第232話 ~スノウとアトモスの話 20年前~
その日のクライメントシティはよく晴れていた。洗濯日和と称するには絶好のお天気で、さんさんと青い空で微笑むお日様の下、物干し竿に干される洗濯物が、昼過ぎを迎える頃には街いっぱいに見られるようになるほどの暖かさだ。外で元気に遊ぶのが大好きな子供達ですら、一部がぽかぽか陽気の下でのお昼寝を選ぶほど、素敵な空模様である。
そんなクライメントシティの一角にて、地人が住まう区画のさらに端の方、小さな家の外にて機嫌よく洗濯物を干す女性がいる。新婚すぐの彼女はここ最近の毎日が幸せで、こんな気持ちのいいお天気でなくたって、今と同じ顔でいただろう。
「ア~トモスっ♪」
「ひゃ!? ちょ、ちょっと、スノウっ……!?」
そんな女性に後ろから忍び寄り、後ろから抱きつくようにしたもう一人の女性が、洗濯物を干していた新妻を驚かせ、その手から洗い立ての服を落とさせてしまう。せっかく綺麗にした服が、地面に落ちて残念なことに。
「もうっ、スノウ! また洗い直しじゃないの!」
「や~、ごめんごめん、そんなびっくりするとは思わなくってさ」
「いきなり来られたらびっくりするよ! 足音も立てずに忍び寄ってきてさ!」
背が低く、顔立ちの穏やかな女性に上目遣いで睨まれたところで、怖くもなんともない。若かりし頃のスノウは、悪びれもないような謝り方をするばかり。怒りながらというよりも、むくれるような顔で落ちた洗濯物を拾った、アトモスと呼ばれた女性は、物干し竿の端に幅を取らないようにそれをかけ、後で洗い直す一枚として仮置きする。
「遊びに来てくれたのは嬉しいけど、洗濯物が終わってからだよ。もう少しで終わるから」
「わかった、待ってる♪」
「せっかくだから手伝うわよとか、そういうのはないの?」
「私そういうのヘタだもん」
「こんなのにヘタも上手いもないでしょ」
奔放な友人スノウの相変わらずな態度に、アトモスは口様だけで責めるふりをして、てきぱきと洗濯物を干していく。元よりアトモスという人物は、自分の仕事は自分でしたがる人なのだ。ちょっとみみっちい性分だとは自覚もあるそうだが、洗濯物だって自分の手で、自分の好みなふうに干した方が楽しいタイプである。誰かがもしも手伝ってくれて、ちょっと自分好みの形に干せなくても文句を言ったりはしないけど。
スノウだって、そういうアトモスの性分は知っているから手伝わない。もっとも、彼女自身も家事やら何やらに忌避感を覚えるほどのものぐさ者であるから、それを言い訳にして傍観に徹しているという部分もあったり。変な意味で噛み合う部分の多い二人なのだが、これもそんな一例の一つである。
「ふぅ、終わりっと。それじゃ、上がっていって」
「は~い、お邪魔します」
スノウは26歳、アトモスは25歳。大人同士の会話にしては、ちょっと互いに人懐っこ過ぎるようにすら感じられる二人のやりとりは、この日の15年前から全く変わっていない。子供同士で出会ったあの時から、何一つ二人の間で交わす話し方が変わっていないせいもあって、両者の間ではお互いの顔が、幼い頃から全く変わっていないようにすら感じるほどである。幼馴染がしばしば罹る、目の疾患とも言えようか。
天人スノウと、混血種アトモス。二人は、数年後の誰かと誰かと同じで、互いを唯一無二の親友だと認識し合う、掛け替えのない間柄だった。
「……引越しちゃうの?」
「うん……あの人ともよく話し合ったんだけど、それが一番かなって思って」
アトモスの家に上がり、紅茶を飲みながら語らう二人のお喋りは、しばらく他愛もないことすら笑いの種にしての楽しいものだった。そんな中で、これからのことを口にし始めたアトモスの言葉をきっかけに、スノウも陽気な語り口を少し薄めて、少し無表情にも近付いていく。
「やっぱりこの街じゃ、私達二人が生きていくにはきついみたい。あの人も、職場で冷たくされるばっかりで、仕事も取られて居場所が無くなってきてるんだって。……覚悟はしてたことだよって、あの人は笑ってくれたけどさ」
「あぁ陰湿、低俗、最低。そんなだから私、天人どもが嫌いなのよ」
「ふふ……スノウだって、天人のはずなのにね」
「一緒にしないで欲しいわ~、傷つくわ~」
「しないよ、しない。スノウは他の天人様とは、全然違うよ」
「ああんもう、嬉しいこと言ってくれるじゃないの~。抱いてっ♪」
「ひっつかないの、もう……」
抱いてと言いつつ自分から抱きついてくるスノウに、アトモスは困り顔で押しのけようとしつつ、その表情には厭が無い。好きな相手、とは言っても対象はアトモス限定だが、こうしてべたべたスキンシップしてくるスノウの性分は、十年以上の付き合いであるアトモスには慣れたものである。むしろあるいは、これでこそスノウだなとさえ。すぐに離れてはくれるのだが、だからって受け入れてしまう辺り、変に慣らされてしまった成れの果てかもしれない。
アトモスには、婚約者がいる。相手は天人の男性、フェイルという名の人物だ。誰と誰が好き合って、結婚し合おうがその当人らの勝手という価値観を持つ一人がスノウなのだが、昨今の風潮では、むしろスノウのような考え方を持つ者の方が異端側である。
なぜならアトモスが、天人と地人の間に生まれた混血種であるからだ。天人は、地人を自分達よりも下の人種であると見下しており、崇高なる天人が地人と血族同士になることなど、汚らしいことだと言って強く忌避する者が殆ど。ましてや、そんな愛の末に生まれた"混血種"という存在は、穢れた血の持ち主として認識され、ただそれだけを理由に白い目で見られたり、いじめられたり、社会的な不利を当然のように強いられたりする。
実際、小顔かつ幼さの残る顔立ちながらも、可愛らしい女性と客観的に見られるはずのアトモスは、町を歩いているだけで、天人達に汚いものを見るような目線を注がれがちだ。まだこの街にいるよ、俺達の前から消えて欲しいよというひそひそ声を、聞こえるように遠くから聞かされることに、アトモスの方が慣れているほどである。
そんな混血種アトモスに、天人の男が惚れ込んで、結婚を申し出てくれたのだ。これは、歴史的に見てもかなり稀有なこと。血筋のうんぬんさえ無ければ、見た目も可愛らしく、器量も良いアトモスに、言い寄る男はもっと多くてよかったはずと、スノウは常々言ってきた。そんな彼女が人と縁を築くにあたり、致命的とさえ言える混血種の現実を超えてなお、求婚してくれた男性がいたのである。しかもそれが天人というのが、アトモスにとっては奇跡的であると同時、哀しくも話をややこしくしている最大の要因でもあるのだ。
混血種なんかと結婚するなど、お前は何を考えているのだと、アトモスのことを屑以下の人種としか見ていない天人達は、フェイルという男を激しく批難する。崇高なる側の天人に生まれたはずの人間が、わざわざ劣等人種と婚姻を結び、対等な家族関係を築くことなど、天人達の価値観においてはあってはならない事なのだ。
それを決して容認したわけではないと見せしめるかの如く、フェイルは今、半ば村八分のような形でクライメントシティの大人達に蔑んだ目で見られ、社会的にも居場所を奪われつつある。親とも縁を切られ、親しかったはずの友人と今や口を利いてもらえないようになることは、他人事でないように想像すれば、なかなかにつらいものだと誰だってわかる。それでも、俺には俺の生き方があると、アトモスの配偶者となることを頑なに貫いたフェイルに対しては、アトモスも、間違った申し訳なさを感じるほどだった。
「……別に、引越しなんかしなくたっていいじゃない。あなた、クライメントシティは大好きでしょう? フェイルさんもこの街の生まれだし、出来れば離れたくないってあなたも言ってたじゃない」
「そうだね……でも、私やっぱり、あの人が肩身狭く生きていく姿を、これ以上見ていられないよ。私は、スノウみたいに強くはないからさ」
「くふっ、私は強いんじゃなくて図太いっつーのよ。それは買いかぶられ過ぎてて変な笑い出るわ」
「あははは、そうなのかな……でも私は、スノウは強い人だなってずっと思ってるよ」
アトモスと語らうスノウもまた、親友より一足先に結婚を済ませた身。それも、天人の彼女が地人とだ。
先述の例と同じく、クライメントシティの天人の価値観は、スノウ夫妻に対しても厳しい仕打ちを向け、スノウと彼女の夫も現在、かなり肩身の狭い生活を強いられている。それでも両者ともにクライメントシティの生まれであり、生まれ故郷を愛してやまないスノウ夫妻は、街を出て行かずに細々と暮らしている。天人ながらもスノウらに対して理解を示し、よく接してくれる年上の女性フェア――彼女もまた、天人達の間では異端と蔑まれる立場となりながら――など、良き人物に巡り会えたことも、スノウらを支えている一因だろう。
スノウ夫妻は、たとえ村八分にされようが知ったこっちゃないと態度を一貫し、このクライメントシティに死ぬまで過ごし続ける覚悟でいる。夫に、俺が地人なせいでお前までと言われても、バカなこと言ってないでもっと積極的に子作りするわよと言い返すのがスノウであり、それをスノウは図太いと自称しているだけ。アトモスからすれば、それが人間的な芯の強さだと思うのだが。
しかし、厳密にはスノウとアトモスは違う。スノウは夫に地人を自分で選び、その結果夫婦ともども冷遇されようが知ったこっちゃないという立場。アトモスは天人に選ばれたことで、その結果、夫の方が理不尽な差別を受けることに耐えられない。主導した側とされた側で、心持ちというものは全く異なる。アトモスには、夫が何と言ってくれようと、これ以上この街で過ごしていくことが申し訳なく、耐えられなくなっていた。
「引越しは、一週間後ぐらいになると思う。アボハワ地方にこないだ行った時に、私達を受け入れてくれる村を見つけてきたの。向こうには天人様もいないし、私達も第二の人生を歩んでいけるかもって、思えたの」
「あんた達が決めたことなら、いいけどさ。やっぱり私はすっごく面白くないわ」
スノウに言わせれば、好きな人と結ばれたというだけで、住む場所を移らなきゃ楽しく過ごせない境遇を強いられる理不尽な風潮が、たまらなくむかつく。結局のところ、スノウだって、アトモスがそういう決断を選んだ時点で、最も親しい親友と離れて過ごさなきゃならない結果を迎えさせられている。不条理な世相に、親友と引き離されたという実害を被っている時点で、スノウが苛立ちを感じる筋合いはちゃんとある。
「あの、さ……スノウ。お、怒らないで聞いてね?」
「怒る。さぁ言って?」
そんな前置きするぐらいなら、怒られるようなことを言うつもりでしょって、スノウも笑いながら答えたものだ。ばつの悪そうな顔を伏せ、膝の上に握り締めた拳に力を入れたアトモスは、恐る恐るというふうにスノウを上目遣いで見る。
「……離れ離れになっても、私とまだ、友達でいてくれる」
「よし許さん。レイプしてやる」
「ちょちょちょちょっと!? スノウっ、やめっ……あはははっ、やめてえっ!!」
何年来の付き合いだと思ってるんだとばかりに、この期に及んで水臭いことを言ってくる親友へ、攻撃する口実を得たスノウが一気に組みついていく。服がはだけそうなほど乱暴にくすぐりにかかる。脇腹が弱いことも知っている。親友同士だからって、そんなことまで知っているのもどうかと思うが。
「あんたは私のこと、そんな薄情な奴だと思ってたんだ~?」
「ひゃううっ!? お願いゆるしてっ、もう勘弁……」
「スノウとは一生友達だよって言いなさい、あんたの口から。ほら言いなさい、今すぐ。でないとやめない」
「とっ、友達だよおっ! スノウは私の、友だ……あははははっ、ちょ、手を止めてえっ!」
最後まで言うのも苦しいぐらいくすぐりが強烈で、笑いすぎて涙すら出るアトモスが、先にそっちがやめてと必死で訴える。やめない親友である。たとえ本気のそれではないとはいえ、心外な薄情者認定をされかけた者の恨みとして、愛しいこの友人と自分らしく戯れ合うこの絶好の機会、やめてしまっては勿体ないとでも思っているのだろう。好きが暴走して攻撃的にすらなると、なかなかに怖い。
「ふふふ、思い知ったか。今度そんなこと言ったらもっとひどい目に遭わせるからね」
「は、はいぃ……すみませんでしたぁ……」
はぅはぅと息を乱すほどまで攻め嬲られたアトモスが、骨抜きにされて床に寝そべるのを見下ろして、スノウも満足げ。熱烈な愛をやり過ぎな形で表されたアトモスは、その心意気を素直に喜べない程に疲れ果てているのが残念なことで。照れ隠しだかなんだか知らないが、ここまでやらなくてもいいでしょとは正直アトモスも思う。
だけど、混血児であった自分との初めての友達になってくれて、大人になった今でも、混血児と付き合いを持つ天人として白い目で見られながら、親友であると言ってくれるスノウ。一緒にいても、破天荒な彼女に振り回されることが多かった。それでもそばに、い続けてくれたのだ。アトモスと友達になることで、多くの友達を失うことになっても、あなたは素敵な人、私の友達でいてねと掛け値なく言ってくれるスノウが、たまらなくアトモスにとっては救いであり続けてくれた。十五年もだ。
「……スノウ、私ね」
「な~に?」
「私やっぱり、あなたと友達でいられて、本当に幸せだよ」
「んふふ、気が合うわね。私もおんなじよ」
いつか誰かが、人生を幸せに生きるために、最も大切なものは"友達"だと言う。アトモスも、同じ考えの持ち主だ。それを彼女に教えてくれた一人は、間違いなくスノウだった。
二人にとっての最大の不幸は、知らなかったことだ。天人達の、混血児における嫌悪感というものが、二人が思う以上のものであったことを。スノウも、アトモスも、知っているつもりだった。天人のスノウと地人の男性が結ばれ、そんな二人が社会的な迫害を受ける実情は、確かに理不尽かつ執拗なものだったが、それでもスノウは耐えられた。
だから二人は、それが"上限"だと思っていた。それ以上に、ひどいことにはなるまいと。それが、大きな間違いだったのだ。
「セシュレス様、ありがとうございます。こんな、畑までついた立派なお家をご紹介頂いて……」
「何と感謝を申し上げればいいのかわからないぐらいですよ。本当に、ありがとうごさいます」
「感謝する謂れがあるとは思えないがね。むしろその畑をしっかりと耕して、村の生活に貢献する条件つきで迎えるのだから、君達には強制される仕事が増えているぐらいなんだぞ?」
アボハワ地方の中央区、クリマートの村と呼ばれる地。新たな夫婦の愛の巣となる家の前で、アトモスと彼女の夫、フェイルが一人の商人に頭を下げている。この時はまだ若く、50歳を迎える少し前であり、働き盛りの商人としての生活を営んでいたセシュレスが、礼儀正しい夫妻の前で微笑んでいる。
天人達の寄り付かないアボハワ地方にて、小規模ながらも力のある商団を纏めていた、いわば大商人とも言えるセシュレスと、ふとした縁で巡り会えたことは、アトモス達にとって幸運なことだった。二人の境遇を聞き及び、だったら私が商域とする村の一つ、クリマートの村に空き家があるからそこに暮らしてみないかと、提案してくれたのがセシュレスだったのだ。
天人と地人の夫婦というのは、正直どこに行っても肩身が狭いのである。地人達はそういう夫婦に対しての嫌悪感を感じることはほぼ無いが、そういう"天人様が嫌う番"と仲良くしていると、天人様から自分達もきつく当たられてしまうから、地人達も今のアトモスらと近付くのはしづらい。
そこで、差別に苦しめられる気の毒な夫婦がいるからと、クリマートの村に口を利いてくれたのがセシュレスだ。アトモスが、クリマートの村の生まれであることも、村人達の承諾を得られる良い材料になった。
「それに、クリマートの村の人々も、君が帰ってきてくれることを喜んでいたよ。あの時は申し訳なかった、帰ってきてくれて嬉しい、償いをさせて欲しいと言っている。もしも君達が、二人揃って風邪を引いてしまって畑を耕せないことがあっても、代わりにやると言ってくれる人すらいるんじゃないかな」
「そんな、申し訳ないですよ。私達が受け入れて貰う立場として、村に少しでも恩返しをしないと気が済みません」
「ふふ、そう言うだろうなとは思っていたけどね。君ならやはり、この村でも上手くやっていけそうだ」
アトモスはかつて、天人の母と地人の父のもと、この村で生まれた混血種だった。しかし、混血児が住まう村だという理由で、当時この村には天人からいくらかの嫌がらせをされてきたのだ。商業のルートを狭められるだとか、関所の関税に口を挟まれるやら、まったく関わりも無いお偉い様、逆らえない天人様にあれこれ口出しされたあの過去は、間違いなく"混血児がいる村への嫌がらせ"でしかなかった。
アトモスが9歳になった頃、村人達はアトモスと彼女の母を呼び出した。もう我慢の限界だ、すまないが君達はこの村から出て行ってくれないかと、形式上は頼むように、本質は追い出すことを意味した言葉を発してきた始末である。この前年に、アトモスの父は病死しており、心の傷の残る親子には、あまりにむごい仕打ちであった。
アトモスの母は、クライメントシティに住まう天人フェアと友人同士であり、すがるようにクライメントシティに移り住んだ。クライメントシティ生まれのスノウと、アトモスが出会えたのもそのおかげだ。さらには余談ではあるが、フェアはその実セシュレスとも年の近い知り合いであるというのだから、世間ってやつは案外狭いものである。
そんな経緯もあって、クリマートの村の住人達、特に老いた者達はアトモスに対して良心の呵責を感じる部分が強く、アトモスらをそこそこ優遇する心構えも既に固めているぐらいだった。それに甘んじる自分を潔しとせず、お世話になるんだからちゃんと働きます、村に貢献しますと謙虚なアトモスなのだから、セシュレスも微笑ましい一方で、驚きすらするものである。
差別され、虐げられた立場ながら、よくもまあ腐るか歪むかもせず、ここまで真っ直ぐ育った大人になったものだって。早世したアトモスの母親とも知り合いだったセシュレスは、かの母、ならびにフェアという、彼女を育てた女性達の偉大さを、間接的に感じずにはいられない想いである。
「君達の人生に、幸あらんことを。子供が出来たら教えてくれよ? 祝儀はもう、用意してあるんだ」
「いえいえ、そんな! 流石にそんなことまで……」
「ははは、君は優しくされると恐縮してしまう性分だな。親しい者にも、よくそう言われるのではないか?」
セシュレスの言葉に、アトモスの隣に立つフェイルも小さく笑ってしまう。結婚して、対等な関係になったというのに、気を遣ってあげるとわたわたして、すぐに恐縮して縮こまるアトモスをもう何度見てきたかわからない彼だから、余計に笑わずにいられないというもの。出会ってそう長くないセシュレスに、それをあっさり見抜かれる妻の姿を見て、わかりやすい子なんだなとも、あるいは商人様の目は本質を見破るのがやはり上手なのかなとも、色々考えてしまう。
「幸せに、慣れていきなさい。血筋が君を苛んでいた過去を、当たり前のものだと思わないことだ。君が誰かに愛されたことは、ひとえに君の人間性が培ったことであり、自信を持つべきことのはず」
「…………」
「愛される者達にもたらされる幸せこそ当然であるべきだ。私が君をそう認めていることを、忘れないでくれたまえ」
貴女を見る一人の男が、そう思っているんだよと。自信を持つために理由が必要なら、たとえささやかにでも、その事実をきっかけに使って欲しいとセシュレスは言っている。誰かの言葉が人の胸を動かす時というのは、その言葉が適切な語彙力で表されているかどうかは、最も大きな要因ではない。真っ直ぐであるかが一番大切で、セシュレスの言葉と眼差しは、目の前のアトモスに対して真っ直ぐだ。
「……はいっ」
「本当に、ありがとうございます」
泣き虫なアトモスが、少し瞳を潤ませながら、それを隠すようにお辞儀したのと同時、フェイルも深々と頭を下げた。良き出会いに、そして、幸せな夫婦生活を約束して貰えたことに対する感謝を、この一礼だけでは表し足りぬほどだった。村を歩く通行人が、新たなる隣人の姿を遠目に眺めながら、微笑ましく見守っている光景もまた、アトモス夫妻の明るい未来を象徴しているかのよう。
誰も、疑ってなどいなかったはずだ。アトモスも、フェイルも、セシュレスも。この幸せは、死が二人を分かつまで続くものだって。
確かにそれは、間違っていなかったのだけれども。だけど。
運命の日は、ある時、唐突に、何の予兆も無く、アトモスに訪れる。彼女とフェイルがこの村に住むようになってから、三年目を迎えた頃である。
「ふぅ……遅くなっちゃった。あの人、お腹すかせているだろうなぁ」
この日アトモスは、クリマートの村を出て、隣村を訪れていた。最近フェイルと、家の軒先に花壇を作ってみようかという話をしていたアトモスだが、いかんせん新天地では慣れない仕事に尽力することもあって、花の種を買いに行く暇が作れずにいた。品揃えよく、花の種を売ってくれる場所といえば、ここクリマートの村より隣町の方が有力だったので、いつか暇が出来たら二人で買いに行こうと結論付いていたのである。
ちょっと我慢できなくなってしまったのか、今日はフェイルが村役場に用事があるという事情の中、アトモスは抜け駆けするような形で、一人で隣町へと赴いていたのである。"永遠の愛"の花言葉を持つ、紫のチューリップを咲かせる球根を手にして帰るアトモスは、我慢できずに一人で行ってごめんねと、喜んでくれたら嬉しいなの、二つの言葉を用意して、少し急ぎ足でクリマートの村の我が家へと足を急がせていた。
「すみません、こんな遅くに……」
「アトモス……!」
夕過ぎの時間に、村の関所を守る村人に仕事を増やしてしまうことを詫びかけたアトモスの前、その村人は帰ってきたアトモスを目にして表情を変えていた。思わずびくりとしてしまうほど、血相を変えた村人の表情には、遅い帰りを申し訳なく思っていたアトモスに、怒られる、すみませんの二念をすぐ脳裏に浮かべさせる。
だが、そうじゃない。落ち着いて聞け、という前置きを置いて、今、村で何が起こっているのかを聞いたアトモスも、みるみるうちに顔色が変わっていく。血の気が引いたと言ってもいい。制止する村人の声も聞かず、我が家に全力で駆けていくアトモスを、誰も止めることが出来ない。
やがて、辿り着いた、愛する人と暮らしていた新しい我が家。昨日までで、目に慣れ始めていた新居は、すでに形を殆ど残しておらず、今もなお現在進行形で崩れ落ちていっている。そこにあったのは、木造の質素な家が炎に包まれ、その周囲を天人達が取り囲んでいる光景だったのだ。
「ようやく帰ってきたな……!」
憎々しげにそう言い放つ、アトモスの新居を取り囲む武装した大人達の一人が、アトモスに振り向いてそう言っても、その言葉は彼女の耳に届いていない。呆然とし、見開いた目で前に進めず、燃え盛って崩れ落ちていく我が家を離れた前にしたアトモスは、幸せだった日々が一変した現実に頭がついていけなかった。
家の前に、倒れた誰かの姿があった。剣で背中から貫かれ、串刺しの形で胸を下に倒れた男。顔は見えずとも誰なのかわかる。自分を妻に迎えてくれたあの人を、どんな角度から見たってわからぬはずがない。
「混血種の薄汚い女狐め……! 貴様のような、天人の血を穢す者を、我ら天人が見過ごすとでも思ったか!」
「クライメントシティを離れれば、安穏と暮らせるとでも思っていたなら大きな間違いだ! この世界に、貴様のような奴の居場所などどこにもありはしない!」
天人。混血種を忌み嫌う彼らの感情は、道徳すらも捨ててアトモス達を追ってきた。あまりの非道にクリマートの村人らが、殺気立った天人達から隠れるように離れつつも、なんということをするんだと憤慨と悲しみを覚える中、罵声を浴びせられるアトモスは微動だにしない。手足も、体も、表情も。
「恥ずべき愛とやらを肯定したこの男も同罪だ……! まったく、天人の恥晒しが!」
既に命を失ったフェイルの頭を、アトモスに対する見せしめのように、天人の一人が蹴飛ばした。がくんと首が人形のように揺れ、頬を下にして頭を横にした彼が動かない事実は、より鮮明に、信じたくない現実が、揺るがない本物の現実であるとアトモスの目に映される。
ぷつ、とアトモスの中で何かが千切れたのはその時だ。彼女自身にも、無自覚のうちにだ。
「混血種よ、覚悟は出来ているか……!」
数名の武装した天人達の中、一人が剣を鞘から抜いて、離れた位置のアトモスに一歩近付いた。その瞬間、まるで風のように消えた彼女の姿を、誰一人としてその目で認識することは出来なかった。
クライメントシティからアトモスが出て行き、地人しかいない、天人のいない地に移ったことは、ある意味では二人に希望を抱かせ、同時に天人達にも希望を抱かせてしまった。
一部の天人達の価値観は、天人であるフェイルと、混血種であるアトモスが結ばれるという事象を、どうしても受け入れられなかった。あわよくば、そんな二人には目の前からだけでなく、この世から消えてもらいたいとさえ思っていた。天人と地人が結ばれたなど、そんな出来事は無かったことにしてしまいたいほどに。
クライメントシティ、つまり天人らの目が届く地では、強行的な手段でアトモスらに手を出すことが出来なかった。なぜなら天人達とて、殆どが混血種に対する嫌悪感を示す者であるのは確かだが、だからと言って殺してしまえとまで考える者となれば、流石に数が限られてくるからだ。
アトモス夫妻の抹消すらをも望む過激派も、思い切った手段に出てしまいたい衝動を堪えていたのは、そうした場合、流石に身内である天人間でも議論の種になることを自覚していたからである。理不尽な世の中、不条理な世界下にも、無自覚に当然の如く差別を行なう者達とて、良心なるものが存在するのは確かな事実なのだ。
過激派どもは、自分達の行為が、周りにどう見られるのかを知っていた。決行に踏み込んだ時、周囲に自分達の行為が知れ渡った時、流石にやりすぎだろうと批難されることを危惧した彼らは、自分達の行いを身内に隠せる環境が整ったことを、これ幸いとしてクリマートの村まで来たのだ。
これほどまでに、非道徳的な思想と実行力を持った天人達がいようことなど、まともな神経をした者達が、どうして事前に想像できようか。
アトモスらがクライメントシティを離れ、地人達のみが暮らすアボハワ地方に移り住んだことを知った過激派は、アトモスらが住み移った村を特定した。身内の目が届かぬ地で、自分達の目的を果たせると思ったのだ。決行の日、偶然にもアトモスが村を出払っており、フェイルだけがいる家に押しかけてきた天人達は、フェイルに信じられぬという顔をさせたものだ。突如現れたその者達は、クライメントシティで顔の見たことのある兵達だったのだから。
何か言われる前にすぐ、フェイルには何が起こったのか、武装した天人達の目的がわかった。自分の命がここで終わることもだ。戦う力も持たぬ丸腰の人間に、言い残すことはあるかと剣を抜いて問いかけた天人に対し、フェイルが口にした言葉はただ一つ。
俺は、アトモスを愛している。
この日、アトモスが出払っていたことは、あまりにも哀しい偶然だった。この場にアトモスがいたならば、武器から自分の命を守れぬフェイルを、アトモスが守り通すことも出来ていたであろうという仮定からも。アトモスへの愛を最期まで貫いた、彼の魂の叫びをアトモスが耳に出来なかった事実からも、間違いなくそう断言することが出来る。
残された結果は、ただ一つである。天人達の差別的な価値観は、やっと幸せな人生を歩んでいけると思った女性から、最愛の人の命を奪っていったのだ。
「なんという……」
この日、近隣の村の宿にて弟子と夕食を取っていたセシュレスは、駆けつけて何が起こったのかを伝えてくれた耳の早い商人の言葉を聞き、ただちにクリマートの村に駆けつけた。馬を全力で駆けさせて、加速を促す鞭を何度も振るってだ。アトモスをこの村に導いた人物であり、彼女と親しかったセシュレスに急報が最速で伝わったのは、良いことだったのか悪いことだったのか、今となってはわからない。
夜になり、ようやく二人の家の前に辿り着いたセシュレスの目の前にあったもの。ずたずたに引き裂かれた天人らの亡骸、火が消えて炭の集まりとなった焼け跡の家。
そして、血みどろの配偶者に膝をついて顔をうずめ、愛する人の血に手を染まらせながら、すすりなく女性の姿。無惨なる姿に変えられた天人達を、こうしたのがアトモスだと悟らされる状況に息を呑んだのも、せいぜい一割の感情だ。
そろそろアトモスが身ごもって、彼らを祝いに行ける日が来ないかと、商売仲間らと夢を膨らませていたセシュレスにとっても、あまりに目の前の出来事はつらいものだった。その感情を超える想いなど他に無い。
かける言葉を見つけられず、近付くセシュレスが膝をつき、アトモスの背中に手を添える。優しいぬくもりを認識することも出来ず、誰かに触れてもらえただけで、それはさらにアトモスの心により強い悲しみを生み出してしまう。アトモスの泣く声が大きくなる。絶望した人間にもたらされる外界の刺激は、どんな些細で何も生み出すはずのないものであっても、誰もあらかじめ予想できないほどの感情を引き起こしてしまう。
顔を上げられず、涙と泣き声をさらに溢れさせるアトモスのそばを、この日セシュレスは離れることが出来なかった。とめどなくフェイルの体に滴り落ちるアトモスの涙は、彼の体を真っ赤に染める血を広げるだけで、深すぎたアトモスの心の傷から流れる血を洗い流すことなど叶うはずもなかった。
穏やかで、優しくて、混血種でさえなかったら、きっと多くの人に愛されて、幸せに生きていたはずの人物。それが、天人への敵意をはっきりと胸に刻み、このような悲劇の起こる世界を一変させんと決意したのが、まさにこの日の翌朝のことだった。
魔女アトモスという複合語を、スノウがセシュレスが耳にするたび嫌な顔をするのは、この日の悲劇を知るからだ。本当の魔とは、いったい誰のことだったのだろう。二人には、そう思えてならないからだ。




