第242話 ~手の届かない親友との再会~
天界の光景は、輝かしいの一言に尽きる。霧のように足元を包む雲の層、まるでその上に人が立てるかのようなこの天界は、空高くにあろうはずなのに大気に満ちていて、お日様はさらにその上から人々を照らしてくれる。
ファインは昔、好奇心からどこまで行けるかと、すごく高い場所まで翼を広げて舞い上がってみたことがあるが、超高空はなかなかに厳しい環境だ。異様に寒くなり、息苦しく、体が不快にむずむずするのである。ここ天界は遥か高くにあるはずなのに、自分がかつて辿り着いた超高空のような苦しさは無く、天界に立ったファインはつくづく、天界とは不思議な場所だと感じている。
物理的な高所ではなく、現世から隔絶された、空高くの空間に作られた独立世界。天界とは、異界と言い表しても間違いではない空間である。ファインも薄々、そんなイメージを既に掴み始めている。
「……よしっ」
きょろきょろと周りを見渡したり、手をむすんで開いてして体が動かしやすいかを確かめたり、それも短時間の話。誰に会いにきたのか、その相手の顔を改めて脳裏に思い返し、ファインは天界に大きく居座る、真っ白な神殿の中へと入っていく。
「待っていたよ」
「あ……」
神殿の入り口をくぐった時、ファインを迎えてくれた人物は、かつて死闘を繰り広げた相手だった。以前対面した時よりも腰を曲げ、老いた体がそれ以上に痛むことを示唆するように、背筋を伸ばして立てない黒の紳士服の老人を目にして、ファインも足が止まってしまう。
シルクハットを取り、禿頭を晒して一礼する老人セシュレスの行動に、ファインもおずおずと一礼する。不思議と、敵意をあらわにしないセシュレスのことは、ファインも怖いとは感じない。一度殺し合いを演じ、手ひどく痛めつけられた相手なのは確かなのに。
その戦前、一度しっかりと対話を交わしたおかげか、ファインはどうもセシュレスのことは、単なる恐ろしき強さの術士としてではなく、敬意を払える老公という認識であるようだ。ファインの価値観で言えば、ミスティの方がよっぽど怖い、というかあれが世界で一番誰よりも怖い。
「サニーに会いに来たのだな?」
「……はい」
「この神殿は広い。彼女のもとまで、案内しよう」
ファインはかつて、天界王フロンに謁見する形でこの天界を訪れ、王の間まで一度行ったことがある。その古い記憶だけを頼りに、今はサニーが座るであろう玉座まで迷わず向かうのは難しいだろう。セシュレスが案内役を買って出てくれたのは、ファインにとっては悪くない話である。
若いファインの歩く速さにも気を遣わせないようにか、決して若くない体、ましてクライメント神殿での戦いでの傷癒えぬ体でありながら、セシュレスはすたすたと進んでいく。ネブラとは異なり、ちゃんと時々ファインがついてきているのかを、ちらちらと確認しながらだ。
ファインも一度は命のやりとりをした相手、セシュレスには少し近寄り難く、離れた後方を歩く形でついていっていたのだが、そういう態度を見せられると次第に距離も縮めてしまう。セシュレスの歩く速度とほぼ同じ速さ、3歩ぶん接近すればセシュレスと同じ場所に立てる距離感で、ファインは案内人に追従する。
「あの……セシュレスさん」
「ん?」
「その……お苦しいようでしたら、ゆっくりでも……」
「……ふふっ」
確かに、若者に合わせる速さで歩いていて、少し普段より息が上がったかなとは思わされた。年も年、体力自体は若者にも負けないセシュレスだが、消耗した体の回復は、流石に若者よりも遅いのだ。クライメント神殿にてクラウドと交戦し、かなり使いこんだ体の疲労と傷が癒えぬ中、無理をするものではないなと思わされる。
「お言葉に甘えるよ。若い君には焦れる速さかもしれないが、ご容赦頂ければ幸いだ」
「いいえ、そんな。……無理を、しないで下さいね」
振り返って朗らかに笑うセシュレスに、ファインも恭しい笑顔を返す。まるで、祖父と孫のように。血の繋がりなど決して無い、そんな二人がそんな空気を醸し出せるほどには、ファインとセシュレスは互いに敬意を払い合っている。
もっと違う形で出会いたかった、なんて双方が思い合ったのは過去のことだ。とうに二人は、戦場以外で顔を合わせるのであれば、互いを憎み合わず、尊重し合って接し会える間柄である。若さを肯定し受け入れるセシュレスと、人生の先輩を敬えるファインという二人の性格は、それだけ相性がいいのだろう。
「天界って今、どうなってるんですか……?」
「人払いを済ませているからな。今、この天界にいるのは、ごく少数の革命軍に属していた者達だけだよ」
広い天界の神殿内、王宮への長い道のりの中、すれ違う人が殆どいない。以前もそう多い人の往来があったわけではないのだが、今日はぱったりゼロに近いのだ。思わずそうした光景が気になったのか、問いかけてきたファインの言葉に、いつの間にか彼女と横並びになって歩いているセシュレスも、振り向いて答えてくれた。
「天界王や、天人思想の息がかかった者と、今の時勢で共に住むわけにもいかんのだよ。食事ひとつとっても、良くないものを盛られてはかなわないからな。信頼できる、革命軍の同志達を数名こちらに招き、召使いとしての仕事をして貰っている」
「天界に、元々いた人達は……?」
「下界、つまり天界都市カエリスへと丁重にお送りした。元より居住権の獲得にも、いちいち手続きの要る面倒な都だからな。いたずらに上等な、大きな空き家が余っていたことが、彼らにとっての幸いとも言えるだろう」
意外と天界都市カエリスは、人口がそんなに多くないのである。その割には、天界住まいの天界兵などの実家を含め、使われていない屋敷や家屋が多く、天界の者達を追放しても、彼らが屋根を失うことはなかったそうだ。こんな立派な神殿で、優雅に暮らしていた人々が、野宿なんかを強いられて心は大丈夫なんだろうか、と、心配というか想像してしまっていたファインにとっては、なんとなく微笑ましい程度のエピソードである。
「もっとも、そんな使われもしない家の数々が、天界都市には溢れ返っていたことの方が問題だがね」
「どういうことですか?」
「使われもしない家の数々が、どこの誰の金で作られたのかということだよ」
胸糞の悪くなるような話でありながら、老いたセシュレスには社会にありがちな理不尽な現実にも慣れているのか、皮肉的な笑みとともにそう言うだけだ。
地人や混血種から、重く大きく取り立てた税により、天界都市カエリスは幾重にも自己満足的な発展と様変わりを繰り返してきた。その結果、使われもしない家屋や建造物が残っているという話。使わなくなったものは、定期的にまっさら平地に一掃され、天界都市全体は常に均整の取れた全体像を更新するのだが、そんなことに庶民から搾取したお金を使って、砂山作って崩す遊びみたいなことを、地でやっているのが天界都市なのである。
「下界に戻っても、あまりこういう話は周りにしないでくれよ。自分達の税が、そんなふうに使われていると、改めて聞かされた者達が腹を立てるからな。それでまた、暴動のようなことが起こっては、君も嫌だろう?」
「そう、ですね……」
「もっとも、今は我々もそうした余剰施設を利用させて貰っているから、あまり辛辣なことを言うのは控えるべきだがね。天界都市入りした部下に、屋根を貸せる状況というのは、こちらもありがたいと思っているからな」
そういえば天界都市カエリスには、数多くの革命軍残党が今は見張りに回っているそうだが、どこで夜を過ごしているのだろうという疑問が、偶然ここで解決される。使われていない天界都市の施設を利用させて貰っているということのようだ。天人達の裕福な暮らしのために作られた天界都市の無人家が、今や侵略者の住まう宿になっているとは、なんとも皮肉な話である。
ゆったりとした老人の足取りに合わせ、神殿の奥へと進んでいく中で、セシュレスはファインに沈黙の間を与えぬよう、いくつも話を聞かせてくれた。今の天人社会が、どのようにして構成されているか、銭の流れや偏りはどのように形成されているか、その結果、アボハワ地方のような天人不在の地が未だに荒れ果てたままである根拠など。あくまでそれは話のきっかけに過ぎず、彼の流暢な語り口に乗り、話は本題に移っていく。
「この世界を構成するのは、天人だけでなく地人や混血種もそう。逆も然り、地人や混血種だけでなく、天人だってそうだ。この世界は、どちらが欠けても、正しく回っていくことは出来ないようになっている」
「…………」
「革命が成就したからと言って、私達は今まで至福を貪ってきた天人達めと、それを目の敵にして仕返しを目論むような執政はしないつもりだ。もっとも、双方が平等に近付けば近付くほどに、今までの天人達の暮らしよりは水準が下がるであろうし、相対的に得る貧しさを天人達は復讐と捉えるかもしれぬがな」
世直しの難しさは、セシュレスが一番よく理解している。かつて一介の豪商であった時から、若い衆を率いる中規模の長であった頃から、数多くの人を幸せにする策の施行は難しいものだった。今や天人と地人、混血種のすべての幸せを追い求めるべき執政者の立場となったセシュレスが、いかにその難しさを知りつつ、解決に向けて動いているのかが、静かながらも芯の通った声によく表れている。
「私ももう老いた。生きているうちに、みなが満足する新たなる世界に到達できぬことは受け入れている。百歳まで生きることが許されるなら、諦めずに追いかけてみたいがね」
「セシュレスさん……」
「たとえどんな未来がこの先にあろうと、それを切り拓くのは真の意味では私達ではない。未来ある若者、君達だ。私は君達よりも多くのことを知り、経験してきたが、それを活かすにはもう時間が多く残されていない」
年をとれば、戦場にいなくとも死を意識することが多くなるのだろうか。敬える大人がそうした言葉を口にすることに、ファインは無性に寂しさを覚える。大好きなお婆ちゃんは自分よりも先に行ってしまう、それが正しい順番。過去にはセシュレス自身が、彼の祖父や祖母、父や母の先立つ姿を見送ってきたであろうように。
「君達はもう、命を粗末にすることに慣れているようだからな。それが、本当に正しい生き方か、世界が君達に早世を望んでいるのかどうか、機会があれば一度はよく考えてみて欲しいと思っている」
「…………」
戦いの中でなくても、人は多くのことを叶えることが出来る。戦場に舞い込む日々のずっと前、幼き頃のサニーの存在が、ただそれだけでファインにとっては救いだったように。クラウドがそばにいてくれるだけで、ファインの心は安らいでいたように。スノウとの血の繋がりは、その人が世界のどこかにいてくれるというだけで、心のどこかで支えをもたらしてくれていたように。
今となっては、今だからこそ、よくわかる。
セシュレスの言葉の数々は、どれもこれもがファインにとっては重かった。生き物は、本能的に死を恐れる。ならば生とはなんだろう。ただ生きているだけで、それは何かの意味を持ち得るということなのだろうか。
あると信じる大人こそが、人に生きろと諭すのだろう。70年近くの生涯で、そうした答えを掴んでファインに説くセシュレスの声は、自分の存在を軽んじがちな少女の胸によく響いた。
「さあ、行っておいで。彼女は、この先で待っている」
「ありがとうございます、セシュレスさん」
神殿の中心部への入り口、広大で平坦な空間への門を開いたセシュレスに礼を述べたファインが、広い空間を真っ直ぐに歩いていく。この先に、サニーがいるという宮がある。どきどきと、良くも悪くも高鳴る胸に手を当て、前を向いてファインが歩いていく。霞むような前方に、大きな建物が見えてくる。
天界の中心、天界王の庭と呼ばれる平坦空間の中心に立てられた、王だけが住まう宮。たった一人の特等席のためだけに作られた建造物は相変わらず大きく、それはその中で玉座に座る人物が、どれほど特別な存在であるのかを強調するかのようだ。
たったひとつ年上なだけの親友が、今はそんな特別な存在になっている。そう思うたび、喉の奥がぎゅうっと締め付けられる心地を覚えつつ、ファインは宮の中へと歩んでいく。絨毯敷きの床を歩き、謁見の間へと、その足取りは真っ直ぐだ。
そして。
「入ってきてよ、ファイン」
「…………!」
謁見の間の入り口、扉の前で一度立ち止まったファインへと、その扉の向こうから発された声。耳にしただけで、何度も何度も過去に聞いたはずの声が、こんなにも耳の奥に沁み入ってくる。たった数日会わなかっただけのはず、なのにまるで、数年来の再会を前にしたような心地だ。
「ぁ……」
「おいで」
扉を開いてずっと前方、広い謁見の間の果て。大きな玉座が体に余る少女は、王族の気品とは無縁の姿勢、股の間に両手を置いて座っていた。そして、ファインを呼びかけると同時に玉座から腰を上げ、両手を広げて言葉どおりの態度を示すのだ。
ファインが思わず足早に、サニーの方へと吸い込まれるように近づいていくのは、もはや彼女の意志を介していない。サニーの言葉、姿、それらすべてが、ファインの体を彼女の意志とは無関係に操っているに近い。
「っ……サニー」
「どうしたの?」
「…………」
踏み止まる。別れた経緯、裏切りの過去、それらが最後の最後でファインを制止し、あと数歩近付けばサニーに触れられる距離で、ファインはその足を止めた。自分よりも高い立ち位置のサニーを、えも言われぬ顔で見上げるファインの態度に、まるでそ知らぬかのようにサニーは問いかけている。
「会いたかったんだよ? ファイン」
「や……えぇと……」
「私はなんにも、変わってない」
「嘘……」
「嘘じゃない」
「ぁ……」
柔らかい微笑み、作り笑顔とは到底無縁の、心の底から親友との再会を喜ぶ表情で、サニーが近づいてくる。思わず一歩、二歩と退くファインだが、彼女がたじろぐようにゆっくりと、一歩退がる間にサニーは、普通の足で三歩は接近している。用意していた言葉も、サニーとの再会で吹き飛び、頭が真っ白になっていたファインを、正面から近付いたサニーが、両手を回して抱きしめる結果がすぐに訪れる。
「私は今でも、あなたのこと大好きだよ」
「う……うぅ……」
「信じられない?」
「だ、だって……でもっ……」
「それでもこれが、私の本音だよ。お願い、信じて」
ぎゅっと前から自分を抱きしめ、耳元で切なる声により懇願するようなサニーが、ファインの心をあっさりとかき乱す。クライメント神殿での残酷な離別、あなたは私の敵だとはっきりと言われたショック、それすらも上書きする、親友のぬくもり。サニーの体に両方の掌を当て、押して離れる抵抗に移りかけていたはずのファインが、その力を発揮できずに触れ合うだけになっている。
もう、ファインの頭ははたらいていなかった。言いたいことは山ほどあった、批難する口だって持っていた、なのにその両腕をサニーの脇の下からくぐらせ、上に曲げる形でサニーを抱き寄せる体が動いている。
もはや、魂にまで刻み付けられた、逆らえない親友への愛の衝動と言ってもいい。サニーにこうして、偽物でない愛を向けられた時、ファインはそれに抵抗することが出来ない心と体になっている。幼い頃からの付き合いで浸透させられた、抗いようのないほどの毒に近い。
「……ふふっ♪ ファイン、ありがとう」
「んっ、く……ううぅ……」
理性と、本心と、自制心を崩壊させる楔の痛みで、ファインの表情は意志力の奪われた単なる女の子の惑う顔。あれだけのことを言われて、されても、サニーのことはどうしても敵視することが出来ない。それじゃ駄目なんだって、頭の中ではわかっているはずなのに。自分の弱さ、臆病さを突きつけられ、逃げられず、それでもサニーを抱き返す腕から力が抜けない、そんな時間が流れるだけで、ファインの心は憔悴していく一方だ。
確かに、ファインとの再会そのものは純粋に喜んでいたサニー。しかし彼女がファインを抱きしめる中、相手の顔の横、ファインから見えない場所で、くふっと別の感情からくる笑みを浮かべていた。そんなことにファインは気付く暇もなければ、あるいは気付き得る意識すら保てていない。ただただ、サニーに抱きしめられる力によって、がつんと言いにきたはずの少女の心は既に屈服させられていたのである。
「どう? 美味しい? ファイン」
「……うん」
二人は部屋を移し、王の住まう宮のうち、夕食を取る無駄に大きな部屋にいた。十数人で会食が出来そうな広い部屋に、本来あったはずの巨大な卓は取っ払われ、広大な部屋に核家族にちょうどいい大きさのテーブルが代わりに置かれているこの空間。見るからにアンバランスな、王様専用の夕食部屋である。
天界王フロンは毎日この部屋で贅沢な三食を嗜んでいたようだが、サニーは真逆で節制家。今の立場になったからって、いいものたくさん食べたいなっていう発想にはならないらしく、下界から取り寄せた庶民的な食材で料理を作って貰い、それをここ数日は食しているようだ。中くらいの旅館で出てくるような料理なので、それでも普段のサニーやファインの暮らしからすれば、贅沢寄りではあるけれど。
「普段はこんな選りすぐったようなもの、用意したりはしないんだけどね。ファインが来るのはわかってたから、来てくれたらいっぱい歓迎したくて、そのぶんだけ用意してたのよ」
「…………」
「ファイン、昔っからパエリア好きだったもんね。喜んでくれてるなら、嬉しいな」
サニーは普段、夕食の献立に介入せず、調理場の大人に好きなもの適当に作ってと頼んでいるらしい。今日に限って献立が、ファインの好きな食べ物にされているのは、今日だけサニーがそうして欲しいと調理場に頼んだからである。
幼少の頃からファインと一緒に育ってきたサニーだから、ファインの好物は知っている。そして、今の自分にファインが会いに来るような、行動力を持った女の子であることも知っている。あらかじめファイン好みの料理が作れるよう食材を用意していたことといい、ネブラやセシュレスに案内役を頼んであったことといい、ファインの行動をサニーが、完全に先読み出来ていたことを証明する事実は非常に多い。
掌の上。そんな言葉がよく似合う。今のファインは、別の意味で心が折れそうだ。自分のやることなすこと全てを見透かされ、しかも親友が、会いたかったと言ってくれて、自分の好物を用意してくれて、そのことを胸の奥で悦びに感じている自分がいる。何をしに来たかわかってるの、と、自分に言い聞かせなきゃいけないのに。あれだけ色々追及したかったはずの自分が、サニーと会っての短時間でだらしなく溶かされ、したかったはずの話も出来ずにいる。
こうなると、いっそうなかなか立て直せない。昔からファインは、サニーには敵わないなぁと尊敬いっぱいの目で彼女を見上げてきたものだが、同じ単語が頭をよぎりそうになる。敵わない、の意味が違う。ぶつかり合わなきゃいけないはずなのに、相手に頭を撫でてもらえると嬉しい精神状況ではどうしようもない。
「フェアさんのクリームパスタ、美味しかったなぁ。また三人で、一緒に食べられたらいいなって思うんだけど」
「…………」
「私も忙しいし、いつまでも懐かしんでちゃダメなんだろうな」
「っ……」
だから、こんな何気なく言ったような言葉にも、ずきりと胸が痛む。今のサニーは、完全にファインと違う立場にいることを自覚しているのが、今の言葉からも明らかだ。ファインとフェアと、三人で夕食を囲んだ幼少期の頃に、もう戻れないと言っているのはそういうことである。
狡猾と言ってもいいほどサニーの言い回しが計算されているのは、ファインとはもう手を繋げない間柄になったことを示唆しつつ、それを寂しがるような言い回しを使っていること。サニーと離れ離れになってつらいのは、ファインだってそうなのだ。もうサニーとは近付き合えない、そう覚悟していたはずのファインに、サニーがそう思ってくれてるならもしかしたら……という、あり得ない希望すら沸いてくる。
無いことは頭で理解できる。心が求めてしまう。思考回路が正しく機能しなくなる。サニーはファインの性格や価値観を、他の誰よりも知っている。そんな彼女が選んで紡いだ、態度と言葉の数々が、容赦なくファインの心をかき乱す。
「……ねぇ、サニー」
「ん?」
「サニーは、その……これから、どうしていくつもりなの?」
もう、ファインは耐えられなくなっていた。サニーのペースに呑み込まれていては、彼女が話せば話すだけ、自我を発揮できなくなる自覚があったのだ。今の話とは違う、過去やらに触れない方向に話を持っていきたくて、これからの、未来にまつわる話への問いかけに逃げようとする。
「う~ん、細かいところまでは決めかねてる部分も多いんだけどね。今の方針としては――」
サニーは元より饒舌だ。ファインの問いに対し、色々な話を語ってくれた。税収が多すぎる天界の在り方そのものを見直したいこと、食事含めて自分が節制を心がけているのもその一貫であること、それによって浮かせたお金の使い道など。セシュレスが語ってくれたように、今までの天人と地人の経済的格差を埋めていくためには、いくつか政策的な過程が必要であるらしく、そのためにはお金が必要だということも説明の一つ。天界の宝物庫にある、貴金属や芸術品の数々は売り物になるし、それも使えそうだという話もしてくれた。
何も、ファインの頭には入らなかったけど。サニーは比較的わかりやすく話してくれたし、平常時のファインの頭なら、するりと理解できたような話だ。今のファインは、普通にわかるはずの話がわかれないほど、頭の中が停滞している。
「まだまだ課題も多いし、実行して初めて見えてくることも多いでしょうから、考えなきゃいけないことがいっぱいあるのよ。でも、頑張っていきたいなって思ってるの」
「…………」
「……あれ? わ、私の説明、わかりづらかった?」
終始無言のファインが、サニーの言葉の魔力にがんじがらめに縛り上げられた脳内であり、なんとかそれを足掻いて振りほどこうと努めて口を絞っていることも、サニーは勿論わかっている。そういうふうにしてやろうと、自分の言動を構築してきたのだから当然だ。そのくせ、浮かない顔をしているファインを見る立場として、すっとぼけて己の至らなさを不安視するかのような口ぶりは、もはや女狐の口八丁とさえ例えられよう。
「さ……サニーは、さ……」
「うん」
「……そういう自分のこと、好きになれそうなの?」
強攻策。話の筋もやや強引に、言いたかったことへと繋げていくよう、ファインはそのための言葉を選んだ。それでも遠回し、少々の回り道を経て本題へと繋ぐ語り口だ。攻めきれない。
「まだ、わかんないよ。今の私は、客観的に見て、王様みたいな立場なんだろうね。正直私は、そんな自分なんて、似合わないと思うし柄じゃないと思う」
「じゃあ……」
「でもね」
本当に、一瞬期待を持たせるようなことを言っておきながら、即座にそれを撤回する流れで、ファインの心を揺さぶるのがサニーは上手い。サニーが今の地位に就くまでに、どんなことをしてきたのか。その果て、今の地位に就いたサニーが、今の自分を誇るのは難しいと言ってくれるのを、ファインは心のどこかではかすかに望んでいたのに。
「私は、誰かが、こうならなきゃいけなかったと思ってる。天人を優遇し、地人や狭間を冷遇して、迫害する王様とは違う誰かが、世界を動かし変えていかなきゃ、ずっと間違った社会が続いていくんだもの。それがやっと叶えられた今の自分に対してなら、私も胸を張ることが出来る」
革命を叶えた達成感を表す言葉の羅列は、ここまでの道のりで自分がやってきたことを肯定するのとほぼ同義。ファインと道を違えたことも、あるいは自分の真の立場を隠し続けていたことも、すべて今の叶った夢のためには必要なことで、正しいことだったと言うかのような発言に、ファインは瞳が揺らぐほど胸を締め付けられる。
「今の私は、過去に満足してる。正しい未来を紡げるかどうかに、私自身を問い続けていきたい」
ここまでを誇り、未来に目を向け、過去に囚われたファインを置き去りにして前へ。確固たる意志を眼差しに宿し、そう言い放つサニーの姿は、すぐ目の前にいるはずなのにファインには、もう手の届かないほど遠くに行ってしまったようにさえ見えた。
舌戦の行方を問うならば、もはや勝敗を語る以前の問題だ。サニーはファインが未だ触れられもしない世界に立っていることを証明し、ファインはその遥か後方で、今の己を語ることすら叶えられていない。同じ土俵に立つことすら出来ず、遥か高みから見下ろしてくるサニーを、まるで身動きすら取れずに見上げるばかりのよう。そんなファインにここから逆転する手段など、何一つ残されていなかったのが現実である。
 




