言外に、来てねと明らかに含められたその発言から、逃げようとした瞬間も確かにあったけど。切実に訴える眼差しのファインを思い返すたび、その誘いを無視できなかった彼女が今ここに至る。
意を決して、息を止めてその扉を開ける。ぎい、と軋む戸の音が、この時の彼女の耳には大きく聞こえた。
「サニー!」
「よかった、来てくれたんだな」
「……うん」
部屋の真ん中には、彼女が来てくれるまでずっと起きているつもりだった二人が待っていた。ファインとクラウドの姿と声に迎えられ、重い足取りでサニーは室内に入っていく。お尻をずらしてファインとクラウドが位置を整え、体の向きを変えた行動が、サニーがどこに座るのかを自ずと示してくれる形になる。
三人で輪を作るように。宿にて夜話する時の三人の座り位置と距離感を、二人は今でも覚えてくれている。親しく過ごした日々が確かにあることを象徴する光景であり、それが今のサニーにとっては胸にちくりと刺さる。
「ねぇ、サニ……」
「ごめん」
ほんの少しの沈黙を挟んで、ファインが第一声を発したのとほぼ同時。かぶせるような形になったのは偶然だが、サニーの言葉に遮られてファインの言葉が続かなくなる。人の目を見て話すのが殆どのサニーが、伏せたままの顔で重くそう言ったことで、また短く沈黙の時間が生じる。
「……いや、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。あなた達には、取り返しのつかないことをした」
友達同士のごめんではなく、人として心から謝罪する時の言葉に言い換えて、サニーはその言葉の続きを紡いだ。顔も上げている。一言一言を発する呼吸の合間に、ファインとクラウドを交互に見るのは、言うべき相手の顔を見て言うことだと判断している証拠である。
サニーは無表情だ。その心中の想いがどうであるのかは、よほど彼女のことをよくわかっている人物でなければ、その顔色から読み取ることは絶対に出来まい。ピンは心から申し訳なく思っているのか、キリはそれとも上っ面だけのごめんなさいなのか。どの程度の感情が謝罪の言葉に秘められているのかを、敢えてサニーは表情に見せていない。
「裏切ったこと、騙してたこと、本当にごめ……」
「サニー」
言葉を連ね続けていたサニーを、言葉半ばにして止めたのはファインである。クラウドの方に顔を向けていたタイミングで、横入りの声を受け取ったサニーがファインに振り向けば、目の前の元親友の表情が柔らかい。サニーとは逆、表情だけで言葉も要らず、真意を概ね語りきるほど、ファインの態度は雄弁だ。
もういいんだよ、って、目が口ほどにものを言っている。それがかえって、努めて無表情を貫き通そうとしていたサニーの目尻を沈ませる。赦される方が批難されるよりつらいことは確かにあり、それがこの時だ。
「あのね、サニー……」
「……やめてよ、ファイン」
ファインの顔から目を逸らすかのように、露骨なぐらいサニーは下を向く。優しい言葉が向けられることが、容易に想像できたからだ。ファインがどんな子なのかも知っているし、そんな相手を何年も騙し続けていたこと、殺そうとしたことが、どれだけひどい自分であったかをわかっていて、なのに許される。良心を失いきっていなければいないほどに、それこそ針のむしろというものだ。
「サニ……」
「私、あなたのことずっと騙してたんだよ? あなたに最初近付いたのだって、狭間のあなたを手なずけられたら後で使えるかもって思ったから。友達だって、親友だって言ってたのだって、孤独なあなたを懐柔するための言葉の使い方だよ。こんな私のこと、なんでそんな顔で見れるのよ……」
「……いや、あの、それは今初めて聞いて、ちょとショックだけどさ」
完全に許しきっていたファインの顔が、言わなくてもいいことまで言うサニーのおかげで、ちょっと苦笑いの色を含む。そこまでは考えていなかったなぁって。好きすぎて、そういう古くからの打算的なサニーの行動原理まではいちいち想像していなかったので。
「でも……さ。うん。いいよ、もう。全部忘れて?」
「おかしいよぉ、あなた……クラウドも、止めてよこの子……」
助けを請うようにクラウドの方を向くサニーだが、クラウドは苦笑い全開で無理無理と手を振って返した。むしろお前が一番知ってるだろ、こいつ一度思ったことをそう簡単に改める奴じゃないことぐらい、とばかりに。
「お前、俺達とはもう友達でいるのも嫌か?」
「……私に、そんな資格ない」
「そうじゃなくって、嫌かどうかをだな」
「……考えても意味ない」
おお卑屈卑屈。同時に、本当は縁切りなんてしたくないって言ってるようなものだが。自分なりの道理に則り、今後二人には顔も見せないようにするべきだという理念と、やっぱり好きで仕方ない友達二人と絶交したくない本音は、同時に混在しているのだろう。選べる道は一つしかないから、理念を取っていただけで。
「なんかサニーは今後も忙しいらしいこと、カラザさんからも聞いてるけどさ。もしも今後、会える回数が少なくなったとしても、もう友達でもないよってのは俺の方が嫌だぞ?」
「な、なんで……私、だって、あなた達に……」
「知らねえよ、俺だってわかんねえってば。でも、一回友達だって思っちゃったら、もうそうじゃないよって言われるの寂しいだろ」
確かにそうかもしれないけど、それってよっぽど相手のことが、人として好きじゃなければ沸かない感情のはず。そうでなければ、裏切られた時点で縁など切ることが出来るはずだ。サニーにはわからない。自分がそこまで言って貰えるような人間だって、自己評価することなんて出来るはずがない。
「わ、私があなた達と関係を持ったのは、あくまで……」
「じゃあ聞くけどさ。闘技場の俺のことを応援してくれてた顔も全部演技か?」
「ぅ……」
「リュビアさんと楽しく遊んでたのも、全部嘘っぱちの顔か?」
「…………」
「野良演劇が上手くいって、みんなで喜んでた時も、お前は心の底ではどーでもいいって思ってたのか?」
一番言い返せないところばかり的確に突きつけられて、サニーは返す言葉を失っていく。せっかく嫌われようとしてるのに。お前なんかと友達じゃなくなればせいせいするよ、って思って貰えるように頑張ってるのに。そうすれば二人が最も気兼ねない形で、自分との縁を切れると思うのに。
ファインやクラウドと一緒にいて、打算抜きでそんな日々を楽しんでいた時の、嘘偽りの無かった時の自分の顔ばかりクラウドは覚えている。それを見逃してこなかった、忘れなかったクラウドだから、今でもサニーを切っていないんだろうけど。
「ねぇ、サニー。私、あなたがアウラさん達に囲まれていじめられてた時、助けてくれたあなたのこと忘れられないの」
こいつもこいつで。クラウドはともかく、ファインと関係を持つようになったのは、本当に当初、完全に打算のみのものだったのに。あの時、天人の差別意識に対して素から来る正義感から、後先も考えずに行動してしまった世間体的な愚は、こういう意味でも愚だったのかもしれない。あの時サニーが、心からファインのことを哀れに思い、風潮に逆らったことがファインの心を掴んで離さないのだ。
だから、ファインはサニーを許してしまう。あなたがいるから、健全な心で歩いていける、今の私がある。たかだか一度裏切られたぐらいで、嫌いになんかなれませんよって。あのまま育てば嫌われ者、死んだように生きていくだけだった自分を、生き返らせてくれた恩人を、嫌いになんかなれるわけがないのである。
「だから、もう友達じゃないなんて言わないで? もしも会えなくなったって、私あなたと友達でいたいよ。いつかあなたがいつか結婚したりしたら、おめでとうって言いに行ってもいい私でいたいよ」
「…………」
「サニーのこと、大好き。絶対、一生、変わらない。あなたのおかげで、私今でもこうして笑える私でいられるよ」
誰かの幸せを自分のことのように喜べるなら、それはやっぱり親愛感情なのだ。それが一方通行でなくなれば、友情と名を変える。ファインはサニーと、友達でいたい。親友でいたい。サニーのことが好きで好きでたまらないファインが最も求めるのは、あなたと私は友達じゃないと理念に捉われて突っぱねようとするサニーが、改めて自分を友達でいていいよと許してくれること。
謝るべきは自分の方なのに。お願い、変なこと言わないで、私にまだ友達でいていいよと許してよサニーと必死で訴えるファインの態度が、サニーにとっては一番やばい。耐えられなくなる。いや、もう耐えられない。
「だから、サニー……っ、えっ!?」
「っ、う……うえぇっ……」
ファインもびっくり、クラウドもびっくり。うつむいたままのサニーが震えだしたかと思えば、声まで漏らしてぼろぼろ涙を流し始めたサニーの姿は、完全に二人にとって初見の姿である。泣き虫を自覚するファインにとっては、自分が泣いてる姿を見られて恥ずかしい想いをした過去が多いだけに、サニーがそんな顔を自分の前で見せるなんて夢にも思っていなかったから、特に。
サニーって途方も無く強い人と思ってたわけだし。それはちょっと信者根性きつすぎるけど。
「ごめんっ……ごめんなさぁいっ……! 私、あんな……あんな、ひどいこと……!」
「あわっ、わわっ、さささサニーサニーサニー……はわわっ!?」
「ごめんなっ、さいっ……! ひぐっ、うえっ……うううぅぅ……!」
あわあわ慌てふためいて、サニーに膝立ちで歩み寄ったファインだが、あやすような手つきより先にサニーがファインの胸元に顔をうずめ、鼻をすすって泣き止まない。抱きつく手つきすら作れず、両手で前からファインの肩にしがみつくようにして、ただただ頭を震わせる。溢れる嗚咽は、クラウドの方を見てマジですかという顔になるファインを誘発させる。
「えー、あー……あのさ、サニー」
クラウドだって同じ想いだから気持ちはよくわかる。頬をかりかりかきつつも近付いてきて、サニーの背中をさすってやる。
「絶交、したいか?」
「したくないよおっ……! 私、二人のことっ、大好きだよおっ……!」
「よっしゃ」
言質取れました。クラウドも、大きく溜め息が出た。ほっとするばかりだ。天上界での決着後のサニーは、どうにも自分から離れていきそうな匂いがぷんぷんしていたし、それが良心の呵責によるものだとわかりきっていたクラウドからすれば、それは勘弁してくれってなもんだったのである。
友情関係の切る切らないなんて、道理を以ってあれこれ決めるべきことではない。当人らが、お互いのことを嫌い合っているわけでもないのに、絶交すべきだからしましょうなんて馬鹿馬鹿しい話である。天人と地人だから結婚するのは良くないですの如し、わけのわからん理屈で好意も叶わぬ、そんな世界の不条理と同じではないか。
「ファイン」
「……はいっ」
"よかったな"の言葉は要らなかった。泣きじゃくり続けるサニーの頭を撫でるファインは、過去最も幸せな笑顔を、クラウドに返すばかりだった。
終わりかねなかった友情は、すんでのところで最悪を迎えずに済んだのだ。友達こそが幸せに生きていくために最も大切なものだと信じるファインをして、これ以上の幸福はないのである。




