第230話 ~"明日"が落ちてくる~
クライメント神殿の奥底に眠っていた、オゾンの魂が解放され、革命軍の手に収まったことを知ると、クライメントシティの中央区を占拠していた革命軍の撤退は速やかなものだった。夕暮れ時に報を知った占領軍は、月が高く昇る頃にはあっさりと街からすべてが消え、雨上がりの夜風に吹かれる神殿周囲の廃墟が、ただ寂しく残ったのみである。
流れを知り及んだクライメントシティの警備兵らが、神殿西部の一角に差し掛かった時の光景は、いくつもの意味でショッキングなものだった。聖女スノウの一人娘であり、混血児とも知られるファインは、この街で育ってきたこともあって有名な方。そんな彼女が離れず見下ろしたままの亡骸には、誰もが嘘だろうと思わずにはいられなかった。
近しく立ちすくむクラウドも、かつてクライメントシティを暴徒達から守り抜いた英傑の一人として顔が知れている身。彼に事情を尋ねようとした警備兵も、少ない言葉で状況を元気なく語るクラウドの姿に、受け入れ難い現実を受け止めねばならぬと思い知らされたものだ。
無言で泣きやまないファインを、混血児を嫌う天人の警備兵達ですら、優しくあやすようにして彼女をスノウの亡骸から離れるよう促して。彼らに運ばれていくスノウの体は冷たく、触れた者達の心まで冷やすようであり、誰もが最低限以上の会話をする気力も無くして、寂しい背中でスノウの亡骸を運んでいくのだった。
「なぁ、ファイン……」
一人ぼっちになってしまったファインに近付いたクラウドが声をかけても、ファインは振り返るどころか微動だにしない。膝をついたまま、うつむいて、呼吸が静かなのがかえってクラウドにはぞっとした。おい、と声をかけて後ろからファインの肩を持った瞬間、ふらりとファインの体が傾いたことで、慌ててクラウドもファインの両肩を握って支えた。
「お、お姉ちゃ……」
「…………」
周りこんで前からファインを見たレインにも、今のファインは生きているようには見えなかった。泣きじゃくって、泣きわめいて、激しい呼吸に体も疲れ果てたのか、鎮まった息遣いで無表情。渇いた涙はもう流れず、魂の抜けた人型の抜け殻がそこにあるかのようで、クラウドの手にも死体を支えているような重みが加わっている。呼吸で前後するファインの胸を見受けなければ、精神の傷が大きすぎて体まで死んだかと思えるほどの様相だ。
「っ……!」
濡れた上に傷だらけの体、弱った体に心のファインを、いつまでもここに放っておくわけにはいかなかった。本当に体を壊して、もっと深刻なことになる。クラウドは、後ろからファインの脇の下に頭を潜り込ませ、肩を貸すようにしてファインを立ち上がらせる。
しかし、それでも彼女は立ち上がるために足に力を入れてくれなかった。頼むよしっかりしてくれと、クラウドが願うような表情でそばのファインに目線を送るが、体重すべてをクラウドに預けてぶらりと脱力したファインは、目を開けたまま気絶していると例えてさえ過言ではない。
立つこともままないほど心が折れている、とでも比喩して適切なのだろうか。時に現実は、例え話よりも深刻だ。母と親友を一度に失ったファインの心は、きっと今誰かがファインを殺そうとしたとしても、彼女の方から殺して下さいと頼みかねないほど砕け散っている。
「……行くぞ、レイン」
強引にファインを背負い上げたクラウドが歩きだす後ろを、レインも沈痛な面持ちでついて行く。夜の風が雨に濡れた三人の体を冷やしても、それ以上の悲しみに暮れる三人の心は、その冷たさを意に介することすらしなかった。
背負われたファインが夢遊病の如く、クラウドの耳元でぽつぽつと独り言を呟くファインの様には、クラウドも胸が引き裂けそうだった。耳のすぐそばにファインの口があって、初めて聞こえるほどのか細い声。お母さん、サニー、その二つの固有名詞を、不規則交互に繰り返すファインの心の痛みは、同じだけクラウドの心を打ちのめしていた。
天人達が運営する大きな医療所は、広くてなお、ベッドが人で埋まっていた。先日クライメントシティを守り抜こうとした警備兵や、神殿の奪還のために戦った天界兵の生き残りでいっぱいであり、屋根のある限りの空間をいっぱいに使って、負傷者らが手当てを受けていた様相だ。軽傷の者は、硬い床に敷かれた茣蓙の上に寝て手当てを受けていたほどの状況というのが、施設の広さと負傷者の人口密度が釣り合わない証拠である。
同時にそれは、敵陣営とはいえ殺害対象を最小限にまで絞った革命軍の将、セシュレスやカラザ、ミスティが極めてスマートな勝利を収めた表れでもある。今の現状でそんなことが語られこそしないものの、革命軍の思想実現能力の高さは相当なものである。
こんな場所にファインという、また一人の負傷者を担ぎこまれた天人の医者や治癒術士も、はじめは正直もう勘弁して欲しいという顔だった。ましてファインはクライメントシティでは、混血児であることが周知のことであり、そんな彼女に手を割く暇なんて、というのが、忙しい医療施設の者達の最初の本音だった。
それでも、クラウドに事情を聞くのと、今のファインの顔色や容態を見るのを同時にした瞬間、混血児を嫌う医療所の者達も、放ってはおけなくなった。思想はそうでも、医療に携わる者を志して今の地位にある者達だ。革命軍の首領格らと戦って傷だらけになった上、母を失って傷心、あるいはそんな言葉でも足りぬほど心が砕けた少女を見て、混血児なんかどうなろうと知るかなんて思える人間ばかりじゃない。
近くで話を聞き及んでいた天界兵の一人が、俺はもう大丈夫だからこの場所を使えと、未だ血の止まらぬ体で立ち上がって、ベッドを譲ってくれたのはありがたかった。彼とて混血児を根本的に毛嫌いする思想の持ち主ではあれど、真に深刻な瀕死を目の前にした時、人はそれすら些細なことにしてしまえるのだ。若くしてながら天人達の聖地を守るために戦い、ここまで打ちのめされた少女を見て何も思わぬ彼ならば、王のおわす天界で兵を任される程の地位は築いてこられなかっただろう。
「君はどうなんだ。休める場所なら作るが、治療を……」
「俺はいいです、頑丈な体だけが取り柄なんで。……それより、この子も看てあげてくれませんか」
人でも場所も不足している状況を見て、無傷でないクラウドが医者の申し出を断り、レインだけを預けて医療所を去っていく。レインはファインのそばにいたい素振りを見せたが、医者らに促されるまま、ファインとは離れた場所で治療を受けることになった。
ファインと親しそうなレインがそばにいたら、ファインに声をかけたがるとわかったからだ。同時に、今のファインに、誰が、どんな声をかけても無駄であろうこともだ。
呼吸だけを繰り返す、人体だけの抜け殻と化したファインへの治療は、医者や術士らも難航を確信してやまなかった。彼女がどのような目に遭ったのかを想像するだけで、同時にぼろぼろの体をより知るにつれて、癒す側の心もずきずき痛むからだ。幸い、外傷そのものは命に別状があるものではなかったようで、体自体はそう時間をかけずに癒せると思えたが、ファインが彼女本来の心を取り戻せるまでどれほどかかるかに、今の時点で観測を立てることが不可能だった。
医療所を去るクラウドも、今にも表情が歪みそうな心持ちを、無表情の仮面に隠して歩いていた。向かう先は、ファインの育てのお婆ちゃんが住む家だ。何て言えばいいんだろう、ということばかりを考え続けていた。歩く足に対して道のりは長く、しかし短くも感じられ、ファインのお婆ちゃん、フェアの家の前に辿り着いてすぐには、クラウドも玄関をノックすることが出来なかった。
スノウの死、ファインの怪我。二つの事実を聞き及んだフェアは、取り乱さなかっただけでも芯の強い女性だと思う。悲しみを隠せない表情で、教えてくれてありがとうとだけ言ったフェアは、クラウドに一晩泊まっていくことを勧めてくれた。心身ともに限界だったクラウドにはもう、甘える以外に道がなかったものだ。
人生最悪の一日は、こうして終わりを告げた。眠りにつけない時間は極めて短かった。寝て目が覚めたら、すべてが夢だったんじゃないかなって、本気で思えた。それほどまでにこの日起こったことは、現実の出来事だとは思えないほど痛切だった。
日付が変わった朝、クラウドが寝泊まりするフェアの家に、クライメントシティの警備兵が訪れる。暗い面持ちでスノウの死を告げる警備兵に、フェアもまた、存じておりますと毅然とした態度で応じていた。昨夜のうちに、つらい出来事を最速で聞き及ばせてくれたクラウドの行動は、良い方に結果を動かしたのだろう。
スノウの葬儀がこの昼行なわれるらしく、参列なさいますかと尋ねられたフェアも、寂しい無表情ながらうなずいた。ファインにお婆ちゃんと呼ばれるフェアだが、スノウと血の繋がりがあるわけではないのだ。それでもスノウの葬儀に招かれるのは、彼女がファインを、スノウの一人娘を預かって育てた、スノウにとっても母のような人物であったことに由来する。
また、両親や夫とも既に死別したスノウは、ファインを除けば親族の少ない身だ。そんな彼女の葬儀を導くのは、クライメントシティの多くの大人、有志達であり、いかに彼女が愛されてきたかもその一事から感じ取ることが出来る。破天荒で口も悪い、乱暴な言動を目上の者に放つこともある、そんなスノウが死を迎えたこの日、葬儀のために多くの人が動くのだから、人の最期がその人物の大きさをよく計るというのは、あながち間違った発想ではないと思う。
フェアに声をかけられたクラウドだが、断ると言うよりも、ファインが心配である想いが勝って、葬儀への誘いは半ば断った。ファインが動けそうなら一緒に行きます、と答える形でだ。フェアも、その気持ちだけでも嬉しいと言ってくれた。
クラウドは身支度を整えると、すぐにファインを預けた医療所へと駆けていった。走らずにはいられなかった。まさかとは思うが、早まったことをしていないかという不安すら、少なからずあったからだ。
医療所に辿り着けば、受付や医者に一礼し、ファインがいるという一室に向かっていく。レインは憔悴しきった体ではあったものの、適切な医療を施せば問題は無いと言われたため、ひとまず安心できた。問題はファインである。
ファインの容態は、ある意味でひどいものらしく、個室に移されたらしい。まさか命に関わる怪我でもあったんですかとクラウドも問うたが、そうではない。続けて聞かせて貰えた説明の中で、命に別状は無いという答えを聞いてなお、安心できない心地を抱えたまま、クラウドの足はファインへと近付いていく。
「……ファイン、入るぞ」
その言葉が、大きな意味を持たないことも薄々わかっている。戸を開いたクラウドの目の前には、ベッドに横たわった女の子がいた。部屋に入ってきたクラウドに振り向くこともせず、ぼうっと天井を見上げたまま、枕とベッドに頭と体を預けている。
そばにクラウドが立ち、少女の顔を見下ろすように覗き込んでも、相手の瞳がすぐにこちらに向かないのがぞっとする。屍の顔を覗き込んだ気分になるのだ。少しの間をおいてからだが、まばたきもせずに開いたままだったファインの目が、ぱちりと一度だけ動いてクラウドの方に視線を移らせた時、それだけでもクラウドはほっとするような心地だった。
「……お前、ちゃんとご飯食べてるのか?」
「クラウドさん……」
何から切り出せばいいのかわからないクラウドが、ファインの顔を見て思いついた言葉で問いかけても、返ってきた言葉との会話になっていない。会話の不成立はそれだけで、普段どおりじゃないファインを見せつけられるようできついが、それ以上に、自分を見上げるファインの表情には、クラウドも連られて胸が痛みそうだ。
たった一日の間で、人ってここまでやつれられるものかとさえ思う。頬がこけたり、目がくぼんだりと、わかりやすい形で顔が変わったわけじゃない。光を完全に失ってしまったその瞳だけで、彼女の心中を語るものは充分だ。目が赤くなったり、目の下にくまが出来ているわけでもないことから、眠りにはついたであろうはずなのに、開くのもやっとの目でクラウドを見上げる目は、一睡もしていないかのように疲弊し果てている。
「医療所の人が、朝飯だって作ってくれてるはずだろ。ちゃんと食べたか?」
「あ……はい……」
嘘をつこうとしたわけじゃなさそうだ。近くにまだ食べてもいない朝食が置きっぱなしになっているのに、一秒でばれるような嘘をつくわけがない。人の話を全く聞けていないだけ。クラウドの言葉が耳に入っていても、彼女の頭は何も認識しておらず、はいと答えただけである。
「なぁ、ファイン……」
「……はい」
「……外、歩いてみないか?」
「はい……」
クラウドも、悪い意味で心臓が高鳴り始める。はいと答えて、動こうともしないファイン。まるで案山子に話しかけているよう。ちょっと自分の目が険しくなる自覚もあり、おい、ともう一言発してファインの肩に触れ、揺さぶってみるが、彼女は人形のように力なく揺れるだけだ。いよいよクラウドも、喉の奥が締め付けられるような想いに駆られていく。親友がこんな様に追い込まれたのを目の当たりにして、つらいと感じないわけがない。
何かの変化のきっかけを与えたくて、ファインの腕を握ったクラウドが、彼女の脇の下に頭を潜り込ませ、広い面積で触れる形で優しく上半身を起こしにかかった。それで、やっとファインの体が起きるのだ。そこまで行って、急激に自分の血も冷えきるような心地になって、クラウドはファインをベッドから立たせるのを諦めてしまう。
ファインの体に、まったく力が入っていなかったから。ベッドから降ろしたとしても、彼女が自分の足で立ってくれる自信がなかったからだ。嫌な顔をしてクラウドが、再びファインをベッドに寝かせても、やはりファインは死体のように力なく仰向けになって、一切の動きを無くしてしまう。
「あのさ、ファイン……その……」
クラウドだって、これ以上どうしたらいいのかわからない。呼んでも揺さぶっても反応が無いと、医者に聞かされた時点で、もうファインの心は母のところに逃げてしまった覚悟もしなければならなかった。体だけ生きていても、心が帰ってこなければそれは亡骸と変わらない。魂を取られたのと、きっと一緒だ。大き過ぎるショックに心を粉々にされてしまったファインと、かつてのようにはもう二度と離せなくなった可能性に、クラウドも握った拳が恐怖で震えてくる。
「……クラウドさん」
ファインを直視することさえ難しくなったクラウドが顔を伏せていた中、ファインの口が自発的に言葉を発したことで、クラウドも目が覚めたようにファインの顔を見る。自分よりも先に相手の目が、こちらを向いてくれていたのは、この瞬間が今日初めてだ。
「…………」
「ファインっ……!?」
口を小さく開きながらも、声を発してくれないファインに焦れ、クラウドもベッドに手をついて、ファインの顔を覗き込んでしまう。何か言いたいことがあるなら言え、頼みがあるなら何でも聞く、だから元気になってくれっていうクラウドの想いは、必死な声と眼差しだけですべて物語られている。
「私……大丈夫、ですよ……」
「っ、お前な……!」
「ごめんなさい……でも、気持ちの整理がつかなくて……」
今のファインの作ってくれる表情が、泣いているのか笑っているのか本気で判断できない。涙こそ流さないものの、憔悴しきったその表情がようやく表した感情は、寝ても覚めなかった、変わってくれなかった現実に未だ打ちのめされ、傷ついたままの少女のそれ。
「なんとか、してみます……自分の中で、噛み砕いてみて……」
「なんだよ……! お前、いっつも自分だけで何でもしようとして……!」
「っ……クラウドさんは、いつも、優しいですね……」
ああ、泣き始めた。やっとクラウドの前で、もう一度。絶望に打ちひしがれた悲しみだけではなく、最も頼もしい人がそばにいてくれる幸せに落涙する表情だ。ゆっくりと動かしたその手でクラウドの手に触れ、それを介して与えられる人肌のぬくもりが、今のファインにとってどれほど大きな価値を持つのか、クラウドだけがわからない。
「でも、私が……私が受け入れなきゃ、ダメでしょう……?」
「…………」
「サニーがいなくなったことも……お母さんが……いなく、なったこともっ……」
少しずつ流れていた涙がぶわりと増え、作っただけだった表情の仮面が壊れたファインが、隠す力もなくクラウドの前で泣き顔に変わっていく。思い出せば思い出すたび、頭がおかしくなってしまいそうな悲しみを、頭から締め出して逃げていただけだったのだ。向き合えば、やはり心がめちゃくちゃになりそうだ。耐えられない。
「ちくしょう……!」
誰に向けて放った言葉でもない、対象があるとすれば悲壮なるこの運命に。ファインを苦しめる神様に対する、憎しみとも言える感情を顔いっぱいに表して、クラウドはファインを引き起こして抱きしめる。上体を起こしたファインを、いたたまれない想いをすべて込め、ベッドに膝をつく形で横から抱きしめる。
「く……クラウド、さあんっ……」
「助けてって言えよ……! 何でもしてやるから……! 俺に出来ることだったら、何だって……!」
「ひぐっ……えぐっ……うううぅぅ……」
クラウドを抱き返し、あるいは拠り所にするようにしがみついて、ファインが声を漏らして泣き始める。震えるファインの体から伝わる悲しみに、クラウドだって目を焼かれそうだ。自分がしっかりしなきゃいけないっていう使命感さえなかったら、クラウドだって涙の一粒ぐらいは流したかったぐらいである。
スノウがいなくなった。それは、母を失ったファインだけにとって特別なことだろうか。共に旅をし、一緒に遊んで、平穏な毎日をここ、クライメントシティで一緒に過ごそうと約束した一人の人物が、この世を去って二度と帰ってこない人になった。
悲しいのがファインだけだと思ったら、それってあんまりな話である。クラウドだってそう、レインだってそう、フェアだってそう。きっとこの報をやがて知る、ホウライの都のアスファとラフィカもそう。
もう、会えない。それがもたらす寂しさの痛みは、言葉で言い表せる境地を超えている。
天界都市カエリス。上天に天界王おわす天界を見上げる、天人達の聖地である。そんな街の真ん中を、橙の道着と紫の下衣に身を包んだ、赤毛の黒帯少女が歩いている。外来者の少ないこの街においては、風変わりめなその風貌はやや目立ち、街行く人々らも、変わった子がいるなぁと二度見することが多い。
逆に、そんな特徴的な風貌だからこそ、彼女は外来者の検閲に厳しいこの天界都市に、極めて簡単に入り込むことが出来たとも言える。以前、クライメントシティを暴徒達から守り抜いた実績を持つ彼女は、その後天界王によって天界まで招かれ、いつでもこの街を訪れていい特権を授かる天人だ。その顔立ちも風貌も、街の入り口を守る番人には記憶に新しく、手続きもそこそこにあっさり都入りすることが出来たのだ。
全てがスムーズだ。街に入る時点で手荒を踏む手間が省けたことは、余計な殺生を望まない彼女にとっても前向きなことだった。
「……さてと」
少女の足は、天界都市の中心に向かっている。やがて辿り着いたのは、見上げて首が痛くなるほどの高さの塔。この塔の頂上に昇り、特別な術式を敷いてある魔法陣の上に立つことで天界に到達できる、地上と天界を繋ぐ一本の橋とも言える建造物だ。
「おい、止まれ」
天界には天人達の王、天界王フロンが座している。いわば神の庭への入り口とも言えようその塔は、周囲を厚い壁で囲われ、その壁の通り抜けるための門も頑強だ。門番の男もいかにもたくましく、天界王の居への玄関口へと近付く少女に、これ以上進むことはまかりならんと警告する。
彼女は止まらない。無視するというよりも、始めから耳に届いていないのかと思えるほど。止まれ、ともう一度、より強い声で門番か声を発しても止まらない。無表情で歩み寄ってくる少女に、聞こえんのかと口にせぬままその怒りを表情にあらわにし、三人の門番がその手に握る武器を構える。殺意というほどのものではない、言うことを聞かぬ少女を、武器で恫喝する態度だ。
次の瞬間、三人の門番のうち、二人の目には少女が見えなくなった。一人だけが、立ち位置のせいか、消えるような速度まで急加速した少女の姿をかろうじて視認できた。瞬く間に門番の一人に距離を詰めた少女の振り上げた掌底は、屈強な門番の顎を叩き上げ、頭を揺らして一瞬で失神まで持っていく。
さらにはもう一人のそばへと、瞬間移動するかのように一瞬で接近し、突き出した肘を鎧で覆われた門番の腹部へと突き刺す。生身の肘で、鋼の鎧の腹部を突いたのだ。それが、鎧をべこりとへこませた挙句、門番の腹筋をめしめしと引き裂いて、大柄な体ごと吹き飛ばして壁に叩きつけてしまう始末である。無論、この男も意識を失った。
「く……」
曲者め、の言葉も、残った三人目の男の口から最後まで出てこなかった。構えが済むより早く、その男との距離をゼロにした瞬間に、彼女の見上げた瞳と男の目が合う。40代半ばの門番、それなりに歴戦であって、この重要な門の守りを任されるほどの武人が、自分の半分も生きていない少女を見て身が凍ったほど、その瞳が抱く無慈悲めいた冷たさは類を見なかった。
回し蹴り一発で門番を蹴飛ばして倒した少女は、守る者が一掃された門を見上げて、ふうっと息を吐く。歩んで近付き、右拳を握り、魔力を練り上げた少女は、引き絞った右拳に合わせて身をひねり、この日初めて闘志らしきものをその目に孕んだ。
勢いよく門を殴りつけたことで、彼女よりもずっと大きな門全体がびしばしとひびわれ、さらに間髪入れずに少女の叩き込んだ回し蹴りが、軋んだ門を一気に粉砕した。大きな分厚い鉄の塊が、まるで自分よりも落盤に潰された岩石のように砕けたのだ。そうして人の通れる隙間を作った少女は、汗一つかかない顔色のまま、門の奥へと、塔の中へと歩いていく。
「……お母さん、もうすぐだよ」
そこにあった少女の顔は、彼女の友人らが知るサニーの表情ではない。顔も見たことのない母を想い、悲願の達成を目前に控えたサニーは、夢叶うその時まで涙は流すまいと、その目に強く力を込めていた。
天人達が、地人を、混血種を見下してきた、長き歴史に終焉を。17年の半生の日々、革命家としての魂を育て続けてきた少女の切望に応えるかのように、地の底が、そして天高くがびりりと震えた。
天界の者達に、果たしてそれは伝わっていただろうか。それが、長く揺るがなかった"天"の歴史に、ひとつの大きな節目が迎えられようとしている予兆であったのだと。




