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晴れのちFine!  作者: はれのむらくも
第16章  低気圧【Truth】
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第236話  ~カラザとミスティの話  8年前~



 ところで、サニーがクライメント神殿に連れて行かれて以降、サニーを7歳まで育ててきたヘイルという男はどうしていたのだろう。


 どうやら彼は、ちょっと娘の顔が見たくてクライメントシティまで行くと言い、一人で村を出発した模様。その道中で不幸にも、狼の群れに襲われて無残な姿に変わり果ててしまったらしい。どうも相当にひどい有り様だったらしく、顔の皮は剥がされているわ、体も爪と牙でめちゃくちゃにされており、その亡骸はもはや、服でようやくヘイルの変わり果てた姿だと思えた程度の有り様だったらしい。そんなヘイルの末路はやがてサニーに知らされ、彼女を泣かせてしまうことになるのであった。


 もっとも、ヘイル(カラザのこと)が狼の群れなんぞに殺されるわけがない。サニーを見送った後にしばらくして、ちょっと山に赴いて自分と体格の似た山賊を一人捕まえて、それをヘイルの死体に偽装して放置、そうして"ヘイル"という人物がこの世から消えたことを演出しただけである。

 千年前からそうなのだが、カラザはこうしてその時代ごとに騙ってきた人格を、替え玉の死体を用意することですり替えてここまで来ている。普通に百年以上生きてると、普通の人間じゃないのがバレてしまうし、人間社会に溶け込めないのである。この時代においても、サニーを拾って育ててきたヘイルという人物の名を捨てたカラザは、ひとまずアボハワ地方に移ることにした。


 正直地人である限り、どうしたってクライメント神殿に暮らすサニーの生活に関わることは不可能なのだ。あちらはもう、サニーが一人でなんとか上手くやってくれることを祈るしかないので、何かサニーに対してアクションを起こすことは、カラザもきっぱり諦めた様子。気がかりなのは勿論だが、どうせ何も出来ないと解が出ているなら、割り切ることも必要である。


 戦後間もないアボハワ地方は、革命軍の残党狩りで天人がうろうろしていた時期だったのだが、ここにふらりと混ざり込んだ旅人カラザのことは、天人達の目にも留まらなかった。何せ彼、アトモスが率いていた革命軍とは、全く同じ戦列に並んでいない。旅芸人を営みながら、小金を稼いで荒廃したアボハワ地方を歩くカラザは、うろつく天人様のすぐそばを通りつつも、まさかこいつがやがて天人の覇権を脅かす存在であろうとは、夢にも思わせず溶け込んでいた。


 手品やら紙芝居やら一人芝居やら、千年ぶんの経験からくる多芸ぶりを活かして、カラザはその日その日で衆目から、拍手とおひねりを頂いていく日々。こうして名を馳せていった末に、数年後には名優カラザという立場にまで至り、やがてはクライメントシティに帰るきっかけも自然に掴んでいくわけだ。そのまま、いずれサニーがいい年になる頃には、運が良ければサニーとの接点を設けようという計画であり、実際それはいつか叶っていくのである。











 もっともそれは、まだまだ先の話。サニーから別れて2年ほど経ったカラザは、アボハワ地方を歩く流浪の旅芸人として暮らしながら、ちょっとずつ自らの知名度を稼いでいた。あと数年もすれば、どこかの劇団の門戸でも叩いて、混ぜてもらおうとか考えていた頃である。


「そろそろいい時間か……試してみるとするか」


 ある日の夜、小さな村の宿を出たカラザは、地面に手を当てて地を這う魔力を発した。村全体まで走るこの魔力は、地表を動くものに届けばカラザにその存在を知らせる、広範囲の探知魔力のようなもの。見つけたいもの以外の、動くものをも感知してしまうのは致し方ないが、探しものをする時には非常に便利な地術である。


 近年のアボハワ地方は、戦後間もないこともあって、なかなかに治安が悪い。何せ革命軍が本拠地としていたアボハワ地方だけあって、近代天地大戦終了すぐのこの時期は、戦災によって傷ついた人々が非常に多い。怪我をしたという意味ではなく、住まう村や町を、あるいは職場を失っただとか、家族を亡くしたとかそういう意味でだ。食い扶持に困った人々は数知れず、ならびに野盗に身を落とした者なども、頻繁に出没していた時期である。


 そんな世相の中にあり、この時カラザが留まっていた村には、一つの物騒な話が出回っていた。夜な夜なごみをあさり、残飯目当てで徘徊する子供がいるそうだ。日中はどこかに潜伏し、真夜中にのみ動き出しては、たとえば飲食店の裏のごみ箱をあさっては、散らかして去っていくという迷惑なもの。物盗りの被害こそまだ無いが、現時点でも店裏のごみ箱を荒らされる店主からすれば、翌朝の片付けが大変でたまったものではない。


 しかもこの子供、どうやら術士としての才覚をとうに目覚めさせているらしく、捕まえようと夜中に警備を張った大人達に囲まれた状況から、魔術を行使して逃げ延びてしまったらしい。大人達とて念のため武器を構え、術士すら揃えての夜警だったというのに、それを幼い子供が撃退して逃げてしまうのだからとんでもない。子供ながらにその実力は噂として立ち昇っており、天人様は地人のためなんかに兵力は割いてくれないわで、戦う力に秀でない農村の人々には、野良ガラスより厄介な子供に困らされているという状況だった。


 その話を聞いたカラザとしては、思うところもいくらか。戦災孤児で食い扶持もなく、そういう暮らしを強いられやがて大人に捕まる汚らしい子供の話は多々耳にしているし、そういう類の一つだろうなと予想するのも簡単だ。同時に、大人数人をも傷つけて、ろくに正体も見せずに逃げおおすその子供というのが、何歳なのかは知らぬがたいした術士の卵なのだろうなともわかる。どうやら、捕まえれば村からもいくらか報酬が貰えるという話でもあるそうなので、カラザは暇潰しに小金を稼ごうという魂胆で、当の子供を捜そうとしている。


「ふむ……これが、そうかな?」


 地を走らせた魔力で捉えた、何者かの、幼げな歩幅の反応を受け取ったカラザは、その方向へと歩いていく。夜目が利かないと歩くのも難儀な真夜中の道だが、幸い原種(ジェネシス)蛇種(ナーガ)のカラザは抜群に夜目が利き、程なくしてその足音の主に接近することを叶えていく。


「どうやら当たりのようだな。見つけたぞ」


「…………!?」


 誰も出歩かぬような夜、飲食店の裏で大きなごみ箱をあさり、中身をべちゃべちゃ食いあさっていた子供は、突然自分に向けて発された声に驚いて振り向いた。普通の人なら、その影の形だけがなんとか視認できてようやくの闇夜だが、目のいいカラザにはその子供の顔がはっきりとわかる。


 汚い残飯で口の周りでべたべたにし、一歩たじろぐその子供が、金色の髪の女の子だとはっきりわかった。顔立ちも幼さが目立ち、当てずっぽうで言うなら8歳ぐらいに見える。別れたあの頃のサニーの記憶が頭に残っているせいか、カラザはひとまずその年齢の女の子だと結論付けた。


「とはいえ……お前が本当に、その子供なのかな?」


 マント一枚羽織っただけの旅人姿のカラザが、指先をちょちょいと回して無から発生させた小さな岩石を、少女の膝に向けて発射する。噂どおりの術士たる子供であれば、何らか対処もするだろうとしてだ。もしかしたら、単なる戦災孤児の一人で人違いかもしれないので、確認が必要。


 垢抜けない顔立ちの少女の目がぎりっと鋭くなり、地表からばきりと岩石の小さな壁を発生させて、カラザの放った岩石を防いだ。カラザもほぉ、と声を漏らす。確かにこれは当たり、それも必要最低限の魔力で以って敵の攻撃に対処するという、繊細な魔力の扱いすら既に形にする少女ではないか。確かにこんな子が、本気で魔術を行使するなら、大人でも手を焼くかもなとカラザにも想像することが出来た。


 しかもその少女は、がるると息を荒くして振るったその手から、カラザの顔面めがけて火の玉を即座に放ってくる始末。この容赦のない早さも大したものであり、カラザほどの術士でなければ、一発で顔に爆撃を浴びせられて倒れていただろう。あっさり見切って首を横に傾けたカラザが、極めて無駄なく回避するだけの結果になったが、普通はそんなに簡単にいかぬほど火球は速かったのだ。


「私は、他の村人らのようにはいかぬぞ?」


「ううぅ……!」


 真夜中、少女とカラザの短い戦いが始まった。ゆっくりと余裕満点に近付いてくるカラザに、少女は必死で魔力を振り絞って立ち向かった。






 流石に力の差は歴然であり、息一つ乱さぬままカラザが、あっさりとその女の子を捕縛する結果になった。少女の発した魔術の数々は、いずれもカラザの対抗魔術によって簡単にいなされ、接近したカラザは容赦なく少女の喉を掴んだ。あとは敵の魔力を吸い取る、闇の魔術を少女の体の中に沈み込ませ、魔術を使えぬようにすれば終了。抵抗するすべを失った少女を、地面から生じた植物の(つた)でがんじがらめにし、芋虫姿に縛り上げてしまえば、あとは煮るなり焼くなりどうとでも出来る状態である。


 完全に拘束された少女は泣いて怯えていたが、カラザは少女をお姫様抱っこで抱えて歩いていく。騒がれると面倒なので、口も蔦による猿ぐつわで縛ってだ。ちょっとひどい。

 少女を抱えたカラザが真夜中に、ひっそりと向かったのは村の外。関所であくびをしていた番人を、手も使わず魔術で延髄をどついて気絶させ、村の外へと歩いていく。いったい自分はこれからどうなるんだろうと、がっちり抱きかかえられた少女はがたがた震えていたが、涙目で時々首を振るその少女の反応に目もくれず、カラザは人里を離れて山の方へ。


 ここなら人目もつくまいと確かめたカラザは、山のふもとの林の一角にて、少女を地面に降ろして拘束を解いた。長い道のりをカラザに連れてこられた少女も、泣き飽きたのか涙も止まり、カラザの真意がわからずに戸惑うばかりだった。腰の抜けたように座る少女にカラザは、そこに川があるからまずは体を綺麗にしてこいと命じた。


 混乱している少女だったが、勝てなかった相手の言うことを聞くしかないのは子供心にもわかったのか、川に向かって身を清めた。カラザが近づいてくると、服を脱いで素っ裸の少女は恥ずかしさのあまり全身を水の中に沈めたが、少女の服を探して見つけたカラザは、それを拾って川でじゃぶじゃぶと洗いだす。びくびくしながら、体を洗うことに集中できない少女を尻目に、カラザはその服を洗い終えると焚き火を起こし、乾かす作業に移る。


「綺麗になったか?」


「う、うん……」


「それじゃあ、しばらくこれを身に纏っていろ」


 それだけ手順が終わったところで、カラザが川に体を沈めて隠す少女に歩み寄り、マントを手渡した。背を向けたカラザの後ろにて、川から上がった少女はそれで体を包むように隠す。ここに座れ、という手つきで指示してくるカラザに従い、少女は焚き木のそばに座った。行水上がりの冷える体に、焚き火の温かさは心地いい。


「…………」


「なんだ? 私の顔に何かついてるか?」


「……私を、どうするの?」


 マントで口元を隠した少女が、怯えきった声でカラザに問う。子供の想像力では尚更だが、今から自分がこの人にどうされるのかなんて、想像できないからかえって怖い。自分がやってきた悪行の自覚はあるし、大人達に突き出されて、手酷く仕置きされるのが彼女の想定する唯一で、怯えるのだって当然だろう。


「少なくとも、お前をひどい目に遭わせるつもりはないよ。詰め所に突き出すつもりもない」


「…………?」


「ちょっと、お前には手伝って欲しいことがあって……まあ、その話は今はまだいいだろう。ひとまず今は、濡れた体を乾かしておけ」


 朝方を迎えつつあり、暗い林の中にも明るさが出てきた中、少女はきょとんとした顔でカラザを見つめていた。村での行為を思えば当然だが、大人達には迷惑な奴としか認識されていた少女。その顔が、過去の行い抜きで見るならば、可愛らしい女の子のそれでしかなかったことに、カラザは小さく笑わずにいられなかった。











「い、いいの……? こんなもの、貰っちゃって……」


「あの服は虫食いだらけでみすぼらし過ぎる。せっかくの可愛い女の子が、あんなものを着て過ごすんじゃない」


 朝を迎えたカラザは、少女を連れて野を歩き、アボハワ地方内の遠き村に赴いていた。少女がごみあさりをしていた村から時間をかけて離れ、これまた非常に小さな村でまず買い物だ。乾かして着せた服でここまでは凌いできたが、いかんせんあの服は浮浪生活が長かった少女を思わせるぼろっぷりで、カラザは少女に新しい服を買い与えていた。


 少女の金色の髪は、浮浪生活で長らく洗っていないせいかちりっちりだったが、宿に泊まって風呂に入らせ、石鹸を使わせてみればたいそう綺麗なものだった。首の下まで少し届く程度の髪ではあったが、それでも真っ直ぐで細いその髪は些細な風でもたなびき、可愛らしい顔立ちにアクセントを加える要素にすらなる。


「あのぅ……」


「さて、そろそろお話しようか。私が君に、どうして欲しいのかを」


「っ……」


 宿の一室で二人きり。お風呂上がりで浴衣に着替えた少女は、同じく浴衣に着替えたカラザが座る前で、びくりと身をすくませた。何が何やらわからぬまま、とりあえず逆らいようもないこの人に連れてこられて、新しい服まで買って貰えた彼女だが、自分がこの先どうなるのかわからぬままの状況、この一言には緊張もする。


「私は、旅芸人を営んでいてね。旅の中で、自分のことは全部自分でやらなければならない。一人でやるには少々面倒なことも多くてね。洗濯だとか、買い物だとか」


「え、えと……」


「ちょうど、お手伝いしてくれるような人がいればいいなと思っていたんだよ。そこでお前には、私のお手伝いをして貰いたいんだ」


 カラザは少女の、術士としての才覚に目をつけていた。戦う中で、彼女が使う魔術を見て、思わぬところでなかなか凄いものを見つけたと思ったのだ。それは数年後に革命の完成を思い描く彼をして、上手くこの少女を育て上げればその時に、たとえようもなく大きな戦力になるだろうと思えるほどに。


「君の親はもう、いないんだろう? 帰る家もないなら、私について来い。ちゃんとお手伝いをしてくれるなら、ご飯だって食べさ……」


「あっ、あのっ……!」


 カラザの提言が最後まで言い終わらぬうちに、少女が遮るように口を開いた。それは、私について来いと発したカラザに一度驚き、思わず声を発していた少女の衝動的なもの。


「わ、私、狭間なのに……そんな、私を……?」


 狭間とは、混血児という意味。知られれば痛い目に遭うはずの少女が、もう今さら隠しもしないのは、カラザとの戦いの中で、天の魔術も地の魔術も使ったからだ。自分が混血児であるということを知りつつ、行動を共にしないかと提案したカラザの言動に、少女が驚くのも無理はない。

 それは同時に、自分が混血児であることは迫害される要素であると、8歳の子供が既に学習しているほどに、彼女が人にきつく当たられてきた過去を裏打ちする反応でもある。


「まあ、人と一緒にいるときには魔術を使わないようにして貰いたいがね。混血児と一緒に歩いていることを知られると、私も困るからな。それだけは約束して貰いたい」


「……私を、いじめないの?」


「ちゃんとお手伝いしてくれるなら、地人だろうが狭間だろうが関係ないさ。どうかな、この話。聞き入れてくれるかな?」


 少女にとっては、初めての人間だ。混血児である自分を邪険にせず、一緒にいてもいいよと言ってくれる人。まるで夢の中の何かに出会ったかのように、丸くした目をカラザから離さない少女に、カラザは優しく微笑んで手を差し伸べていた。


 わかりました、だとか、よろしくお願いします、だとか、明確にイエスの返答が来たわけじゃない。少女も突然のことで当惑するばかりで、はっきりと返事するには頭が追いついていなかった。

 しかし、カラザの手を、おっかなびっくりながらも両手で握ってくれた少女の行動は、少し二人の間にあった溝を僅かに埋めていた。この日から行動を共にすることになった少女に、とりあえず了承を頂いたふうにして、これからよろしくと頭を撫でてたっていたカラザの行動が、初めて少女の口元をゆるませていた。


 これから私のことは、ご主人様と呼べとカラザに命じられた少女。ならびに自分の名を尋ねられた少女は、ミスティと名乗っていた。












 翌日から、前日までと生活スタイルの変わったカラザは、旅芸人としての芸風をちょっと変えた。昨日までは、素顔で一人旅の芸者を装っていた彼だが、小さな女の子を連れた旅芸人という形になったことで、仮面をかぶるようになったのだ。自分は笑顔の道化の仮面、ミスティには泣き顔の道化の仮面をかぶせてだ。ちょっとした小細工だが、これが後年そこそこの意味を持つようになってくるのである。


 仮面をつけた大人と子供の旅芸人として、地方を回るカラザとミスティは、主にカラザが芸を見せながら、ミスティがおひねりを貰う役割を担う形で芸風が固まった。戦災孤児の女の子ミスティが泣き顔の仮面をかぶり、どうかこんな私にお恵みを~、なんて冗談めかした口調で言いながらやっていくスタイルだ。

 単にそれだけだとあざといが、むしろそれをカラザの方からあざといぞといじってやり、もっと笑えとばかりに別の笑顔の仮面をひょいっと投げれば、ミスティが上手に飛んできた仮面を顔でぴたっとキャッチしてみせたりと、また別の芸へと昇華する。一人よりも二人でやる方が芸の幅も広く、二人はその日暮らしの食い扶持を、楽しみながらと稼ぐ毎日だった。


 はじめはミスティも先述のように、カラザの腕にリードされる形でかろうじての芸を成立させる程度だったが、練習を重ねるにつれて、徐々に一人で出来る芸を習得していく。お手玉だって、子供が上手にやっていれば、出来ない者からすれば大人から見ても少々面白い。少しずつカラザに芸を教えて貰っていくミスティは、宿に泊まるたび洗濯をするお手伝い少女としてだけではなく、旅芸人としてもカラザに力添えが出来る女の子になっていく。


 それとは別に、カラザも宿で二人きりになったりすると、ミスティに魔術の手ほどきはしておいた。幼少のサニーを充分な使い手に育てただけあって、みるみるうちにミスティは術士としての才覚を覚醒させていく。正直、この子が地で持つ魔術の才覚っていうのは、アトモスの血を引くサニーよりも凄いものじゃないかっていうぐらい、呑み込みも早かった。もしもの時に頼りになるように、程度のニュアンスでミスティに魔術を教えつつ、内心でいつかは彼女を革命軍の術士として従えようとする見込みもあったカラザ。彼にとって、これはなかなか嬉しい想定外である。


 少々冷たい想定だが、これならもしもサニーが上手くいかなくても、代わりをこの子に任せられるかもしれないとさえ思えたぐらいだ。旅の中でも時折サニーのことが心配になるカラザだったが、ひとまずはこの子を育てることに専念しようと意識を改めるほどには、ミスティは術士としてあまりにも有望だったのである。






 二人で行動するようになってから、ミスティはカラザによくなついた。元々人の言うことをよく聞く少女で、カラザも叱る必要のあるシチュエーションに巡り会わなかったし、優しく接してあげることもしやすかった。

 優しく頭を撫でてくれるカラザのことを、ミスティが好きになるまで時間はかからなかった。仮面をつけて人前に立つ時は、旅芸人としてのキャラクタ作りの一貫でカラザに甘えられなかったが、宿や野良小屋で一晩過ごす際、二人きりになろうものならすぐに身をすり寄せてくる。そんなミスティを片腕に抱いてやり、よしよしと頭を撫でてあげるのが、ほぼ二人の間での毎日のやりとりだった。


 親しくなった後でのことだが、ミスティはぽつぽつと自分の境遇について話をしてくれた。敢えてカラザは自分から聞かないようにしていたことだが、長く一緒にいるとそのうちミスティも昔のことを思い出し、夜泣きする子供のように泣き出したことがあったのだ。その際に話してくれたミスティの過去というのは、カラザにとっても少し溜め息の出るような内容だった。




 ミスティは、天人の父と地人の母の間に生まれた。両親に産んでもらう前のミスティは知らぬことではあるが、この両親もはじめは、俺達の愛にとやかく言うなと、強い芯を持って愛し合った仲である。スノウやアトモスのようにだ。その結果、故郷でも半ば村八分扱いにされたミスティの両親だったが、それでも二人はミスティを生んでからも、互いへの愛を貫いていた。


 しかし、アトモスが敗れて近代天地大戦が終わった直後から、戦争に意識を傾けていた天人達の手が空き、戦後の後始末に拍車がかかる。時勢のせいもあって、迫害される立場ながらも本質的にはまだ放置されていた方であったミスティの両親に、天人達の当たりはさらにきつくなった。

 地人なんかと対等な関係を主張し、あまつさえその愛の証として子供まで授かったミスティの両親の家に、火種が投げ込まれたのが最初の一投。比喩ではない、放火を意図した本物の火種だ。住む場所を炎に包まれ、命からがら家族共々逃げ出したミスティの一家だが、人里を移って移ってしても、彼らを受け入れてくれる場所はどこにもなかった。三人は、人里に住んでいた文化人としての生活から、他人と一緒に住まうことすら許されない、放浪者としての人生を強いられることになった。


 アトモスやスノウにもそうだったが、地人と天人が愛を結ぶことに対し、ここまで天人らが躍起になって殺意を向けてくるとは、事前にミスティの両親も想像できなかったのだ。ここまでやるとは、の次元が想像外すぎると、流石にそれを甘い見通しだったと責めるのも酷という話。少し前は親しげに話が出来た者にさえ、石や汚物を投げつけられるなんて、あらかじめ想像できる者がいたらたいしたものである。


 荒んだ生活環境は、徐々にミスティの両親の愛をも蝕んでいく。放浪生活をする中で、ミスティの両親が喧嘩をすることがどんどん多くなっていく。あんなに優しかった父と母が、こんなことになったのはお前のせいだと罵り合い、食べ物を分け合う時ですら、こっちが少ないそっちは多いと些細なことでも言い争い、ミスティが泣いてやめてよと言ったって、黙ってなさいとひっぱたかれる。時代の変遷と共に、目に見えて変わり果てる両親と共に、唯一自分を愛してくれた二人さえもどこかに行ってしまった心地の中、ミスティはアボハワ地方に移ってきた。


 住むところもない、食べるものさえ満足に得られない毎日と言うのは、ことごとくミスティの両親を打ちのめした。故郷から遠いアボハワ地方に移り、自分達の関係を知らない地人らになんとか頼み込み、日稼ぎの仕事にありついて小金を貰ったりの生活で食いつなぐ。

 そんな幸運に巡り会えても、当時のアボハワ地方は戦後の天人らが闊歩している状況であり、自分達のことを知る天人に見つかれば、そんな細々と生きていられる日々も終わり。逃げるようにせっかくの人里を逃げ去り、そんなことを繰り返しているうちに、いよいよついに一家が立ち寄れる人里すらも絞られていく。やがてミスティの母が倒れ、もう旅の出来ない体になった時、父は妻を野に捨てて去っていき、ミスティの母はやがて人知れず、野犬の餌になっていったのだった。


 心身共に限界だった父は、もはやミスティを養う気力も失ってしまったのだろう。ある日、母を失って数日のミスティに対し、妙に父が優しい日があった。その日は、あれが食べたいと言っても甘い物を簡単に買ってくれたし、高台に上って肩車してくれたりで、ミスティも母がいない寂しさを抱きつつも、少しは楽しく過ごすことが出来た。優しかった頃の父が帰ってきてくれた気がして、それだけでも嬉しかったのだ。


 それが父との最後の思い出になるだなんて、その日のミスティが想像しているはずがあるまい。


 高台でミスティを肩車から降ろした父が、ちょっと宿を探してくるからここで待っていなさいと言った。ミスティも、お父さんと一緒がいいよとは言った。それでもあれこれ理由をつけて、待ってなさいと言う父を、少しは怪しむべきだったのだろう。"すぐに"帰って来ると言って去った父を、ミスティは高い場所から眺めを見ることで寂しさを紛らわし、雲の数を数えたり、野兎を追いかけたりで無垢な時間を潰していた。


 空が赤くなっても、日が沈んでも、月が見えても、お父さんは帰ってこなかった。父が言った"すぐ"の時は、永遠にミスティに訪れることはなかったのだ。




 ひとえにこのご時勢、混血児というものの生存数が少ない理由はカラザも知っている。血筋を超えた婚姻を敢行しても、やがては天人が総出で叩き潰すからであり、夫婦は想像以上に苛烈な環境に負けて子を捨てるのだ。捨てられた子供が一人で成長することなんて稀有であり、時々野盗などに拾われた混血児が、この世に少々生存している程度である。

 そういう者達は大きくなっても、ろくな環境で育っていないこともあり、混血児であることとは無関係に、社会にとっては害悪である非道徳的な人間になっていることが殆ど。結果、血筋など理由にせずとも社会不適合者としてみなされ、捕えられでもすれば裁かれて世を去っていくのが大概である。


 成人した混血種に、ろくな者がいないのも現実の話。もっともそれは、血筋だけで差別され続けたことが根底の発端であり、卵が先だか鶏が先だかの話。余談だが、だからカラザも、人間的にしっかりしたアトモスを見た時には、こんな混血種がいるんだなと驚いた過去がある。


 ちょっとぐずりながらそんな過去を話してくれたミスティを、カラザは抱きしめ、私はお前を捨てたりはしないよと優しく告げた。リップサービスでもなく、こんな逸材を手放すかという打算でもない。そんなカラザの気持ちを幸せに感じ、ぎゅうっと抱きついてくるミスティは、決して策謀家の二枚舌に騙されたわけではないのだ。哀れな少女を想うカラザの言葉は、紛れもなく本音のそれだったのだから。


 今はご主人様がいるから幸せだよ、と言ってくれて眠りについたミスティに、少し情が移る実感だってカラザも得ていたものである。自分には使命があり、それを最優先する日が訪れれば、たとえこの少女がどうなろうと見放す自分であるのは間違いない。この時抱いた感情も、時が来れば知ったものかとする、そんな未来の自分を想定し、それが正解だとカラザは決め打っていた。


 何事も、早めに割り切っておくべきだ。カラザはそれに慣れているし、それが上手くいかずに失敗する自分は、千年間で何度か経験済み。彼にとって、移りつつあるミスティへの情は、いよいよとなっても邪魔になどならぬものに間違いなかった。











 生みの親か、育ての親か。ミスティにとってのカラザと共に過ごす毎日は、かつての両親のことも忘れることが出来る、楽しい毎日だった。質素ながらも食事には毎日ありつけるし、野にあるものを拾って食べなくてはならない日々とは違う。残飯をあさり、お腹を壊し、もう私死んじゃうのかなっていうほど苦しい想いをした日々も、今はもうないのだ。温かく抱きしめてくれるカラザのぬくもりも、かつて両親がもたらしてくれたものと遜色ない。


 それにもっと大きいのは、カラザに芸を教えて貰えたことだ。自分が頑張って芸を覚えれば、お客さんは喜び、それに伴ってカラザも喜んでくれる。何か目標を持って何かが出来る毎日というのは、それだけで楽しいものだ。お手玉に始まり、皿回しやら玉乗りやら、吸収力のある子供であったミスティは、出来ることが増えていく毎日が楽しくて仕方がなかった。

 玉乗りに失敗して膝を擦りむいても、泣きもせず練習に励もうとするミスティを、今日はそれぐらいにしておけとカラザが諌めても、もっとやらせてと頑張ろうとする。彼女がわがままを言うことがあるとすればそんなぐらい。飴を売っている出店の前を歩いても、物欲しそうな顔をすることすらミスティは我慢する出来た子だ。それでもカラザには見抜かれて、飴を買って貰えて頬をゆるませるところまでがほぼパターン。


 なんにも、この毎日に不満はなかった。人は幸せが続くと、その幸せのありがたみも忘れて、ちょっとぐらいわがままになるものだってカラザは知っている。ミスティは、そうもならなかったのだ。混血児として差別され続けた毎日や、食べるものにも困り続けた過去のことを、記憶ではなく体に刻みつけられたミスティは、今がどれほど幸せであるのかを決して忘れていなかった。


「あ……」


「うん? どうした、ミスティ」


 そんな毎日にひびを入れる日が訪れたのは突然のことだ。ふとしたある日、二人はアボハワ地方をいったん離れ、クライメントシティやタクスの都などを含む、ロカ地方に活動場所を移していた。そうしていくつかの町村を渡り歩いていた日々の中、不意にミスティが足を止めてある一点を見続けていたのである。


 返事もせず、畑を耕す一人の男を眺めているミスティの姿に、カラザも一瞬まさかと思う。この村はミスティの出身地ではないはずだし、違うと思うが……とは考えつつも、一度問うてみる。


「……父親か?」


 えも言われぬ顔でカラザに振り向き、見上げてくるミスティの表情は、旅芸人用の仮面に隠れてカラザには見えない。しかし、うなずきの小さいミスティの態度を見て、カラザにも仮面の下で、彼女がどんな顔をしているのかは概ね想像もついた気がした。

 ミスティの父もまた娘を捨てたのち、アボハワ地方を去っていたのである。流れ者として辿り着いた小さな村にて、細々と過ごしていた彼に遭遇してしまったことは、この日からカラザ達の関係を新しいものにしてしまう最たるきっかけだった。






 その村の宿に泊まったカラザは、元気のないミスティを膝の上に乗せ、色々な話をしてやった。思わぬ形で父と再会したミスティの、気を紛らわせるためにだ。

 しかし、この日ばかりはミスティも、大好きなカラザに対して相槌を打つのも拙く、実の父親のことが頭から離れないのが見え見え。口の達者なカラザがいくら口を回しても、ここまで上の空でいるようでは、きっとどれだけ手を尽くしても気持ちを一新することは出来ないだろう。


「……なあ、ミスティ」


「…………」


「父親の所に、帰りたいと思っているのか?」


 返事はなかった。だが、仮面をはずした素顔のミスティの感情は、付き合いの短いカラザにもよくわかる。元より感情が顔によく出る、素直な少女なのだ。ここまで大事にしてくれたカラザのそばを離れたくないし、離れたいと言うのは悪い子のすることだと、ばつの悪そうな顔で黙り込むミスティからは、そう考えている彼女の心の内側もよくわかる。


「やめておいた方がいい。きっと、良いことにはならんぞ」


「…………」


 カラザはミスティに、行くなと言った。聞き分けのいいミスティが、この時ばかりははいと言わなかった。普段言うことをよく聞く子が、急にこうして言うことを聞かなくなる時っていうのは余程であり、この態度からも既に、カラザはミスティの本心が読み取れてしまう。


 ミスティが父と暮らした時間は8年間。カラザと出会って一緒に暮らした時間は1年近く。歳月の差だけで言っても、それだけ差があるのだ。生みの親か、育ての親か、ミスティの心はカラザの勧めない方を望んでいる。

 子供にとって、親というのはそれだけ特別なのだ。たとえ自分を捨てるような親だとしても、母を見捨てていくような人間だとしても、しばしば子供の心は生み出す情念は、それでも親を許してしまう。


「……それって、ご主人様は」


「ん?」


「私を、手放したくないっていうことですか?」


 邪推すら飛び出してしまう。子供だから、仕方ない。私を引き止めるのは、お手伝いが去ってしまうのを拒むせいなんだろうかって、幼心に納得できる答えを作り上げてしまう。カラザは苦い顔を努めて隠し、ごまかすようにミスティの頭を撫でてやる。


「……そうではない」


「ご主人様は、私がお父さんとまた出会えるのは、よくないことだと思いますか?」


「思う」


「どうしてですか?」


「…………」


 言えない。どうなるか、想像はついている。

 だが、その残酷な現実を、父と再会すればまた受け入れて貰えるはずだって信じている、ミスティに言えるだろうか。あるいは、もしも思うがままに口にしても、今のミスティがカラザの言葉を信じてくれるだろうか。父に会いに行きたい一心が勝り、よくしてくれていたカラザにも失敬な邪推を賢しく口にする

ミスティの態度は、無垢な心が先んじて彼女の目を曇らせた末のものなのに。


「……とにかく、やめておけ。絶対に、勧めない」


「なんで……」


「今日はもう寝ろ。明日も早いんだからな」


 なんとか強引に話を纏め上げ、宿の一室にて二人は眠りにつく。

 カラザはもう、朝が来たらこの村を出ようと思っていた。敢えてそれを今日のうちに言わなかったのは、先にそれを言ってしまったら、先走ってミスティが父に会いに行ったりするのではと危惧したからだ。その最悪を回避するために、カラザも手は打っておいた方。


 だけど、ミスティは止まらなかった。カラザの言うことを聞かずに一人歩きしたミスティの心の真ん中は、既に父との、美しかった過去の思い出でいっぱいだったのだから。


 早起きすることが出来たミスティは、眠ったままのカラザの目を盗むようにして、こっそりと宿を出た。カラザも気付かなかったわけではない。彼女がそう動くのであれば、現実を知ってもらうしかないと見て、黙認しただけだ。


 嫌な朝だった。体を寝かせたまま、片手で額を押さえて溜め息をつくカラザは、この後にミスティにかけてあげる言葉を探すことで、寝起きの頭をいっぱいにしていた。


 それでも、答えは出なかった。






 日の差す朝、父が畑を耕していた場所へと駆けていったミスティは、畑のすぐそばにある小さな家の前に立っていた。ノックして、父に会いたい。だけど、緊張する。久しぶりに会うお父さんの前で、どんな顔をすればいいのかわからなかった。


「……よしっ」


 意を決してミスティは、その家の扉をノックした。ごめんくださいと、張りの弱い声で呼びかけながらだ。朝早く、こんな時間に訪問者が来ても、家主も寝起きであろうことに、気を遣う余裕もなかった。


「誰だ……?」


「っ……」


 玄関の扉を開いて出てきた男は、別れた頃の父とは違って無精髭も剃った顔だったが、確かにミスティにとって忘れ得ぬ人だった。ミスティの肉親は、朝いきなり訪れた少女を目の前にして、寝起きの頭の上に疑問符を浮かべている。


 この時か、あるいは昨日。ミスティが気付いていれば、この後の悲劇は起こらなかったのだろうか。かつての父とははっきり異なり、今の彼の瞳の奥は、淀みきった闇色に染まっていたことを。妻や娘を捨てた罪悪感に仮にも駆られ、それを悪夢に見る毎日の果て、彼の心は既にまっすぐなそれではなくなっていたことを。

 9歳の子供が、そんなことに気付けたはずがない。だからようやく会えたお父さんを目の前に、感涙すら目に溜めて胸を震わせるばかりでしかなかった。


「お、お父さん……私のこと、わかる……?」


 二年ぶりに見せた顔、伸びた背、綺麗になった髪。別れた時の、みすぼらしい娘の姿が最新の記憶であった父は、その言葉を聞くまでミスティのことが、誰なのかすらわからなかった。ミスティの言葉により、彼女が誰であるのか悟るにつれ、ゆっくりと父の頭がはっきりとしてくる。


「ミスティだよ……ッ!?」


 その時、父が出た行動とは、目を見開いてミスティを突き飛ばすというもの。父と再会できた喜びで、胸がいっぱいになっていたミスティが、掌二つで勢いよく押し突かれて尻餅をつく。

 何が起こったのかわからぬ顔のミスティの前方で、父は狭い家の奥まで慌てふためいて逃げていく。恐るべき獣に出会った者のように、悲鳴をあげながらだ。


「っ、ぐ……お、お父さん……?」


「くっ、来るな、来ないでくれえっ! お、俺が悪かった、俺が悪かったから……!」


 父の目に今のミスティは、亡霊にしか見えなかったのだ。アボハワ地方に捨ててきた娘が生きているはずがない、野垂れ死んだとしか思えない彼女が、こんな遠くの村にまで来るわけがないと。なのに現実として目の前にいる、娘の実像は父をひどく混乱させ、妻と娘を捨てて一人生き延びた男の罪悪感を想起させると共に、半ば狂乱して狭い家を逃げ惑う男に変えている。


「な、なんで……? 私、帰ってきたんだよ……?」


「近寄るなあっ! 俺はもう、新しい人生を始めているんだあっ!」


 がたがた震えてわめきながら、父は台所にあった包丁を握った。それを構え、近付くならば容赦はしないとばかりに、ミスティにその刃を向けてくる。呆然とし、頭が真っ白になっているミスティを受け入れる、優しかった父はもういない。彼の目はミスティを、自分の今の慎ましやかな自分の生活を脅かす、悪霊としてしか認識していない。


「わ、私、ミスティだよ……? お父さんの……」


 それでもミスティは近付いた。どうしても、父に拒絶される現実を認めたくなくて。手を伸ばし、父に近付くひたむきな少女の掌も、今の父にとっては悪魔の手にしか見えない。


 接近したミスティを追い払おうと、包丁を一振りした父の刃が、あわやミスティの指を落とす寸前だった。思わずその手を引っ込めたから深い傷こそ残らなかったが、包丁の切っ先にかすめられたミスティの手の甲に、小さな切り傷が生じてしまう。


「お父さ……」


「消えろおっ! 消えろ消えろ消えろおっ! お前なんかあああああっ!」


 その傷の痛みと、決死の想いで亡霊に立ち向かわんと迫ってきた父の姿が、ミスティの中で何かを壊れさせた。今まで一度も抱いたことのない、少女の真っ黒な感情は、そのまま濃厚な魔力となり、彼女の思考力を超えた事象を形にした。






「…………」


 少し早めに宿を出ておいて正解だった。ミスティの父がいると思しき家に向かう中、凄まじい爆音が向かう先から聞こえたカラザは、駆けつけたその先の光景に言葉を失うばかり。こうなることだって、想定内だったのだ。まさか最悪の中でも最悪な、こんな結末になるとは思いたくなかったが、現実は往々にして、つくづく一番悪い所に辿り着く。


 屋内の少女の魔力によって生じた大爆発は、家屋を内側から爆裂させ、燃える木造の家の欠片を周囲に爆散させていた。そこに、燃え盛る家のシルエットすら残さぬほどにだ。畑の作物も黒い煙に包まれて、燃える家跡の真ん中から、泣きながら出てきた直後のミスティを目にしたカラザは、かけるべき言葉も見つけられないままでも駆け寄っていく。


「ミスティ」


 少女の泣き声は、もはや声になっていなかった。

 会えば抱きしめてくれると思っていた父に、殺意すら向けられて拒絶されたショックも。

 身を守るために発した魔術が父の命を奪った事実も。

 彼女の手の甲から滴り落ちる血が、傷ついた彼女の心が流す血であると例えても、もはやそれは言い過ぎではない。あどけないはずの顔を、可愛らしさの面影すら残さぬほど崩れさせ、カラザに抱きついて声にならない泣き声を漏らすミスティを、カラザはただ抱きしめてあげることしか出来なかった。


 ミスティを抱え上げて走り去るカラザは、何事かと人が集まってくるよりもずっと早く、その場を立ち去った。ミスティは、ずっと泣いていた。あらゆる感情が胸に渦巻き、涙と嗚咽を溢れさせることしか出来ない彼女には、実際どんな言葉を向けたところで、今は無意味であったのかもしれない。


 母の命を父が見捨て、その父は娘の命すら奪わんとし、娘は自らを守るために、父の命に手をかけた。親殺しの業を背負ったミスティを、胸に抱き上げるカラザの手には、彼自身にも無自覚のうち、普段以上の力がぎゅっと込められていた。

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