第231話 ~カラザとアストラの話 X年前~
しんしんと雪が降る山奥の一角。一人の男が白い雪の積もった木の高所、太い枝の根元に体を寝かせ、小さく寝息を立てている。深緑色のローブに身を包み、同色のフードで目を覆った彼は、近付いたところで口元しか見えないような首の上で、両手を枕代わりにして睡眠中だ。
異質であるのは彼の腰より下が、人の脚ではなく蛇の長い胴体であること。それをぐるりと、自分が寝そべる太い枝に巻きつけて、万一寝返りを打っても落ちないようにしているのが、彼の特殊な体の為せる業である。
「カラザ様!」
「……んむ?」
お昼寝真っ只中の彼を下方から呼ぶ声が、鼻ちょうちん寸前の深い眠りについていた彼を目覚めさせ、フードの下で開いた目をこする動きが続く。くぁ、とあくびをして、上半身でごろりと寝返りを打った彼は、下半身が枝に絡みついたままで上体だけが枝から転がり落ち、自ら逆さ吊りの姿になって地上に目線を送る。
「探しましたよ! まったく、こんな所で油を売っておられるとは!」
「むぅ……たいして時間も過ぎておらんではないか……」
呆れるような顔で下方から自分を見上げてくる男を見下ろし、カラザ様と呼ばれた人物は、沈むまでまだかかるはずの太陽の位置を見てぼやいた。せいぜい半刻ほどの時間の居眠りだというのに、身内どもはなかなか自分をサボらせてくれない連中ばかりで、毎度のことながら参ったものだと頭をかく。逆さ吊り状態のままで。
しゅるりと枝に巻きつかせていた下半身をほどき、頭を下にしたまま地上に落ち始める中、空中でぐるりと半回転したカラザは、蛇の下半身で地上に着地する。体を少し傾けて、広い面で地面に落ち、高い所から落ちても体を痛めないような衝撃の逃がし方を、上手にやっている理屈らしい。便利な体である。
「アストラ様が探していましたよ。今すぐ来て欲しいと」
「面白い冗談だな。あいつがそんなこと言うわけがあるまい」
「ですが、察すればそういうことです」
からかうような笑いを浮かべていたカラザも、そういうことなら納得もいくと、鼻息だけで少し溜め息をつく。そう言われてしまうと、カラザとしても無碍に扱うことは出来ず、じとりとした目で自分を見てくる男の前、肩をすくめて観念した表情を浮かべる。
「わかった、わかったよ。すぐに行くから、お前は先に……」
「今すぐ参りましょう、私も付き添います」
「むぅ……私はそんなに信用ならんかね……」
「なりません。ほら、きびきび歩いて下さい!」
寄り道しながらだらだら帰ろうと思っていたカラザも、尻を蹴ってきそうな勢いで後ろから詰め寄るように歩く男により、前に進むことしか出来なくなる。蛇の下半身をしゅるしゅるとくねらせながら進むカラザを、彼の部下の一人である男は、逃がしてなるかと見張り続けていた。
昨今の戦況が芳しくないのはわかっている。マイペースを自覚するカラザも、今は周りがぴりぴりする空気であることには納得がいっている。天人軍勢の攻勢はここ最近著しく激しさを増し、地人達の軍勢が、里が、いくつも壊滅させられた事実が多くなってきた。今のままでは、やがて地人達の王が住まう都まで、天人達が辿り着くのも時間の問題だろう。
千年後には、天地大戦という名で呼ばれるようになる、天人軍勢と地人軍勢の覇権を懸けた戦争。その時代に生きた人物の一人であるカラザはこの頃、二十歳を過ぎたばかりの若者であった。
寒い山奥に建てられた小さな山小屋で、一人の大柄な男が暖炉の前で本を読んでいる。歴史書を読むのが好きな彼は、過去の兵法を記した軍記を読むのが特に好きで、軍事に携わる者として勉強を欠かさぬ意味合いではなく、趣味でそういった本に目を通すことが多い。暖炉の火に近くして、戦わぬ時から重装鎧を身につけている彼の風貌は、よくそんなもの身につけて普通に過ごせますねと部下に言われやすい。
「アストラ様! ただいま戻りました!」
「んん? おぉ、ご苦労……っと、カラザも一緒か」
「ご機嫌よう、隊長どの。不本意ながらお呼ばれ馳せ参じた」
まあ相変わらずの友人だことだ。地人達の大隊を率いる隊長であるアストラに、名目上はその部下である一方、せいぜい会釈と中途半端な敬語めいた口程度しか表さない、いかにも不遜な十歳年下。筋骨隆々の体つきと比べて非常に似合うほど、彫りの深い強面のアストラは、年上の部下でも怖くて声をかけづらいほどの人相だというのに。生意気な口を利いたら殺されるんじゃないかってぐらい、かたぎ離れしたよれよれ黒髪の軍人アストラを前にして、こんな軽口を利けるのはカラザぐらいのものだろう。
「まあ別に呼んではおらんかったのだが」
「だが、呼ばれた気がした」
「確かに来て貰えれば嬉しいとは思っていた」
含み笑いを浮かべて本を閉じるアストラに対し、フードを脱いだカラザも小さく笑う。カラザをここまで引っ張ってきた若者には割って入れない、年の離れた友人同士、カラザとアストラの世界だ。
ご苦労、退がっていいぞと、カラザを呼んできてくれた部下に言い、席をはずさせるアストラは、カラザが自分から来たのではなく、部下に呼ばれて来ただけなのもわかっている。こいつ、確かに勘はいいけど、こういう時に積極的に動いて気を遣ってくれるような奴じゃないとは知っているから。
山小屋にて二人きりになったカラザは、しゅるりとくねらせた蛇の下半身を変容させ、人の二本脚へと形を変える。近場にあった椅子に座って、少々の距離がある位置でアストラの方を向いて、腰掛けて脚を組むのであった。相手は仮にも名目上、自分の上官だっていうのに。
「河の向こうの連隊が壊滅したという報せは聞いたか?」
「聞き及んでいる。もう、駄目だろうな」
「ああ、まったくだ。もう駄目だ」
部下の前では話さないような、絶望的な戦況を確認し合う中、二人とも楽しい世間話をするかのように表情が柔らかい。笑ってすらいる。気が触れているわけではない、この二人はいつでもそうだ。
アストラが率いる、カラザを含めた二百人ほどの地人の兵を纏めた大隊は、今かなりの窮地に陥っている。雪の降るこの山に駐屯し、北より攻めてくる天人達を迎撃する役目を担い、敵軍に山越えをさせぬよう果たすのが、この大隊に授けられた使命。敵がこの山を超えれば、いよいよ地人達の王が住まう都への距離も短くなってくるところであり、ここは都を北からの軍勢から守るための最終防衛線と言っても過言ではない。
そんな大事な場所に、たったこれだけの兵力しか用意できぬ状況であるのが、既に地人軍勢すべてが相当な危機的状況にある表れとも言えた。地人の兵力は王都近辺に厚く配され、ここは王都への道を阻む防衛線の中でも最も手薄な場所としてある。
具合悪く嵌まったことに、勝負を懸けた天人軍勢は、北から攻め入る軍勢にかなりの兵力を割いてきた。戦争では、時々互いの読み合いの噛み合わせから、明らかに不釣合いな兵力数同士がぶつかり合うことが稀にある。この最悪のくじを引いたのがアストラ達であり、北から攻めてくる敵兵の数は、アストラ達の擁する兵力数の何倍もという状況である。
「一応箴言はさせて貰うが」
「撤退して、王都側の友軍に合流するのも手だという話だろう?」
「お前はそれを好まんと思うがね」
ははっとカラザの言葉に笑うアストラは、お前は俺のことをよくわかっているなという表情だ。今の状況、アストラはこの山から撤退し、後続の軍に合流して、余裕のある兵力で、山越えを果たしてきた天人達を迎え撃つという選択肢もある。きっと、その方が堅実だ。この少ない兵力で天人達を迎え撃つことは、圧殺されて山越えを容易に許してしまうという、この大隊の犬死にめいた結末を招く可能性が高い。
「なあアストラよ。さっきの奴が、どこの生まれか知っているか?」
「あいつに限ったことじゃない、確か60……いや、70人ほどがそうだよな」
「73人だ。山のふもとのあの小さな村で生まれた奴が、俺の部隊には随分と多く含まれているんだよ」
アストラ達が防衛線を張るこの山の後ろには、畑の多い田舎村がある。アストラ達が撤退し、都への道を天人達に譲れば、間違いなく天人達はその村を通過する。敵軍に占領された村の末路は、言わずもがなで予想できること。
「やすやす引き下がって、かの村を天人達に明け渡してやることなんて、あまりに酷だと思わんかね」
「オゾンがそういうふうに采配しているのもわかっているだろう。あいつはお前の人の良さと、兵の故郷愛を利用して、お前や私をここで捨て駒にするつもりだと明らかではないか」
「オゾン様と呼べ、一応な。いけ好かん暴君だが、仮にも敬称はつけておいてやるもんだぞ」
「一応、ねぇ。仮にも、ねぇ」
二人ともふふふと笑って、地人達の王オゾンに全く敬意を払っていないお互いを楽しみ合う。気が合う仲間と話すのは無条件で楽しい。他の地人達は、オゾンを呼び捨てにしている自分達を見るとびくびくするばっかりで、こうした空気で話せる相手は極めて少ないのだ。それだけ、オゾンが暴政の君として恐れられる人物であったということでもある。
「幸い、これだけの追い詰められた状況であっても、大半の兵はやってやるという士気を保ってくれているのでな。だったら、ここで逃げの手を打つのも無粋というものだろう」
「勝算は?」
「ねぇよ」
「あれよ」
「後から作ればいい」
「いいな、それは」
戦時中の、しかも追い詰められた戦況下での会話とは誰も思うまい。仕舞いには煙管に火をつけて煙を吹かせるカラザの態度といい、本を開いてさっきはどこまで読んだかなと、しおり位置を探し始めるアストラといい、平和な時代に実家でくつろぐ態度と殆ど変わらない。
「恐らく、明日には河の向こう側の友軍も壊滅するだろう。明後日か、その翌日が、俺達が天人どもを迎え撃つ運命の日になりそうだ」
「同時に、命日かね」
「多分な。それもまた宿命よ」
「これだから軍人は。命を大事にしろと親から教わらんかったのかね」
「おふくろに頼まれたって、俺は戦場から逃げることだけはせんだろうな」
「親不孝な奴だ。天国でおっかさんも溜め息をついてるぞ」
「そこは、泣いてるぞとでも言うものではないのか」
「お前の母親なら、そういうお前のこともよく知っているだろうよ。だったら今さら泣かんだろう」
「違いない」
「私は、まずいと思ったら逃げさせて貰うぞ? 長生きはしたいのでね」
「俺の隊では敵前逃亡を禁止しておらんから安心しろ」
「そういう所だけは軍人らしくないんだな、隊長様よ」
「居心地はいいだろう?」
「まったくだ、ありがたい」
100時間後には生きていない自分をほぼ確信しながら、残された時間の中でアストラが笑う表情に、カラザも微笑まずにはいられなかった。
自分とアストラは考え方が違う。根っからの武人であり、戦場でのものであるならば、死さえも潔しとするアストラと、長寿とその末に何かを遺していくことを重んじるカラザ。死にたがりとその逆が、親友同士であるのも奇妙なものだ。その価値観においては、否定し合ってお前とは合わないよと互いに言ってもおかしくない二人が、双方の人生観を肯定し、お前はそうあれ、そんなお前が友人で楽しいと認め合うのがこの二人である。
やがて二人は酒まで飲み始め、見張りを部下に任せて自分達は夜話に花を咲かせる始末。後から部下がここを訪れ、こんな時に何やってるんですかと呆れても、お前らも飲め飲めと酒を勧めるアストラがいるから困りもの。やれやれと溜め息をついて、一杯か二杯だけ付き合う部下が一人、また一人。代わる代わるでアストラとカラザの酒席に付き合わされる。
「例の村は確か酒も旨かったな。ちょっとひとっ走りして買ってきてくれんか?」
「今はそんな場合では……」
「固い事を言うな、隊長様の命令だぞ?」
「そうだ、俺の命令だ。朝になったら頼むわ」
「命令って、それマジなんですかね……」
「マジだマジだ、頼んだからな、忘れるなよ」
緊迫感のある連日の警備から、一抹でもその戦場空気から解放された部下が、陽気な上官の姿につい笑ってしまうことが、武人から険を奪って一人の人間の顔に戻してくれる。可愛い部下のそんな顔を、眺めるだけで肴にしてしまえるカラザとアストラだから、こんな絶望的な状況でも部下達が、二人の下から離れようとしなかったのかもしれない。
千年前の、たった一日の思い出。遥か未来で長寿に生きたカラザとアストラが、忘れ得ぬ記憶の一つである。
やがて、直面しなくてはならない現実は訪れる。アストラ達が構える山へと天人達の軍勢が押し寄せて、数に任せて地人達の防衛線を突き崩してこようとしているのだ。
アストラとカラザを中心とした少人数の部隊の場所へ、天人達が到達するのも時間の問題だ。軍師カラザがこの山に散らせた地人達も、ある場所では皆殺しにされ、ある場所では死を目前にした抗戦を続けており、戦況は芳しくないの一言を通り越している。全滅は時間の問題と言っていい。
「空軍部隊はほぼ壊滅……! もう、無理です!」
「…………」
「もはや戦える兵の数は百を切っています……! 撤退命令を!」
「…………」
隊長であるアストラに、逃げることを懇願する者達は、この山の後方にある村が故郷でない者達だ。勝ち目の無い戦だと、誰もがわかっている。山の後方の村に思い入れの無い者達が、退却したいと考えるのは自然なことだ。そんな部下に囲まれる中、アストラは腕を組んだまま、黙ってたたずんでいる。
「……アストラ様!!」
堪りかねた部下の一人が、とうとうアストラのすぐ前に足を踏み出して、退却命令を口にして欲しいという顔で懇願する。
逃げたい者は、勝手に逃げてもいいのがアストラの率いる部隊。なにに部下達は、アストラが撤退命令を下すまで、自分の意思で撤退することを選ばない。長くアストラの部下として働いてきた軍人達はみんなそうだ。死にたくない、逃げ出したい、だけどこの人だけを死地に残して自分だけが生き延びることを選べない。尊敬してやまない人が、命を粗末にする人物だと、忠誠心を糧に従う者達は本当に苦しい。
アストラは何も言わず、微笑んで、目の前の部下の頭に手を添え、大柄な自分を見上げる部下を見渡す。本当に、自分には勿体ないほどの部下に恵まれたと思う。死を目前にした部下の恐怖、生きて帰れぬ悔しさ、それを皆これだけ表情に表しながら、自分が退がらぬ限りはこいつらは引かないのだ。自分と命を共にすることを、我が身可愛さよりも優先してくれる部下は、なんと愛しいものだろう。
「さあ、行こうか」
「アストラ様……!」
「はっ、しけた顔をするな。勝ち戦だぞ?」
最後の戦いを目の前にし、酒瓶を開いて一杯あおる隊長の立ち姿。周囲の兵も、彼の決意に殉ずる覚悟を決めたのか、歯を食いしばるものもいれば、死に向かう自らの悲運を呪って雪を蹴り上げる者もいる。結局、誰も逃げないのだ。一蓮托生を掲げたこの者達の信念は、格好つけただけの金看板だけを謳ったものではない。
「故郷の女達も、天国の俺達にシャンパンを打ち上げてくれるさ。やろうぜ、モテなかった軍人どもよ」
歩きだしたアストラと、腹を括ってついて行く兵の最後尾を、カラザは恭しい笑みを浮かべて歩いていく。兵の一人が前に踏み出せず、涙ながらにカラザを呼び止め、雪に頭をこすりつけて謝る一面もあった。殉死を選べず、逃げることを選んだたった一人の兵を、カラザは笑って許したものだ。アストラも、そうするだろうから。この戦場に派兵される直前、身ごもった恋人と婚約したばかりの彼に、私達のぶんまで生きろよと微笑んだカラザが背を向けて歩いていく姿に、彼はずっと地に擦りつけた頭を離せずにいた。
「一人減ったぞ」
「……一人しか減らなかったんだな」
「馬鹿しかおらんな、この部隊には」
「居心地は?」
「この上ない」
アストラに並ぶ位置まで早足で進んだカラザと、死の戦場に向かうアストラの会話には、後ろの部下達も最後の最後で笑えた。たとえ今から死ぬのだとしても、親しんだ人のそばにいられることは、残された唯一の安らぎだ。
救いは、どんな場所にでも必ずある。見落としさえ、しなければだ。
「やるぞ、カラザ」
「あぁ」
カラザにはアストラが、アストラにはカラザがいた。共に死ぬなら悪くないと思える親友が。
「だ、第3部隊が壊滅……! 第8部隊ももはや全滅寸前です……!」
「馬鹿な……! 冗談も程々にしろ、敵は百にも満たぬ烏合の衆だぞ!?」
「しかし、現に……」
「報告します! 第6部隊が戦力の40%を喪失! どうか援軍を……!」
もはや勝ち戦だと確信し、それでも詰めを誤るまいと友軍の最後方で部下に指示を下していた天人軍勢の参謀が、届けられる報告の数々に戦慄する想いである。こちらは数千もの兵力を以って山攻めを始めたというのに、開戦から2時間も経たぬ間に、何百という兵が失われている現実は、何かの間違いだと感じて当然だろう。
「まったく、何て奴らだよ……!」
アストラの部下の暴れぶりに一番驚いているのは、彼らの味方であるカラザに他ならぬほどであった。敵が自分達の位置に辿り着くタイミングが実にまばら、素なら千人前後を同時に相手取らなくてはならなかったはずなのに、まるで敵が戦力の逐次投入をしているかのように、分散した兵力で少しずつ突っ込んでくる。
先んじて出撃していた友軍の少数精鋭達が、命を落としてでも絶妙にあらゆる場所で、敵軍の進軍リズムをばらつかせる結果を導いてくれたからだ。敵が足並みを揃えるよりも早く、こちらから踏み込んで少数の敵に襲いかかるカラザ達は、百倍の敵を討つより簡単な十倍の敵を討つ仕事を果たせている。一足先に天国へ旅立った部下の残した功績は小さくない。
「栄華の秋落!!」
カラザの詠唱と共に発生する、地表の隆起と陥没と地割れが、一部の敵を飲み込んで挟み、あるいは味方の位置を高所に押し上げる。まるでカラザが敵と味方の位置をどう操るのかをあらかじめ知っていたかのように、惑う敵軍に移ろう足場を跳び移って迫る部下達が、虚を突くように仕留めていく。疎通も無しに、これほど具合よく動いてくれる部下の動きには、カラザも感動すら覚えるほど。
「一人ずつだ! 一人ずつ殺せ! 相手は少数だぞ!」
「馬鹿が……!」
相手がそんな風に考えるのも、そうされたら困るのもわかりきっているこの状況下、天人達が一人の部下に全方位から魔術の集中砲火を浴びせる光景が続く。杖を一振りした仕草と共に、その部下が立つ地表をせり上がらせ、角柱の平たいてっぺんに立たせたまま危機を回避させるカラザも、救われたその軍人も動じない。いきなりそんなふうに動かされてもだ。
信頼している、助けてくれると。動じずその部下が腕を振るい、放った火球が空の天人に直撃し、ふらついた天人へと岩石弾丸を放ったカラザが、敵の脳天を粉砕する。
「く……調子に、乗るなあっ!!」
カラザから離れた地上にて、前に出すぎた地人へと三人の天人が同時に襲いかかる。この地人も地人で、死を覚悟して、一人でも刺し違えて逝ってやるという覚悟の目をしているのだから狂っている。
そんな彼のすぐ背面、切り出した崖から飛び降りてきた巨大な影が、部下に迫っていた天人の真上から降ってきた。巨竜の姿に変容したアストラだ。その両足で天人二人を踏み潰し、残った一人も素早く振るった頭で口を開き、体ごと大きな牙で挟んで食い千切ってしまう。
「アストラ様……!」
「死に急ぐな……! 俺にはまだまだ、お前達が必要だ……!」
巨竜の出現に一瞬動揺した天人達に向け、大口から巨大な炎を吐くアストラが、咄嗟の防御の魔力障壁も貫通する勢いの火で、数人の敵を焼き払う。雪は溶けて水の様相となる暇もなく蒸発し、さらには間もなく駆け出したアストラが、接近しようとしていた天人を前足で殴りつけ、全身複雑骨折に追い込んで命を奪う結果に繋げていく。
「ッ……奴を討て! 頭を叩けば、敵の統制は一気に崩壊……っが!?」
「やらせるかよ畜生どもがあっ! 俺達の希望だ!」
敵将アストラに狙いを定めようとした天人達の動きも後手。隊長の命を奪わんとする憎き天人達に、地人達の矢が、魔術が、剣が食らいつく。一心同体とはまさしくこういうことを言うのだろう。言葉による疎通のひとつも無く、数少ない兵の決死の奮戦が、数で勝るはずの敵をとんでもない速度で減らしていく。天人の兵とて弱いわけではない、誰もこの少数による大軍勢食いの現実に、もっともらしい理屈をつけることが出来ない。
それでも、数で勝る天人達が、決死行の覚悟で攻め立ててくる勢いは、アストラの部下を僅かずつ削り取っていく。一人、また一人と、五十に満たない兵の命が少しずつ奪われ、戦力の2%以上が削られていく現実はある。
腕を断たれてなおも魔術を行使し、死の間際に敵の目を火球で撃ち抜いた若き兵が。
風の刃で体を上下真っ二つにされてなお、地に落ちる寸前の上半身ごと熱の塊に変えて自爆する地人の術士が。
剣をはじき落とされて、心臓をレイピアで貫かれつつも、敵の頭を掴んで鼻に噛みついて引きちぎる老兵が。
決死の想いで戦い抜く者達が、自軍の減少を遥かに上回る速度で敵を葬り続けても、やがて尽きは訪れるのだ。生存者が、カラザとアストラと2人の兵になってもなお戦い続ける"部隊"は、そこに至ってもなお敵軍に恐怖の感情を残したまま。熱に晒されずに残ったままの雪が、赤い血に染まった光景があまりに多すぎる。
優勢であるはずの天人の一人が、死に物狂いの絶叫とともに槍を掲げ、既に全身傷だらけのアストラに襲い掛かり、その胸元に刃を突き立てた。うめき声を上げて血を吐くアストラが、歯を食いしばって大振りする頭が、自分を貫いた槍を握った天人を側頭部で殴って吹き飛ばす。殺せる威力がこれだけでもある。
自分のそばで戦っていた部下の一人が、天人の放った稲妻に貫かれる姿が見えた。灰になったかと思えるような様相になってなお、最後の力を振り絞って両手を掲げ、上空の天人へ大型火球を放って直撃させる姿もだ。離れた場所で戦うカラザと一人の部下を除き、ついに自分の部下がゼロになった光景は、アストラの心に一つの終焉を感じさせた。
「……天人軍勢の、旅団相当の撃破を確認」
鬼神のような形相で戦い続けていた竜の表情が、その一瞬だけふっと笑った。周囲にもはや、愛する者はおらず。そんな中で大きく息を吸ったアストラが、自身を地上と空で包囲する天人達に、最後の一発をぶちかます予兆を、誰も真の意味では感じ取れない。
漠然とした危機感では対応しきれぬほどの炎。津波のような炎を吐き出しながら、長い首を大きく一振りしたアストラの行動が、彼の周囲の山と人間を焼き払う。雪山が山火事の様相となり、あっという間に燃え広がっていくそれは、この戦場に居合わせた天人達への最後の猛襲だ。逃げる間もなく火の手に飲み込まれ、火炎の爆心地の中心で、がくりと膝をついたアストラが、孤独の火の中で安息の息を吐く。
「勝った……」
悲鳴と焼け落ちる木々の音に紛れ、ずしんと倒れた巨竜の音を、誰が耳に出来ただろう。目を閉じ、天人達に一矢報いたアストラは、長い旅の終わりに目を閉じ、自らの放った炎に身を委ねんとしていたのだった。
「……逃げなかったんだな」
「お前を置いて逃げるような私だと思われていたなら、流石に心外なんだがね」
アストラが目を覚ましたのは、山のふもとの小さな村である。彼が守ろうとした村に、天人達は進むことが出来なかった。アストラの部隊に兵力の多くを奪われたばかりか、山火事にさらなる命を焼かれた天人達に、これ以上進軍する余力は無かったのだ。
燃え盛る山からアストラを救い出し、小さな村の宿のベッドに彼を寝かせたカラザは、自身も疲れきったという顔で彼のそばに座っている。意識を失ったままの時間が長く、ようやく目覚めたアストラだったが、それまで一睡もせずに治癒の魔術をかけ続けていたのはカラザだ。戦後の体でそれほどの無茶、カラザとて命に関わるであろうのに。
二人の会話は、しばらく続いた。
事実上、天人達との戦いは勝利で幕を閉じたこと。この勝利によって、天人軍勢の都への進軍は相当に遅れるであろうこと。向こうが立て直しを図るまでの間に、ここまで追い詰められてきた地人軍の巻き返しの猶予は充分にあること。戦争の結末は、敗北必至の状況から、わからないという所まで来たことなど。
「……それでも私は、やがては地人の敗北を以ってこの戦争は終わると考えている」
「だろうな」
奇跡的な勝利であることは、カラザもアストラもわかっている。自分達が思う以上に、部下は優秀だったのだ。でなきゃ、あの兵力差でここまでの結果はもたらせまい。
あれほどの働きが出来る者が、他の友軍にいるとは思えず、また、それほどの兵をこの犠牲戦争で失ったことが、地人陣営にとってどれほど大きな損失であったかを、二人は誰よりもわかっている。これは決して、身内贔屓の発想ではない、純然たる事実であろう。
地人達の王、オゾンはそれがわからない人物だと思う。平民であった経験の無いお偉い様は、下々の現場の現実をわかってはくれないものである。ましてオゾンのような、恵まれた才覚の持ち主には尚更だろう。この戦争の結果を聞き、どうだ天人どもと笑っているだけの王の姿が想像できる二人に、自陣営の最終的な勝利を信じることなど出来そうになかったのだ。
地底王オゾンは暴君として、あるいは武人としては究極的ですらあったが、賢人としての才には恵まれていなかった。力で地人を従えて、圧政や暴政を繰り返す彼は、きっと側近が賢明な知恵を授けても、最終的には己しか信じないだろうとカラザ達は確信している。自分達の守りたいものを守り抜いたカラザ達の功績は、哀しくも自陣営を最終的に救う結果よりも、さらなる驕りに王を陥れるものだとも想像してしまう。
「羅刹族どもが離れていったのも、ひとえにオゾンの人徳の無さだろうにな」
「そうだな……かの王が僅かでも、人心に触れられる人物であれば、きっと戦争の結末も違ったものになっていただろうよ」
地人達には、かつて心強い味方がいた。類稀なる知恵と才覚を併せ持つ、呪術の使い手の集団であった羅刹族。この時代よりもさらに過去、この世界には人の姿をした人しかいなかった時代にこの大陸を訪れ、人と人あらざる者の融合した存在を作り上げるすべを広めた、人と猫の融合したような風貌の者達だ。
人として生まれた者に、人あらざる者の血を融合させて、新たなる存在として生まれ変わった者は、この時代において原種と呼ばれた。地竜族と呼ばれる存在になったアストラも、蛇族と呼ばれる存在になったカラザもそう。
そして、原種が残した子孫はその血を引き継ぎ、直系か、あるいは不規則に隔世し、原種とは厳密には違う存在を後世に残していく。それが、古き血を流す者だ。
「なあ、アストラ。これからどうする?」
「どうする、とは?」
「羅刹族どもと同じく、私達もこの大陸を去らぬか? という意味だ」
「…………」
羅刹族達は、遠き未来に"天地大戦"と呼ばれるこの戦争が始まって間もなくして、オゾンの下を離れていずこかに消えてしまった。彼らはその時に既に、やがては地人陣営が敗北を迎えることを予知していたのかもしれない。王であるオゾンの、力だけで人を従える指揮能力に、勝利の可能性を見出すことが出来なかったのだろうと、カラザもアストラも共通の見解を持っている。同時に、地人陣営に力を与していた経緯を重んじ、天人側に翻ったりはしなかった羅刹族達の、無責任に逃げたように見えて義理深い決断も見過ごしていない。
「悪くない話だが、俺にはやはりそれは出来そうにないな」
アストラは、カラザと違う考えの持ち主だ。自分が生まれ育ったこの大陸を離れることを彼は好まない。
「敗戦の末に、命を失うことになってもか?」
「……この地に骨を埋められるなら本望さ」
地人陣営が戦争に敗れれば、間違いなくカラザもアストラも粛清対象にされるだろう。地人陣営の有力な兵だ。これを葬らぬままにして、天人達が捨て置くはずがない。王が敗北することあらば、その日からカラザとアストラの、終わらない逃亡生活が始まるのは目に見えている。
「アストラよ」
「うん?」
「私には、ひとつ夢がある」
アストラが首を動かして、カラザの方を振り返った時、そこにあったのは少し楽しげな彼の顔。歴史家でもあった彼がアストラに、過去に倣って未来のことを楽しげに話そうとする時の顔に酷似している。
「たとえこの戦争で天人が勝利し、地人にとっての暗黒の時代が始まろうと、私はこの時代に生まれたことが本当に幸福だったと思う。お前も、それには同意してくれるのではないか?」
「そうだな」
良き出会いに恵まれた。あれだけ頑張ってくれた愛しい部下もそうだし、アストラにとってはカラザもそう、逆もまた然り。間違っても、オゾンのことなど含んでなどいない。
「私達は幸いにも長寿を与えられた原種だ。きっと、何千年もの時の流れにでも耐えうる命だろう。古き血を流す者ではそうもいくまい。そこに、使命と運命を感じるのだ」
「つまり?」
「たとえ終わらぬ逃亡生活になったとしても、生き延びることを選んでみないか? 私達がこの時代で出会えた、敬うべき者達のことを、歴史にはっきりと刻んでいきたいと思う」
歴史家の性とでも言うべきだろうか。過去から学んできたゆえか、カラザは今、自分達の生きた時代を新たなる歴史として、後世に伝えていきたいと言っている。
「そうだな……たとえば、500年も逃げ切ることが出来れば、私達のことを知る者も後世には残るまい。そうなれば、私達の記した本を、まるで架空の小説のように記していくことも出来るのではないか? ……いや、それでは満足出来んな。ほとぼりが覚めたそんな時代になってから、古ぼけた蔵書を発掘したふりをして、この時代の真実を新発見としてだな……」
「待て待て、ついていけぬ。お前は発想が早すぎるよ」
「まあ聞け、続きがあるんだ。そうした歴史を長いことかけて真実の歴史として浸透させていけば、やがてはこの時代の出来事を脚本に起こし、未来の人々が見て楽しむ演劇に昇華する、などの道もある。それが叶えば、その数年後にはさらに史実らしく認識され……」
「だから待てと。時間をくれ、整理させろ」
アストラも、この日になってから初めて、微笑むことが出来た。部下を失った悲しみが胸に残る自分の前、カラザだってそうであろうのは間違いないのに、努めて未来に目を向けることで、明日を拓こうとしてくれている。まくしたてるように語り続けるカラザの態度は、雪山の死闘と、そこで失ったものの悲しみから目を逸らすようだ。
それが、前向きに生きる一つの方法でもあるのだ。逃避はそれ単体が蔑むべきことではない。現実から目を逸らして立ち上がれずにいることと、新たな希望を探して前に進んでいくことは、雲と泥ほどの差があることだ。
「アストラよ、せっかく授かった命なんだ。進んで捨てることなどせず、私達にしか出来ないことを探していかないか」
「お前が今話しているそれは、そうなのか?」
「かもしれぬ」
「かも、か」
「それだけで充分じゃないか」
そうだな、とアストラは答えた。それはカラザにとって最も嬉しい、彼がはっきりと死を拒むこともまた道と表明してくれた一事である。友人が、前向きに"生きる"道を示唆してくれたことを、嬉しくない者などいない。
ここから、ほんの少し。ほんの少しだけ話が続いた。だけど、アストラからその言葉を聞けたことに安心し、それでそろそろ力尽きたのか、カラザは長続きしなかった。やがて、そろそろ寝るよと普段どおりの挨拶を済ませ、自分の泊まり部屋に行ったカラザは、この後丸一日目を覚まさなかったのだ。そんな体を押して、目覚めた後のアストラに、こうした話をしようとずっと計画していたようにしか、後からアストラには思えてならなかった。
「……長生き、か」
昔からカラザとは、意見が合わなかった。
無為に見えても長生きすれば、それは常に新しい何かを自分にもたらし、幸ある人生になるはずだとカラザはよく言っていた。アストラはその逆で、自らに与えられた天寿の中で何を為せるかこそが重要であり、長生きそのものに意味は無いという考えの持ち主だった。きっと、どちらも正しい。
だけど、アストラには、この日初めてそのカラザに共感することが出来たような気がした。武人としての生き方しか知らなかった自分が、例えばこの後百年生きることあらば、また新しい生き方が見つかってくるのだろうか。カラザが具体的に話してくれた、忘れ得ぬこの時代の記憶を未来に繋げていくという、自分達にしか出来ない生き方もあるのではないかと、確かに信じられたのだ。
目覚めた時のカラザが宿の外、日の下に出た時、そこにはアストラが待っていた。晴れやかな表情だった。雪山で失ったものの大きさを忘れたわけではあるまい。その過去を背負い、前に向かって歩こうとし始めていた男の顔は、それだけでカラザにとっては、新たなる希望の夜明けだと思えた。
せっかく救った村だ。ゆっくりと、時間をかけて説得し、やがては滅ぼされるであろうこの村から去ることを、二人は離れた地の王の耳に届かぬよう勧めた。故郷愛に満ち過ぎた一部の人は、やがてこの村が山を越えて攻めてきた天人達から逃れてくれなかったが、それでも少なくない人々を動かすことは出来た。カラザとアストラが率いていた部隊の部下、その中でこの村を故郷としていた者達の、愛する人を守りたかったという意思が、これによって報われたのだとしたら、それだけでもカラザとアストラが長生きしたのは意味があったのだ。
生きてみる。
あの決戦の日、部下と共に世を去ろうとしたはずのアストラ。やがて滅びるこの村から、幾許かの命を救う結果を導いた末、彼がこの言葉を口にしてくれたことが、何よりもカラザの心を満たした。
その日から一年経たずして、地人達の王オゾンの住まう都は、天人軍勢の手にかかり滅ぼされることとなる。王が地の底に封印されたのも、そのすぐ後の話だ。
天地大戦は終わった。天人陣営の勝利を以って。そして、カラザとアストラの知己の多くを含む、地人達の敗北を以って。その日から、天人達が上に立ち、地人の混血種が冷遇を受ける時代が始まっていく。
この時代に生きていた者達の中での、たった二人の生存者が、この百年後も、二百年後も、果ては千年後も生き続けていたことは、果たして無意味なことだっただろうか。歴史は常に、その時代に生きていた者達のすべてを、たとえ書物に刻まれずとも、分け隔てなく実在した我が子として擁している。
人に歴史あり。どんな人物にも、生きることに無意味の文字列はない。




