第219話 ~血族争乱~
候源、という新しい単語が意味を持てそうだ。術士スノウが天に向かって放った魔力は、クライメント神殿の周囲に雨と風をもたらしている。中でもその天候の源たる、聖女スノウの交戦域、クライメント神殿西部の一角は、激しい風雨に晒されている。
「まったく、視界が悪い」
「っ、く……見えてるくせに……!」
常に拠点の神殿を背後方向に構え、空のスノウへと火術を放つカラザは、降りしきる雨に視界をやられている素振りが全くない。自在に空を舞うスノウだが、空中座標上に突如現れる火の幕や、砲台であるカラザから発射される、強い火力の炎の砲撃を回避し続けるのに一苦労だ。いちいち狙いが正確。
術士は視野が広くてなんぼとよく言われるが、熟練術士のカラザは立ち回りがつくづく緻密だ。あわよくば、空からカラザをスルーして、クライメント神殿へと東向きの滑空も視野にも入れていたスノウだが、決してそうはさせまいと、カラザが広々と道を阻んでいる。ちょっとそれらしい動きをスノウが見せれば、すぐさま彼女の進行方向を火術にて塞ぎ、さらに追撃の術を放つことで、自由になどは飛ばせてくれないのだ。
「やっぱり、出し抜くことばかり考えちゃ駄目ね……!」
「そうだ、それでいい。お前もいい大人だろう」
飛翔高度を下げたスノウが杖を一振りすれば、竜巻じみた強風が発生し、地面を抉りながらカラザへと向かっていく。詠唱も無くこの大技、しかしカラザも迫る竜巻に無数の岩石を放ち、竜巻が多数の岩石を擁して振り回す様相を呈させる。
舞う岩石の数々が放つのは土の魔力、風の魔力の対抗色。重さを持たぬ風が土の魔力に侵され、自由な吹き荒れを為せなくなり、風力を失った竜巻が沈静化されていくのだ。大味な魔術はそれだけ威力も高く、術士がいなければ為すすべないほどの制圧力を生み出すが、それだけ恐れられるだけのことはあり、対抗策も数多く編み出されている。
だからこの世界は、どれだけ優秀な術士がいたって、それだけで戦局は決まらない。
「せっかくだから使うか」
「ああもうっ! アウェーはきついわ!」
カラザの後方、茨編みの要塞入り口の一角の地面から、地表を破って巨大な植物が頭を出し、一気に麒麟の背丈も越えるような高さの向日葵が立ちそびえる。それはぐるりと大きな花の顔をスノウに向け、拳大の種子を無数に発射してくるのだ。広範囲を撃ち抜く硬い種の散弾を、器用に飛び回るスノウも回避するが、危ない場面も少しある。スノウの握る杖の端に、がつんと当たった種子の重さで手が痺れることからも、人体に直撃すれば風穴を開けていた威力があったことも察せる。
「随分と好戦的な植物園ですこと……!」
スノウの下方の地表からも、ぼこんぼこんと頭を出した、かぼちゃほどの大きなつぼみが、上空のスノウへと大粒の種子弾丸あるいは砲弾を放ってくる。空高くに至ればブリーズの雲に稲妻で狙われるし、地上に近付けばカラザの植物が放つ飛び道具に狙われる、非常に動きづらい状況だ。飛べれば活動範囲も広い、だから有利にことを運べるという、普通の理屈が通用しない。
「雨と風を止めてくれ。私も花盛りの春だけで戦うのは疲れる」
「無茶仰るわね、ホント……!」
アドバンテージを拮抗状態に持ち込んでいるのはスノウも同様だ。彼女の起こした風雨は風と水の魔力によるもの、すなわち常に戦場いっぱいをその魔力で包み、カラザの放つ火と土の魔力の対抗魔力で満たしている。カラザが得意の木術により、植物を用いた飛び道具を数多く使うのは、火術や土術が本来の威力を発揮しづらい状況にあるからだ。
スノウの風雨がカラザの魔術の半分を抑制し、カラザの植物要塞とブリーズの雲が、スノウの活動範囲を狭めている。正しい意味での詰ませ合い。利いた駒が相手の逃げ道を塞ぐ駒遊びよろしく、両陣営が実力者たる敵を自由にさせようとしない、そんな戦場だ。
「いいわ、勝負してあげましょう……!」
「来るか……!」
「天魔、天駆ける光刺!」
ほぼ膠着状態の様相を見せていた戦況を動かすべく、先に動きを見せたのはスノウだ。カラザに近い低空へとその身を下げ、前に構えた両手から、カラザ目がけて特大の熱光線を発射する。ともかく容赦のない威力を込め、カラザが立っていた場所やその周囲まで大きく呑み込む、特大という言葉がよく似合う砲撃だ。速度も一級品で迫り来る熱線を、カラザが足元の地表を勢いよくせり上げる魔力を行使し、地に足を着けたままで高所を確保する回避方法で逃れる。
「炎牙」
続けてカラザがスノウの周囲に火の玉を発生させ、次々とそれらを爆発させていく。本来ならば発生させた後、敵を追わせる火の玉であるのだが、きつい雨に晒される今、長く飛ばせても威力が弱まる。ならばさっさと爆弾扱いにと、最善に近い威力で無数爆破域を作るカラザが、スノウの飛翔を妨げる形だ。幾層もの爆風がスノウを苦しめる。
「私も現存する原種、蛇族として長生きする身だが」
ほぼ誘導される形に近かったが、スノウの体がカラザの真正面位置に到達し、風の翼をはためかせる彼女が、身を浮かせる形でカラザを見据える形になる。四角柱のような、切り立った足場に立つカラザは、空を飛ぶ聖女と同じ高さにて、ちりりと歯の隙間から舌を見せた。
人間の舌ではない。細く、異様に長く、先が二つに割れた舌だ。
「お前のような、血族でもないのに強い奴に巡り会う機会はそうそう無かったよ」
「へえ、光栄。年長者にお褒めの言葉を頂けるのは悪い気がしないわ」
「アストラの力を借りたい衝動にも駆られるが……」
杖を持つ手を頭上に掲げ、カラザが魔力を練り始める。地上と水平に構えた長い杖が、淡く光ったように見えるのは、あくまで錯覚に過ぎない。その錯覚を引き起こすほど、彼が溢れさせ始めた魔力は濃いという話である。
「私の全力を以って、謹んで相手をさせて貰うとしよう……!」
めきめきと、カラザの全身が変容し始めた。見開いた目は人間味を失い、肌は徐々に深緑に変わり、腰元の後ろから長い尾が伸び始め。それと同時に進行する、肉体との変容とは無関係の強い魔力の増幅は、対峙するスノウの肌を、二重の意味で戦慄感で刺激する。
「栄華の秋落!!」
カラザが秘術の名を発するその声は、もはや端正な顔立ちで役者業を営んでいた時のような声色ではない。まるで喉の構造も変わってしまったような、低くがらついた声と共に発動した魔力が、スノウらの下方の地表にびしばしとひびを入れ、亀甲羅模様を刻み付ける。
木術の奥義、花盛りの春。火術の奥義、炎天夏。カラザが切り札と称する秘術のもう一つ、土術の発動とほぼ同時、カラザの肉体も人の形を捨てていく。変容過程の今でなお、既にその体格は人間のそれを大きく逸脱しているのだ。
「見せて貰うわよ、千年来の血族の力……!」
異変を予見したスノウが翼を動かし、空を素早く駆け始めた。太古の術士と、現代最強の術士。歴史を超えた一大決戦は、ここからが本当の意味での始まりだ。
「ぬぐうぅ、っ……!」
「っ、く……!」
やっぱり、おかしい。自分の知っているザームじゃない。矢のような勢いで迫って距離を詰め、突き出す蹴りを放ったレインだが、ザームはそれを武器である、巨大シャベルの柄で受け止めた。それ自体はおかしくない。ザームは元々、素早いレインにも対応できる、驚異的な反射神経の持ち主だ。レインだって知っている。
問題は、いくら鉄のブーツを装備して重みを増した自分の蹴りだと言っても、それを受け止めるだけでここまで顔を歪ませるザームの態度だ。レインが知るザームは、それに苦しむような奴ではない。クラウドにだって負けず劣らずを思わせる、怪力、剛腕、足腰の強さ。そんな彼が、自分の攻撃を受け止めたぐらいで、ここまで苦しそうな顔を見せるのが、レインにとっては違和感しかないのだ。
攻撃を防がれたまま、蹴りだす足で再び相手から距離を取るレインに、シャベルを握らぬ掌を向けてきて、岩石弾丸を発射してくるザーム。比較的単調で、回避も容易だが、好き勝手に考える暇を与えないための牽制を兼ねた攻撃だろう。レインに道を譲ること、レインまでもを神殿に向かわせることは出来ないザームは、こうして敵の動きを制限する手法も欠かさない。
「ザームさん、やっぱり……!」
「へっ……! ボスにゃあ悪いが、このコンディションでお前ら二人の相手なんか元々無理だったんでな……!」
そこそこの距離を保ち合いながら、構えて睨み合う二人だが、今のところ両者がお互いに、致命的な一撃をくらわせた場面はない。それでも、雨が降り始めて濡れている顔でありながら、脂汗を流しているザームであるのは、過剰に苦しそうな表情からも読み取れる。気付けば雨で滲んだザームの服、彼の右脇を覆っている黒い服の下で、露出した脇腹がじわりと赤く染まり始めている。
ザームはクライメント神殿を奪還する為に迫った天界兵との戦いで、負傷した傷が塞がっていないのだ。服の下に隠した、肋骨まで届きそうなほどの深い傷は、激しい運動と雨水で開いたらしく、それが彼本来の腕力を発揮する妨げになっている。レインの脚力とスピードが生み出す、パワーとスピードと衝突するたび、逐一彼が妙に苦しむ理由にそれは無関係ではあるまい。
「お前らが、そういう風に戦略を立ててくれたのは正直助かったよ……!」
「…………!」
シャベルを地面に突き刺して、勢いよく掘り起こすような所作を見せたザームが、レインめがけて津波のような土を放ってくる。掘り上げる動きに伴う形で、地面をめくり上げるように大量の土砂を放つ魔術である。素早いレインだから、かなり大きく横に跳んでかわすことが出来たが、彼女が立っていた場所を含めて後方まで広くを、ザームの放った土が埋め尽くす。かわさず直撃させられていたら押し潰されていただろう。
使い慣れた魔術を行使するだけでも、ぜぇと息を吐かずにいられないザームだが、レインらがファインを神殿に向かわせ、ここはレインが食い止めるという戦術を選んでくれたのは、彼にとっては僥倖だった。最初は二人同時に相手取ってやるよと見せかけていたくせに、思いのほかあっさりとファインを通してくれたザームという時点で、レインもおかしいとは思っていたのだ。執拗にレインの確保に動いていた過去の彼からもわかるが、ザームが目的遂行のために見せる執念というのは、それほど容易に逃れさせてくれるものではない。
「だがな、レインちゃんよ」
そして今は、レインだけが、ザームにとっては食い止めるべき対象。意地でも先には進ませない。ミスティに、ファインと戦う手間を押し付けてしまったと自覚する彼をして、これ以上は絶対に譲れない。
「甘く見てると、てめえが死体の仲間入りなんだぜ……!」
「う……!?」
構えたままの姿勢から、ほんの少し体を傾けた瞬間に、ザームがレインに接近する速度は最高速にまで上がった。手負いのザームと意識して直後、この急加速度は虚を突くに値する事象である。敵を射程圏内に捉えた瞬間、シャベルを振り抜くザームの一撃を、レインは半身回って振り上げた足で蹴り飛ばす迎撃に出る。
重い、鋼のブーツに覆われた足がひりつくほど。古き血を流す者・蛙種のレインの両脚は、肌の柔らかさに切断力への抵抗力が無いだけで、強度で言えば岩石で殴られても折れない人外級の頑丈さを持つ。それが、防具越しで受け流す形でも痺れるなんて、それだけザームの腕力が繰り出すパワーは凄まじいということだ。
「っ、はあっ!」
「ぬぎが……っ!」
低く跳ぶと同時に振り回して突き出す足先で、ザームにカウンターの一撃を放つレインも素早い。武器を上方に打ち上げられたザームも、手元側にあたる柄を胸前に構えて盾変わりに。鉄具つきで放たれるレインの蹴りは、岩壁にすらひびを入れさせるほどの威力でありながら、負傷したザームがそれを受け、わずか退がるだけに留めている時点で、彼の底力もまた超人的だ。
離れ合う二人だが、レインは距離が取れてよかったと思っている。正味な話、クラウドやドラウトを除いたら、レインの脚力と勝負できるパワーの持ち主などそうそういない。その怪力連中に次ぐか、二番手に割り込んでくる力自慢ザームとの接近戦は、相手が手負いであることを含めてもハイリスクなのだ。
「……なあ、レイン。昔一度、俺とお前の血脈のどちらが上だろうなって話、したの憶えてるか?」
「憶えてる……!」
「なんだかんだで、サシでそれを計れる機会じゃねえか……! お前は力比べが好きじゃあねえだろうが、俺はお前と真っ向から強さ比べが出来るこの状況、悪くはねえと思ってる……!」
元闘士のザーム。はじめは他に職を選べず、その道に進んだ彼だったが、高みを目指すうちにそういった道歩みも嫌いでなくなった身。根っから穏やかな性格で、血を嫌うレインが嫌な顔をする自己主張だが、決して私闘の場ではないと頭では理解しつつも、かつて無垢に力を求め、強さを得んとした男の心は躍っている。たとえ今が負傷中で万全ではないとしても、それを言い訳に思いつかぬほどにだ。
それだけの自信が彼にはある。そんな男が、レインと本気で力を比べたいと言っている。15歳にも満たない少女を、対等な闘士相当に見なしているのだ。昨日も幾多の天界兵を葬ってきたばかりの実力者がだ。
「古き血を流す者・蛙種と蟻種――勝つのは二つに一つだけだ……! 悪いが、おとなしく喰われてやるわけにはいかねえなあっ!」
体躯に似合わぬ怪力を持つ、己が血族の名と自らの戦歴に誇りを懸けて。叫び猛然と踏み出したザームを前に、レインの集中力が極限まで高まるのは生存本能に触発されてのものだとさえ言っていい。
エンシェント同士の全力勝負は、必ず生き死にが懸かるほどの戦いになる。いくつもの実例を持つその真理の渦に巻き込まれたのが、僅か13歳の少女というのが残酷な話である。
「いつまで逃げ回っているつもりかね?」
「うるさいな……!」
近くにものがない、低空のぽっかりとした空中座標に、風の魔力によって浮遊力を得た、上部の平たい氷の塊が浮いている。ブリーズが立っているのはその上だ。空中に足場を作り、そこから地上のクラウドに向け、稲妻や風の刃といった、魔力で発する飛び道具を放ってくる。
絶え間なく飛来する連続砲撃の数々に、クラウドも休む暇なく駆け回って回避を続けている。風の刃も稲妻も、術士として名高いブリーズのそれとして恥ずかしくない速度であり、クラウドも容易く回避し続けているわけではない。ブリーズもクラウドの動きを先んじて読もうと努め、牽制の飛び道具の中を混ぜ、クラウドを誘導した先に魔術を放ってきたりと、一撃一撃に意図が含まれている。体も頭脳もクラウドはずっと使い続け、ようやく無傷といったところ。
「まさか私の魔力切れを待つつもりかね? だとしたら気の長い浅はかさだよ」
「んの……」
「まあ、流石にそこまでの馬鹿ではないか。もっとも、このままの展開が続くなら、私にとっても望ましい」
ブリーズはこうしてクラウドの届かぬ、安全な空中から砲撃し続けて、時間を稼ぎ続けられるならそれで結構なのだ。攻め急ぐ必要はどこにもない。逆の立場のクラウドは、なんとか一秒でも早くこいつを仕留めて、クライメント神殿まで駆け抜けたく、苦しい。早くしなければ、クライメント神殿の地下に眠るという、オゾンの魂とやらを革命軍が獲得してしまうかもしれない。
そんなクラウドにとって、ブリーズは本当に嫌な相手だ。翼で空中にホバリングすることも可能であろうに、足場をわざわざ作ってその上に立つという手間をかける、あの周到さ。あれは、もしも空中のブリーズにクラウドが急襲をかけても、蹴られる場所を作って、瞬発力を活かした回避が出来るようにするための措置だ。足の着かない空で身を浮かべさせる形より、あの方がブリーズも緊急時の対処がしやすいはず。
「さあ、来ないのか? それとも、この期に及んで臆病の虫に刺されたかね?」
クラウドは、敵に触れなくてはダメージを与えられない。跳ばなきゃブリーズに攻撃も出来ない。一方で、飛びかかっても仮にかわされたら、体が浮いて自由に動けないところを、ブリーズに狙撃されて終わりというリスクを常に孕む。迂闊に動けず、慎重に機を待たねば、作らねばならないのだ。
挑発的な言葉と共に地上へ電撃を落とし、地を這う稲妻で広範囲地表を攻撃するブリーズの攻撃を、クラウドは廃屋の二階の割れた窓に飛びついて、窓の外側の壁縁に手をかけて回避する。そこへさらに飛んでくる、ブリーズの風の刃を地上へと飛び降りて回避したところで、地上で踊る稲妻の活動範囲を潜り抜けて凌いでいく。攻め手の一度も繰り出せぬまま、回避一辺倒の戦いとはきついものだ。
「急がなくては君の友人らも、私の同胞に殺されてしまうぞ?」
「っ……!」
どうせどこかで、クラウドが腹を括って攻めに出るのはわかっているから、ブリーズは挑発していっそその時を早めさせようとする。自分のペースで来られるより、焦って最善でないタイミングで飛んでくるクラウドの方が、隙を見出せる可能性が高いからだ。罵倒やら、侮蔑やら、あるいは味方の危機やら、あらゆる切り口からクラウドの怒りや焦燥感を駆り立てるブリーズの口撃が、今は見えない形で数秒後の優位を作ろうとしている。
「……やってやる!」
クラウドも、決断するしかない。腹を括る。ただし、彼本来の決意よりも数秒早く。焦る、急がなくてはと思うから、自覚が無くても百パーセントではない。果たしてどこまで通じるか。
ブリーズが上空から、召喚した三筋の稲妻を、クラウドや彼の周囲へと差し向けてきた。それをジグザグに駆けて回避した末、クラウドは崩れかけた建物の陰に身を投じ、一瞬ブリーズの視界内から姿を消してしまう。
「行くぞ……!」
廃屋の裏側から姿を見せたクラウドが、またも別の廃屋の裏側に姿を隠し、続けてまた駆け抜けるまま姿を見せる。次に駆け込んだ廃屋の裏側に身を隠した瞬間が勝負。止まらず駆けていれば姿を見せていたはずであろうクラウドが、建物の裏で急停止したことで、現れるはずの残影を先んじて目で追おうとしていたブリーズの視点を僅かに惑わせる。まだ、大きな効果は無い。
廃屋の裏で地を蹴ったクラウドが、これ以上ない丁度の高さの跳躍で廃屋を飛び越える。ブリーズを前方に見据えた廃屋の屋上端に、クラウドが靴の裏を接した瞬間、ぴったりブリーズとクラウドの目が合った。ほぼ同じ高さ、互いを目で認識し合った瞬間が、クラウドが勢いよく蹴り出して我が身を発射する。迎撃の魔力を発動させる暇も与えず、光のような速度でクラウドがブリーズに直進する。
「むぉ……!」
「っ、く……!」
氷晶の足場を蹴って跳んだブリーズも、あわやの回避であったことが溢れ声からもわかる。逃げるブリーズを拳で突くでもなく、熊手を一振りするように捕まえんと腕を振るったクラウドだが、伸ばした腕の指先がかすかにブリーズのなびいた神官服をかすめた結果。あと少しだったのに、と、危ないところだ、という両者の意識は、すれ違いざまに今の展開を慢心無く客観視してのものである。
「はっ!」
一転、次の瞬間から窮地はクラウド。浮かぶ別の浮遊氷晶に足を着けるより一瞬早く、クラウド目がけて杖を振るブリーズが、風の刃を発射した。大きく、速い。あまりの速度で空中を直進し、放物線も極めてゆるやかなクラウドに追いついてくる速度は、振り返らずしてクラウドに、肌が凍るほどの死の危機を直感させる。
先にクラウドの足が別の廃屋の壁に到達し、着足と同時に壁を蹴り上げるような勢いで蹴り返したことで、クラウドの体は下方へと屈折投射される。直後に石造りの廃墟がブリーズの風刃により、がきんと深い傷を刻まれたことからも、あと一瞬でも早くブリーズが風を放っていたらクラウドは真っ二つにされていたことが明白。惜しいと感じたのは今度はブリーズの方だ。
「さらばだ……!」
地面に着地した瞬間にすぐさま移動し、敵の狙いを定めさせまいとしていたクラウドだったが、彼の足が地面に到達するよりも、ブリーズの魔術の発現の方が早い。クラウドの着地点、その狭い一点を中心に、クラウド周囲を取り囲む氷の壁が、がきんと地表から発生したのだ。だんと足が痺れるような着地音とともに、クラウドはいびつな四角形の壁に囲まれた空間に捕えられる形になる。そして、空は吹き抜け。
「く……!」
「消えろ!」
杖を掲げたブリーズが、上空の雨雲から特大の稲妻を召喚する。狙うは当然クラウドだ。氷壁を破壊するのは確かに簡単なクラウド、しかしそれが出来ても今の場所から一秒かかる。既に空からまぶしいほどの光を放しながら、亜光速で真っ直ぐ落ちてくる稲妻からはもう逃れられない。
氷壁の上空吹き抜け口に突入した稲妻が、クラウドまで到達した瞬間、着弾した稲妻が大爆発を起こす。厚い氷壁が粉々に破壊され、もうもうとまき上がる煙。ブリーズの放った稲妻の威力を物語る炸裂は、逃げ場の無かった少年の体を真っ黒焦げにし、あるいは跡形も無く吹っ飛ばしたことさえ連想させる光景は、一見ブリーズにしてみれば得意げに勝利の鼻息を鳴らしていいはずのものだ。
「やはり一筋縄ではいかん、なっ……!」
一瞬たりとも気を抜かなかったブリーズ自身が、彼の命を救ったと言っていい。足場を蹴って跳んだブリーズへと、土煙から飛び出して襲い掛かった巨獣の正体は、その突撃を咄嗟にかわしたブリーズもはっきり視認する暇がなかった。それほどまでに、地表から空中のブリーズまで飛びかかってきたそれは速い。伸ばした前足をしっかりかわせたと認識してから、身を回しながら次の浮遊氷結に着地するブリーズが、変異した少年の姿を目の当たりにする。
ほんの今しがたまでブリーズが立っていた浮遊氷結足場を、肩をぶつけただけで粉々に砕いた巨獣は、そのまま地上に降り立つと同時に体を前後逆に回し、見上げてブリーズを睨み付ける。背中が焦げた巨体だ。狭い空間に閉じ込められたクラウドが、体を一気に大きくして、氷壁を粉砕して飛び出す形を兼ね、人の姿にも勝る力と速度を得た変容体を見下ろし、ブリーズも舌打ちする。
「羅刹種か……! やはり目の前にすると壮観だ……!」
クラウドが何者であるのかは、ブリーズだってカラザあたりから聞き及んでいるだろう。それでも、長い半生で一度も見たことが無い、希少種の怪物を目にした衝撃は打ち消せない。千年来に及ぶ中で、とうにその血は絶えたとさえ言われていた古き血を流す者の一種でありながら、現存するならば最強種の一つに数えられるクラウドの血筋には、強者ブリーズも身震いする。
状況はまだ優勢。クラウドには空を駆ける手段が無く、ブリーズには飛び道具に事欠かないアドバンテージがある。あの稲妻を耐え切ったタフネスは脅威だが、的の大きくなった敵というのは、ブリーズにとっても悪い状況要素ではないはずだ。
「けだもの風情が、汚い眼差しを向けるでないわ!」
「ッ……!」
地表から水柱を発生させ、クラウドの巨体を浮かせようとするブリーズの魔術にも、機敏に反応したクラウドが駆けだすことで回避を為す。初速からまるで馬の全速力のよう。素早くブリーズの真下にまで駆け込むと、その場で真上に跳躍し、背中をぶつける形でブリーズに迫るのだ。
跳んだブリーズの今しがたまでの足場がクラウドの体当たりで壊され、その拍子に体ごと回して、ブリーズを追う後ろ足を蹴り上げたクラウドが、ブリーズの回避をあわやという形に追い込む。次なる足場をすぐさま生成し、着地と同時にクラウドに風の刃を飛ばすブリーズだが、落下して地表に達したクラウドの横っ飛びは速く、風の刃は地面を傷つけるだけの結果に終わる。
ハアッと息を吐いて再びブリーズを見上げるクラウドに、ブリーズは次々と氷塊弾丸を放ってくる。走りだしたクラウドが、巨体にそれらをかすらせもしない。瞳孔の小さなクラウドの眼光がぎらりと睨み付けるたび、ブリーズもいつでも足場を蹴られるよう、足腰に力を入れざるを得ない。
狩るのは人か、人であった怪物か。見た目には疑わしいほど、互角の戦いだ。
クライメント神殿から離れた、三方の戦場での戦いのいずれにも、古き血族に流れた血が混ざっている。千年の時を経て、再び歴史の行く末を賭けて敵対する血族達の今のこの時は、もはや最新の天地大戦とさえ呼んでもいいほどだ。




