第210話 ~大好きです~
口をもごもごさせて、目線をふらっふら揺らめかせるファインが、何を探しているのかクラウドにはわからない。クラウドの手を握り締めた、自分の両手に目線を落としたり、ふいっと斜めに視線を泳がせたり、かと思えばちらっとクラウドの顔を見上げて、すぐにまだその目先を落としてしまう。繋がる手から伝わるのは、ファインの温かい体温だけなのが惜しまれる。手を介してでも彼女の胸の高鳴りが伝わるなら、もっとクラウドにもファインの心境が伝わるのに。
「ち……っ、違います違います……! そうじゃなくって……!」
真っ赤にしたままの顔をぷるぷると振るファインは、出だしからつまづいていたことに、ようやく気付いて口ごもる。お尋ねしたいことがあるんです、じゃなくて、言いたいことがあるんです、でしょうがよ。クラウドが自分のことをどう思っているのか、一人の女の子として認識してくれているのか。それを知りたくて知りたくて仕方ない想いが高じるあまり、お尋ねしたいことがあるんですという入りになってしまったことを、ここにきてファインは心臓が凍るほどしくじった想いに駆られている。
「え、えぇと……あの……そのっ……」
どうしようどうしよう、大事な言葉がどうしても出てこない。向こうが自分をどう思っているかなんかより、まずは自分の気持ちを伝えてからじゃないか。入りで大失敗したファインは頭が真っ白になっており、声も消えそうになる。
頑張れ私、言え言え言ってしまえ、駄目元でもなんでもいいから。失敗したってその時はその時、やらなきゃ何にも進まないぞと自分に胸の内で言い聞かせ、3秒息を止めてから深く息を吐き出す。クラウドの顔を見上げ、伝えるべき言葉を喉の手前まで引っ張り上げてくる。
「……ファイン?」
「わ……っ、私は……あ、あなっ……」
"あなたのことが大好きです"。ただそれだけの言葉を口にすることが、こんなに恐ろしいことだなんて。先のことなど一切考えぬよう努め、まずはそれを伝えてからだとはっきり決断したはずなのに、クラウドの顔を真正面から見据えた瞬間に、ばくんと高鳴る心臓が、やめろ言うなと引き止めてくるのだ。疑いようもないほどに、クラウドが自分にとって特別すぎて特別すぎるほど、気持ちを伝えることへの恐れが急膨張する。
「あ……あな、たが……」
駄目駄目やめろ、失敗したらどうするんだと、口の中まで用意されているはずの言葉が、舌にしがみついて離れないかのように出てこない。もしも告白したとして、俺はファインのことをそういうふうには見れないよと言われたらどうするんだって、後ろ向きの危機感だけがファインの心臓を打ちのめす。成功した時のことばかり考えられない、むしろ失敗した時を想定する強迫観念ばかりが、ファインの胸中で大きくなる。
開いていた口もぎゅうっと閉じて、クラウドのことも直視できなくなったファインが、自分の膝元に目線を落として、もう持ち上げられなくなった。恋に幼い思春期の誰かにとって、恋心の告白なんていうものは、オールオアナッシングの大勝負。受け入れられればそりゃいいが、失敗なんてしようものなら、叶えたい最大の夢を打ち砕かれた挙句、今までのように相手と接することさえ難しくなってしまう。失恋の喪失感は、経験する前の方がその怖さを想像で補えて、現実以上の恐怖として思春期の心を強く縛り付ける。
「……………………ぅゅ……」
「!?!?!? まままま待て待て待て! とりあえず、ちょっと落ち着け!?」
唐突に訪れた、危険な衝動に目を見開いて、急ぎ片手で口を押さえて頬を膨らませたファインに、クラウドもびっくりして大声を上げていた。なんか知らんがコイツまさか吐く気かと。実際のところはホントにやらかしてしまうほどの重症ではないのだが、どうやらファイン、追い詰められすぎて吐き気に近いものを覚えてしまったらしい。
クラウドが焦るのもわかる、実際ファイン自身もドカンするかと一瞬思ったし、そういう予備動作をしてしまったんだから。クラウドの顔色が変わり、空気がぶっ壊れてくれたおかげでファインの意識がはっとする。口を押さえたままのファインは、クラウドを見つめたままこくこくと頷いていた。汗だくで。
「……落ち着いた?」
「は~い……なんだか、すみませんでした……」
三角座りした膝の上に額を乗せ、顔をクラウドの方から逸らすファインの表情は、クラウドに見えない角度で完全に意気消沈模様である。まさかここまで自分がダメな奴だったとは。ふへっ、ふへへ、と、わけのわからない笑いが、ファインの口の端から溢れかけるほど。人間、自己嫌悪が過剰なほどに突き抜けると、もはや自分のことを笑うしかなくなるものである。
「……結局、話ってなんだったわけ?」
「い、いやぁ……それはもういいです。忘れて下さい、また今度お話しますので……」
諦めた。問われて額を上げ、傾けた頬を指先でかりかりするファインは、もう今日はダメだと割り切ってしまったようだ。こんな大事な話を先送りにする時点で、本当自分って意気地なしだなぁなんて心中では自虐しているファインだが、体調が一瞬でもおかしくなるぐらい緊張するんだったら、もう無理に敢行しない方がよろしい。
「……帰りましょうか。あんまり遅くなると、お母さんにも心配させるかもしれませんし」
「んー、それはいいけど……気になるなぁ、何の話だったのか」
「また今度ですってば。いつか、必ずお話するつもりではいますから」
へへ、と元気の無い笑顔で笑って立ち上がるファインに従い、クラウドも立ち上がり、二人並んで帰路に沿った足を進めていく。あれだけの空気を作り上げて、何かを告白しようとしたファインの姿からだけでも、ちょっとはクラウドも何かに気付けよってな場面でもありそうだが、クラウドは持ってる情報が少ないんだから仕方ない。
そもそもにしてクラウドは、まさかファインが自分に真剣な恋心を抱いているだなんて、露ほどにも想像に至れていないんだから。一番大事な真実への足がかりがそもそも情報として欠けているんだから、ファインと並んで歩く帰り道の中でも、いったい俺に何の話があったんだろうって想像しようとしても、ミスリードが邪魔をして解答に辿り着けないのだ。
たとえば、混血児であることへのコンプレックスを告白しようとしたとか、それ以外に何か真剣な"相談"があったのかな、だとか、想像したものがハズレへ先に辿り着くと、真実は霧に埋もれて消えてしまうのである。ファインが最初に、"お尋ねしたいことがあるんです"なんて入りにしたのも、クラウドの想像力を間違った方向に後押ししてしまう意味で非常に勿体なかった。
「ねえ、クラウドさ……」
「なあ、ファイ……あ、ごめん、先にそっち」
「あ、あぁいえ、そちらからでいいですよ。たいした話じゃないので」
「いやいや、ファインが先だよ。さっきもなんか気になる感じで話切られたし」
「あ~、う~ん……別にそんな……ちょっと思い出話しようかなって思っただけですし」
「どんな?」
「初めて会った時から、クラウドさんは優しかったなぁ、とか……一回、泣かされましたけどね」
「あー、そんなこともあったな。でもあれは許して欲しい」
「あははは、そうですね。あれはクラウドさん悪くないです」
イクリムの街で初めて出会った頃のことをかいつまんで話して、自分発信の話を手っ取り早くファインが解決させる。沈黙もどうかなと思って、適当にでも話を繋ごうとしていたファインだが、クラウドの口から何か聞かせて貰えるなら、ファインにとってはその方がよっぽど楽しいのだ。だからさっさと自分の話は終わらせる。
「クラウドさんは、何言おうとしてたんですか?」
「ん~……なんつーかな、ファインがイヤなら別にいいんだけどさ」
私がイヤなこと? そんなのあるのかな、なんて思って首をかしげるぐらいには、今のファインはクラウドにべったりの精神状態である。好きすぎて。さすがにそこまで従順度全開すぎるのもどうかと。
「俺とファインってさ、親友同士だよな」
「ん……そう、ですね。はい。友達でいられることが、私にとってはすごく幸せなことです」
友達か、と、ファインの胸に密かに刺さるとげ。僅かな動揺をすぐに隠すかのように、言葉を紡いで紛らわせたのは上手にやっている方だ。
「そのさ……友達同士ならもう、敬語とか無しにしないか?」
「あ……」
「まあ、ファインがその口調で自然体なら、無理にとは言わないよ。レインと話す時にもそうだしな。でも、ファインはサニーには普通に話すじゃん。俺ともそんな感じでいてくれていいよ、同い年の友達なんだし」
予想もしていない提案だったのは言うまでもなし、それはもっとも、ファインが当たり前のように繰り返してきた、口調の習慣に対する指摘だったから。実際ファインは、物腰が低い性格を根本的な遠因として、誰を相手にしても下からの口調で接する癖がある。それを今になって、クラウドから突っ込まれるとは思うまい。
「難しいなら、今までどおりでいいけどさ」
「いえっ、あのっ……べ、別に敬語を使い続けるのは、他人行儀ってわけじゃ……」
「わかってる、わかってるって。ファインが俺のこと、友達だと思ってくれてるのは伝わってるよ」
「…………」
少しでも取り乱しかけたら、先を読んで安心させようとしてくれるクラウドの言葉と笑顔が、ファインの心をこれだけあっさりと落ち着かせてくれる。言葉も出なくなるというものだ。互いの顔を見つめ合いながら歩く二人の表情に大きな変化が無いままにして、ファインの中ではまたクラウドの存在が大きくなる。今まででも最大級だったのに、まだまだ大きくなれるんだから驚きだ。
「じゃ、じゃあ……試しにですね」
「おう」
「……クラウド?」
「なんでしょうか」
「呼び捨てに出来た!」
「普通のことだろ」
「クラウドっ!」
「だから何」
みるみるうちに上機嫌の顔になるファインに、何がそんなに面白いのかさっぱりのクラウドも、ファインが楽しめているならそれでいいやってなもんで、自然な笑顔が色濃くなる。本当こいつ、可愛らしい妹みたいな奴だ。戦う時にはあれだけの顔が出来るくせに、平穏な日々の中での無邪気さとの落差は、如何とも形容し難い。
「うふふふ、なんだか楽しくなってきまし……あっいけない、また敬語になってる」
「なんだ、結局染み付いてるんじゃん。無理にとは言わないし、徐々に慣らす感じでいいぞ」
「急に変えていくのは難しいかもしれ……ないけどね。ちょっとずつ頑張っていきま……いこうかな」
「全然ダメだな」
「難しいよぉ」
最後の一言ぐらいはせめて自然にため口を利けたが、やっぱり無意識に喋ると敬語が出てしまう。習慣もあるし、元からそういう口だからしょうがない。そのぎこちなさを可笑しく感じて笑うのが、今の一番の楽しみ方だろう。
「……でも、嬉しいな。クラウドさんの方から、そんなふうに言ってくれるなんて」
「俺はずっと気になってたんだぞ。距離は感じないけど、もっと近い方がいいなって」
「そっか……そう、なんだ」
あくまで、友達としての距離感を、もっと縮めたかったという意味で言ってくれてるのはわかってる。それでも今のファインにしてみれば、たまらなく幸せで胸が温かくなる言葉だ。友達以上の関係になる道筋を、今日は自分から投げ捨ててしまったけれど、諦めかけていた接近を向こうから持ちかけてくれるなんて、ファインにしてみれば緩む頬を堪えきれない。
「……ふふっ」
「ファイン?」
声色が、自分の知っているファインの笑い声の、過去のどれとも違う気がした。当然だ、今までで一番、幸せで、嬉しくて、溢れ出る笑いを我慢できずに漏らしてしまった笑い声だったんだから。走りだして大きくジャンプして、ばんざいしたいぐらい嬉しいファインの足が、理性で耐えてそれでも少し早足に。急にどうしたんだよって顔のクラウドを置いて、ファインはすたすた歩いていってしまう。
「ファイ……」
「クラウドさんっ」
ファインがくるりと振り返ってクラウドを真正面に見据えた。彼女を追う足を速めようとしていたクラウドも、思わず足を止められてしまう。思わずだ。
「私、クラウドさんに会えて、本当に幸せでした。何度も何度も言ってきた気がしますが、やっぱり何度だって言いたくなるんです。私は今、とても幸せです」
普段のクラウドだったら、わかってるよと笑って返すだけだっただろう。出来ない、口を塞がれた気分。それほどまでに、幸せいっぱいの表情で頬を赤らめ、月を背負って輝く彼女は美しく、絵姿だけでクラウドの心臓をぶち抜いてきたからだ。
「ずっと、ずっと、クラウドさんとは友達でいたいです。駄目な私で、いっぱい迷惑をかけるかもしれないけど、わがまま言いたくなるんです。クラウドさんがそばにいてくれるだけで、私は幸せになれるんです」
ほんの少し前に敬語をはずす練習をしていたっていうのに、それも忘れて普段どおりの口調で、昂ぶった想いを口にするファインは、虚実の概念がはなから存在しないかのように真っ直ぐだ。相手の瞳からその奥にまで敬意を注ぐような眼差しで、心からの気持ちを言葉に乗せて放つファインは、当人が無自覚にしてそれが最も彼女らしい。
嘘をつくのが苦手で、本当のことしか普段から言わない彼女だから薄れがちであったけど。無垢さそのものを吐息や声と共に発するファインの姿こそが、最も彼女が輝く瞬間だとクラウドが気付いたのはこの時だ。そしてその発見がクラウドに、ファインが本来持つ一番の魅力を、この瞬間に不意に思い出させてしまう。
こいつ、こんなに愛しくなるほどの奴だったかなって。
「……友達になってくれて、ありがとうございます。そればかりですよ、本当に」
近づいてきて、クラウドの手を両手で握り、ほんの少し低い背丈から見上げてくる赤ら顔のファインを、間近で見たクラウドが言葉を失ってしまう。この熱烈な想いが、どうしてさっき言えなかったのだろう。客観的にはそうとさえ思えるほどの言葉の羅列が、今のファインにとっては特別でも何でもないから不思議なものだ。テンションに乗ってしまえば、本音をぶつけずにいられない彼女の性格が、この瞬間だけ噛み合っているのが妙な巡りである。
「……照れるから、ほどほどにして欲しいな」
「ふふっ、ごめんなさい。でも、言わずにいられなかったんです♪」
「あ……おいっ……」
間近でクラウドと向き合うのが気恥ずかしくなったのか、ファインはクラウドの手を離して振り返り、ほんの少し早足で前に進んでいってしまう。クラウドも早足になって追いついて、並んで歩く形にまた戻る。数秒前の光景と、歩く速度を除けばまったく同じ光景。そのはずが、二人の内面では全く違う心模様が渦巻いているから全然同じじゃない。
早足だから、宿に辿り着くまでも殆ど変わらない。ずっと表情の緩みっぱなしのファインと、ちらちらファインを見ながら歩かずにいられないクラウドの姿を、随分二人とも代わり映えた顔色でお帰りですねと宿が迎えている。
「ねえ、クラウドさん」
「……な、何?」
「私、お母さんのこともレインちゃんのことも、サニーのことも大好きです」
母のことが、妹のことが、幼馴染のことが。
「だけど今は、きっと……クラウドさんが、一番大好きです」
友達としてだろうか。やはりファインは臆病だ。そうとも捉えられる文脈でないと、クラウドにそう言えない。そうした自分のダメなところも自覚しつつ、言わずにいられないほど想いが高まってしまっていたのもまた事実。それが彼女の、クラウドを真正面に見据えつつ言いたかったところを、紅潮した顔を少し伏せて言うことしか出来なかった仕草にもかすかに表れている。
「……俺だって、ファインのことは好きだよ」
「嬉しい……!」
露骨にファインから顔を逸らしてそう言うクラウドを、ちらりと見上げてファインは顔いっぱいに幸せを塗りたくる。そんな彼女が弾みで発した短い声にも、溢れんばかりの幸せな想いが詰まっている。
はっきり好意が向き合うようで、厳密にはすれ違っていて、それでもこの人のそばにい続けられるのなら、他には何もいらないとさえ思えたファイン。たった一日で、あるいはほんの数分間で、ただの友達だと思うには難しいほど、自分の中でのファイン像を書き換えられたクラウド。激変とは往々にして、なかなか予兆を表面化させてくれないものだ。想いを伝えられなかったことで今日の前進を諦めたファインと、他愛のない一日がただ過ぎるだけだと思っていてそうじゃなかったクラウドという事実が、皮肉なほどにそれを実証している。
抑えられぬ想いが、仕草や声にまで現れる様とは、言葉以上に雄弁だ。真意を単に無機質な文字列に表すより、それがより強く人の心を直に触ることがあるというのは、決して夢見がちな人々が描いた妄念ではない。確たる真理である。
「ただいま」
「おかえり~。クラウド君は?」
「外で体を動かし……てるってさ。しばらくすれば、帰ってくると思うよ」
宿の寝室でファインを出迎えてくれたのはスノウだけだ。レインはスノウが座るそば、既に布団に体を埋め、すやすやと寝息を立てている。ファイン達の帰りがやや遅くなったのもあるが、基本的にレインはファイン達より早寝なのである。
「お母さん、クラウドさんの布団も敷いておく?」
「…………? ええまあ、すぐに帰ってくるならそれでもいいかもね」
露骨に違和感を感じつつも、スノウの返答は普段どおり。いそいそとクラウドの布団を敷くファインの姿を、自分の布団を敷くこともせず、見つめたままのスノウであるのも仕方ない。
「ねえ、ファイン」
「……ん?」
「その……急にどうしたの?」
ああ、やっぱり言われるよねって、ファインも動きが止まりそうになった。返答をすぐにはせず、クラウドの布団を敷いてから、ふうと息をついて座ってスノウに振り返る。何のことを言われているのかはわかっている。
「……クラウドさんに、友達同士なんだから、敬語はやめにしないかって言われたの」
「……それで?」
「なんか、その……お母さんとも、ね……」
クラウドに受けた指摘からの副産物で、ファインは帰ってから気付いたのだ。親子なのに、お母さんに対して、ずっと敬語だったことを。物心ついた頃にはそばにおらず、長らく会っていなかったお母さんだし、元の口調がそうであるファインだから、そのまま染み付いてしまったことも無理のない話であろう。それをファインは、今からでも改めようとしている。
「えぇと……わ、私もさ、ほら? お母さんとはもっと仲良くしたいし……ぎ、ぎこちないのは自覚してるけど、普通の口調で話したいなあって……」
ええ、大変ぎこちない。敬語じゃないファインって、こんなに違和感あるもんなんだなって、彼女の風体と習慣を記憶に持つスノウは、くふっと笑う声を隠しきれなかった。クラウドと対面していた時とは違う気恥ずかしさで、ファインが顔を赤くする。最近の彼女は多種多様な意味で赤面しすぎ。恋でやら、猫耳罰ゲームによる羞恥心にやら、母への接し方のぎこちなさにやら。
「……だめ、かな?」
駄目な理由がどこにあるのかわからん、なのにそんなことを言ってくるファインの自信なさげな姿に、スノウもはっきりと表情を、くしゃっとせずにはいられなかった。膝立ちになって歩くようにし、ファインに近付いて、両手でファインをぎゅうっと抱きしめる。
「わぷぷ……お、お母さん、苦しいよぅ……」
「馬鹿なこと言わないの。仲良くしたいって娘に言われて、イヤだって思う親がどこにいるのよ」
ファインの顔を自分の胸にうずめさせ、自分は後ろにごろんと寝転がるスノウが、ファインの全身を自分の体で受け止めるような体勢になる。腕の力を緩めたスノウのおかげで、顔を少し浮かせてぷはっと息を吸うファインが、豊満なスノウの谷間のすぐそばから、お母さんに乗っかってスノウの顔を見つめる形になる。
「私は、あなたをずっとほったらかしにしたひどい親。そんな私とでも、あなたは仲良くしたいって言ってくれるの?」
「お母さんです。私の、一人しかいないお母さんなんで……お母さんなのっ」
敬語はずし、なかなか慣れない。それに集中力を割きながら訴えるファインだから、純真な想いが描くはずの表情に、ノイズが混ざって勿体ない。それでも充分に伝わるほどの、無二のお母さんとの絆を今以上に深めたいという愛娘の想いが、どれだけスノウにとっては嬉しいことだろう。
「あぷっ……」
「……無理に変えなくていいわ。その気持ちだけで、私もう我慢できない」
ファインの頭の後ろにそっと手を添え、スノウはファインの顔をまた胸元に抱き込んでしまう。息苦しくないよう、優しくだ。ふわふわの胸に額をうずめるファインも、お母さんの両肩に手をかけるようにして、触れ合う感触をじっくりと堪能する。お母さんに抱きしめられるこの幸せは、ホウライの城で貸して貰えていた高級なベッドでも絶対に味わえない。
「私、母親になれてよかった。あなたが産まれてきてくれたことが、私の人生の最大の幸せよ」
少し震えているような声が表すとおり、ファインに自分の顔を見れないようにしたのは、ともすれば零れ落ちるかもしれなかった涙を隠すための保険のようなものだろう。スノウはそうしたものを堪えられる方だ。実際に雫を流すことこそなかったものの、天井を仰ぐ目に溜まるそれを、ぱちぱちと速いまばたきで落ちないように努める姿を、出来るだけファインにも見せたくない。レインに対するファインの見栄っ張りな性格は、母の性格を血から受け継いだものなのかもしれない。
地人の夫と愛を結んだことに間違いは無かったと思いたかった。混血児として生まれたミスティが、その血に苦しめられてきた怨念をぶつけてきた時から、長く信じてきたそれも根元から揺らがされていたのだ。せめて彼女が唯一信じていた愛さえ、根底からぼろぼろにされかけていた今日までの数日間を、真っ直ぐに成長した愛娘が正し、支えようとしてくれている。混血児として生を受け、血により苦しんできた過去を経てなお、そんな自分を産んだお母さんのことを、大好きだよって言ってくれているのだ。
「お母さ……」
「もうちょっと、もうちょっとこのまま……お願い、ファイン。大好きなの」
愛しいこととは幸福だ。愛されることが、誰かを愛せる至高の幸せを導く。スノウはファインを抱きしめる手を、しばらく離すことが出来なかった。
恋心は、人を普通でいられなくさせる立派な病の一つである。その症状は顔色や言動にも現れるし、伝染することだってあるから、恋の病なんて熟語が作られたのだ。たとえファインがクラウドに、自分の本心を明確に伝えられなくても、恋焦がれる相手を目の前にして息を詰まらせ、平静の顔色を保てず、一生懸命に何かを伝えんとしていた乙女としての表情は、それを思い返すクラウドの目を一新させている。
ファインは女の子だ。ずっとクラウドがそう意識してこなかっただけ、あるいは大変な日々の中で、それを忘れかけていただけなのだ。長くなりつつある付き合いの中で、男女という意識だけを抜かして、一人の友達として尊敬も出来る、そんな人物としてファインを認識する気持ちだけが育ってきた。それから後天的に、彼女が一人の"女の子"だと改めて気付かされたクラウドの胸中には、今までのどんなファインとも違う、しかし同一人物であるはずの彼女が、より光を放つ存在として刻みつけ直されている。
「……友達だろ、あいつと俺は……それだけだろ……」
心臓の鼓動が早くなっているのは、運動しているからだ。クラウドはそう考えるようにしている。強くて立派で今を必死に生きているファインは、彼にとっても大切かつ、ずっと友達でいて欲しい人。からかうことは確かにあるけど、今までのように見上げる対象としているだけでいいじゃないかって。それだけで充分なはずなんだって。一時のよくわからない感情に身を任せ、普段は無いようなことをしてファインとの関係にぎくしゃくを生み出すことを、クラウドは無意識に恐れている。それ自体は、昔からそう。
それだけクラウドも、ファインの隣で一緒にいられるこの毎日を、満たされたものだと考えている証拠。
「くそ……しっかりしろよ、俺……」
寝る前の軽い運動にすら身が入らない自分に、独り言なんかを漏らす自分に、ちゃんとしろと戒める想いを投げかけて、クラウドは深呼吸する。胸の弾みは収まらない。体が硬く感じるのは、体を動かすよりももっと大事なことがあるはずだって、無意識下のクラウド自身が雑念を発しているからだ。
人の心は不思議なもの。誰かが外からはたらきかけなくても、当人二人が近付き合う想いを、具体的に発したわけでもないのに、いつしか昨日より近付いていることが時にある。この不思議な魔力の根源が何であるかと問うならば、それはきっと二人が築き上げてきた、敬い合える日々の積み重ねそのものにある。
一人じゃないから人は変われる、自分の中で想い巡らせるだけでは、人はなかなか変われない。クラウドにとってファインは、ファインにとってのクラウドは、予想だにしないふとした時にすら、互いを変えられるほどの間柄だ。
それを絆と呼ぶなら、きっとあながち間違ってはいない。時をかけてより強く紡ぎ合ってきたからこそ、魔力を発する赤い糸。




