第247話 ~奪われたすべての居場所~
「……ごめん、もう一回言って。聞き間違えたかもしんない」
この日の昼、天界へと帰ってきたカラザが発した言葉は、機嫌よく彼を迎えたサニーの表情を強張らせた。彼女は表情の変化を隠そうとしたが、それでも隠せず顔色が変わったほど、カラザの発言は穏便でなかったのである。
「混血児ファインを粛清する。新王たるお前には、兵を率いる許可を頂きたい」
聞き間違いではなかったのだ。サニーが一度、意図して逃したファインのことを、カラザは消すべき対象だと訴えた。お前がそれを躊躇うならば、私がやるという行間さえをも含んでだ。
朝方、天界都市カエリスに降りたカラザは、予定していた調査や仕事を進めると同時に、天界都市にまだファインらが留まっていないかを確かめていた。むしろ、彼が天界都市に赴いた最大の目的とは、それであったと言い換えてもいい。結果は恐らくカラザにとっては残念なことに、既にクラウド達は天界都市を離れた後だった。
仕事も半分に仕上げ、既に王のお膝元からファインらが去ったことを確かめたカラザは、再び天界へと立ち返る。そして謁見の間にてサニーと顔を合わせ、開口一番に今の言葉を発したのだ。
「……あのさ、カラザ。私が、私の判断で、ファインは消さなくても問題ないって判断して、見逃したのよ? あなたは、同意してくれないの?」
「出来ないな。あの少女は、いつか必ず、お前の今の立場を脅かす存在となる」
「無いってば。その場にあなたはいなかったから見てなかったでしょうけど、何の問題もなく……」
「その場にいなかったから悔いているのだ。私がその場にいれば、その場で消していたというのに」
「なんでそこまで……」
「お前こそ、肝心なことを隠し事にするな。多少の秘匿は人として目を瞑ろう、しかしかの少女がお前に脅威を思わせた一事まで、隠し通そうとするのは感心できん」
「ちょっとぉ、あなたまさか、私のこと疑ってるの?」
「疑ってなどいない、確信している。お前は本当に、あの少女に、一切の脅威も感じなかったのか。そんな場面が、一度たりとも無かったのか」
「……無かった、って言ってるじゃん」
「ならば何故、あそこまで問題なく勝利したことを強調した。お前は私達に、自分の判断の正しさを説明する際、説得力を持たせるためにそう話したと言ったが、本当にそれだけの理由だったのか」
「それだけだってば……」
「かの少女が、お前の想像を超える魔力を形にしたりなど、そうしたものも一切なかったのか」
多少の間はしばしば挟みつつも、淀みなくここまで答えてきたサニーの返答が、ここに来て完全に止まった。無言が流れる、沈黙が続く。向き合うカラザの目は、サニーから真実を問いただすべく動かない。
「……確かに、そういう一瞬はあったわよ。でも、そんなの……」
「死したスノウが、かの少女に魂を授けたという可能性を、お前は少しも考えないのか」
「う……」
サニーが詰まるような声を発したのは、まさしく僅か自分の考えた懸念を、ぴったりカラザに言い当てられたからだ。ファインと一戦交えた時、確かに終始ファインを圧倒していたサニーだが、最後の最後、ファインがサニーの想像を超える電撃の魔力で、手首を焼きかけてきた一瞬があった。煽って、挑発して、ファインに全力を出させながら戦いつつ、ファインの"限界"も確かめようとしていたサニーにとって、あれは見定めたはずのファインの限界を超える、強い魔力が現れた瞬間だ。
必死さが為す、精神力の爆発が生み出した、一瞬の魔力の過剰なほとばしりというのは確かにある。あれもそうだと考えるのは楽観的であり、サニーも一度、あれはファイン自身の力に何かの上乗せがあったのではないかと考えたことがある。戦いが終わった後のことだ。もしかしたらファインは、サニーがアトモスとオゾンの魂を手にしているのと同じで、自分以外の誰かの魂を持っているんじゃないかとも。
ファインは他者から魂を奪うような人間じゃない。得るとしたら、与えられた場合のみだ。他者に自らの魂を授与するのは、地人ではなく天人の魔術。ファインにそんな大切なものを、命と引き換えに与え得る人物なんて、今わの際のスノウ以外にいまい。可能性はある。
しかも、仮にそうだとしたら、ファインは魂を受け取ったことを無自覚だ。自らの力をより引き出す最大の武器を手にしていながら、戦いの中では一度も使わなかったことにも、この仮説の中では説明がついてしまう。貰ったけれど、貰った事を知らないから使わなかっただけ。しかし最後、どうしても、どうしても負けたくなかった彼女の心が、無自覚にでも内の、もう一つの魂に呼びかけ、彼女本来以上の力を発した、という可能性まで充分ある。
聖女スノウは葬った。葬儀の報も聞いたし確かな事実である。しかし、アトモスがサニーへとそうしたように、彼女が自らの魂を、愛する誰かに捧げた可能性というのは、意識の端でサニーも薄々想像していたことだ。
「もう一度問う、あるいは問いを変えて尋ねよう。お前が戦ったかの少女は、聖女スノウの魂を得た術士となっている可能性はあるか」
「……あるかないかで言えば、否定しきるのは難しいんじゃない?」
「直接対決したお前の目から見て、その可能性が高いか低いかを聞いているんだ」
カラザの声が強くなる。かわそうとするサニーに、いい加減にはっきりしろと詰め寄る言い方だ。背中を丸めて前のめりな座り方で玉座に座るサニーも、ちょっと姿勢がたじろぎそう。
「そりゃあ、まあ……どっちかって言えば……」
「サニー」
「……あーもう! わかったわよ、白状する! 元から思ってたことだけど、ファインが聖女スノウから魂を受け取ってる可能性は高いと思うわよ! 戦ってみた私の結論としても、そう思うわよっ!」
観念したサニーが、しっしっと手を振って顔を逸らし、これでいいんでしょと面白くない表情を浮かべた。一方、ようやくその言質が取れたカラザは、ここからが本題だと言わんばかりに、サニーへ一歩詰め寄った。
「でも、だからってあの子が、私に敵うとあなた本気で思う? 私にはお母さんだってついてるし、かつての地人達の王、オゾンの魂もある。あの子に聖女スノウの魂が味方したからって、私との力の差が埋まるものだってあなたは想定するの?」
何か言われる前にサニーは先手を打ち、自分の絶対的な自信を肯定する。仮にこの仮説が真であっても、いずれにしたってファインなど恐るるに足らずと言う態度は、彼女を抹殺せずに見逃した自分の判断を、間違ってなんかいないと説くためのものだ。
「ならば例えばだが、私とお前が本気で戦えば、どちらが勝つと思う?」
「何よそれ……」
「アトモスとオゾンの魂を得たお前と、アストラの魂を味方にする私、どちらが勝つかと聞いている。実現させるつもりは一切ない、だがそうなった場合、どちらが勝つのかを想像してみろ」
「……立場上、私が勝つわよって言うに決まってるでしょうが」
「お前、対話も出来んのか」
「っ……もう! わかるわけないでしょ、そんなの! 実際あなたは強いし、もしもそんなことが起こったら、勝負事なんてどうなるかなんてわからないじゃない!」
「わからんのだろうが。私との戦いがあれば、自分が勝つと100パーセント言い切れぬお前が、聖女スノウの魂を得たファインと戦って、必ず勝てると断言する根拠はどこにある」
「……別に傲慢ぶちかますつもりもないけどさ。あなたの中で、私の強さってそんなに信頼できないの? 私、天界王にだって勝ってるのよ」
「平和ボケした血脈頼りの老いた王に勝ったぐらいで何の自慢になる。あんなもの全盛期のアトモスや、アストラの魂を借りぬ私でも簡単に叩きのめせる相手だろうが。あいつが長らく誰にも倒されなかったのは、あれを仇為す者達が立ち入れぬ天界に、争い事とは無縁の高所にいたからに過ぎん」
「い、言うわね……ごめん、ここ笑うとこじゃないんだろうけど……」
「お前だって天界王との戦いで、オゾンとアトモスの魂の両方を頼ったか? せいぜい片方だろう。お前が本気すら出さずに倒せた相手と、私に比肩する実力者であったアストラを打ち倒したファインを、同列に考えて強さの基準に使うこと自体がナンセンスだと言うんだよ」
サニーも思わず苦笑してしまったのは、天人達にとっての神様同然だった天界王フロンの実力を、容赦なくカラザがぼろかす言うからである。確かに言ってることにも説得力はあるし、ここまで言うんだったら実際そうなんだろうけど、せっかくそれに打ち勝って今の地位に就いたサニーからすれば、空気とは違うおかしな笑いもちょっと溢れるというものだ。不快感はないけれど。
「あいつはお前と違って、魂の力など借りずとも、素から天と地の魔術が使える少女だぞ。それも、単にそうだと言うだけでなく、使い手としての実力がそもそも桁外れだ。お前も知っているはずだがな」
「…………」
「それが、聖女スノウという術士の魂まで獲得したのだとすれば、脅威以外の何者でもあるまい。お前は、自分の地位を脅かし得る存在だとそれを認識せず、みすみす見逃した自分を短慮だと改める余地も無いのか」
お説教な流れになってきたのは、箴言する口が厳しい性格だからではあるまい。ここまでサニーがあれこれ言い訳し続けてきたからだ。間違いを正すために説得しているのに、あやこや言い訳しまくっていると、咎める側はどんどん物言いが辛辣になってくるものである。ただそれだけの話。
「……あのさ、カラザ」
「何だ」
「私の気持ち、わからない?」
みなまで言わせるな、というサニーの言葉の意味は、カラザにだって勿論わかる。言われる前からわかっている。サニーが本音では、ファインを殺したくなんかないと思っていることぐらい。そうでなければ、聖女スノウの魂を得たファイン、という可能性まで一度考えておきながら、彼女を見逃したことに説明がつくまい。
だいたいそもそも、過去の一度目のクライメントシティ騒乱の際といい、マナフ山岳での分断行動作戦の時といい、サニーはファインの命は奪わないでとカラザに念押ししていたぐらいである。縁を切り、道の交わらない元親友だと割り切っても、だったら私と対立する以上消えてもらいましょうとまで決断するには、長年の友情が邪魔なのだ。
天人優位の思想に対し、それを変えてやるんだと決意してクライメント神殿の養子となってから、サニーの周囲には常に、年の近い天人がいた。天人こそが至高だという思想を与えられて育つ、サニーとは性格の合わない奴だらけである。そんなサニーにとって、唯一、腹を割って話せる相手であったファインという少女は、接近したきっかけこそ打算であれ、初めて出会えた年の近い"友達"に違いあるまい。
その殺害を躊躇うサニーの気持ちは、カラザにだってわかっている。わかっていても、その逆を提案しに来たカラザだから、わかるよという言葉を発さず、主張の続きを述べ連ねる。
「お前は、今の地位から蹴落とされることあらば、どれほどの混沌を生み出すかが想像できないのか」
「……ちょっとそれは、馬鹿にしすぎ」
「わかるなら、脅威となり得る存在を抹消することが、いかに重要であるかは理解できるな?」
「…………」
「今この世界で、お前に刃向かい得る人物の中、唯一脅威たり得る少女だぞ。私の主張は、誤りか?」
サニーは額に掌を当ててうつむき、観念したように首を振る。反論する言葉が無いのだ。ファインを始末するのが最善だと、理論攻めしてくるカラザの言葉の前、返事より先にサニーは大きく溜め息をついた。
「……わかったわよ、反省する。あの子を見逃した私の判断は、浅いものだったって戒めるわ」
「出兵するぞ。許可は貰えるな?」
「……好きになさい。好きなだけ、連れて行っていいから」
うむ、とうなずいたカラザが背を向け、謁見の間を退出する。サニーは顔を上げられない。伏せた顔こそ無表情であったものの、胸の内でどくどくと打つ心臓の鼓動が、心地よくないものであったのは言うまでもない。
"アトモスの遺志"と呼ばれた革命組織は、勢力としての強さを今でも保っている。その総力を挙げてでも、カラザが先陣を切って率い、ファインの命を摘み取ろうとしている。かつての親友であったファインの行く末が、間もなき人生の終わりであることを悟らざるを得ないサニーにとって、気持ちよく歓迎できる状況ではない。
ファインを消すことは、自らの揺るがぬ覇権を磐石にするために必要なことなのだろうけど。でも。
「……執政者って、本当つまんないわ」
夢を追う旅路は、楽しいことばかりじゃない。嫌なことだってしなきゃいけないこともある。政に携わる以上は尚更だろう。サニーだって、あらかじめわかった上でこの場所まで上り詰めてきた。つらいことがあったって、弱音を吐かないようにしようと覚悟も決めていたつもりだったのだ。
誰も見ていない、一人の時ぐらいはそんな弱音が出てもいいものだ。それでも、強固に、強い執政者であろうと決意していた少女が、この地位に就いて間もないこの日に泣き言を漏らしたのは、それだけこの現実が彼女にとって笑えないものだったからである。
これが、今から半日近く前、昼の天界での出来事だ。
「情報は、確かだったのか?」
「いや、その、間違いないはずなんすよ……! 念のため、他の目撃情報とも照らし合わせたんですが、どこからの情報もここに集束してるわけですし……!」
「ふむ……?」
話は今、真夜中の宿。ファインとクラウドが泊まりに選んだという宿に立ち入り、済まないがこういう二人を探している、と宿の主人と女将に尋ねたカラザだが、どうにもファインらが見つからない。そもそも、宿の主人が、そんな二人は知りませんねぇと答えた時点で、おかしいなとは思っていたのだが。
結局、今の天界の王の意向だという方便まで用いて、この宿を家捜しさせて貰う形にまでごり押ししたカラザ達だが、結局ファイン達は本当にいないのだ。二人がここに来たはずだと、目撃情報を集めてカラザを導いた部下も、こんなはずではと焦っている。ホウライの都を焼け野原にした、お強い指揮官様を相手に、誤報の末に時間の浪費をさせてしまった可能性を考えれば、無性に怖いというものだ。
「部下の証言に嘘がないのだとすれば……」
家捜し、この宿でのファイン探しを諦めたカラザは、宿の主人の元へと歩いてくる。この日の夕食時、食欲のなかったファインに、夜中に腹が減ったら言いに来い、夜食を作ってやるからなと約束してたご主人は、少々の酒を嗜みながら元気な目で起きていたのである。
「お前、匿ったな?」
「何を仰ってるのか理解しかねますがね。そんな二人はここに来ちゃいねえって言ってんですよ」
これだけの兵を率いて押しかけてきた指揮官カラザに、嘘をついて追い返すことも厭わない主人の肝っ玉には、カラザも苦笑せずにはいられなかった。お前ら、殺されても文句の言えない立場なのはわかっているんだろうなと。
実はこの数分前に、カラザの部下がこの宿にも来ていたのである。こういう二人を探している、この宿に泊まってはいないかと、真夜中ゆえに探し所を絞った判断だ。いい所に目をつけた方である。
勘のいいこの主人は、訪れた追っ手に対し、ファイン達を探しているのだとわかっていながら、回答は先送りにしてまず事情を尋ねた。聞いてみれば、今の天界の王がファイン達を探し、粛清したがっているという旨の話。かいつままれた説明ではあったものの、ファイン達がこの者達に捕まれば、命が危ないという所までは、新しすぎる事情に疎い主人も察することが出来たのだ。
汲んだ主人は一瞬迷いこそしたものの、うちの宿には来ていませんねぇと返答した。明日になったら商売仲間にも声をかけて探してみますと、協力的な態度すら演じてである。
そうしてファインを探すカラザの部下を追い返した後、彼がすぐさま向かったのは女将が休んでいる居間。事情を夫婦間で話し合い、二人が結論を出すのも早いのだから、長年連れ添ったらしいこの夫婦、太い肝まで含めて気の合いようが半端無い。ファインを探す者達の身柄を思えば、それを騙すことがどれほどハイリスクなことかもさえ、ちゃんと理解した上で次の行動に移るのだから。
主人と女将は、その後すぐにファインとクラウドの寝室へと向かった。疲れているであろう二人を優しく起こし、事情を説明してくれたのだ。命を狙われている事実を知ったファインとクラウドの絶句ぶりはさておき、事態は急、とにかく急いで逃げろと言ってくれるこの夫妻は、優しく二人を見送ろうとしてくれていた。
カーテンを破いて窓を開き、二階だがここからこっそり行けと、ねじって紐にしたカーテンを足がかりにしようとしてくれた行動といい、ファインもクラウドも人の優しさがここまで胸に沁みたことは無い。そんなものが無くたって、二階からでも三階からでも怪我無く外に飛び降りられる二人だと知らず、店の私財を駄目にしてまで逃げろといってくれる夫妻に、二人は何度も礼を言って宿から脱出したのである。
二人を送り出した宿屋の夫妻は、今日が命日かなと笑い合っていた。自分達は間違ったことなどしていない、悪人ではない少年少女を、生ある世界に逃れさせた自分達の行動を誇り、最後の晩酌を行っていた所に、ようやくカラザ達が駆けつけて今に至っているというわけだ。
「宿帳を覗いても構わんか?」
「ええ、どうぞ。破いちまったページもありますが、あれは誤字が酷すぎたんで破いたもんですので、気にしないで下さると助かりますや」
こんなもの、白状したも同然である。ファイン達を一度受け入れ、そのくせそれをカラザ達には隠し、ファインらの名を書いた宿帳のページも破り捨てた主人の少し前の姿が、今の言いっぷりから想像できるというものだ。酒瓶を片手にふんぞり返り、な、と女将に話しかける宿の主人に、少し怯えつつも小さくうなずいた女将も、腹を決めている証拠である。
「天界を統べる王が、粛清すべき者を探していて、その目的のために派兵されたのが我々だ。そんな私達に子供のような嘘をついて、粛清対象を匿うその態度、どうされても文句は言えぬ立場だとわかっているのだろうな」
「信じて貰えぬなら、それも結構。俺達は、裁かれる謂れもない善良な市民ですぜ。それをあんた達が裁こうって言うんなら、今の新しい王さんはそういう人物だと思い知って、こんな世界とはおさらばしてやりますよ」
「ふふ……そうか。ならば、躊躇う必要もないな」
嗜虐的な笑みを浮かべ、杖を握る手を動かしたカラザの前、宿の主人は腰掛けたまま不動の眼差しを返していた。戦人に限らず、日々を強く生きてきた大人の目は強いものだ。そんな瞳に確かな輝きを感じつつ、カラザは新王の使いとして適切な判断を、この直後に下して去っていくのだった。
「ファイン、しっかりつかまってろよ……!」
「はい……っ……!」
村を逃れたクラウドが、巨獣としての姿に変わって野を駆ける。月が高く昇った草原を駆け抜け、野生動物を驚かせ、風のように突き抜ける。彼の背中にしがみつくファインの手が、今の現実にままならぬ感情を溢れさせたかのように震えていても、意に留めずに走り抜けていくクラウドの脚は衰えない。
カラザが迫っている。カラザの率いる連中が迫っている。どれほどの奴らが自分達を追ってきているのだろう。追手の中にはどんな奴が混ざっているのだろう。ミスティは、セシュレスは、ニンバスらは、ザームは、ネブラは、ドラウトはいるのだろうか。どれほどの兵力が、たった一人の少女を捕まえるために動いているのだろうか。情報の無いクラウドは、考え得る中での最悪を想定すればするほどに、少しでも遠くに、少しでも速く行こうと駆け足が全力になる。
いったい、どこに逃げればいいのだろう。一番近くで思いつくのはクライメントシティだ。かつて革命軍の侵略で荒らされ、再占拠するのも連中にとっては容易であろうそんな場所へ? レインも待っているのに、またもそこへとファインを追う連中を招き込み、街を戦火に包み込む可能性を生む?
近隣の人里で、カラザ達の息のかかっていない町村はあるのか。革命軍と呼ばれた組織の動員力と、手の広さはかつてレインを包囲した陣からも明らかだ。どこに行っても、必ずカラザ達の監視の目には捕まるだろう。それは、今や最も危険と想定される、クライメントシティに限ったことではない。
逃げなくてはならない現状。行く場所がない現実。足を止めずに走り続けるクラウドだが、その実四本の脚が向かう目的地はなく、ただただあてもなく凄まじいスピードで平原を駆ける巨獣の姿があるのみだ。
「なんなんだよ、ちくしょう……! なんで、こんなことばっかり……!」
苦境に対する泣き言ではない。次々にファインを襲う災厄に、クラウドは運命とやらを呪わずにいられなかった。背中の上で震えるファインの姿を再認識するたび、大切な人が怯える毎日がまたも始まる今夜を、ただただクラウドは憤りと共に受け入れることしか出来ないのだ。
レインを自らの意志で助けることを選んだかつてとは違う。他者の勝手な都合だけで追っ手が動く、逃亡生活の始まりだ。今となってはそんな過酷な現実が、前後に無情に広がっているばかりである。




