表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
晴れのちFine!  作者: はれのむらくも
第15章  雪【Farewell】
239/300

第224話  ~十三歳が信じた道~



 たった一人の家族である、実の姉と引き離され、信頼できる人もいない組織に強制的に加入させられ、戦闘要因として戦うことを強いられる。それが、ほんの少し前までのレインだった。


 自分がやらなきゃお姉ちゃんが殺される。それで自分の行為を正当化し、革命軍にとっての邪魔者である天人達を、殺し、屠り、葬り去り続ける毎日。返り血も浴びた、痛みに悶える天人の悲鳴も聞いた、人を殺めた夜に飲んだスープが血に見えたこともあった。疲れ果てた体で眠りにつけば、殺した人々の恨みの声が頭に響くような気がして、耳を塞いで震えて眠れなかったこともある。

 もう一人の自分が、自分を責め立てる幻聴だって聞こえた。悪者、最低、人殺し。15歳にも満たない少女が、自分で望んだ覚悟も決めていないのに、殺生と血に手を染める毎日が、心を蝕まないはずがない。ぬるりとした返り血が、顔を濡らす毎日が続く。拭うたび、それはぬるつく自分の汗だよって自分に大嘘ついて誤魔化して、まともじゃなくなった思考回路で走り続ける毎日があった。


 生きてなんかいなかった。体が死んでいなかっただけだ。そんな真っ暗な世界の中、死んだ心のまま歩き続けてきたレインを、とある二人が自由な世界に解放してくれたのだ。


 人殺しをしなくてよくなった。優しい二人に頭を撫でてもらえる。美味しいご飯をお腹いっぱい食べられる。甘えようとしたら全部受け入れてくれる。嬉しかったし、幸せだったし、心から笑顔になれる瞬間がいくつもあるようになった。たまに、ちょっと自分の思い通りにいかないこともあって、拗ねたりしてしまうこともある。


 それが、正しい意味で、活きているっていうことだ。苦楽を含めてだ。自らの価値観で絶対に肯定できない行為を連続し、自らの心を書き換えていく人生は、自覚なきうちに病み朽ちていく心を促し、自分自身を生ける屍に変えていく。健康な体に枯れ果てた心を擁し、やがては肉体もやつれ果てていく沼に片足を踏み入れていたレインを、普通の女の子として生きる道に引き戻してくれた二人には、レインも想いの丈を言葉に出来ないだろう。

 蘇生は絶対不可の奇跡ではない。死にゆくだけの人の心に、生をもたらすという広義も含めるならば。死者も同然であった自分の過去を捨てないレインは、闇底の自分に手を差し伸べてくれた二人のことを、私を生き返らせてくれた神様のような人達だとさえ断言することが出来る。


 せっかく拾わせてもらった命を、生か死かの戦いに投じて捨てかねない、そんな行動に移る覚悟の所以はここにある。ファインとクラウドがいてくれなかったら、とっくに自分は死んでいたようなものだったって、レインは心から考えている。

 だから、二人のために捧げるものは、命も含めて全部そう。二人が革命軍を止めたいって言っている。先に進んだファインは、オゾンの魂を得ようとする誰かとの戦いに臨んでいるかもしれない。


 ザームに勝ちたい、超えたい、前に進みたい。お姉ちゃん達の力になりたいのだ。






「っ、こ……の……!」


「うう゛あぁっ……!」


 ザームの放つ火球を飛び跳ねて回避し、レインは半ば捨て身の勢いで突っ込んでくる。間合いに含めたザームに幾度も蹴りを放つ彼女からは、死への恐怖も感じられない。重く、強い、レインの回し蹴りの数々を、ザームはシャベルの柄で防ぎ続けて退がる一方だ。


「っ、らあっ!」


「っく……!」


 ほんの僅かな隙を突き、振り上げたシャベルの平面で、レインの頭蓋骨を粉々にする振り下ろし。それを、腰を沈めてつま先を振り上げたレインが、力任せにはじき上げるほどのパワーを実現する。避けられないならそれしかない、確かにそうだが。人外級のパワーを持つザームが、重力すら味方につけて放った一撃を、真っ向から打ち返すレインのパワーは、間違いなく今までの彼女の限界を超えている。


「んっ、の……!」


「んうぅ゛っ……!」


 脇の傷がまた開くことも厭わず、回した体の赴くままに回転蹴りを放つザームに、膝を引き上げたレインが応戦する。盾にした膝が、鋼のブーツ越しに砕けそうになるほど、ザームの筋力が生み出す蹴りは痛烈だ。軽い体はそのパワーに押し出され、後方に吹き飛ばされるレインが、背中から地面に叩きつけられて跳ねる。


 跳ねたのは、背中が地面に着く瞬間に足の裏で地面を叩いて押し出したからだ。一度の跳ねで体を回し、すぐさま両足で地面を踏みしめたレインが、壁にぶつかった球が跳ね返ってくるのと遜色ない動きで、またもザームに向かってくる。

 そんな奴だってわかっていたから、ザームだってすぐさま術を行使した。今度は(つば)じゃない、口から噴き出すと同時に人の頭ほどの大きさになって、レインを真正面から迎え撃つ火の玉だ。避けろ、跳べ、そうした後のレインを討ち取る手段はいくらでもある。


「っ……あ゛……!」


「うぐが……っ!?」


 避けもしない、交差した腕で火球の直撃から顔を守っただけ。両腕が駄目になっても構わない覚悟で突き進んだレインは減速すらせず、ザームの胸元目がけて真っ直ぐ蹴りを突き出した。シャベルの柄を構えて防御したザームも、踏ん張りきれずにそのパワーに押し出されて吹き飛ばされてしまう。


 廃屋の壁に叩きつけられたのは、致命的でもあり幸運でもある。両足が下向きだ、倒れずいるにはこの方が楽。元より軋んでいた体へのダメージで、べはっと血を吐くザームだが、闘志を決して失わない。ザームを蹴飛ばした直後に地面を転がり、体に纏わりつく炎を消そうとするレインの時間と釣り合って、ザームもまだ戦える体勢まで立ち直る。


「はあっ、はあっ……ううぅぅ゛……!」


 雨の中でもわかるほど、目に涙を溜めたレインの表情が見える。痛くて苦しくてたまらないのだろう。立って構えた彼女の両腕はぎゅうっと胸元に寄せられて、自分で自分を抱くような姿勢で縮こまらないと耐えられないと見える。表面的な火傷がなくたって、貫く苦痛は甚大なはずなのだ。


「ちく、しょうが……ガキ、め……!」


 それでもやめない、逃げようとしない。今がすべて、明日のことなんか考えない。昔の自分とおんなじだ。向こう十年や二十年のことなんか考えず、今こそすべてであった頃が、ザームにだってあったのだ。ガキめとレインを苦しげな表情で睨み返すザームの目には、その実憎々しげな感情ではなく、無垢で純粋な想いを胸に戦う、子供の姿への眩しさが満ちている。


 誰にだって、自分のことが一番正しいと思っていた時期がある。自分よりも遥かに人生経験も豊富なはずの大人が、自分に何を言ってきても、正しいのは自分の方だって信じて疑わなかった時期がある。五年後や十年後のことを考えるより、今が楽しければそれでいいって思っていた時期がある。今の幸せを確保するために、望むがままに行動することに殉じたことが誰にだってある。

 それが間違いだって後悔したりし、みんな大人になっていく。賢くなっていくのだ、失敗をして。そうして大人は"過ち"を恐れるようにもなり、正しいことをしようとするようになっていく。そうやって自分なりの正義を持つようになって、自分の人生に少しずつ価値を見出していくこともある。大事なものが、より出来ていく。命を大事にするようにするのは、しっかり育った大人の方こそ子供よりもそう。


 若さは尊い。こんなにも、幼い子供を真っ直ぐに突き進ませるのだ。死さえ避けさせず、誰かのために、今ここに文字通りの全てを懸けて戦うレインと全く同じ心持ちで戦うことは、彼女の倍を生きたザームにはもう出来ない。出来るのは、命を捨てる覚悟で戦うその一事だけだ。恩に報いるという純然たる目的のために戦うレインに対し、これを葬り革命という目的を叶えることを磐石にせんとするザームが。何が正しいことで何が非道であるかを知る大人のザームが、俺は正しいと心から信じて戦えるはずがない。


 大人は汚いものだって、大人が子供よりも知っている。守りたいものが増えたからだ。27年の歳月の中で、確たる実力と信頼される立場を築いてきたザームが、それと引き換えに失ってきた若さは、きっと二度と真の意味では取り戻せない。


「ここで、退くわけにゃ……っ、いかねえんだよ……!」


 荒い息を吐くザームにレインが飛びかかってきて、彼の顔面を打ち砕く高さの蹴りを突き放ってくる。前に潜り込むようにかわし、前転受身しながら立ち上がって振り向くザームの前には、ザームが背にしていた壁を蹴り砕いて着地したレインがいる。すぐさまシャベルを横に振り抜いて、レインの足を切断するような攻撃を放つザームに、レインは敵を飛び越える方向に跳んで回避する。


 それで結構、ザームのシャベルは狙いどおり、建物の根元をシャベルで粘土を抉るように砕き荒らした。その建物を支えていた四隅の柱のうち、一本を含めてだ。がすんと地を踏み、魔力を送り込んだザームが、その建物の地盤を揺るがす。崩れ落ちかけていた建物が傾き、二階建てのその家の柱の一本が、根元を切られている現実と合わせてぐらりと揺らいだ。


 恐るべきは、その柱に腕を回して抱きつくようなザームの体勢だ。着地前に既に体を回し、ザームを振り返っていたレインには、柱を抱えてぎろりとこちらを振り向くザームの姿がある。まさかが現実になろうとしている。


「っ……うぅ゛らあああああっ!」


 絶叫とともにその柱を、まるで一本の竿を振り抜くようにして、地に降りた直後のレインをザームが、離れた位置から薙ぎ倒そうとする。受けられるはずがない、レインも高く跳躍して回避する以外のすべがない。巨人の長い腕が地上を一掃するような一撃の末、振り抜いた柱を手放したザームが、長く太い石柱を別の建物に激突させる結果をもたらす。顔を上げたザームの目線の先には、放物線の頂点を過ぎ去り地上へと落ち始めたレインがいる。


 楽にしてやる。それが今のレインに対して、自分が出来る唯一の善行だと、心の奥底で信じ込んで。レインの落下予測地点を見定め、シャベルを地面に突き刺したザームが、今日一番の魔力を両腕に集め、シャベルを介して地に伝える。


「地術、土石流波(ロッシュヴァーグ)!!」


 シャベルを振り上げると同時に発生する、多量の土とその中にちらつく岩石の密集体。それが津波のようにレインの方向に迫り、落下中が着地した瞬間、その場を圧殺する前進を見せている。着地寸前のレインが、土色でいっぱいになった目の前の光景に、時間が止まったように感じられたのも、本当の意味で死んだと思ったからだ。


「お姉ちゃん……っ……!」


 出来ることがあるかって、一つしかない。死にたくなかったら諦めるな。もう駄目、そう訴えかけた自分の本能に蓋をして、レインは思いっきり後方に跳んだ。土石流の津波の速度から逃げられる初速を得て。高さも生み出し、後方に残っていた三階建ての建物の、二階と三階の間の高さに足の裏を着ける。束の間突き放した、土石流はもう目の前にまで迫っている。より大きく、高く、広くなってだ。余計に逃げ道が無くなって見える。


 構うもんか、跳んでしまえ。この脚しか、自慢できるものなんか彼女にとっては無いんだから。自分の位置より高い波と化した破壊的な土砂の迫りに、レインは思いっきり壁を蹴って、前方上方に跳び立った。

 土石流の上端がわずかにレインのブーツをかすめ、その大波はレインが蹴った建物を一撃で粉砕していく。必勝のスケールで放った土砂の波、それを跳び越えて、自分の前方離れに着地しにくるレインの姿は、大技発動直後のザームにとって絶句に値する光景だ。


 力を振り絞って放った魔術。ふらつく足を正し、結末を見届けようとしていたはずの男へと、地を蹴り真っ直ぐ突き進んだ少女の加速は、もはや彼が構えても耐えきれるものではなかった。


「ごッ……ば……!」


「んんん゛……っ!」


 ザームの構えたシャベルの柄に激突したレインの足は、ザームの筋力の限界を超過して、柄を持ち主の腹にまで押し込んだ。幾許かの威力を柄に奪われたとはいえ、半分前後残ったレインの突撃力が、柄を挟んでザームの腹に突き刺さった形である。押し込んだ瞬間の確かな手応え、それを食いしばった歯の奥から溢れ出た声とともに実感したレインを最後に、ザームの体は壮絶なほどのエネルギーを得て後方へと蹴り飛ばされた。


 意識を失わずにぎりぎりこらえたのが、ザームの命を救った最後の綱だ。廃屋の壁に叩きつけられた彼が、柔土を背後に生じての緩衝と受身を経てなお、石の壁がびしりとひび割れるほどそのインパクトは強烈。壁に叩きつけられたザームが、先ほどまでとは違い、両脚で立つことが出来ずに前に崩れ落ち倒れたことが、二人の戦いの決着を意味していた。


「はっ……はっ……うううっ……」


 勝ったレインも、内股で立つ膝に両手を添え、がくがく震えそうな脚を押さえるので必死だった。それでも顔を上げ、力尽きたザームを確かめ、勝利した現実を認識する。

 さあ次だ。茨の編みこまれたトンネルの入り口を見据え、その場で二度跳び、地団駄踏むように足で地面を叩き、言うこと聞いてよ私の脚と強く訴える。


 疲労もある、全身の痛みもある。それでも駆け出し、クライメント神殿への道を、今の最愛のお姉ちゃんへと駆けていくレインの足音を、倒れてひくつくザームは雨音混じりに聞くことしか出来なかった。

 思想を肯定されるのは勝者だけ。そして、勝てなかった。レインをこの場で葬ることを、歪んだ正義で肯定して臨んでいた自覚のあるザームにとって、この現実はただの敗北以上に痛烈だ。


 卑怯な大人は挫かれて、正しい信念に殉じた若者が前進する。それが正しい。そんな大人の側に自分がなっている数年後を、若かりし頃のザームは、きっと想像していなかったはずだったから。











 こんな戦い、誰も近くで観戦すらしたくないと思うだろう。そんな意味では、巨獣クラウドと巨竜アストラの戦いに近いものがある。獅子を超える巨体の化け猫と、長い脚のせいでそれ以上の図体に見えるシルエットの怪物蜘蛛の戦いは、それほどまでの迫力を呈している。


「ヌギ……ッ、ガアアアッ!」


「グブ……ゥ゛……!」


 大蜘蛛セシュレスの数本の足先に肩口を貫かれ、傷口から血を噴き出すクラウドが、セシュレスの頭に噛み付きぶちぶちと肉を食い千切る。大きな頭全体からすれば、端を僅か持っていかれただけの軽傷だが、口に含んだ肉片をべっと吐き出したクラウドが、人の拳大の血の塊をべちゃりと地面に転がすのだ。セシュレスも、痛みに悶えたい想いを耐えている。


 腹の方の脚を踏ん張って、クラウドの体を横に振り回し、突き刺した脚の先を曲げたまま強引に引き抜く形で、セシュレスがクラウドの肩肉を引き裂く。僅かに生じる距離、体の大きな二人の間では小さくすら見える間合い。前足が動かなくなってもおかしくない深手でありながら、爪を伸ばしたクラウドの一撃が、鬼人のような形相のセシュレスの顔をずばりと切り裂いた。頭を沈めて致命傷を回避したセシュレスの目の上が、クラウドの爪先でばっさりと深く傷つけられる。


 振り抜いて地に着いたクラウドの前足めがけ、セシュレスが膨らませた口から糸の塊を吐く。大きな前足と地面の接点に直撃した大粒の糸は、(のり)のようにクラウドの足を地面に縛り付ける。すぐさま顔を上げ、動きの一部を封じられたクラウドを真正面見据えるセシュレスだが、彼が攻撃に出るより早く、クラウドがその額を突き出して、セシュレスの目の上の傷めがけて頭突きをぶちかましてくる。


 大蜘蛛が頭を逸らして胸元を浮かすほどにそれは強烈な当たりで、怯んだセシュレスの前で片目をつぶるクラウドは、地面と右前足を接着する粘性の強い糸を、風のような速度で振るう左足の爪で切り離す。即座に前足を左右に開いて立つ体勢を取り戻したクラウドに、反り返って浮かしていた顔をぐいっと引き下げ、見下ろす形でセシュレスが口から吐いたのは、今度は糸ではなく巨大な火球である。


 クラウドの額に直撃した炎が大爆発を起こし、化け猫の頭いっぱいに炎が燃え移る。クラウドの体全体も僅かに後方にぐらつく。それでも目を閉じたまま、前に踏み込むクラウドが、燃え盛る頭で再びセシュレスに頭突きする敢行劇。

 頭部と、膨らんだ大きな腹の接合部とも言える、胸に重い一撃と自らの火術の熱を食らわされたセシュレスが、絶叫にも近い悲鳴を上げて後退する。もがいて苦しむセシュレスと、頭を振りしきって炎を振り払おうとするクラウドの苦しみは、どちらが上でどちらが下でもない。


 スノウの降らせる雨は、やはり少なからずクラウドに恩恵をもたらしているのだ。本来より早く消える炎から解放されたクラウドは、すすけた毛皮の間からすぐに目を開き、ようやく顔を上げたセシュレスの頭部に両前足を伸ばしている。がっしり掴んで、今度こそ額の真ん中を食い千切ってやろうと襲いかかるクラウドの行動を前に、死を予感したセシュレスも必死である。


 細く見えて太い前足二本で、クラウドの顔面を前から、横二線の鉄格子状に殴りつけ、怯ませる。鼻と眉間にくらわされた痛烈な痛みにも、クラウドは逃げない。少し頭を引っ込めて、開いたままの口で噛み付く対象を、セシュレスの前足二本に変更し、纏めて牙の間に挟み込む。思いっきり首を後方に引くクラウドの行動が、大蜘蛛の前足二本をぶちりと引き千切り、足をもがれたセシュレスが目の色を変えるほどの激痛を伴わせる。痛みのショックだけで死んだっておかしくなかった。


「だ……駄目、か……っ!」


 ここまでだ。決死の想いで口を開いたセシュレスが、そこから発射した大きな岩石で以って、クラウドの顎の下、首元を攻撃する。厚い皮と強靭な筋肉で覆われたクラウドの体にも、その一撃は流石に効いたようで、僅かに怯んだクラウドの隙を見て、セシュレスが乱暴に振るった頭が化け猫の両前足から離れる。突き立てられていた爪により、側頭部に深い傷が刻まれるがそれでもいい。


 捨て身の一撃、セシュレスが体全体を一回転させ、巨大に膨らんだ腹を横殴りにクラウドにぶつけてきた。側面からの重すぎる一撃に、重さも強さも圧倒的なクラウドが倒れそうなほどよろめき、セシュレスも反動で逆方向へとふらつく。大きくたって、決して強い筋肉に覆われた腹ではないのだ。敵にぶつけて威力を生み出せる重みはあっても、それに伴う自分への苦痛の方がずっと大きな攻撃だった。


 それでも、クラウドから距離を取れたことが何よりいい。残った6本の足で地面を踏みしめ、巨体を浮かせて跳んだセシュレスが、ある位置までその身を移していく。茨編みのトンネルの入り口だ。そこに降り立ちクラウドに向き直ったセシュレスに、体勢を整えたクラウドが目を向けた瞬間、全身で地面を押し潰すようにしてセシュレスが土煙を舞い上げる。自分の全身をその向こう側に一瞬隠す。


「ヌグ……!?」


 クラウドが思わず驚いたのは、その土煙が雨に洗い流されたその場所に、大蜘蛛の姿は無かったからだ。代わりにその場に表れていた、白の神官服に身を包んでいた老人は、肩で息をしながらも背筋を正してこちらを見据えている。その顔は、ほんの少し前まで戦っていたブリーズのそれではなく、これがセシュレスという男の素顔であることはわかるけど。


「く、くくっ……あの姿で、君を相手取るのはもう限界なんでな……」


 巨大生物の姿を捨て、人としての姿に変わったセシュレスの行動を疑問視したクラウドに、問われもせぬまま察したセシュレスが答える。普通の人間を相手取るには、力もスケールも増す大蜘蛛姿のセシュレスだが、怪物化したクラウドを相手にしても利点は少なかったのだ。力比べでもクラウドが上、むしろ大きくなったセシュレスの体は的が大きく、クラウドの攻撃を回避することも難しい。自分の放つ魔術にも制限がかかるあの巨体は、相手も大きな怪物である時にはデメリットの方が目立つぐらいである。

 だから、殺される前に戻った。あの体で、出来る限りクラウドを傷つけてだ。四本の足でたくましく立ち、勇猛に息を吐いてセシュレスを睨み付けるクラウドだが、前足二本は隠しきれずに小さく震えている。肩の傷はやはり深く、重い全体重を支えるための力を出すのも厳しくなってきているのだ。


「どのみち、私はもう生きては帰れまい……だが、私達の希望が宿願を手にするまで、君をこの道に進ませるわけにはいかんのだ……!」


 セシュレスに残された最後の仕事は、厳密な意味ではクラウドに打ち勝つことではない。自分が待つ場所にクラウドが来た時点で、アストラを倒したという彼に勝つことが厳しいことはわかっている。自分と相手の力量差も、しっかり見極められるほどの男だから、セシュレスは革命軍の長を長らく務め上げてきた。


 セシュレスの勝利条件は、クラウドがオゾンの魂を獲得する仲間を妨げられないようにすることだ。自分自身の生死は問わない。時間稼ぎでも何でもいい、とにかく一人をこれより先に進ませないことを優先する。カラザに、敵の戦力を分散させる戦い方を提案したのも、ブリーズの姿を偽っていた時のセシュレスだ。クラウドが自分の前に現れたその時、セシュレスは死に向かう自分の運命をも含め、しめたと思ったものである。


「まだまだ、若い者には負けられぬ……!」


 かっと目を開いて両手を振り上げたセシュレスが、スノウの雨の魔力をも大幅に上回る火力の火柱を、あらゆる地面から噴き上げさせた。クラウドの真下からもそう、クラウドと自分の中間点にもそう。火柱の回避と同時に、セシュレスに飛びかかるという選択肢がなく、横っ飛びに回避したクラウドが、火柱の数々の間から離れたセシュレスを見据えなくてはならなくなる。


「く……っ!」


 前足を振り下ろして地面を叩いたクラウドが、土煙を舞い上げる。その土煙が雨に流されたその先に現れた、人としての姿のクラウドは傷だらけだ。肩の傷は深々と残り、持ち上げて構えるのも苦しいのかだらりと下がった両腕の先で、拳を握って力を込めている。蜘蛛の姿で頭の端を食い千切られた結果、こめかみの上にぞっとするような抉り傷を残したセシュレスと同じで、怪物化した時に負った傷は人の体にも残るのだ。


 大きな体で火柱の迷宮を抜けるのは不可能。正しい姿に変わったクラウドを察したセシュレスは、やはり力自慢なだけでなく戦闘勘に秀でたクラウドを、血筋抜きにしても恐ろしい少年だと改めて感じている。


「さあ、来い……! 老兵の意地を、見せてやろう……!」


「負けるっ、かあぁっ!!」


 片や命を懸けて、片や命を捨てて。脳裏に浮かぶ、愛しい少女の未来を見据えた二人が、その信じた道を切り拓くべく意志力をほとばしらせる。

 自分だけのために戦っているわけではないのだ。何も、クラウドとセシュレスだけに限ったことじゃない。それが、互いに矛盾する悲願を目指し合う者同士の戦争だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ