第233話 ~現代人と古代人の話 17年前~
千年近くも時間が過ぎれば、当然カラザやアストラの顔を覚えている者、知っている者なんてのは現存しなくなる。静かに、時に浮世を大きく離れ、目立たず過ごし続けてきたカラザやアストラは、千年の時を超えた現代においては、よもや天地大戦の頃に生きた者達だなどとは思われぬ、一般人に混ざって現代に生きていた。隠遁などに神経を使ったのは、終戦から200年ほどの期間程度である。程度、と呼べる短さでもないが。
体が元々大きい上に、ちょっと武人肌が風格からも滲み出てしまいがちのアストラの方は、千年経ったこの時代でもあまり人前に姿を現さず、山林に過ごしている時間も多かったが、カラザは違う。すっかりかつてのほとぼりが冷めたといえるこの時代、一般人に紛れても殆ど風体の目立たないカラザは、実に自然と人間社会に溶け込んでいた。この当時のカラザは、アボハワ地方に暮らす農家の若者として過ごしており、数年後に彼が役者として名を馳せるであろうことなど、誰も想像の出来ない一般人として認識されていたのである。
「もしもし、そこの青年どの」
「うん? ……っと、これは、セシュレス様」
そんなカラザにある日、一人の老人が声をかけた。貧相なぼろの着を身に纏い、畑を耕していた青年が、大商人のセシュレスにいきなり声をかけられて背筋を伸ばすという、非常に違和感のない仕草も演じられている。豪商セシュレスの名はとうにこの地方には知れ渡っていたもので、たとえセシュレスよりも年上の大人であっても、初めていきなり彼に声をかけられたら、俺なんかに何の用だと少しびびるのが普通の態度だろう。
「今、忙しいかね?」
「いえ、まあ……しかし、何か御用でしたらお伺いしますが……」
戸惑う仕草、それでも大商人様が御用なら無碍にはすまいと、カラザは若者を演じている。実際、この頃のカラザの顔つきは、非常に若いのだ。千歳以上の古代人だとか、想像できない次元の現実はさておいて、二十歳を過ぎているようにすら周りには見えなかっただろう。
「すまないが、少し時間を貰っていいかね? 少々、素行調査を行ないたいんだ」
適当に理由をつけて、セシュレスがカラザを村のはずれまで連れて行く。正直この時は、まさかカラザとて、この後にどんな話を持ちかけられるのかを予想はしていなかった。
アボハワ地方は元々田舎村が多く、近代天地大戦の終戦と共に栄えた西部を含め、当時は発展している場所も殆ど無かったと言っていい。当時はまさしく、村と、かろうじて町がある程度の地方であり、都と呼べる人里なんてないような地方だった。
だから、それぞれの人里は流れ者に寛容だった。食い扶持がないので手伝わせて下さい、その報酬に食べ物さえ頂ければ充分です、という若者を歓迎する農家がそう少なくなかったのである。カラザもこの頃は、そんな感じで小さな村の地主を訪ね、畑仕事を手伝ってその日暮らしをする貧乏人を装っていた。
見た目に反して年齢と人生経験が桁外れなので、口の立つ、あるいは礼儀のなった若者だなという印象を抱かれていた程度で、ちょっとがらの悪い田舎の地主にも、大きな恵みを貰えない一方で評判は悪くなかった。それがカラザの周囲からの評価だった。
「単刀直入に言おう。私は、天人達が利権を主張するこの時代に、革命を起こそうと思っている。君に、戦力として、それを手伝って貰いたい」
誰も周囲におらぬ、村の高台に導かれたカラザは、セシュレスの言葉に絶句して、周りに誰か今のを聞いた者がいないかと、慌ててきょろきょろする演技をする。普通は、そうするからだ。これがカラザの、本性を隠していた時の最後の行動だった。
「隠さなくてもいい。……いや、隠して頂かなくても結構だとでも言うべきかな。貴殿は、そんな人物ではないだろう?」
30歳ほど年下に見える若者に向けて、セシュレスほどの豪商が敬語を使うなんて、まずあり得ないことである。セシュレスの目は、はっきりとカラザの本質を見切っていた。ここから尚も、私如きに何をそんなとすっとぼける選択肢もあったカラザが、ふぅと溜め息をついて無表情になった、仮面をはずしたのは、時間を無駄にしない賢明な判断だったとも言えるだろう。
「……どの程度まで、私のことを知っておられるつもりか」
「私よりも年上な気がするね。術士としても、私より上……まあ、これは私よりも少し上といった程度かな?」
ふふっと気さくに笑いながら言う割に、微妙な一線を的確に言い表したものである。実際のところ、術士としてはセシュレスよりカラザの方が上でありながら、その差は天と地ほどと言われればそこまででもない。セシュレスだって、千年来の大術士にそれを言っていい程度には、術士としてはちょっと化けたレベルなんだから。
そういうセシュレスなんだから、カラザが相当の術士であることも勘付いてはいるはずだ。この風貌のカラザに声をかけてきている時点で、間違いなく。そのくせ言うのが、自分よりも"ちょっと上"。相手を立てつつも、へりくだり過ぎるのはどうかと思って自分の力量を少し盛っているのか、それとも本当にそうだと思っていてそれが事実なのか、千歳のカラザでも現時点では計りかねる。食えない奴っていうのはこういう奴だ。
「なるほど、理解致しました。話だけでも、聞かせて頂きましょう」
「そうかしこまって語られる必要も無い。普通にお話して貰って結構だ。私も、普通に話すがね」
「……まあ、貴殿に敬語を使われると恐縮するので、それはそれでありがたい」
「ふふふ、謙虚、大物の証拠だな。ますます自信が持てそうだ」
潜伏していた、隠し玉になり得る人物を発掘したことは、セシュレスに大きな自信を抱かせた。自分はまだまだ、人を見る目が曇ってはいないんだと。
セシュレスとカラザが手を結んだのがこの時であり、アトモスとの繋がりも生じたのがこの日のことだった。
「なるほど、この女性がそうだったのだな」
「うむ。私達は、彼女を中心に革命を引き起こす戦争を仕掛けるつもりだ。彼女も同意してくれている」
「…………」
山林の奥、まるで仙人でも住まうのかという穴蔵にて、三人の男女が集まっていた。土を固めた塊を椅子代わりに座るカラザとセシュレスのそば、土の上でしゃなりと座るのがアトモスだ。村娘のような質素な肌着の上に、セシュレスから与えられたのか萌黄色のローブを纏うその姿は、いかにも隠遁者の薄汚い格好だとも言えそうなもの。雨露と寒さから我が身を守るための、実用的な着こなしでしかないのだから。
そんなみすぼらしい姿のアトモスを初めて見たカラザにも、無言で自分を見るアトモスの瞳には、気品に近いものが感じられた。今から革命をぶち上げようというアトモスをして、そんな自分の目標を公言する相手のカラザ、初対面の者を見る目は多少の猜疑心に満ちていて当然なぐらいのはず。そんなアトモスがカラザを見る目は、既に仲間となり数年が経つ人を信じる瞳のように、まるで疑念を持っていない。
真っ直ぐだ。カラザに声をかけたセシュレスへの信頼を通じ、カラザを信頼するアトモスの意気は、とても虐げられてきた混血種のものだとはカラザにも思えなかった。
「……野暮なことを申し上げるつもりも無いし、邪魔をするつもりもない。かの御嬢が悲劇に見舞われたことは聞き及んでいるし、哀れにも思う」
「詳しくお伺いしよう」
カラザの言葉は二つの意味合いを含んでいる。これから革命を起こそうと打ち明けてきたセシュレスとアトモスに、それを天人達に告発することはしないから、それは安心してくれていいというのが一つ目のニュアンス。
そしてもう一つは、クリマートの村で悲劇に見舞われたアトモスのことは聞いている"が"と続け、協力することには前向きでないことの前置きだ。今からそういう主張をカラザがしようとしているのは、文脈と態度からセシュレスにも読み取れている。
「どこまで信じて貰えるかはわからぬが、確かに私は貴殿らよりもずっと年上だ。はっきり言って、千年ほど前の天地大戦の頃にも生きていた身だよ」
「……なんと」
「……疑わぬのか?」
「驚きはすれ、かえって納得すら出来るな。その風格の根拠としては、逆に説得力さえ感じるよ」
荒唐無稽と思われることを承知で口にしたカラザに対し、セシュレスは何の疑念もなく受け入れる。アトモスも同様、こちらはもっと極端で、驚きを表情に表したりもしない。先述の、一切の疑念がカラザに対して無いという推察が、事実あるいは確信にすら変わる。
「……私は、この時代に生まれた存在ではない。今の時代を動かすのは、今の時代に生まれた者達だけであるべきだ。革命などという、世界を根底から覆すような夢に対し、今の私が協力することは、すべきでないと思っている」
「それが、古代人なりの矜持なるものと捉えてもいいのかね?」
「まあ、そんなところだ」
カラザはずっと、こうした考えの持ち主でい続けてきた。無論、この時代に全く干渉してこなかったわけではない。当初に掲げた夢のとおり、時には考古学者に扮し、時には紙芝居芸人に扮し、時代ごとに、天地大戦の中で起こった出来事の数々を、語り部めいたことをしつつそれぞれの時代で遺してきた。
ただ、そこまでだ。千年もあれば、今の時代で言うセシュレスやアトモスのように、革命を起こそうとしてきた者は少なくもない。300年ほど前にも、大掛かりな集団が革命活動に及び、天人達の里を傷つけたこともある。それが結局、悲願成就に至らなかった結果が、現代にも残っているわけで、同時にそれは、大勢力が過ぎる天人達の歴史に致命傷を与え、革命を完成させることの難しさを歴史が実証している。
そんな中に、カラザとアトモスが混ざってこなかったのは、干渉すべきでない自分達を貫いてきたからだ。今さらそれを改めるつもりは無いと、この日のカラザははっきり返答している。
「では、交渉は決裂……かも、しれないな」
「随分とあっさり引き上げるんだな」
「ここでいくら押し問答をしても、貴殿は考えを変えぬだろうからな。他に何か、きっかけを与えることがあれば、その時に私達の味方をしてくれればいい」
言葉でいくら説得しても、千年来の信念は変わるまいとし、セシュレスは腰を上げて去ろうとする。アトモスはまだ立ち上がることをしなかったが、行こうとセシュレスに呼びかけられ、ゆっくりと腰を持ち上げた。
「だが、貴殿よ」
「うん?」
「やるか、やらぬか。やって貰えるなら、早い方が助かるので、それは覚えておいて貰いたい」
完全に諦めきっていない発言と取るべきか、カラザが味方してくれることを信じている発言と取るべきか。計りきれぬことを仰るセシュレスを見送る形で、カラザも聞こえるほどの溜め息をつく。なるほど確かに、ちょっとその口車に乗ってみたいタイプだとは思えた。彼についていく者達は、安心していられるだろうなとも。
「……アトモス嬢」
「……はい?」
去ろうとしたアトモスに、カラザが声をかける。三日前、クリマートの村で起こった出来事を聞き及んでいるカラザは、彼女のことを少しだけ知りたいと思ったのだ。
根は優しい人格者のはずだと思える面立ちだから、尚更に。
「貴女は本当に、悔いなく革命活動に踏み出せると覚悟を決めているのか」
「…………」
「貴女の愛する人、貴女に味方してくれるであろう人が、これから更に死ぬことになろう。それでもいいと思った上で踏み出すのが、貴女の思う革命の道なのか」
天人に対する憎しみもあろうし、自分と同じ悲しみを味わう者がこれ以上生まれないようにという、使命感もあるかもしれない。それが革命軍の筆頭となる人物が抱く思想だとは、カラザも容易に想像がつく。それと同時に、自分を大切にしてくれる人々、味方してくれる人々を大好きになれるであろう、優しい性分のアトモスをその顔から読み取れば、そんな修羅の道に彼女が進んでいくことを、とてもカラザは彼女自身のためになることとは思えない。
さらなる苦しみがあるだけだって、警告だってしたくなる。やめておけ、って言いたくもなる。人として。
「……私は」
「…………」
「……きっと、そのために生まれてきたんだと、今では思うんです」
振り返ったアトモスの寂しすぎる微笑みは、千歳を超えたカラザも胸が少し痛んだ。その言葉で、全部わかった。読み取れるだけの人生経験があるのも、時としては苦しむきっかけにしかならないものだと、この時カラザは痛烈に実感したものだ。
「混血種として生まれた私には、きっと、誰かを幸せにすることなど出来ません。不幸にしか出来ないんです。私を大切にしてくれた夫でさえ、私の存在が地獄に落としたのですから……」
「アトモス」
前で立ち止まっていたセシュレスが、振り返ってアトモスに、それ以上の言葉を制止する。遮る形で言葉を失ったアトモスが、小さくカラザに一礼して去っていく後ろ姿を、カラザは無言で見送るのみ。同時に、僅かでも知れたアトモスという女性の人格を、己の中で反芻する。
「……革命、か」
何も特別なことじゃない。天人達の支配に不満を持つ者がいることは、千年前から何一つ変わってなどいない。そういう思想の持ち主は、各時代に少なからず、必ずいたのだから。行動に移り、変えることを望んできた者達が残らず返り討ちにされ、掃伐され、"浄化"が繰り返されてきた末に現代の、揺るがぬ天人優位がある。アトモスのような、哀しい半生の末に、死をも厭わぬ覚悟での世直しに踏み込む者達など、千年の歴史を掘り返せば別段珍しい部類ではない。
哀れだとは思う。だけど、それが彼女に味方する理由にはならない。カラザの考えは、まだ揺らいでいない。
「諸行無常、という言葉はあるが……な」
決してこの時つぶやいた言葉は、自分の信念に対して向けた言葉ではなかった。不変とされた天人覇権の時代に、幸あらばアトモスやセシュレスが変化をもたらせれば、二人は救われるやもしれぬという、感情的な期待を込めての一言でしかなかった。
千年前のとうに終わった、地人達も天下の往来を平等に闊歩できていた時代に、カラザは思い入れらしきものを持っていない。ただ、迫害される者達にいつかの救いがもたらされれば、それは良きはずだと思える程度には、カラザとて人間である。
「とまあ、そんな話をされたわけだよ」
「歴史は繰り返される、か」
アストラと、アボハワ地方の小さな山の山頂から、高台気分で遠方のクリマートの村を見下ろすカラザのそばには、アストラがいた。後年では彼の当然の武装ではある重装鎧も、この時はまだ装備していない。皮鎧を身に付けた、屈強な山賊の親分程度にしか見えない風体は、恐らく人に見られても強そうと思われはせど、やはりその実年齢が割れるような顔立ちでもない。二人とも、年の割には顔に老けが無いのである。
「どうやら始まっているようだが……なかなかのやり手達のようだな」
「ああ。近年の天人どもの方が、些か自信過剰なのかもしれぬが……いかんせん、勝負が見えすぎているなぁ」
クリマートの村をかなりの遠目に見下ろすカラザとセシュレスだが、これだけ離れていても見える、火柱やら降り注ぐ落盤の数々やら、その大きさが洒落になっていない。天人には扱えぬはずの地人だけの魔術、要するにあの地術を行使しているのは、アトモスやセシュレスなのだろう。現代にもあれほどの使い手がいるのだな、と二人とも感じている。
クリマートの村でアトモスが天人達を葬ってから三日目のこの日、過激派の同士を奪われた者達の多くが、徒党を組んで出兵する形で、クリマートの村に押し寄せたのだ。兵力の数も中々であり、中には保険をかけたのか、戦力として非常に有力な、天界兵すら紛れていたのが実際のところ。
それを、遠くからもわかるほど、アトモスやセシュレス、それに組する者達が対抗し、数で劣るはずの戦いで優勢を築いていく様は、なかなかカラザ達から見ていても爽快だ。もう千年もの時を経て、時代を奪った天人達への恨みやら何やらも薄れた二人だが、虐げられてきた者達の怒りが理不尽な支配者の足を掬うというのは、単純に見ていて胸がすくものである。
「……しかし、数年後はどうかな」
「さあなぁ。お前が参戦してやれば、より革命成就の可能性は高くなるやもしれんが」
「おい、アストラ」
蜂起してきた者達が、どれほど始めは順調でも、最終的には突き崩されて粛清されてきた歴史がある中で、カラザも今からアトモスらが、成功を収める未来はそう簡単に見越せない。そんな彼に、お前のような奴が力を貸してやれば、助けになってやれるだろうと言うアストラに、カラザも苦笑して名を呼び返す。私の価値観は知っているだろう、面白い冗談だな、と。
「カラザよ。俺は、思うんだがな」
「うん?」
「やるかやらぬかを決めるのは、早い方がいいと思わんか?」
まあ確かに。やらぬと決めたなら最後までやらぬが時間の無駄にならないし、やると決めれば最初からやった方が後悔も少ないだろう。何事もそうだが、途中から何かをやりだすのよりは、最初に結論付けた方が良いとは思う。
「千年前に決めたことを貫いてきているまでだよ。私は、現代には関わらん」
「ふふ、そうだな。やらぬと決めたら、最後までやらぬのが正しかったのかもしれぬ」
そう言って、アストラが歩きだすのだから、食い物でも探しに行くのかとカラザは思った。正直千年間もの付き合いがあると、相手の行動は全部読めたような気分になるものだ。
「なぁ、カラザよ。もしかしたら今日が、とうとう俺とお前の別れる日となるかもしれんな」
「……なに?」
アストラは断崖を飛び降りて、カラザの前から姿を消す。思わずその下方を崖から見下ろすカラザの目の前、着地し、ある方角に駆けていくアストラの姿が感じられた。
まさか、そんな。親友が思わぬ行動に出たことに、この時ばかりはカラザも驚愕で目を見開いていた。
「先陣、もはや壊滅状態です……! まさかアトモスが、これほどまでとは……!」
「むぅ……! 数年に一度はあることだが、革命を志す愚か者の蜂起が、この時代にも訪れたか……!」
実は、クリマートの村へと出兵していた天人達は、二陣に分かれていた。
まず、充分な兵力と戦力で以って、クリマートの村のアトモスに刃を迫らせた軍勢が押し寄せ、その動向を見守る第二陣に分かれていたのである。これが現在のクリマートの村の戦況を見守り、その動向次第でどう動くかを考える役目を担っていた。
「……やはり念には念を入れ、天界王様に指示を仰ぐ必要があるな」
「それでは……」
「ああ、同胞達には悪いが撤退しよう。後日、再出兵を以ってして、アトモスらを総軍で叩き潰す」
クリマートの村で、アトモスやセシュレス、その同士に叩き潰されていく友軍を見捨て、その天人達は引き下がる戦略を取った。前衛があれでは、自分達が追撃しても無駄であろうと見てだ。そんな犬死にをするよりも、事態の深刻さを上に報告し、嫌な顔をされようとも総軍を上げて貰うことを促した方がいいという、軍事的には肯定される判断である。
「では……」
そう言って撤退しようとした天人達の思惑を粉砕したのは、突如起こった大地震。あまりに唐突な激しい縦揺れに、数百の天人達が足を取られ、中には転んだ者もいる。何が起こったのか、すぐにわかった者など一人もいない。
「何事だ……!? クリマートの村からの刺客か……!?」
「い、いえ、そのような動きは……はっ!?」
天人達を蹂躙していた、アトモスらの魔術による進撃が、ここまで及んだのかと、そちらに意識を傾けた者達は賢明な方である。それと噛み合わなかった現実は、全く別の方角から駆けてくる、まるで人とは思えぬほどの速度で接近する、一人の男の存在だ。
「西方より何者かが接き……」
「さらばだ、カラザ……!」
我が身に流れる血の力を、最大限まで振り切ったアストラが、天人達を近くに見据えて巨竜の姿に変わったことが、安全圏にいたはずの天人達を恐怖に陥れた。たった一体の竜が、何百もの天人の軍勢の中に飛び込み、牙と炎を振り回して地獄絵図の光景を呈したのが、すぐ直後のことである。
「……正直、私も驚いたよ」
火の海と化した平原に、クリマートの村での戦いを終えたセシュレスが駆けつけた時、そこに生存した天人はただの一人としていなかった。たったの、一人もだ。山火事に飲み込まれた鳥が焼き落とされた亡骸の群れのように、無残な死体と変わり果てた天人達の死体だけが、いくつもいくつも散見したのみである。
「私達に、力を貸してくれるということなのか?」
「……そうだと決めたわけではない」
その炎の海の中にいたのは、人としての姿に戻ったアストラだけでなく、カラザもそうだった。兵をクリマートの村に残し、ここまで辿り着いたアトモスとセシュレスの前には、二人の古代人。ほんの少し前、協力はしないと言っていたはずのカラザが、天人達の第二陣までは放置せざるを得なかったセシュレスらの戦略を補うかのように、ここに推参してくれたことには、最もセシュレスが驚いている。
「こいつがどうと言うかは知らぬが、俺はお前達に協力する。革命を為そうと言うなら、俺はその刃となろう」
「アストラ、お前な……」
「カラザよ、もう傍観者でいるのはやめにしないか。千年来の永き寿命にあぐらをかき、達観したように安全な所から見下ろすだけの年長者では、時代をかき乱す老害とさして変わらん嫌らしさだろう」
セシュレスらを前にしてアストラが言う言葉は、カラザの胸に厳しく突き刺さった。長生きし、時代を超えてきた中で、思わぬでもなかったことを、こうもはっきり言われては。
「俺達は、この時代に生きている。純然たる事実だ」
「しかしだな……」
「俺もまた、賢人の皮を被ろうとした愚か者だ。お前の言葉を肯定し、永く時代に関わってこなかった。……一つの正義に殉じ、敢えて関わってこなかった過去に対し、否定の念があるわけではない。だが、いずれにせよ、本来の人とは違う長寿を持つ私達をして、自分自身がこの時代にそぐわぬ存在であることは元より避けられぬことだろう」
そう、そのとおり。どちらに転ぼうと、カラザとアストラは、長寿を無視しない限り、この時代の者としてもっとも清々しい立場など作ることは出来ないのだ。見方の差はあれ、否定要素はいくらでも作れてしまう。
千年前の古代人として、この時代に干渉するのは、時代を超えた存在として前に乗り出しすぎ。
一方で、そういう自分達の立場を重んじるふりをして不干渉でいたとしても、それは長生きした者の目線で、雲の上から頬杖ついて地上を見下ろす、神様ごっこと変わらない。助力を欲する者達に、その理屈で以って反意を示すことは、そう形容される嫌味な達観ぶりと看做されても致し方ないこと。セシュレスやアトモスがそうは言ってこないのは救いだが、現実そのものは変わらない。
「俺はもう、傍観者であり続けることも、この時代に生きる者達に対して失敬だと思う。何百年も、革命を望んだ者達に手を添えてこなかった愚を、今この時代に正そうと思う」
「…………」
「――と、いうわけだ。セシュレスどのと言ったな? 貴殿がよければ、微力ながらも力を貸したく存じる」
豪傑の笑みとともにセシュレスに歩み寄った、アストラがごつい手を差し出す。セシュレスも、その手を差し出すことで、応えた。サイズの違う二つの手が握り合うその事は、古代人とセシュレスの結託を表す歴史的な出来事ですらあった。カラザはただ、まるで時に取り残されたかのように、それを見届けていたのみである。
「アトモスよ」
アストラがアトモスにも同様に近付こうとした時、両者の握手よりも早く声を発したカラザが、アトモスの視線を自分に向けさせる。アストラも歩かず、アトモスとカラザの間に誰も立たぬ間を保つ。
「……私は、間違っていたと思うか」
問いかける相手はアトモスであり、同時に自分自身へ。千年来の生き方と、逆の道筋に親友が進もうとする中で、いかにカラザが自分自身に過去が正しかったのかどうかを問いたい想いが、その一言に表れている。
価値観の違う親友、自分と違うことをする奴だとはずっとわかっていたのに。それでも己の揺るがぬ信念を、まるで否とするような道を、最も信頼する者が歩もうとした時に、人は迷わずにいられない。
アトモスの瞳には確かに感情があった。打算なく、カラザという人物をただ見据えただけの棲んだ瞳である。炎の海の中にあって、それは一滴の雫のように純粋で、この空間では浮いた存在にすらカラザには見えたほど。
「……自分自身が正しかったかどうかなんて、後になってからしかわからないですよ」
まるで革命を為そうとする自らの行為すら、今は正否もわからぬと答えるようなアトモスの言葉に、カラザは懐かしみのようなものさえ覚えた。千年前は、自分だってそうだったのだ。若き頃、何が正しいのかなどわからず、選択肢に満ちた生涯の中で、すべてが手探りであった日々。あの時と同じ苦しみの中にアトモスはいる。
関わらぬことこそ、千年超えの古代人のあるべき姿。それが正解だと決め打って、貫徹してきたカラザが今、それの正否に苦しむ中でアトモスが見せた表情は、凶門をくぐるやもしれぬ自らを覚悟しながら、今のみ信じられる道を進もうとする"若さ"の結晶だ。
「それでも前に進んでいかなきゃ……私達は、"生きて"いけないと思うんです」
原種・蛇種は確かに老いない。それは肉体と表面上の外見だけであり、時の流れは一方的に老いを確かにもたらしていく。経験から得た知識、生き方、信念。それはその者の生き方を確固たるものにしていき、人を迷わせることをさせぬようにし、苦悩少なき人生を支える柱となる。それもまた、広義では老いである。
千年も生きていれば、あらゆる正解がわかるようになる。あるいは、数十年の人生経験でもそうだ。
二十歳の若者らしき、正しい振る舞いを演じるのだって、今のカラザには容易なこと。知りすぎたが故に失われてしまった若さを、この日カラザが取り戻せたのはきっと、同じ立場にありながら自己批難しつつも新たな道を示してくれたアストラと、哀しみの末に踏み出す革命の道を、単なる憎悪に染まらず、正義か否かもわからぬまま進むアトモスだ。
「……そうだな。まさしく、その通りだ」
止まっていた時の流れを、もう一度動かしてみようと思った。地人達の王に対しての思い入れもない中で、それでも知己の地人達を守るためならと、戦いに明け暮れた日々が確かにあった。時が流れ、永き隠遁生活の上に完成した、現代人と時代と異なる自分の年の差を言い訳にして、いつしかそんな過去とは違う自分を作り上げてきた。
戦わぬ事を、生まれた時代でないことを理由に肯定する理屈が、正しかったかどうかに答えを出す。それは、永遠かもしれぬほど長い生の中において、折り返しをも迎えているのかもわからないのに、結論付けられようはずがない。正解を勝手に決め付けるだけし、時流から逃げていただけだと己を知り、再び真の答えを探すことに興味を抱ければ、それは心の若返りと言っても過言ではない。
正しい意味での"生きている"とは、果たしてどうした生を表すのだろう。無意味ではなかったはずの自らの千年間の生の果てとて、新たなる生きる意味を見つけてみたいと思ったその想いは、きっと誰もが三十歳を迎える前、一度は考えてしまうものと大きく変わらない。
「今この時代、この場所で、貴女や貴殿に巡り会えたことに、意味があると信じてみてもいいのだろうか」
「カラザよぉ、人に聞くんじゃなく自分で決めたらどうだ?」
ああ、久しぶりだ。まるで千年前のよう。年の離れた部下に軽口を叩いていた、アストラの声を聞くのは久しぶり。ずっと自分と対等なる者としての言動を、何年も繰り返してくれていたアストラが、まるで優柔不断な年下をなじるような声を向けてきたことには、カラザも心から苦い想いで笑わずにはいられない。そんなに今の私は、お前から見ても格好悪く見えているんだなって。
「……私は臆病なんだよ」
「知っているさ」
何年経っても、人は常に最高たる己ではあり続けられない。せめてこれだけは譲るかとばかりに、アトモスへと近付いたカラザが、彼女に手を差し出した。セシュレスとの最初の握手は、親友に取られてしまったから、せめてこれだけは先んじたい心地がある。
最も親しい者相手にしか抱かない、たいした意味も持たないはずの意地っていうのは、案外何年経っても無くならないものだ。若かったあの頃と、まるで変わらぬように。
「私は、私を信じる。貴女に手を添える、愚かな古代人となった自分自身に対し、やがてそれが正しかったと言えるであろう未来の自分をだ」
「……はい」
恭しき瞳で、決意をあらわにしてくれた同志と手を結んでくれたアトモスの手は温かかった。それはきっと、ここが火に包まれた世界だったからではない。カラザの凍てついた時の流れを溶かしてくれたのは、熱いほどの外気ではなく、自身に声をかけてくれたセシュレスと、導いてくれた親友アストラ。
そして、今をひたむきに生きる若者アトモスだ。自らが歩む道が、正しいものであるのかどうかもわからず、それでも不安を覚えつつも前進することを選ぶ者の生き様は、まさしくこの時のカラザが、千年の時で築いた人生経験と引き換えに失っていたものだ。
大事を為そうとするならば、いつか必ずその正否を問われる。しかし、その道を進む若き志のいくつかこそが、いつか歴史に一つの答えを刻み付ける、新時代への光明に他ならない。無数の恒星が美しき夜空を作るのと同じく、小さな命の数々が為す志ある行動の数々が、人の歴史を紡ぎ、新しい時代の礎を築き、未来を作り上げていくのである。
その真理は、歴史家であるはずのカラザが、当然知っていなければならぬはずのこと。浮世を離れ過ぎていた末、いつしかそんな歴史家の常識すら忘れていたこと、そしてアトモスがそれを思い出せてくれたことが、カラザが傍観者めいた歴史家ぶることをやめ、この時代の当事者となることを決意に至らせた最大の要因だ。
「私の名は、カラザ。貴女達と同じ時代に生きる命運を許したこの長寿を、これほど嬉しく感じたことは無い」
「……アトモスです。先人様の力と知恵を賜れようこの幸運は、私の生涯においても掛け替えのないものだと信じられましょう」
たった一人の女性と出会っただけで、千年来の価値観を覆らせられようなどとは、いつの時代に生きたカラザにも予想できなかったことだろう。一人で抱えて育ててきた、絶対的に強固なる信念ですら、時として他者とのふとした触れ合いであっさり覆ることがあるのは、決して意志薄弱のみをきっかけに起こることではない。心と心の触れ合いは、それほどまでに、どうにもならぬほど大きな力を生み出すこともあるということだ。
長生きは、するものだ。カラザが生来信じてきた、もう一つの価値観である。
 




