第209話 ~クラウドさんと~
「はーい、レインちゃん。頭流すからね~」
(こくこく)
夕暮れ前の露天風呂、そろそろ赤みがかってきた空を上天に見上げられる時間帯のこと。レインの頭を洗ってあげていたファインが、桶にお湯を汲んできて、石鹸まみれのレインの頭をざばあっと洗い流す。それを繰り返して合計三度。魔術でお湯の発生も容易な彼女だが、こういう場所ではそういう風情のない横着はしないのである。
「お姉ちゃん、ありがとう! 今度は私が、お姉ちゃんの頭を洗ってあげる!」
「えぇ? 私は別に、自分で……」
「いいじゃないファイン、たまにはやらせてあげたって」
座って座って、と、自分の座っていた切り株状の椅子にファインを座らせるレインは、一緒にお風呂に入るといつも頭を洗ってくれるお姉ちゃんに、たまにはご奉仕したい気分のようだ。そんな二人を岩風呂に浸かり、ちょっと離れて見守るスノウは、そんなレインを後押しするスタンスを呈している。
「誰かに頭を洗って貰うなんて久しぶりだなぁ……わぷぷ……」
「お姉ちゃん、あんまり喋ると口に石鹸が入っちゃうよ?」
背中を丸めたファインの前で、ひざまずいたレインが指先でこしゅこしゅと頭を洗ってくれる感覚に、ファインも気持ちがよくて口元が緩んでしまう。仰るとおり、喋った拍子に顔の横から流れてきた泡が口の中に入りかけてしまったのは失敗だったが、それを手で拭い去った後のファインの口元は、ゆるんゆるんである。
誰かに頭を洗ってもらうのなんて、幼い頃にお婆ちゃんにやってもらって以来だ。ただでさえ、母と別離して過ごしてきたファインにとって、お母さんに見守られて、妹のように可愛い子に頭を洗ってもらえる感触は、たまらなく幸せで心まで温かくなる。湯気のせいなんかじゃない。
「お姉ちゃん、髪長いねぇ。それでいて綺麗だし、羨ましいよぅ」
「レインちゃんの髪も長くて綺麗よ?」
「お姉ちゃんの方がさらさらして綺麗だよ。スノウ様も、触ってみない?」
「そぉ? それじゃ」
頭を洗って貰う中で身動き取れないファインに、湯船からざばあっと上がったスノウが後ろから近付き、レインと一緒にファインの髪を洗う手つきを兼ねて髪を触る。頭を揉んでくれる手が4本に増えたことにくすぐったさを覚えたか、膝をすり合わせて体をもじもじさせるファインだが、動けない喋れないで逃げ場が無い。
「ん~、レインちゃんの髪も別に劣ってはいないと思うけどなぁ」
「全然だよ~。お姉ちゃんの髪の方が、柔らかくってふわふわしてるもん。それに長いし」
青みがかった銀髪を普段ツインテールに纏めているファインだが、お風呂に入ればそれもほどくわけで、ほどいた彼女の髪の長さって実はかなり長い。括っていなければ後ろ髪が、お尻を越えて太ももにまで届く長さなのだ。白銀の髪をポニーテールに纏めるレインも髪は長いが、ほどいたところで後ろ髪が、小さな背丈の背中の真ん中に届くまで。長さと毛量で圧倒的に勝り、かつ絹のように手櫛をするりと通すファインのさらさらヘアーは、同じ女の子としてレインにとっては実に羨ましい。
「ファインは本当、レインちゃんにとっては理想のお姉ちゃんなのねぇ。おっぱいも大きくなってきてるみたいだし」
「んむっ!? こらっ、お母さんっ……!」
動けないファインの後ろからするりと手を伸ばしてきて、両手でファインの胸を一回揉んでくるセクハラお母さんに、無言でいたファインも口を開いて抗議する。勿論、スノウの手首を両手で握ってだ。当然ながらファインの声が強かったので、スノウも自覚あるほどの悪ふざけはさっさとやめにする。多分、サニー辺りならまだやめてない。
「お姉ちゃん、私にないもの全部持ってるんだもん。いいなぁ」
幼さ相当に胸の平たいレインがお湯を汲んできて、ファインの頭をざばあっと洗い流す。ファインがやってくれたのよりも一回多い、4回だ。髪が長くてボリュームがレインより多いので。
「ありがとう、レインちゃん。心配しなくても、レインちゃんの胸もそのうち大きくなってきますよ」
「そうかなぁ……」
ぺたぺたぺったん、自分の胸を揉めずにぽふぽふするレインの頭を撫で、ファインが手を引き湯船に連れて行く。ファインいじりに一度湯船から出ていたスノウももう一度身を浸け、三人で熱々の露天風呂で疲れを溶かしていく。
「はぁ~……たまりません……」
「ファインは熱いお湯が好きなの? けっこうここ、熱い方だけど」
「私は好きですよ~……あぁ~、しあわせ……」
スノウが話しかけるも、ご満悦のファインは首までお湯の中に沈め、ぽや~っとした表情でふにゃんふにゃん。人とお話する時は目を見て話すのが常の彼女をして、スノウに振り向きもしない時点で、よっぽど悦に入っている証拠である。
「お姉ちゃんっ」
「ふゎ……? レインちゃん……?」
広い温泉を、顔を湯面から出したままの平泳ぎでちょっと泳いだ後のレインが、真正面からファインに抱きついてきた。普段から、隙あらばひっついてくる甘えん坊のレインだが、油断しきっていたファインはちょっと後ろによろめいて、岩風呂の水際に背中をつける形になる。
「もう……レインちゃんは本当に甘えん坊さんですねぇ」
「だってだって、お姉ちゃん大好きだよ。やっぱりこうしてるのが、一番落ち着くよ」
「ひゃふ……! ちょ、ちょっとレインちゃん、すりすりしないで……!」
お湯の温かさに包まれた上で、裸同士でファインと肌を重ねるぬくもりに幸せいっぱいのレインだが、頬をファインの首元にすり寄せてくる上に、それに伴い体全体でファインの体を撫でてくるから困る。レインは古き血を流す者・蛙種の特性として、汗がぬるぬるする体質なのだ。湯に浸かって、常に洗い流されているとはいえ汗を噴き続けている彼女の体と肌を合わせ、すり合わされるとにゅるんにゅるんと体を撫で回される心地で、変なくすぐったさを伴うのである。
「……お姉ちゃん、やっぱり私のぬるぬる体、気持ち悪いかなぁ」
「う……」
一応自覚もあるようで、レインは体を一度離すと、ちょっと残念そうな上目遣いでファインを見上げてくる。そんな顔で、幼心にでも気遣ってくれる様を見て、ちょっとくすぐったいし離れてくれた方が……なんて、ファインは言える性格をしていないのだ。ましてぬるつきは彼女の体質によるものだし、どんなにレインが頑張っても変えられないから、否定したり突っぱねたりするのも尚更に可哀想だし。
「だ、大丈夫……気持ち悪くなんか、ないですよ。ほら、おいで?」
「わゎ……」
いろんな意味で覚悟を決めて、自分からレインのことを真正面から抱きしめてあげるのが、ファインっていう奴である。レインもまさかここまでしてくれるとは思っていなかったため、抱き寄せられた時にはちょっと驚いていたが、想定以上に優しくして貰えたら、それこそ喜びだってより強く沸き上がる。
「……えへへ。やっぱり私、お姉ちゃんのこと大好き♪」
「んっ、く……わ、私もレインちゃんのこと、大好きですよ……」
幸せいっぱいのレインがファインの首の後ろに手を回してくるだけでも、ぬるぬるの腕でうなじを撫でられてむず痒い。しかもよっぽどひっつきたいのか、両脚も開いてファインの体を挟むようにしてくるから、体質どおりの太ももで体の両脇腹をぬるつかされる感覚は、ファインの敏感な肌を刺激する。
「ファインもすっかり、立派なお姉ちゃんになっちゃってるのねぇ」
「あ、あはは……だといいけど……ひゃぅっ……!?」
「お姉ちゃん、どこにも行っちゃやだよ? 私、ずーっとお姉ちゃんと一緒がいい」
「ふっ、ううっ……! も、勿論です勿論です……ずっと、一緒ですからね……っ」
いちいちレインがちょっと動くたび、ぬるぬるボディで全身を舐め回されるファインは、変な声を上げそうになるのを我慢しなきゃならないわ、動揺を顔に表さないよう耐えなきゃいけないわで大変。ふっとすぐ下からファインの顔を見上げてくるレインの目の前には、別の意味で蕩けさせられたファインの、我慢しきれていないとろんとした目があったりもする。
「ほ、ほら……ぎゅーっ……」
「……えへへっ。ぎゅーっ♪」
「んんぅ……っ!?」
大好きですよーっと表明するかのように、強く抱きしめてあげることでごまかしながら、レインの顔の横に自分の顔を逃がしたりと、苦悶を隠すためにファインもいちいち忙しい。それはそれで、レインもファインを抱く手に力を入れてくる展開を誘発し、レインが動けば動くだけ全身を刺激されるファインにまたダメージ。いいお姉ちゃんでい続けるのもなかなか大変なものである。
なんか、いろんな意味でのぼせそうだった。適度な時間、湯冷めしない程度に体をじっくり温めて温泉から出た三人だが、さっぱりしたというスノウとレインとは裏腹、ファインは足腰に力が入りにくくなっていたらしく、ちょっと歩きづらそうだった。
「改めて見てもやっぱファイン、それ似合ってると思うぞ? お世辞とかじゃなくてさ」
「ふんだ。騙されませんもん」
「ホントなんだけどなぁ」
浴衣に着替えたファインが宿から出てくると、そこにはクラウドが待ってくれていた。で、今日もファインは猫耳としっぽを装備したにゃんこコスプレスタイルである。そのくだりは昨日終わったと思っていたのだが、実は今日も同じ展開なのだ。ファインのせいなのだが。
今朝、ケロスのリゾートを出発した4人だったが、そこでファインがクラウドに果たし状を叩きつけてきたのだ。今日の目的地まで、レースしましょうと。要するに巨獣と化したクラウドと、翼を背負って空を駆けるファインで速さ比べをし、負けた方が罰ゲームですよと。昨日さんざん猫耳としっぽで恥をかかされた雪辱を、今日は勝って晴らし、クラウドにコスプレさせてやろうという魂胆だったようだ。
それを聞き受けスノウも目的地を遠めに設定し、マナフ山岳のやや近くの温泉街へと、クラウドとファインが全力疾走&滑空する展開に至った。クラウドもかなり長い距離を走る勝負ということでペースを刻んだり、ファインも逃げ切ろうと加速し続けたりで、それなりに頭も使った熱戦になっていたものである。もっとも、結果は今のファインの姿からお察しだが。
そうした戯れの副産物というか、一日で随分北上し、クライメントシティ行きの旅も加速することが出来たのは結構なのだが、結局ファインは今日も猫耳しっぽの出で立ちを強いられる結末に至る。語尾こそ今日は許されたものの、昨日と違って今日は、その格好で街を歩いてきなさいというノルマを課せられたのがちょっと試練。そんなわけでクラウド同伴の中、夕暮れの温泉街へとファインは出ていくことになったのである。
「なんつーか、やっぱり人目を引くなぁ」
「うぅ……やっぱり恥ずかしい……取っちゃダメですかねぇ……」
「ダメだぞ、罰ゲームなんだから」
「そ~ですよねぇ……むうぅ、屈辱的なのです……」
昨夜さんざんクラウドらにからかわれまくって、かえって耐性でもついたのか、道行く人々に二度見されるわ、くすくす笑われる声も聞こえてくるわの環境でも、そこまでファインも気にはしていない。恥ずかしいには恥ずかしいが、やだやだこんなの見ないで下さいと懇願していた昨日よりは、よっぽど耐えられている方である。
「いらっしゃい……おぉ、なんだそれ。可愛らしい格好したお嬢ちゃんだな」
「罰ゲームなんですよぉ……あ、あんまり見ないで貰えると……」
「おっちゃん、わたあめ2個下さい」
「あいよ。ちょっと待ってろよ」
いかにも年の近い若者のカップルを目の前にしたにまにま感やら、一人面白い格好してるなとか、色んな意味で笑顔を隠せない出店のおっちゃんから、甘いものを買って街を歩き続けていく。飴でも与えておけばおとなしくなるという、子供みたいなファインの側面は、以前からクラウドも知っている。最初はちょっと拗ね気味だったファインだが、わたあめをもきゅもきゅ食べるうちに、機嫌が直っていくのがわかりやすくて面白い。そんな様子を眺めているだけで、クラウドにしてみれば微笑ましくて楽しいものである。
「クラウドさん、知ってます? サニーってわたあめ食べるの、すごく下手なんですよ」
「下手っていうのは?」
「上手に食べられずに、口の周りがべたべたになっちゃうんですよ。わたあめを買う時はあの子、紙ナプキンを三枚ぐらい必ず貰っていきますからね」
「あー、あいつそういうのだけは不器用そうなとこあるな」
「手先は器用な方なんですけどねぇ。なんか、そういうのはダメみたいで」
普段のように話を弾ませながら歩いたら、頭の上に猫耳を乗せていることも忘れてしまえるのか、ファインも調子が完全にいつもどおりに戻っている。それでは罰ゲームになっていない気もするが、もうここまでの数分間で充分だし、クラウドもちらちらファインの猫耳に目線を奪われつつも、敢えて示唆したりせず話の腰を折らない。普通にお喋りする。
「レインちゃんとかも、あんまりこういうの得意そうじゃないイメージありますけど、どうなんでしょ」
「レインは上手に食べてたよ。この間わたあめ買ってあげたけど、口の周りとか綺麗だったし」
「あ、そうなんですか? じゃあまた今度、買ってあげようかな」
「……まあ、そうだな。レインも喜ぶと思うよ」
敢えてファインの頭の上から目を逸らそうとするから、クラウドの目線はちょっと普段よりも揺らぎがち。それでファインの顔やら足元やら、ばらばらの位置に目線がふらつくのだけど、結果的にそれってファインの全身をくまなく見るような目の使い方だ。普段と違う見方で、ファインのことを見てしまう。
「むー。クラウドさん、猫耳やしっぽばっかり見てないで話聞いて下さいよぉ」
「……んっ? あ、ああ、ごめんごめん」
「今日レインちゃんに買ってあげるのは違うかな……連日甘いものばかり食べてちゃ体にもよくないし……」
そんなクラウドの普段と違う目線に気付けば、すぐにファインも指摘してくる。人の目を見て話せるファイン、さすがそういうところには目ざといものだ。
しかし、クラウドが少し上の空になりかけているのは、別にファインの猫耳やらしっぽに気を取られていたからではない。ある意味ではそれも遠因だが、それはきっかけに過ぎない。
(やっぱファインって、可愛い……んだよな……)
浴衣で裸足に草履はきという、普段とは違うファインの全容を改めて見て気付かされたが、可愛い女の子って何を着てもその可憐さを色褪せさせないのだ。浴衣がはだけたりしないよう、きゅっと帯を締めてあるせいもあり、彼女のウエストの細さは普段より強調されているし、胸の膨らみも男のクラウドには持ち得ないものだ。わたあめを時々口にしながら歩き、甘味が舌を這うたびに頬を緩める無邪気な表情も、元より花のように咲いていた綺麗な顔立ちが、より開花して無垢さを強調する始末。
今にして思えば初対面の時から、可愛い女の子だとは心の片隅ででも、確かに認識していたような気がする。毎日顔を合わせ続けてきたから忘れていたが、クラウドから見てもファインってそうなのだ。そして初対面の時よりも、クラウドはファインのいろんな表情を知っている。笑った顔も、泣き顔も、恥ずかしがる顔も、困った顔も、慌てる顔も。
そして何より、一途に何かを追いかける時の、強いファインの表情もだ。ふっとそんなファインの表情を、具体的には毒を体に仕込まれた上、全身傷だらけになってでも、レインを救おうとした時のファインを思い返した拍子、目の前にはわたあめを美味しがる、子供みたいなファインの表情。クラウドから見ても敬意を払えるほどの強さを擁するファインが、今この目の前では、可愛らしいただの女の子でしかない。
(……あれ)
急に、次の言葉が出てこなくなってきた。何か考え事に意識を囚われているかのように、ファインが話し続ける言葉の数々が、耳に入っても頭に留まらない。掛け合いを普通にこなせていた数秒前と急激に変わり、うん、とか、そうだな、とか、いまいち味気の無い相槌ばかりを返してしまう。なんだかサニーと離れ離れになり、ファインと二人きりになったばかりの頃の、あのぎこちない感覚によく似ている。
「……あの、クラウドさん?」
「あ、えと……やっぱその猫耳としっぽ、はずそうか。気になって話に集中できないよ」
「あーっ、やっぱり今の話聞いてなかったんですね。もうっ」
「あははは……ごめん、ごめんって」
おずおずとファインの猫耳ヘアバンドをはずしてあげるクラウドと、自分でしっぽを取るファインがほぼ同時。二つのコスプレアイテムはクラウドが預かる形になり、二人は再び足並みを揃えて歩きだす。
「クラウドさんもつけてみませんか? 案外、慣れればどうってことないかもしれませんよ」
「……まあ、今度何か勝負して、ファインが勝てればな」
「むぐぐ……じゃあ今度は、ちゃんと勝てる種目を用意してきますよ。覚悟しておいて下さいねっ」
やっぱり、おかしい。普段のクラウドならこんな返し方じゃない。笑いながら、じゃあお前はすぐに慣れることは出来たのかよって突っ込んで、いや~そう言われるとそうですねぇ、なんて苦笑いするファインを誘発させるのが今までのパターンだ。いつもならばノータイムで閃く普通の返しが出来なかったことに、1秒遅れて気付いたクラウドも、流石に今の自分が少しおかしいことには気付いている。
思い返せば、二人っきりなんていつ以来だろう。そんなことを考えてしまう時点で、クラウドの心は何かに捕まっている。そしてそれは、実はクラウドだけではない。
(そういえば……クラウドさんと二人きりなんて久しぶり、だよね……)
ざり、ざりと草履の音が地面をこする音だけが際立ち、浴衣姿の二人が言葉も交わさず、並んだままで
歩いていく。いつぞやだったら別段不思議でもなかった光景、しかし最近の二人からすれば珍しい光景。
立派に異変である。最も特筆すべき点があるとすれば、明らかにクラウドを一人の男性として強く意識し始めたファインと、偶然にしたってクラウドの考えたことが、ぴったり同じであったことだろうか。
わたあめを食べきった棒を捨てるのも忘れて、クラウドは目のやり場に困っていた。ファインも同じ、道端に置かれたゴミ箱を、二人とも見逃して素っ裸の飴棒を持ったまま。会話が無い、無ければ無いだけ、二人の心は勝手に自分の中で迷路に入っていく。
「あ……おい、ファインっ」
「ふぇ……? あっ」
ふと、十字路に差し掛かったとき、左側から馬車が来ていることにいち早く気付いたクラウドが、ファインの手を握って軽く引き寄せる。それによって立ち止まらせられるファインの前を、徐行し始めていた馬車がゆるゆると横切っていき、ちょっと飛び出しかける形になっちゃってすみませんと、クラウドが御者に軽く頭を下げた。御者の側も、お気になさらずにというふうに、帽子を軽く持ち上げて会釈してくれた。
「ぼーっとして歩いてたら危ないぞ」
「す、すみません……」
馬車を見送って振り返るクラウドの前には、叱られてしゅんとしてしまったのかのように、片手で自分の胸元を握り締めてうつむくファインがいる。しおらしいファインの姿なんて、見慣れたもののはずなのに。逐一視界の真ん中に彼女を含めるたび、何やら胸がむずむずするこの心地が何なのか、クラウドは自分でもわからない。変なこと考えるな俺、と、雑念を頭から締め出そうとするのに伴って、クラウドはファインを引き止めるために握った手を離そうとする。
だが、手が離れなかった。クラウドの方から握ったファインの手が、今度は握り返しているからだ。握力ではクラウドに到底及ばない、女の子の弱い力でありながら、それはクラウドを足ごと止めてしまう。ファインはもう片方の手で胸元を握り締めたまま、動かない。
「……ファイン?」
「…………」
「えー、あー……どこか、具合でも悪いのか……?」
悪くはないが、実際に重症。首を縦にも横にも振らず、うつむいたままその手にだけ力を込めるファインに、クラウドだってどうすればいいのかわからない。ファインから目を離せないまま、見えない彼女の胸の内で弾む鼓動と共振するかのように、クラウドの胸もとくとく脈を打ち始めるのは、彼にとっても不可思議な共鳴である。
「……どっかで、休む?」
この問いには、ファインも小さくうなずいて返答してくれた。言葉は、無かったけど。応じるようにクラウドが歩き出そうとすれば、ファインもすがるようについてくる。二人の手は繋がったままだ。わざわざ離そうとするクラウドではないが、ファインの手は確かに、自分からクラウドの手をぎゅっと離すまいとしている。
ふと近くに、土手を上がる階段が見えたので、クラウドはそちらへと歩いてファインを導いていく。階段を上り詰めて越えれば、草が短く生え揃う坂道と、その先に川べりが見える光景。坂の下り始めがちょうど座りやすい傾斜になっていたので、クラウドがまず腰を降ろし、従うようにファインも隣に腰掛けた。
「えっと……大丈夫、か……?」
「は、はい……だいじょぶ、です……」
手をつないだまま、夕陽に映える川の流れを眺める二人は、視線をお互いに向け合うことから避けるかのよう。クラウドはファインを、ファインはクラウドを直視できない。右手と左手、握り合うそれが汗ばんでいるのはどちらのせいでもなく、二人ともじんわりと互いのぬくもりで、汗を絡ませ合っている結果である。
会話が無い。気まずさと誤認しそうなほどの沈黙に、クラウドは左手を捕まえられたまま、口をもごもごさせてしまう。何だろう、少しは喋った方がいいんだろうか、それともファインが自分発信で何か言ってくれるまで、黙っている方がいいんだろうか、などと、考えなくてもいいことを考えてしまう始末だ。無自覚でありながら、どんな顔してるんだかわからない自分の顔を、ファインから逸らすように少し右向きにしていたほど。
「な、なぁ、ファイ……」
「あ……」
いやいや何を避けるようなことしてるんだ、相手はファインだぞ、と、逸らしていた顔をふっとファインの方へ向けるクラウド。そこでばちっと、既にこちらを向いていたファインと、近しい距離で目が合った。手を取り合う距離感でだ。既に紅潮した顔のファインが、不意打ち気味にクラウドの顔を真正面から見据える形にさせられ、胸が大きく弾んだ瞬間の表情が、惜しげもなくクラウドの前に晒される。
見慣れた友達の顔じゃない、女の子の顔だ。柔らかい手の感触と、クラウドを直視できずに目線を落として口元を絞るファインの表情が、今まで彼女を強く女だと意識してこなかったクラウドに、新しい認識を芽生えさせる。ファインほどではないにせよ、クラウドも胸の鼓動が早くなってくる。
「あの……」
「く……っ、クラウド、さんっ……」
ようやく互いが声を発したのがほぼ同時。ファインが口を開いたことで、何か言いかけていたクラウドが続きを遮断され、止まらなかったのはファインの方。喉の奥から絞り出すように、必死でクラウドの名を一度呼んだファインがさらに顔を伏せ、乙女の目色がクラウドからは見えなくなる。
「あっ、あの……私、その……」
「…………」
「く、クラウドさんに……お尋ねしたいことが、あるんです……」
夕暮れの土手、ギャラリーも無く二人きりの世界下で、ファインが勇気を絞り出す。クラウドは、意図してではなく言葉を発せない。付き合いも長くなって、ファインのいろんな表情を見てきたはずのクラウドをして、初めて彼女が見せたこの表情。当惑させられるあまり、まるで頭が回らなくなっているクラウドの方も、顔色こそ変わらぬものの胸の疼きが抑えられなくなってくる。
赤ら顔のファインが顔を上げ、逆の手までもをクラウドの手に重ねてきた瞬間、完全にファインとクラウドの心がひと繋がりになる。想い人を見つめる瞳を揺らめかせるファインと、それが放つ想いの強さに胸を貫かれたクラウドが、殆ど同時に口の中のものをごくりと呑み込んでいた。
走った後だというわけでもないのに、胸がどきどきして呼吸がしづらくなるこの感覚は、クラウドにとって初めての経験だ。ファインから伝染した病に心臓を患わせたクラウドが待つ真正面には、絞っていた口元からようやく力を抜き、震えそうな唇をしたファインの表情があった。




