第199話 ~アストラVSクラウド&ファイン~
「天魔! 重熱線!!」
がっつりとクラウドと組み合ったアストラ、その後方に回り込んだファインの突き出す掌から、竜の延髄へと極太の熱光線が発射される。首の後ろは殆どの生物にとっての弱点、そこへ火のような熱と高圧エネルギーを併せ持つファインの熱戦が直撃した瞬間には、アストラも痛みに歯を食いしばったものである。
「んン゛……!」
だが、そこまで。首の後ろを焼き圧されながら、組み合うクラウドの前足を乱暴に横へと振り、体全体をひねったアストラが熱光線から身を逃す。体ごと振り回されるようにされながらも、後ろ足で踏ん張って押すクラウドは、巨大化した今でも機敏さと反射神経を全く失っていない。踏み込み、押し込み、アストラを押し倒す力を加えながらにして、突き出した頭でアストラの鼻先に額をぶつけに行く。岩石がぶつかり合うような衝撃が豪雨の雨粒を震わせ、アストラの鼻骨がぞっとするような音を立てる。
しかし、頭をのけ反らせたアストラは、自分の鼻先を頭突いて懐に頭を潜り込ませてきたクラウドに、自ら後ろに倒れるような動きで対応する。後ろ足を振り上げるためだ。痛烈な一撃をくらわせたはずの直後、アストラの大きな後ろ足がクラウドの顎を蹴り上げてきて、クラウドの開いていた口ががぢんと噛み合わせられてしまう。口が閉じた瞬間に、頭全体に響く衝撃には、まさにクラウドも意識が飛ぶ寸前。
重鈍そうな外見とも言える巨竜が、クラウドの顎を蹴り上げた勢いで組み合ったクラウドの前足を引き、そのまま後方へ投げ飛ばす。まるで獣が格闘家の投げ技を模倣したかのような、異常すぎる技量だ。巴投げの如く投げ出されたクラウド、しかも飛ばされる方向にホバリングするファイン、この巨体をぶつけられては即死もののファインは逃げるしかなく、クラウドは背を下にして地面に叩きつけられる。
「グウアアッ!!」
この図体で、蛙のような瞬発力で飛びかかってくるアストラの素早さには、ファインも全身の毛を逆立てながら旋回飛行で回避。アストラが爪を尖らせて振り抜いた前足を、硬直せずにすれすれでかわせただけでも肝が据わっている。
「くぁ゛……!」
しかし一撃で仕留められなかったファインへ、長い尾を振り上げたアストラの追撃を、ファインはかわしきることが出来なかった。斜め下方から迫る丸太のような尾の一撃を、間に挟むようにして生じさせた岩壁で防ぐが、それも粉砕されて尾がファインの体にぶつかる。破壊力は軽減できた、岩壁ごと押し込まれた際に備えて練り上げた、水と風の魔力による緩衝も充分に利いている。それでもアストラの余りあるパワーは、上天かなり高くまでファインを吹っ飛ばしていく結果をもたらしている。
手応え充分、アストラが飛びかかる相手はクラウドだ。ファインに尾の一撃をくらわす中で、一瞬たりとも目を離さなくて正解、何故ならクラウドが跳ね起きるのも速い。既に四本脚で立っているクラウドに、怯むことなく襲いかかるアストラと、そこへ真っ向からぶつかりにいくクラウド。地を震わせるほどの雄叫びをぶつけ合い、前足二つ同士を激突させ合う怪獣二人に、恐れや怯みは何処にも無い。
口を開いて至近距離から火炎を吐き放とうとしたアストラよりも、組み合っていた右前足を振りほどき、巨竜の頬をぶん殴るクラウドの方が速い。クラウドのいない側面に顔を向けさせられたアストラが、対象無き空間へと大きく燃え広がる炎を吐き出してしまう。よろめいたアストラ、離れる両者、クラウドの振り上げた左前足が、アストラの顎を殴り飛ばす。
大きなアストラの体も浮かされそうなインパクトでありながら、アストラはふらつくように後ろ足を一歩退ける。その足を軸に体全体を回し、クラウドの側頭部に太い尾をぶつけてくるのだ。
直撃の瞬間、べきゃりと何かが砕ける音を脳髄に響かせ、クラウドも白目を剥きかけながらふらついた。よろりとしたクラウドの首元へ、がばぁと口を開いたアストラが噛み付きに迫った行動は、決まってそこを食い千切れば、いかにクラウドでも力尽きる決定打への一手である。
渾身の想いで意識を保ち抜いたクラウドが前足を振り上げ、首元へと噛み付きに来たアストラにそれを差し出す形に。遮る形で現れた前足により、アストラはクラウドの首に牙を突き立てられず、しかしクラウドの前足に横からばくりと噛みつく形になった。牙が突き刺さり、肉が抉れた歯応えは確か。引っ張ればクラウドの右前足を引き千切れた一瞬前。
だが、アストラが首を引いてクラウドの前足を千切り捨てようとした瞬間、逆の前足をアストラの後頭部に巻きつかせたクラウドがそうはさせない。ぎらつく瞳で大口を開け、アストラの目元に噛みついたクラウドが、竜の頑丈な皮膚を破ってでも牙を抉り込ませる。
たまらず頭を振り乱し、捕えていたクラウドの前足を解放したアストラが、食らいついて離さないクラウドの頭を前足で捕まえる。頬骨にも届く爪で三毛猫毛皮を突き破り、尻尾でひび入らせたばかりの側頭部の骨を、人外級の握力で握るようにしてだ。
激痛に悶えてアストラから口を離すクラウドの鳴き声も、目の周りから血を流して悲鳴を上げるアストラの咆哮も、怪物の吠え声でありながら泣き叫ぶ人間のような悲痛さを携えた絶叫だ。見るからに恐ろしい姿と化した二人が、傍から見る者には理解しきれぬほどの苦しみの中、凄惨な消耗戦を繰り広げている。
「ゲッ、ガ……クガアアアアッ!」
「はギャ……!?」
「クラウドっ……さぁんっ!」
突き放したクラウドへ、大口から炎を放ったアストラの攻撃は、真正面からクラウドの全身を焼くほどの大業火だった。一瞬にしてそれに呑み込まれたクラウドが、動かぬ死体になるまですぐだった局面、空から舞い降りてきた彼女の生み出す強風が、クラウドの全身に取り憑いていた炎を吹き飛ばす。
「――はあっ!」
「ムグア、ッ……!」
左腕に力の入らない、アストラの尾の一撃で左半身の殆どを駄目にされた華奢な少女は、翼の力だけで空へ、戦場に踏み止まっている。降下してきて体勢を立て直し、地上に平行に滑空しながら旋回飛行するファインが、動く右手を振るってアストラの目元に火球をぶつける。
傷口に響く熱と火球の爆撃の重み、しかし頑丈な皮膚と鱗に守られた全身を持つアストラには、顔面への火球の直撃すら致命傷にならない。眼前に広がった爆煙で視界を防がれながらも、一瞬ながら炎にやられて体を動かせぬクラウドから一歩退き、次の一手に移るまで間も置かない。
「掌握世界……!」
「あっ……くっ……!」
「フギ……!」
両足でしっかりと地面を踏みしめたアストラが、己の全身が全方位への引力をもたらす魔術を展開。重い全身のクラウドですら、引きずられそうになるほどの引力であり、クラウドよりもアストラから離れているファインも、耐えきれずにじりじりと引き寄せられる。風の翼と推力で抗うファインだが、踏ん張る地面も掴むものも無い彼女には、アストラの引力に勝る斥力を生み出せない。
「ミ゛ッ、グ……フガアッ……!」
このままではアストラの射程範囲内にファインが引き込まれる、そんな中でクラウドが力任せに地面を踏みしめ、アストラとファインの中間点へと割り込んでいく。強引力にも負けない踏ん張りで、ファインを手に届く距離に留めた瞬間、その大きな前足でファインの体を捕まえる。化け猫の前足に捕まって、その胸元に抱えられるファインは、あわやのところで救ってくれた親友の手中、乱れた呼吸に一抹の安息すら含められた。
だが、アストラが引き寄せているのは二人だけではない。燃え盛る都跡に立ち昇る、炎の数々までもが頭をなびかせた末、アストラへと引き寄せられる光景に、二人が気付いた時にはもう遅い。あちらこちらにカラザが放った、炎天夏の灼熱炎、それを全身を介し魔力として我が身に取り込んだアストラは、既に首を振り上げて、恐るべき攻撃への予備動作を作り上げている。
「クラウドさ……」
「ッ……ゲアアアアアアアッ!!」
その口から吐き出された炎は、アストラの巨体さえ小さく見えるほどの特大業火となり、巨竜の前方を広大なる光に染めた。長屋数軒まとめて吹っ飛ばすような範囲かつ、塔をも丸呑みにするような高さを持つそれは、もはや横倒れの火山が噴火したような光景と言っていい規模だろうか。ファインが叫ぶより早く地を蹴っていたクラウドは回避に移っているが、その瞬発力でも彼の下半身が、一瞬炎に包み込まれてしまったほど。
体半分に燃え移った炎に目を見開いて、着地のための前足からファインを上空に放り投げたクラウドが、地面に両足を着けると同時に全身転がして倒れる。翼を広げるよりも早く、クラウドを取り巻く風で炎を吹き飛ばそうとしたファインの判断力が無ければ、クラウドの下半身全てが使い物にならなくなっていただろう。
それでもダメージは大きい。前足と上半身の力だけで、力の入らぬ下半身を引きずるように、体をアストラに向け直すクラウド。目が死んでいなくても体が死にかけている。がすがすと地を鳴らしながら急接近してくるアストラに容赦など無い。
「させません……! ぜったい……!」
「ぎガ……!?」
苦痛に悶える呻き声が裏返るほどのクラウドの驚愕は、彼の前でありアストラの前、両者の間に割り込むように降下してきたファインによるものだ。アストラの爪に、ファインが八つ裂きにされる一瞬後しか想像できないクラウドをして、これほど恐ろしい光景は無い。
立ち止まらず突き進むアストラも侮る素振りなどない。そして、彼女も覚悟を決めている。
「地術……っ、木端微塵の爆砕円っ!!」
最初から彼女は生き残ることなど考えていないのだろうかとさえ思う一手だ。迫るアストラと自分の中間点地表、そこへ魔力を発したファインが起こしたのは、地表を吹っ飛ばして起こる大爆発だ。猛突進していたアストラが後方へ吹っ飛ばされ、ファインの後方のクラウドさえも、爆風に踏ん張りを利かせねば耐えられなかったほどの爆風。この中で最も軽く、しかも爆心地に近かったファインが、クラウドを越えた遥か後方へと吹き飛ばされるのは当然である。
地表の爆片とも言えるそれが、爆心地から四方八方へ飛散する。吹き飛ばされて空中で身を回すアストラの巨体へ、踏ん張るクラウドの伏せた額へ、がすりと尖った岩石に等しい爆片が激突するのだ。クラウドも無傷ではないが、大柄な全身にそれを浴びせられるアストラはより厳しい。
「あぅ゛……!」
最大の痛手を受けたのは術者本人だ。吹っ飛んだ彼女に追い迫るように向かった、彼女よりも大きな地表の破片を、ファインはなんとか体を回して回避へ努めた。
だが、それはファインの力なき左脚をかすめ、かすっただけでも余りあるエネルギーは彼女の体をぶん回す。滞空姿勢を乱されたファインが、めちゃくちゃな体の回転に身を任せるまま、地面へと落下して転がる結果に。打ち身、こすれた体への痛み、傷だらけの体をなおも痛めつける衝撃に、体をひくつかせるファインは立つどころか寝返りも打てない体になる。
「ファイ……ン゛……!」
こうなり得ることをわかっていながら、ファインがそれだけやったのも、アストラから逃げようのなかったクラウドを救うため、僅かでもアストラを退けるため。自分が立ち上がらなくてどうするのだ。火傷まみれの下半身、これが勝利した末に一生動かなくなっても構うものか。
力を込めただけで泣きたくなるような後ろ足に、歯を食いしばって渾身の力を込めたクラウドが、立ち上がってアストラを見据えて息を吐く。ぜはぅと荒く溢れ出る息遣い、それに伴いちらつく牙は、アストラに対する不屈の殺意に満ちている。ここまでされても絶対に折れない。
「世界騒霊の覚醒……!」
だから、ここまで二人を追い詰めておきながら、アストラも徹底的な攻め様を絶やさない。毛を逆立てて構えたクラウドから離れた前方、振り上げた前足で地面を勢いよく叩いたアストラが起こしたのは、巨体の化け猫の体すら跳ねさせる激震だ。ほんの一瞬、体を浮かせられるほどの強烈な縦揺れに、足元を崩されかけたクラウドが、片目をつぶって踏ん張っている。
ずしずしと足を踏み鳴らして接近してくるアストラは、術者かつ人型の時よりも重い体で、揺れも意に介さずクラウドへ駆け迫ってくる。立つところまで必死に持っていくクラウド、不安定な足場、踏ん張るので精一杯、この浮き足立ちようでアストラを迎え撃てるだろうか。やるしかない、もう一度全身に力を込め直す。
「ち、地術……魔力の、黒き蝕……!」
「ヌ゛……!?」
激しい揺れの中を駆ける前提で四本足を駆けさせていたアストラが、思わずつんのめって転びそうになった。地を揺らす拡散した魔力を、ファインが闇の魔力で以って一気に回収し、地震をぴたりと鎮めたからだ。激震前提で駆けていたアストラの調子が乱れて減速、同時に必死で体勢を整えようとしていたクラウドの足元もおとなしくなり、一瞬前よりも遥か容易に立ち構えるクラウドの体勢が出来上がる。
「グ……っ、ルガアアアアアッ!!」
「フガアッ!!」
開いた大口と爪を突き出した両前足、三点を同時に襲い掛からせるように飛びかかるアストラに、クラウドは前足二つを伸ばして応戦した。右の前足でアストラの鼻を、左の前足で竜の右手を押さえつけ、余ったアストラの左の爪が、クラウドの右肩に深く食い込む。目も覚めるような痛みでありながら、クラウドはここに与えられた好機を逃すまいと、大きく開いた口をアストラの喉元へと向かわせた。
まずい、やられる。この日最大の危機感を感じたアストラが、クラウドに突き立てていた爪を引き、ぶちぶちと深い爪跡を残してクラウドの肩を引き裂く。直後、クラウドの牙がどすりとアストラの喉元に突き刺さり、ほぼ同時にアストラの両手が、クラウドの頭をがっちりと固定しにかかる。
アストラも必死だ、クラウドの頭を突き放すのではなく引き寄せる。牙を突き立てられたまま首を引かれたら、喉元を大きく食い千切られるからだ。頭を振り乱してアストラの喉肉を引き裂こうとするクラウドを、必死で押さえつけるアストラの圧力が、ひびの入ったクラウドの頭蓋骨をみしみし押し潰す。それでもクラウドは離さない。
「ぎ……!?」
両者がそのまま身動きのとれない、我慢比べの時間になって僅か5秒の時。いきなり誰かがクラウドの尻尾を踏みつけたことに、彼もびくりとしただろう。翼と風の推進力で、足も使わずそこまで移動したファインが、思いっきり親友の尻尾を踏んだのは何故か。その意図も口にしなかったのは、出来なかったのは何故か。クラウドのすぐ後ろ、右手で何かを抱きかかえるように胸へと押し当てた彼女は、息も出来ずにいる。
どけ、と言われた気がしたのだ。尻尾を踏みつけたファインの足から、彼女が抱く魔力の本質を、ほんの僅か感じ取れた瞬間に、クラウドの直感はそう悟っていた。アストラの喉元へ、絶対に放すかと食い込ませていた牙を抜いたクラウドが、頭を振り上げアストラの顎を殴り上げる。よろめいたアストラの手から、横に大振りした頭を脱出させたクラウドが、その動きのまま体を逃がしていく。
「ん゛っ……! ああああああああああっ!」
ファインとアストラの間に何も障害物が無くなったこの瞬間。翼の推力を一気に全開にした彼女は、我が身そのものを矢のように放ち、アストラの喉元へと突撃する。必殺の魔力を、その右掌に携えてだ。
「ゴば……!?」
ファインの掌がアストラの肌に触れた瞬間のことだ。巨竜の喉元にファインの切り札たる魔力が叩き込まれた瞬間、アストラの首の中のものが破裂して、怪物竜は目を白黒させた。
アストラの起こした大地震を鎮めたファイン、その理屈は地を支配していた魔力を、自らの闇の魔力で手中に取り込んだことにある。大地を揺らすほどの魔力、それはどれほどのパワーとエネルギーを持つだろう。ファインはそれを、一手に凝縮させ、アストラの肉体へと叩き込んだのだ。巨獣と化したクラウドが、たとえ全力疾走の末に体当たりをぶちかましても、この威力には勝れない。それが、アストラに叩き込まれている。
「かっ……あっ……」
アストラの体が後ろにぐらりと傾く中、その肉体にぶつかったファインは、僅かに弾んだのち力なく離れて地上に転がり落ちる。この威力を生み出すほどの超圧縮されたエネルギー、それを捕まえて抱えていた数秒前は、体が破裂するかと思うほど苦しく、息をすることも出来なかった。その力を手放して、自分だけの自由な体を取り戻した彼女ではあるが、急に超重力の世界から放り出されたかのごとく、ふわつく体の使い方を行使できない。何よりも、渾身最後の攻撃で力尽きた彼女に、これ以上何もすることは出来なかった。
天を仰いで血を吐き出すアストラが、真っ赤なシャワーで倒れたファインを血みどろにする。それでも彼女は指ひとつ動かすことも出来ず、左半身を下にして横たわっている。動かない、もう完全に。
「グ……ア゛……!」
「…………ッ!」
完全にアストラは喉を潰されたはずなのだ。それでもぐいっと頭を下げ、ファインを見下ろしたアストラの姿は実に恐ろしい。呼吸を奪われてなお、こいつだけは殺さねばと血走った眼は、その殺意のままに前足を振り上げている。振り下ろす先は、無抵抗のファインに他ならない。
ファインの決死行に絶句していたクラウドが、これでも崩れぬアストラへ横殴りに飛びかかっていた。体重と速度をありったけ乗せ、斜方から飛びついたクラウドの全身が、ダメージの著しいアストラの巨体を押し倒す。
今度こそ致命打になったか。いや、それどころかまだアストラは抗う。仰向けに押し倒されながらも、大きな翼で地面を押し出して、転がるか起き上がろうとし、のしかかるクラウドを振り払おうとする。がっちりとアストラを掴んで放さないクラウドが、大口を開いて今度こそ、アストラの喉元に食らいつこうとした時だ。口の中が血にまみれたアストラが、それをクラウドの顔面へと吐き出し、びしゃりと血による目潰しだ。
咄嗟に閉じた目に、血が入ることこそ阻止したものの、両目を閉じて視界を阻まれたクラウドを、アストラの両前足は思いっきり横へと押し出した。ぶん投げようとしたと言ってもいい。なんとか立ち上がろうと体を回すアストラだが、呼吸を阻まれた今その動きに機敏さは無い。立ち上がったアストラへ、素早く体勢を立て直したクラウドが飛びかかる方が速い。
思わず開いた口と牙で、クラウドを迎え撃とうとしたのが決定的だった。アストラの牙は、クラウドの両前足をばくりとくわえ込み、あとは四肢のうち二本を引き千切ればよいという状況まで至った。それが間違い。たとえ両手が駄目になっても、自らアストラの口の中へ、怪力無双の両前足を突っ込んだクラウドには勝負手が残っている。
「ハガ……!?」
アストラの牙がクラウドの筋肉を断裁するよりも、あるいは首を引いて引き千切るより早く。クラウドの両前足は勢いよくアストラの口を上下に開き、本来の額関節が開かせる以上まで開門した。頭蓋骨の上部と下部を、頬の内で繋いでいたアストラの骨が、はずれるどころか砕かれて離れさせられるのだ。喉を傷つけられ、呼吸もままならぬアストラには抗いようもないクラウドの怪力、それに顔面の内側の骨格を破壊されたアストラが目をひん剥く中、クラウドの開いた口は既にアストラへと迫っている。
両前足をアストラの口内から抜いたクラウドの目の前すぐ、歯型とも言える牙の跡へ、クラウドが勢いよく噛みついた。痛みにアストラが抵抗する暇も与えない。アストラの頭を前足でがっちり捕まえ、食らいついたまま頭を引いたクラウドが、アストラの喉肉を極めて大きく引き千切った。致命傷への致命傷の上塗り、間違いなく決定打である。
「フッ、ギ……ミア゛アアアアッ!!」
ぐるんとアストラが眼球を転がす中、力を失った巨竜の肉体を、クラウドは両前足で掴んで思いっきりぶん投げた。重いアストラの体はクラウドから大きく離れなかったが、受身も、身の翻しすらせず、頭を下にして地面へと転がったアストラは、そのまま立ち上がることも出来なくなる。
勝負はついた。ひくり、ひくりと体を震わせ、アストラが横たわる様を目の前にしながら、クラウドは跳び退がり、ファインのすぐそばで身構える。継戦能力をぎりぎりながらも保つクラウドに、起き上がることも出来ないアストラの間に、勝敗ははっきりと決していた。
「ゲ……フ……」
口の中に含んだままであった、かつてはアストラの喉であったものを、べっと地面に吐き捨てるクラウドの前、ゆっくりとアストラが首を動かそうとする。両足で地面を踏みしめ、力を入れ、腹を下にしてクラウドの方へと頭を向ける動きだ。地に這いつくばったアストラの眼差しが、離れたクラウドの眼差しと正面衝突する中、ここで炎を吐かれてもファインを救って回避する構えを、クラウドは既に完成させている。
アストラが、はずれた顎でありながら、口を動かそうとしている。完全には壊しきれていなかったのだろうか。地面につけたままの下顎に力を入れられず、上顎だけを動かすようにして、アストラが口を開閉させている。
「……………………みご……と…………ダ……」
喉を食い破られたアストラに、声が発せられるとは思えなかった。それでも、クラウドにはそう聞こえたような気がした。殺意に満ちていた竜の目が、クラウドがその声を耳にしたかと思った瞬間、殺意どころか敬意にすら満ちた穏やかな眼になっていたことは、視界から得られる間違いなき真実だ。息を荒立てて身構えていたクラウドが、怪物の瞳の奥にある、人の心によく似た光を目にしてしまったその瞬間は、恐れ知らずの彼さえも呑まれるように、息を止めてしまったほどである。
アストラがその眼に光を宿していたのは、その一瞬が最後だった。命ある瞳から、ぼうとその光が失われ、口を閉じて脱力したアストラの頭は、その後二度と動くことはなくなった。
「ま……間に合わなかった、か……」
アストラの絶命、その事実に意識を捕われかけていたクラウドだが、その亡骸の向こう側に影が見えた瞬間、すぐに元の戦意溢れる眼差しを取り戻す。決着の着いたこの戦場へ、遅れ馳せ参じた彼は、無念の一言を口にしながら、背中を丸めて左手で脇腹を押さえている。
いや、それよりもこいつは何者だ。風体と顔立ちは間違いなくカラザのそれ、しかし下半身が人の形をしていない。腰から下は蛇そのものであり、胴の太さと同じだけの蛇腹と尾が、彼の後方には伸びている。今しがた竜人の姿のアストラ、そこから怪物竜の姿へと化した宿敵と戦ったクラウドにとって驚くべきものでもないが、やはり脚の代わりに蛇の肉体を持つ異形には違いない。
「地竜族の血、羅刹族の血に敗れたりや、か……千年前であれば、想像もつかぬような出来事だな……」
げは、と息を吐いたのち、背筋を伸ばしたカラザが杖を構える。クラウドも、長い尾をしゅるりとファインの体に巻きつけて、自分の腰の上に捕まえる。ここまで来て、彼女を守りきれずにやられてたまるものか。
「逃げるなよ、アストラ……! 最後まで、この歴史を見届ける約束だっただろう……!」
だが、魔力を練り上げるカラザの矛先はクラウド達ではなかった。杖を一振りしたカラザの行動は、クラウドを身構えさせはしたものの、その杖から放たれた業火は敵対者に向かわず、事切れたアストラに迫り、その全身を呑み込んだ。大きな体のアストラが、体すべてを包まれるほどの大きな炎である。
絶句しかける一方で、どんどん灰にされていくアストラの姿を視野に入れつつ、クラウドはうなり声を漏らしてカラザを睨み続ける。カラザも同様だ。炎に影と形を侵食され、燃え尽きて形を失っていくアストラの死体を視界の端にし、今にも飛びかかって来んばかりのクラウドから目を離さない。
風雨の中でも消えない炎が、アストラの体を焼き尽くしていく中、風に乱されつつも真っ黒な煙が立ち昇る。この世界から、アストラが消えていく。二人が動かぬ中、その事象のみが進められていき、やがてぐっと口を絞っていたカラザが、緩めた唇からゆっくりと息を吸う。
「闇の繋ぐ宿縁……!」
突然、カラザが前に構えた杖の先端に、真っ黒な球体が浮かび上がった。禍々しいオーラを放つそれを目の前にして、クラウドが警戒心を強めるのも当然だ。それは、球体であったその形を変え、うごうごと不気味に形を変え、躍動し、クラウドの見据える前で生き物のように蠢いている。
ただひとつはっきりしている異変は、アストラの体が焼き尽くされて昇る黒い煙が、風にも流されず、カラザの生み出した得体の知れない黒い魔力に吸い寄せられたこと。黒い魔力が、煙を、アストラであった肉体が焦げて形を失った痕跡を、自らに吸い寄せて呑み込むようにしていくのだ。
目に見えて、意図的に異変を起こしているカラザの行動を止めたいクラウドだが、決してクラウドから目を離さぬカラザの眼力が、迂闊に攻め込むことの危険性をクラウドの勘に訴える。踏み出し、制することが出来ない。謎めいたカラザの行動を妨げることが出来ない。
「……その少女は、まだ生きているようだな」
蠢く黒き魔力の塊が煙を吸いきり、蠢いていた動きをひそめておとなしくなった頃、カラザは小さくそう言った。やがて、カラザが生み出したその黒い魔力は、術者の左胸へとゆっくり漂っていく。そのまま、それはカラザの胸の奥にまで潜り込むようにして、彼の体内へと消えていった。
「ここは……っ、退こう……いつかまた、必ず出会うことになろうからな……」
そう言って、蛇の下半身を操って、蛇腹を地面に沿わせる形でカラザが後ずさる。人の脚では到底走れなかったカラザにとって、この肉体は筋力が残る限り、地を沿って動くことが出来る形態のようだ。クラウドから一定の距離をおき、やがてクラウドに背を向けたカラザは、熱い地表を蛇腹に這わせるかのように、素早い前進速度でクラウドの目の前から去っていった。
追えなかったクラウド。ファインがこの状態で、戦えるものか。今のクラウドと負傷した身で戦うこと、それに勝ちの目をカラザが見出さず、退いてくれたのはむしろ幸運だっただろう。クラウドの視界の果てへ、やがてはホウライの都跡から消えていくカラザの後ろ姿を、クラウドはただただ見送っていた。
みぃ、という鳴き声を長く伸ばした、クラウドの大きな鳴き声が、燃え盛る廃墟の真ん中で響き渡る。何度も、長く、絶えずにだ。勝利の雄叫びとも、多大なる犠牲を伴って得た勝利への哀しみとも、あるいはぴくりとも動かない親友の姿に泣きたい、一途な少年の嘆きのようにも聞こえる声。怪物化したそれが放つ、遠く遠くまで聞こえる高い鳴き声は、耳にしたものを不安にさせるどころか、不思議と胸がつらくなるような心地をもたらしている。
やがてクラウドの元へ駆けつけるスノウも。
たゆたう意識の中で、お兄ちゃんとお姉ちゃんのことが片時も頭から離れていないレインも。
撤退を選び、敗北を認めたカラザも。
火の手から逃れるべく都の外に逃れていたアトモスの遺志も。
そして、ホウライの都に生きてきた者の大半が死に絶えた中、幸運にも生き延びた天人達も。
遥か遠くから聞こえる、勝利の立役者となった少年の泣き声に、その意味を感じ取っていた。人の言葉ではないその声に、誰もが異なる目線から、心を感じ取れることなどそうは無い。
終戦の響きは、誰しもの耳にその意味をはっきりと伝え、死闘が幕を降ろしたことを知らしめた。たった一人、天を仰いで鳴き続けるクラウドの涙を、降りやまぬ雨が洗い流していた。




