第267話 ~私的和解~
ここは一体、どこなんだろう。闇一色、あるいは黒一色、足元も周囲も真っ暗闇で、新月の山奥のように光なきここでは、何をも周りに確かめることが出来ない。そのくせ足元はしっかりしていて、どこまでも広大に、延々と広がる平坦な地面があることは不思議と理解できる。
孤独を絵に描いたような暗黒世界の真ん中に、サニーは独り立っていた。光を魔術で生み出そうとしても何一つもたらされない、たった一人で自分以外の何かを認識することも不可能な空間で、無性に胸がばくばく打つ。こんな場所でたった一人でいると、ただそれだけで不安を覚える。
「あ……」
きょろきょろと不安げな顔で、暗黒世界を歩いていたサニーの前方に、何かの影がぼんやりと見えた。思わずサニーは、それに駆け寄ろうとする。走るでもなく、早歩きになってそれに近付こうとするサニーには、目の前にあった何らかの影が、年の近い二人であることに気付く。
ファインと、クラウドだ。互いに隣の相手と顔を合わせ、楽しくお喋りするかのように口を動かす横顔が、二人の後方から近付こうとするサニーの目にも見えた。孤独の世界の真っ只中にいたサニーにとって、この二人の姿を見つけられたことは不思議なほど嬉しく、早歩きだった足も少しずつ早くなる。無自覚ながら、表情も明るくなる。
しかし、その表情は、少しずつ曇り始める。進んでも、進んでも、目の前にいる二人に近付くことが出来ない。数秒走れば触れられる距離にあるのに、ファインとクラウドへの距離が、駆けど走れど全く縮まらないのだ。闇の中でようやく見つけられた、たった二人に近付くことも出来ない焦りがサニーの表情を必死にさせ、その駆け足にも速度が足されていく。
ファインとクラウドが何を楽しそうにお喋りしているのも、こんなに近いのに聞き取れない。二人はただただ歩いていく。サニーから離れるように、前へ、前へ。サニーは二人に追いつこうと必死で両足をはたらかせる。距離は縮まるどころか、むしろサニーは一切進んでいないかのように、ファインとクラウドが歩く足に伴って開き始めた。
待って、待ってと叫ぶサニーの声を、まるで二人は無視するかのように。せっかく見えた、孤独でさせないでいてくれる二人の存在は、無情にもサニーからただただ去っていく。サニーが二人を呼ぶ声も徐々に大きくなる。光景は絶望の一途を辿り、息を切らしたサニーがどれだけ駆け寄ろうとしても、離れていくばかりの二人の背中が小さくなっていく。
「ま、待ってよぉ……! 私が……私が、悪かったから……! だから、だから、ねえっ……!」
涙声になって懇願するサニーの前方で、ついにファインとクラウドが振り返ってくれた。二人の目は、冷ややかに極まりない。自分達を裏切った元親友を蔑むような目を浮かべ、ふいっと顔を逸らして、再び前に向かって歩いていく姿を、胸をずきずき痛ませながらサニーは追いかけ続ける。
「待――」
叫ぶ呼び声は大きくなる。届かないと知りつつも手を伸ばす。ファインとクラウドの姿が、闇の向こうに見えなくなるその瞬間、サニーの発する叫び声は最も大きくなった。
「ぁ……」
ばちりと目を開けたサニーの目の前には、闇とは違う光景が広がっていた。前方に天井、それに向けて手を伸ばした自分、そのままの姿で突然知れぬ場所にいる自分に驚き、サニーは数度まばたきする。
息が荒い。頬を伝っている涙のあとにも気付かない。数秒前に自分が目にしていたものが、夢であったのだと気付くまで数秒かかり、気付いてようやくサニーは体を起こした。
汗だくで呼吸を乱したサニーは、誰がかけてくれたのかもわからぬ掛け布団を掴んだまま、沈痛な面持ちの顔を上げられない。やがては掌を額にあて、うつむいたまま大きく息をつく。悪夢から解放された直後の安堵の溜め息であるとも、あるいは他の意図も含められていると言えるだろう。今がどういう状況なのかを考えるより早く、サニーの脳裏にはある二人の顔が浮かび上がっている。
「……負けたんだなぁ、私」
意識を失う直前の記憶が、断片的にだが蘇ってくる。必死で立ち向かってきたファインの表情や、そんな彼女を守り抜くために宙空を奔走していたクラウドの姿。そして最後はファインの魔術に押し切られ、安らぎに満ちた魔力に包まれた瞬間が、自分に残っている最後の記憶である。夢の中で一足早く再会したファインとクラウドに、天上界での戦いにおいて敗北したことは、目覚めた直後のサニーにも想像で補えた。
さて、過去はさておき今は如何に。ここはどこだろう、ベッドの上なのはわかるが、どこの屋内なのかも不明、人もすぐそばにはおらず。体は動くだろうかと、手足をもぞもぞと動かしてみるが、軋む実感はあるものの差しあたって不便はしなさそう。ベッドから降りて立ってみても、歩くのもきついような負傷が体に残っている手応えはない。
あれだけ激しくやり合ったのに? クラウドの破壊的な拳を受けるなどし、骨の何本かは確かにやられた戦いであったのは確かなのに?
気を失っていた自分に、どこかの誰かさんが治癒の魔術をかけてくれていたんだろうなと思う。手をはじめとし、自分の体を見つめながらサニーが浮かべる表情は、負けた自分にも情を注ぐ元親友を想起して、かえって憂いるような色に染まっていた。
「――おう、やっと目が覚めたか」
「あっ……」
状況の把握に向けて動き出そうと、小さな個室と思しきこの部屋の出口に歩き出そうとした矢先、部屋の出入り口にあたる扉が向こうから開いた。馴れ親しんだ顔ではないが、何度か顔を合わせた男の登場に、サニーの回転の速い頭は相手の名を求めてすぐ巡る。
「えぇと……ザームさん、だっけ……」
「おうおう、やっとさん付けしてくれたか。年下なのにずっと呼び捨てにしてくれやがってよ」
近付いてきたザームがサニーの両肩に手を添え、軽くベッドに向けて押す。ふらついてベッドの上に、ぽすりとお尻から座らされる形になったサニーが目をぱちくりさせている前方、ザームは掌を胸の前で二度上下させる仕草を見せた。そのまま座ってろ、と表したジェスチャーの真意は、年下の後輩を見守る目のザームの表情からも充分に察せたし、動かないサニーの前に、部屋の隅に寄せられていた椅子を持ってきたザームもまた座る。
「今がどんな状況かわかんねえって顔してるな。説明してやってもいいが、聞ける頭は覚めてるか?」
「……うん」
うなずくサニーだが、聞く前に寝癖を直せよとザームは笑いかけた。気さくな雰囲気を醸し出し、どことなく表情の暗いサニーの気を軽くさせてやるつもりであったようだが、サニーの顔色は良くならなかった。
サニーとて年頃の女の子、寝癖を指摘されれば顔を赤らめ、慌てて髪に手をやる性分のはず。それがこの反応だ。ザームの目にも、よほど参っているのは明らかすぎて、これと対話する側も一度息をつかずにはいられなかった。
元々喋りの達者なザームの語り口もあって、状況の把握に時間はかからなかった。天界あるいは天上界での出来事などは見ていないザームだが、知己から耳にしたことも含めて状況の把握には充分至っているらしく、揃えてある情報をきっちり整理して説明してくれた。
ファインとクラウドに敗れたサニーだが、そんな彼女を天上界から連れ帰ってきてくれたのもあの二人。二人は一度天界に降りると、セシュレスのアドバイスを受け、ひっそりとマナフ山岳の近く南に位置する村にこっそりと運び、その小さな宿にてサニーを寝かせてくれたらしい。つまりここは、天界でもなければ天界都市カエリスでもない、天界都市から離れた小さな村の宿である。
どうしてそんな手間を挟んだかというと、現在の新王たるサニーが戦いに敗れ、気を失っているという事実を天人達にしばらく隠しておきたかったからである。暗殺の狙い目にされることが目に見えているのだから。
もっとも、サニーがこの村に担ぎ込まれてから、天界都市カエリスにいたザームを含む強兵ら数名が、こちらでサニーの警護に回ったため、今はもう天人達にも概ねこの事実は割れている。ただし、連中がそれを把握しきるより早く、カラザが天界都市に移動して睨みを利かせる時間が稼げたのは大きく、天界都市カエリスにたたずむ天界王フロンも、サニーが手負いの身であると知っても動けない、歯がゆい現状にあるそうだ。何せホウライの都をまるまる焼き払ったカラザが、妙な動きを見せたらわかっているだろうなとばかりに、天界都市そのものを人質に取って居座っているのだから、天人達のお偉い様も身動きが取れないのである。
ひと手間かかったが、結果として天人ではない者の医者もいる村にサニーを運び、戦いで傷ついたサニーの体が癒せたことで、新王不在の密かに危険な状況も切り抜けることが出来た。それが今の状況である。話を聞いたサニーは、改めて手をむすんで開いてしてみたが、体は元気に動けそう。恐らく今ならもう、元気一杯の時には劣りはするものの、戦いを強いられても応じることが可能だろう。
「……ファインでしょ」
「やっぱりわかるんだな。ご明察だ」
戦いを終えたあの時から、サニーが目覚めるまでの時間は、ちょうど1日半と少しらしい。決着のあの時が夜浅い時間帯であり、今はそこから一日半後の昼前。そんな短時間で、本来あれだけの激闘後の体がここまで回復するわけがないのである。よっぽど腕の立つ治癒魔術の使い手が手を施してくれない限りは。
そんな使い手で、サニーをそこまで手厚くやってくれる人物なんて、思い返す限りであの子しかいまい。あの子は本職の医療術士よりも腕が利くのである。
ファインも戦後の体、歩くのも億劫でひょこひょこした足取りながら、昨日だけで5度もサニーのもとを訪れ、汗だくになって治癒の魔術を行使し続けてくれたそうだ。クラウドの態度も見過ごせない。彼とて傷ついた身、ファインからすれば治癒を施したくてたまらない相手だったはずだが、クラウドはファインが近付いても断固として、俺はいいからサニーに全力を注げと安静を貫いていたという。俺の治癒に体力を使うぐらいなら、サニーをしっかり癒してやれと主張したというクラウドのことを聞いたサニーは、何とも言えない顔をザームから伏せていた。
「二人はどうしてるの?」
「二人とも、さっき起きて顔洗ってたぞ。顔、見せてやればどうだ?」
「……会いに行っていいのかな」
「なぜ俺に聞くよ」
「いや、その……」
いかにもばつの悪そうな顔を隠せない様からも、二人に対して後ろめたいのはよくわかる。ザームも事情はだいたい聞いているのだ。その上で、今の自分にファイン達に合わせる顔があるんだろうかと苦悩するサニーに、頭を乱暴に撫でることでしけたツラするなと訴える。ちょっと髪が引っ張られるぐらい、乱暴にだ。
「あいつら、心配してたぞ。目が覚めたならその姿を見せてやることも、あいつらに対する誠意ってもんだ」
「…………そう、だよね」
色々言ってもそう簡単に納得しまいとし、ザームは道理めいた理屈でサニーを説得した。ある種の納得を強引に受け入れさせられたサニーは、気まずい表情の晴れないまま立ち上がり、ザームに礼を言って部屋を出る。足取りの重いサニーを見送ったザームは、新王様とやらも仮面をはずせば、やっぱりただの女の子だなと思うばかりである。
ファインとサニーを探して宿の外に出たサニーだが、宿の周りを巡回する者達の目線が集まった。どうやら彼らが、この村に担ぎこまれたサニーが脅威に晒されぬよう、警護に回ってくれた尖兵達のようだ。身なりは一般人と変わらぬが、態度からしてよくわかる。
そのうち一人が急に駆け出していったのも、目覚めて外を歩いたサニーを見受け、ファインとクラウドを呼びに行ってくれる行動だ。あてもなく村巡りするところだったサニーに近付いて、待っていて下さいと話しかけてくれた若者の配慮のおかげもあり、サニーは待つだけで再会を果たせる形を整えられる。
そして。
「――サニー!!」
「…………」
ぱたぱたと宿に帰ってきたファインが、サニーの姿を見るやいなや叫び、大きく手を振ってくれた。振り返るサニーの前方からは、いてもたってもいられないことが駆け足からもわかる姿で、ファインが近付いてくる。悪夢の中、手を伸ばしても永遠に辿り着けそうになかった恋しき相手が、待つだけでこちらに来てくれる光景には、サニーも前に踏み出しかけたものである。
だが、脚が動かなかった。待つことしか出来なかった。自分から近付くことさえも、罪悪感が憚らせ、サニーはファインがサニーのすぐ前に息を切らして立ち止まるまで、一歩も動けず待つばかりだった。ファインの後ろから、彼女に少し遅れて走ってきたクラウドが近付いてくる光景を、ファインの肩越しに見ていたのも、真っ直ぐファインと目を合わせる勇気が持てなかったかもしれない。
「はぁ、はぁ……元気に、なったんだ……」
「……うん。おかげ様でね」
再会後の初会話を求めるファインの声で、ようやく改めてサニーは近しくファインの顔を見ることが出来た。汗をじんわりと滲ませて、息を切らせるファインの体が、決して元気でないのはサニーには明らかだ。
旅に慣れ、傭兵稼業で慣らし、昨今では戦場の場数を踏むことも多かったファインは、強く握れば折れそうな小さく細い体に見えて、体力には秀でている方である。ホウライ戦役で、日中から夜まで戦い続けた実績などを鑑みても、充分すぎるほど証明されていることだ。そんな彼女が、サニーに会うために走ってきただけで、こんなに汗を流して息を乱す時点で、そこそこ無理をして外を歩いているのが事実である。
「……クラウドも、ありがとう」
「何が」
「……ううん、なんでもない」
ファインの隣に並んだクラウドを見て、ザームに聞いた色々な話のうちから、礼を言うべき彼の態度を思い返したサニーは一言の感謝。どうも素っ気無いクラウドの反応は、自分が治癒の魔術を施したわけでもないのに何故感謝されたのかがわかっていないのか、あるいはサニーに対してわだかまりがあるのかだが、ちなみに両方。今のサニーにとっては、後者にしか見えなかったのか、合わせる顔が無い目をしてクラウドから視線を逸らす。
逃げた目線が向く先は、真正面のファインである。そこには息を整えつつも、回復したサニーを嬉しそうに見上げるファインの顔。誰しもそうだが、健康な自分を見て喜んでくれる人が目の前にいると、幸せになれる。
私はこの子を、一度はっきりと裏切ったのに。クラウドと顔を合わせることから逃げ、優しいファインの顔と向き合うことに逃げる自分が卑怯に感じるサニーは、どうしてもその表情が晴れない。
「……ふゎ?」
何かを一瞬迷うようなファインの顔が目に見えた瞬間、ファインはぎゅうっと正面からサニーに抱きついてきた。人と触れ合えば治癒の魔力を流すことも可能なファイン、しかしこの行為にそうした意図はない。力に乏しいファインにとっての、ほぼ力いっぱいの抱きしめが、全快ではないサニーの体には、ちょっとした息苦しさをもたらす。
「ごめん、サニー、苦しかったらごめん……」
「……大丈夫」
嘘をつくことに慣れているのは良いこととは言えない。少し詰まりそうな息を、素早く整えて落ち着いた嘘を口にするサニーを、謝りつつもファインは抱きしめずにいられなかった。母と死別し、無二の親友に裏切られ、もう二度と顔を合わせられない可能性すら恐れていた彼女をして、こうして敵対しない立場としてサニーと向き合うことは、想いの丈を行動に表さずにいられないほど感無量。
手慣れた癖のように、自分の顔の横で、肩に鼻をうずめて震えるファインの頭を、サニーは抱き返すのに近い手つきで撫でてやる。年上が年下をいたわる優しい手だ。それはファインに優しかった頃のサニーを肌で感じさせ、心を震わせるとともに、サニーにしてみれば今の自分に、ファインを年下扱いするのも傲慢だと思わずにいられない行動である。
「……クラウド、ごめん。本当に、ごめん」
「ファインに免じて、最初っから許してるよ」
サニーの額を拳で小突き、ようやくクラウドが少しだけ笑ってくれた。ファインに抱きしめられ、クラウドの笑顔に迎え入れられたサニーもまた、元気のないながらほのかに笑顔を取り戻すことが出来た。
「なんか懐かしいなぁ、こうして三人で揃うのも」
「そうね……昔は宿に泊まるたび、夜はこうしてたんだもんね」
宿の一室に戻った三人は、クラウドとファインが泊まっていたという部屋にて、意味もなく布団を敷いてその上に座っていた。三人は共通して、ベッドより布団が好きな性分であり、三人で旅をしている時は、ベッドのある部屋よりも布団敷きで眠れる部屋を宿で借りる習慣があった。ベッドありの部屋より宿代が少々安めという部分もあるし、敷布団を座布団代わりに座って夜話する習慣に都合がよかったことも一因だ。
毎日のようにそれをしていたつい最近のことも、別離を一度挟むと過剰な懐かしさを感じたりする。サニーの表情が浮かないこともあり、ファインはなんだか心配そうな顔でサニーを見つめているが、心配に及ぶほどのことじゃないと、サニーは目配せだけでちゃんと応えている。今は、気遣われる方がちょっとつらい。
「ねぇ、サニー……」
「わかってるわ、あなたの言いたいこと。……でも、私の話も聞いてね」
長めの溜め息をついて、話すべきことの解決に向けてサニーが心構えを正す。クラウドは冷静な面持ちで聞く構えに入っているが、ファインは何を言われるのかとはらはらし始めていた。
「……あなたは私に、王であることをやめて欲しいのよね」
「うん……」
「でもさ、ファイン。私も自分の都合だけで、今の立場を降りるわけにはいかない所まで来ちゃってる。それはあなただって、わかってないわけじゃないでしょ?」
「……うん」
天人覇権の時代を終わらせるための、革命組織としての体を為していた"アトモスの遺志"。天界王フロンを王座から蹴落とし、サニーが実質的な新王として君臨したことで、その目的は達成されたと言える。ここから時間をかけて、地人や混血種達が不当な差別を受けない社会を作っていく、はずだった。
しかしどんな事情であっても、サニーがその新王の立場から退けばどうなるか。スノウもかつて言っていたことだが、王不在の民主的な社会を成立させるというのは、まず実現不可能なことだと言っていい。それを為すには足りないものが語りきれぬほど多すぎるのだ。となればサニーの代わりに、誰かが王位に就かねばならない。
"アトモスの遺志"の息がかかっている中で、王位を努められる頭脳と実力が伴っている者は、サニーを除けば二人しかいまい。セシュレスとカラザだ。しかし、二人は地人であって天の魔術が使えないため、天界に自分の手で干渉することが出来ないのである。天人だけが使える特殊な空間、天界という場所が存在する以上、それに干渉できない権力者というのは、最も懸念すべきものに手出しが出来ない、不安定な最高指導者であることを避けられない。
「私の代わりに誰が王様になるのか、決めなきゃいけなくなるでしょう。究極的な手段としては、カラザかセシュレスに、天界王フロンの魂を強奪してもらって、天の魔術が使える王として君臨して貰うっていうのもあるんだけどさ」
「んん……」
「そういうの、あなた嫌いそうだもんね」
究極案を切り捨てる理由にファインの価値観を引き合いに出したサニーだが、そもそもこれもあまり安定しない策なのだ。なぜって、他人から奪取した魂も、いつまでも手元には置いておけないという秘密の事情があるからである。そもそも使い手が少ない霊魂奪取の術であるがゆえ、そうした制約はあまり周知されていないのだが、サニーはその使い手であるからちゃんと知っている。
ファインにとってのスノウ、サニーにとってのアトモス、カラザにとってのアストラのように、両者の精神が同調できる間柄であるなら、生涯その魂と添い遂げることはそう難しくない。そうでない場合は、時間が経つと無理に獲得した魂も、所有者の手を離れていってしまうのだ。俗に言うなら、成仏してしまうといったところか。あるいは、そもそもが引力を司る魔力でずっと手元に強引に縛り付けているだけの他者の魂なので、自分から離れたがるような魂を、何年も死ぬまで魔力で拘束し続けることを想像すれば、どれだけ骨が折れるか想像しやすいだろうか。
「となると、私が今の立場から降りるんだったら……また、天界王フロンが王位に就くことになるでしょうね」
「…………」
「そんな元鞘、革命のために頑張ってきた人達が納得できないでしょう。ファインっていう子に負けました、だからやめますなんて、私とてもじゃないけど説明できないよ」
元の木阿弥、また天人が支配権を手にした時代に逆戻り。新時代を夢見続け、それがようやく叶ったと喜んだ人々に対する失望が、どれほどのものに昇るかは想像に難くない。
それに、わざわざサニーもここまで説明しないが、そういう結果になった場合、かなりの多くの人々がファインやクラウドを恨む可能性も出てくる。せっかく差別のない新時代が始まるかと思ったのに、それを邪魔した二人のせいでぶち壊しとなったら、充分ありえる話であろう。こうした顛末になった以上、サニーも詭弁など抜きにして、王位を退くことは二人のためにもしたくない、と思ってしまうのも事実である。
「せっかくあなた達も頑張ってくれたけど……私は今の立場を降りることには前向きになれないの。あなたの気持ちを、一切無視して意固地してるつもりはないんだけどさ」
「うぅ~……」
「お願い、泣かないでよ。私も今、すごく悩んでるのよ」
まだ泣いてないのだが、やりきれない想いが声に表れてきた辺り、ファインも袋小路の現実に頭が痛くなってきたのが明らかだ。あれだけ必死に戦い抜いて、やっと前進が見込めると思った矢先、考えれば考えるほどに夢がまた遠のいていくというのは、やっぱり心に重い話である。
「……クラウドも、わかってくれる?」
「俺は最初っから、その辺に関してはすっげえ微妙だと思ってたんだけどさ。ファインがサニーに挑んで、勝って、それがサニーが天界の王様をやめるっていう結果に直結するとは、少し思えなかったもん」
「あぅ……」
じろ、とクラウドに睨まれて、ファインが小さく縮こまる。そりゃまあ、仰ることはごもっとも。王様を倒せばその王位から引きずり下ろせるなんて、ライオンの群れの話か何かかと。もっともファインは、そうした手段でサニーを今の地位から引きずり下ろそうと最初から心積もっていたわけではなく、説得と訴えでそれを叶えようとしていたので、厳密には違うのだが。それはそれで、余計に難しいことをしようとしていたような気もするが。
「起こされて、ファインが一人でどっか行ったって聞いた時には、マジ待てよあんにゃろうって思ったもん。おいこらファイン、聞いてるか。俺あの時本気で焦ったんだからな」
「す、すみません……本当、ごめんなさい……」
「……そういえばクラウド、あんたどうやって天界に来たの? なんか察する感じだと、あんたが目覚めないうちにファイン、一人で天界までぶっ飛んできたらしいけどさ」
「あぁ、ニンバスさんに協力して貰ったんだよ。おかげで間に合ったから、あの人にも後で感謝しておかなきゃな」
ファインがタクスの都を出発してしまってからしばらく遅れ、タルナダに叩き起こされたクラウドが、血相変えて都を飛び出そうとしたところに、ニンバスが声をかけてくれたそうだ。
古き血を流す者・鳶種のニンバスは、慣れた変容能力で翼だけを顕現させ空を舞うが、牛種のドラウトがそうしたように、全身すべてを鳥としての姿に変えることも可能である。そうした彼がクラウドを背に乗せ、天界都市までクラウドを最高速で届けてくれたおかげで、クラウドも最悪が起こる前にファインに追いつくことが出来たのである。
「いや、まあ、それもちょっと気になってはいたんだけど、私が聞きたいのはそっちじゃなくてさ。どうやって天界への道を開いたの? ニンバスさんの魔術じゃないわよね?」
「天界への道を開いてくれたのはあの子だよ。えぇと、なんだっけ……ほら、あの三色の服着てる……」
「ミスティ?」
「ああ、その子だ。天界都市の上空で待っててくれて、俺とニンバスさんが辿り着いたら、すぐに天界への道を開いてくれたんだよ」
「スペック高っか……あの子マジでド天才なのね……」
天界への道を開く天魔の使い手は、現在この世にたった3人しかいなかったはずである。天界王フロンとサニー、そしてファイン。そして天界への道を開く魔術というのは、天界という世界に対してのイメージが無いと行使するのがそもそも難しいのだ。たとえば火を見たことのない者に、火の魔術を使えと言っても、作るものを知らないのにゼロから作れと言っても無茶な話だろう。
天界にて生まれ育ったフロンや、一度招かれて天界に来たことがあるファインは、まだ天界の実像を見たことがあるから、魔術の成功した結果をイメージすることが比較的しやすい。それでも、天界王フロン以外の天人に、天界に足を踏み入れるための魔術の行使者がいないことからも、そもそも難しい魔術であるのは間違いないのだが。
ファインもやっぱり、術士としては化けているのである。そしてさらに、天界に入ったこともないアトモスが、独学で天界に踏み入るための魔術を生前に完成させ、それをサニーに引き継いだという実状から、アトモスという故人は超級術士ファインをも上回る術士だったということ。流石は革命を率いた最強の革命家である。
そんなアトモスと同じことを、つまり天界に入ったことが無くてその実態も見てもいないミスティが、たった16歳の若さでやってしまうって、ちょっとあり得ないレベルの話なのだ。いつだったか、カラザがサニーにミスティのことを、百年に一度生まれるかどうかの天才と話していたが、あれは誇張を抜きにした的確な例えだったということである。
さらに言うなら、どうやらミスティは天界に旅立ったファインを見送った後、空で待っていたという話。要するにクラウドが何らかの手段でここまで来ることを予測して、来たらすぐにでも天界への道を開くために、空でじっと待機していたというわけ。ミスティのことをスペック高すぎと評したサニーだが、それは術士としてのみではなく、その慧眼ぶりと併せてである。天は二物を与えぬというが、どうやら時々その格言も嘘っぱちになるらしい。
「とまあ、色んな人に助けて貰って俺達も頑張ったんで、出来れば結果が欲しいんだけど」
「うぐ……あんたも譲らないか……」
「サニーにも難しいところがあるのはわかってるよ。でも俺達だって大変だったんだぞ。カラザさんに狙われて、命からがら生き延びてさ。あれがお前の望んだ命令じゃなかったって知れたのは、かなりの救いだったけど」
「え、なに、カラザそんなことまで言ってたの?」
「殺されかけた立場で言うのもちょっと頭おかしいって思われるかもしれないけど、やっぱりあの人どこか最後まで憎みきれないんだよな。後から聞いた話だけど、俺達を匿ってくれた宿屋のご夫妻にも、たいした気高さだって笑って何故かお金払ったらしいし」
ファインが狙われる立場になった時、彼女を追っ手から逃がしてくれた宿屋の夫婦がいたが、彼らの所業を知ったカラザは、その気概に敬意を評そうと言って、家捜しの迷惑量と居座った時間ぶんの宿泊費だと言わんばかりに、銭を置いて去っていったらしい。これには、新王の意向に背いた裁きとして、命は無いものだと覚悟していた宿屋夫婦もお目々ぱちくりだったそうである。
よくよく考えてみれば、カラザがこの夫婦を手にかけても、得るものなんぞ何もないのである。王の意向に背く者を、裁くことは見せしめの意味を持つことがあり、見逃すことは示しのつかなさを誘発し得るが、たかだか夫婦一組どうするかでそこまで政治的な影響力まで響くかと言えば、考え過ぎ。
どちらかと言えば、正義を信じて己の正しい道を、戦う力もないのに突き進める芯を持つ貴重な人間を、闇に葬ることの方が、本質的には社会的に大きな損失である。これは人の価値観に左右されるが、少なくともカラザやセシュレス辺りは、そうした人間力を軽んじない。世の中、人材は掃いて捨てても余るほどあるが、人物は意外なほど一握りしかないのである。
「あー、あいつそういうとこあるわね。道楽に生きてるからなぁ」
「お前今ではカラザさんのこと、あいつなんて呼ぶんだ」
「私あの人とは0歳の時から知り合いだからね。詳しい話は省くけど」
「なんだそれ、すげえ気になるんだけど」
「ん……じゃあ箸休めにちょっとそういう話もしよっか? 本題から逃げるわけじゃないけど」
「聞きたいんだけど、ファインいいか?」
「あ、はい」
話が煮詰まってきた頃には、少し横道に逸れて肩の力を抜くことも選択肢。ファインの了承を得たクラウドを見受け、サニーは自分の生い立ちから一つずつ紐解いていく。アトモスの一人娘であることはかいつまんで二人にも言ったことのあるサニーだが、自分がどのように育ってきたのか、詳しいことを話すのは今日が初めてである。
ヘイルと名乗っていた頃のカラザに育てられていたことやら、才女ゆえにクライメント神殿の養子に招かれた過去やら、ファインやクラウドもサニーの話を聞けば聞くほど驚かされたものである。本当、波乱万丈な人生を最初から歩んできたんだなって。退くこと知らずで、宿命だ宿命だと口にして我が道を邁進し続けようとしたサニーと戦っている時は、このわからず屋めとも思っていたクラウドだが、それほどまでの道のりがあったと知った今では、それも仕方ないのかなと思いかけてしまう。
二人は、同時に思っていた。サニーって、産まれた時からこんな道を強いられた立場なんだなって。それを彼女に強いたのはアトモスである。
客観的に見て、かの人物はきっと、魂を捧げての力添えがあるとはいえ、顔も見ぬ一人娘に革命の宿願を押し付けた、ひどい親だと形容されて然るべきなのだろう。それに関しては、アトモスの哀しい境遇を知るカラザやセシュレスでも、そう言われても仕方が無い部分ありしと認めている。
それでもファインもクラウドも、サニーにとっての大事な人であろう母、アトモスに対して批難の言葉を軽々しく口になどしない。混血種のファインも、地人のクラウドも、血筋のみに由来する理不尽な差別を受けてきた身。手段を選ばなくても、そんな世界を変えたいと願う者がいること自体には、正義感から容認することは出来ずとも一定の共感を得ている。
暴動、誘拐、戦争という形で悲願を叶えんとした革命軍と現地で向き合えば、体が先に動いてしまうファインとクラウドではあるが、革命の成就を望んだ者達が命を張ってきた姿そのものには、否定しきれないものがある。人か、世界か、間違っているのがどちらかという命題に解を証明することは難しくても、やはり人の子は不条理に人を苦しめる運命のいたずらより、人の味方をしたくなる。
"この世界は間違っている"。そう形容する者には、世界を過ちの側とし、肯定したい"人"が必ずいる。ファインやクラウドにとってはお互いがそうで、サニーにとってはアトモスがそうなんだろうと、だから宿命を受け入れて、あんな顔をしつつも戦えたんだと、ファインもクラウドも想像力だけで至っている。優しい人間っていうのは想像力があってこそだ。
「……あー」
「どうしたの? サニー」
「いや……なんでもない」
私は本当にいい友達に巡り会えていたんだなって、改めて思った。一度縁を切ることを完全に宣言したがゆえ、その言葉は尋ねられても口に出来なかった。それで寂しさを感じても、それは間違った世界のせいとやらではない。独り立ちした人物は、自分の行動に自分で責任を持ち、社会のせいにしないのが不文律。それでも自分以外の、漠然とした社会という抽象存在に責任転嫁してしまうこともあるほどには、世の中っていうのはなかなか厳しい。
誰も間違ってなどいない。間違っているものがあるとしたら、世界の方だと結論付けてもいい。そう思うなら、それを変えようとしていけることが、人間の可能性である。
天人上位の世界を変えようとしたサニーにも。
そんな彼女を改めんとしたファインとクラウドにも。
革命を起こそうと尽力した者達にも。
果てには広く名も知られず、ただただ幸せを得ようと日々を生きている少年少女や社会人のすべてにも、同じ事が言えるはず。そうした人々が連綿と繋がり、大きく為されるのが社会であり、世界である。
 




