第195話 ~絶望しかない小世界~
自分が背を預けている建物跡の壁が、崩れず残ってくれていたことすら、今のスノウにしてみれば奇跡的な出来事に感じられる。周りを見回せば何があるか、火しかない。不燃物の石の壁も含めて、燃えていないものが一つもないんだから。街であった半刻前の名残すら跡形もなく、大小なる炎たちの宴会場の真ん中で、スノウもよくわからない笑みが浮かんだものだ。
「楽しい見世物になったかな」
「はは……死なずに地獄を見れるなんて、なかなか出来ることじゃないわね」
視界の中心にスノウを捉え、かつかつと歩いてくるカラザの姿を前に、スノウは背の壁を押して二本の足で立つ形に。酒も煙草も奔放すぎる生き方もやめにして、もう少し真っ当な生き方もしたくなってきた気がする。まさしく地獄の様相を見せる、街だったものの中にあると、死した後にこんな世界に落とされるっていうのも怖くなってくる。
「……あなた達が、"アトモスの影"なのね」
「そう呼ばれていたらしいな」
十数年前の近代天地大戦の中、地人陣営の中で最も恐れられた人物は、表と裏にいた。革命軍の指導者として常に矢面に立ち続けたアトモス、そんな彼女と共に戦い続けたドラウト達、そして参謀格であると同時に術士としても群を抜いていたセシュレス。それら、常に天人達の前に現れ続けた脅威であった者達とは逆、正体すらはっきりさせず、最強の怪物として名のみ馳せていた人物がいた。
現れた戦場において生存者を只の一人も出さず、人里まるごとを更地にするような大規模な破壊を為し、その存在のみ抽象的に匂わせてきた二人。それがカラザとアストラであると、あっという間にホウライの都を火の海に変えた両者を見て、スノウも自然と推察することが出来たものだ。
「……あなた達に、教えて欲しいことがあるのだけど」
「うん?」
接近していた足を止め、カラザが話を聞く構えに移る。臨戦態勢とは呼べぬような棒立ちのカラザ、震える膝を両手で押さえ、顔を上げるスノウが離れて向き合う形。両者の瞳は、片や冷たく片や憔悴しきっている。
「それだけの力を持ちながら、前の革命戦争の時、あなた達は何をしていたの?」
これは、当時を生きた天人達の殆どが抱き続けてきた疑問である。ひとたび戦えば、どんな者をも圧倒し、目撃証言の欠片も残さない戦場結果を残す二人の実力は、もしかしたらアトモスを上回っていたかもしれない。
そんな二人が、アトモスも存命であったあの日々の中、革命軍の一員としてもっと参戦していたら、その時とうに時代は動いていたかもしれなかったのに。天人こそ至高と唱える、プライドの高い天人達の多くでさえもが、今でもそう認めている。
明確な答えが必ずあるはずだ。カラザがしばしの無言の間を作ったのは、どう答えるのかを考えているのではなく、答えるべきか否かを考えているせい。乱れたままの呼吸を整える時間を、スノウに与えることになっても、この問いに対するカラザの態度は真摯である。
「私達は、あまり歴史の流れに干渉したくはないんだよ」
「へぇ……」
思ったよりも、本音のこもった答えだと、スノウはカラザの声色から感じ取ることが出来た。捉えようによっては傲慢、されど回答にそれを選んだカラザの低い声には、スノウも自然なほど納得することが出来た。
同時に、脳裏を駆ける一つの仮説。この仮説は、スノウにとっては鳥肌が立つようなことであって、出来れば的中して欲しくない仮説であったのだが。
「……もう一つ、教えてくれない?」
「…………」
「あなた、古き血を流す者?」
遠回しな問い。それは、最悪な回答を無意識に恐れたスノウが、思わず直接的に核心を突いた質問を避けてしまった結果だ。覚悟を決めて尋ねたようなスノウの面持ち、声を発した瞬間に緊張感を高めた表情、それを前にしてカラザも、なるべく優しい答え方を選んでくれたのかもしれない。
「私達は、そうではない」
「はは……そう、なんだ……」
なるほど、化け物なわけだ。歴史に干渉したくないわけだ。もうわかった、こいつらが何者なのか。
最後の最後に出てきたのが、こんな奴らだったんだと確信してしまったスノウは、諦観すら混じった笑いが溢れてきた。勝たねば勝利どころか生存もない戦いの中、こいつらに勝たねばならないという今の現実は、あまりにも重過ぎて最強の聖女様も心が渇いてくる。
「……老害だわ、あなた達。本当、空気読んでない」
「わかっている。耳の痛い話だと思っているよ」
無表情のカラザは見てのとおり、笑うでもなく開き直るでもなく、重く受け止める形でスノウの言葉を胸元に吸い込んだ。彼らが自責する価値観のとおり、的確に批難してくるスノウに対し、反論しようとする素振りもない。
「……アトモスは、お前との戦いに悔いは無いと言っていたよ。勝とうとも、敗れようとも、夢を追うからにはお前との決着をつけてから臨みたい、そう寂しそうに笑っていた」
「へぇ」
「私達からすれば身勝手な指導者だったよ。そんな本音を抑えてでも背中を押してやりたくなるほど、比肩なく輝かしい人物だったということだ」
近代天地大戦は、聖女スノウと魔女アトモスの一騎打ちの決着を持って終結を迎えた。アトモスがそれを望んだことを、スノウもカラザも知っている。自分がいなくなれば、革命軍の夢が潰えるということを知って、他ならぬアトモスがその道を選んだのだ。
革命を食い止めたいスノウにとっては思わぬチャンスであった一方、アトモスの親友であったスノウにとっては胸を引き裂くような戦い。あの日の決戦に参じたアトモスの胸中を、思わぬ形でカラザがスノウに知らせる形になっている。
きっとそれは、今の時代の流れに干渉すべきでないと知りつつ、戦いに参じたカラザがスノウに対し、詫びの一つとして語ってくれた情報なのだろう。親友殺しの罪の重さを未だに拭えないスノウにとって、アトモスが悔いなき想いで勝負に臨んでくれたのを知れたことは、少なからず救いにはなったはずだから。身勝手な指導者と前置きを置きつつ、今は亡きアトモスを立ててくれるカラザの口ぶりも、アトモスを魔女と称す者ばかりの時代の中、スノウにとっては数少ない理解者に近い。
「だが、新たなる時代に向けて時の針は動き出してしまった。私達も、もう後戻りは出来ぬ」
「ひどい言い訳、人生をやり直すことに遅すぎるなんてことはないはずなのに」
カラザが杖を握る手に力を込める。その小さすぎる挙動を、離れていてもしっかり目で読み取ったスノウも構えた。根底の理念はどうあれ、やはりカラザはスノウを滅する今日の使命を改めるつもりはないようだ。
「あなた達なら、尚更でしょう?」
「嘘を隠し通すためには、嘘を重ね続けねばならぬように」
カラザ達が、自分達とは全く違う時の流れを生きている人物であると知ったスノウは、皮肉を込めて的を射た指摘を突き刺す。一蹴するように即答するカラザも、侮蔑や批判に屈して今の道を改める想いは一切無い。
「罪深さを誤りに非ずとするには、大いなる成功を以ってしか為せぬのだ」
「一人殺せば罪人、百人殺せば英雄、そんな笑い話にも通じる話ね……」
「結果がすべて、それが大人の世界というものだ」
「はは……本当、世の中って理不尽。若者泣かせもいいとこだわ」
死を招く魔力を練り上げ始めるカラザ、抗う魔力をかき集めるスノウ。覇権を握り続けた天人の社会、それを打ち崩そうとする革命の使徒とは、歴史的な観点において挑戦者と呼ばれるべき。この場、新たなる時代の扉を開こうとする挑戦者であるはずのカラザの前、スノウの魔力の心持ちは、まるで暴君に立ち向かう挑戦者のような色を感情の芯に置いている。
「私は、アトモスの遺志に殉じる。たとえ、あるべき歴史の流れに逆らう背徳者と呼ばれようともだ……!」
「ええ、来なさい……! 不文律を忘れた爺なんかに、現代っ子はそう簡単に屈しないわ……!」
駆け出すカラザ、翼を広げて飛び立つスノウ。勝機無き一戦だと知ってなお、意地のみで戦う聖女の、敗北の確定した一対一が始まった。
カラザの爆撃、炎天夏の爆風と炎を防ぐため、渾身の水と風の魔力を放出したファイン。壮絶なほどの乱気流が三人を吹き飛ばしこそしたものの、炎がファインやクラウド、レインの肌を焼け爛れさせることはなく、三人とも生きて地に立つことが出来ている。熱風を浴びた全身が赤くなって、ひりひりするのも、つらいが生きている証拠である。
風を操ったファインのおかげで、三人の立ち位置はばらばらにならずに済んだが、その結果を導き出すための魔力の消耗は、ファインにとって肉体への著しい消耗をも促した。着地して間もなく、がくりと膝から崩れて倒れかけたファインを慌ててクラウドが支えたが、足に力を入れることも出来ないファインは、糸の切れた人形のようにぐったりとしている。よろよろと近づいて来て、芯の強いクラウドに寄りかかるレインの疲労も激しいのはわかるが、ファインのそれは彼女の比ではない。
「ファイン、立てるか……!?」
「はっ……はあっ……」
ファインは果たして、自分の足で立てるのだろうか。どう見たって無理なように感じられても、自力で立てる彼女でいて欲しいのがクラウドだ。無茶を求めているのは承知、しかしカラザかアストラが迫ってくるのはわかっているこの現状、酷でもそう望まずにはいられないのだ。切迫した状況を、正しく理解できていればいるほど尚更にだ。
ネブラやザームを相手に、レインを抱えて戦い抜けたあの時とは違う。立てないファインを抱えたまま戦い、到底どうにか出来る相手じゃないのだ。せめてファインに、自力でこの戦場から逃げて欲しい。あとは自分が何とかする覚悟は出来ているから。
ファインもファインで、ぽんぽんとクラウドの支えてくれる腕を叩いて、放してくれても大丈夫ですよと訴える。疑心暗鬼で手を放すクラウドのすぐ前、なんとかファインは両足で地面に立った。
さあ、クラウドもファインの性格は知っている、戦い続けようとするに決まってる。顔を上げたファインの横に一歩踏み出して、ファインの胸を後ろ手でぐいっと押す。本来異性が触っていい場所ではない、それすら意識する暇が無いほど、クラウドも態度でファインにそれを訴えずにはいられない。
「クラウドさ……」
「馬鹿っ! もう戦うな! そんな状態で戦えるか!」
こちらもこちらで胸を触られたことなんかじゃなく、どうして私を退がらせるんですかと抗議しようとする。喧嘩している場合じゃないのは重々承知、だからたとえ女の子を泣かせかねない強い声ででも、クラウドはファインを言葉で突っぱねる。アストラやセシュレス、どんな恐ろしい敵と対峙しても、決して逃げずに立ち向かう度胸を持つ彼女が、過去最も怯んでしまうほど、クラウドの迫真の叫びは強かった。
「レイン、お姉ちゃんを連れて逃げろ……! 後でお姉ちゃんに叱られても、絶対だぞ!」
「えっ、えっ……!」
「く、クラウドさん……! 勝手に……」
「黙れ! うるさい! お前に死なれることの方が俺は嫌なんだよ! レインもわかるだろ!?」
有無を言わせないクラウドの頑とした主張は、自分だってクラウドを置いて戦場を離れたくないと考えた、レインの胸にも突き刺さる。同時に、僅かな共感すらもたらしてだ。今までに聞いたこともないような、乱暴な言葉遣いで怒鳴るクラウドが、単に怖がらせるだけの意味合いではなく、レインにファインの手を握らせる。
「レインちゃ……」
「お姉ちゃん、お兄ちゃんの言うこと聞こうよ……! お姉ちゃん、もう無理だよ……!」
脚力自慢とて腕力は少女相応、そんなレインに手を引かれただけで、足元がおぼつかないファインなのだ。現実はそう、それに逆らおうとするのはファインだけ。いよいよ前方から、ずしずしと存在の主張が強過ぎる足音が、こちらに向かってくるというのに、未だにファインは諦めない。
「見つけたぞ……!」
「くそ……! レイン、頼ん……」
燃え盛る炎の海、その向こうから姿を現した大男に、クラウドはすぐさま構えていた。一瞬でも長くあいつを食い止め、ファインを連れたレインを逃がす時間を稼ごうとしているのだ。狙いは間違っていない。
「掌握世界……!」
「っ、が……!?」
「ぅあ……!?」
そのまま駆け迫ってくると思ったアストラは、そうしてこなかった。立ち止まり、引力を司る闇の魔力を纏ったアストラが、クラウドとレインに自身を中心とした、強い引力ではたらきかける。唐突に、不可思議な力に引っ張られたことには、クラウドもレインも反射的に重心を落とし、踏ん張る足元に力を込めて引きずられまいとする。
「あっ……! ああっ……!」
「ファイン……っ!?」
先に声を上げたのはレイン、少し遅れて声を上げたのがクラウド、顔面蒼白が声色にも表れた二人の叫び声。引力は、踏ん張る力も自分で出せないファインを強く引っ張り、非力なレインの手では引き止めることも出来なかった。
体を浮かされたファインが、まるで谷底に真っ逆さまに落ちていくかのように、脱力した体勢でアストラへと引き寄せられる様は、離れさせられていく二人にとってあまりに絶望的。アストラは、既に大剣を握る腕を構えている。
「天地、魔術っ……! 風魔爆炎……!」
「ぬ……ッ!」
抗う暇も与えられなかった引力に、唯一の生存への可能性を懸けてファインが手を打った。ぐいっと首を引いて体を回し、右半身を下にしたままに浮かせられつつも、体の向きをアストラに向ける。胸の前で近付けた掌、その中点に一瞬で集めた魔力が、彼女の至近距離座標で大爆発を起こした瞬間と、アストラが大剣を振るった瞬間がほぼ同時だ。
クラウド達の離れた目の前、自爆したファインが紙切れように高々と吹き飛ばされ、目前の爆発に怯みながらも大剣を振り抜いたアストラの姿が見えた。同時にアストラの発していた引力も消える、クラウド達が踏ん張る必要もなくなる、それは二人にとって一番大切なことではない。大きな弧を描いて飛んでいくファインが、燃え盛る廃墟の向こう側に姿を消していく中での姿は、完全に首の力を失った死体のそれにしか見えなかった。
「ウ、ムゥ……! つくづく、抜け目の無い……!」
ファインが去っていった燃え盛る建物の向こう側は、彼女が越えていった火柱以上に、巨大な炎が立ち昇る業火の集合地。ここからでもそうだとわかる。そんな最悪の方向へ飛んでいき、やがて視界から消えたファインを、クラウドもレインも呆然として見送ることしか出来なかった。放物線を描いた末に、頭を下にして落ちていったファインが、運が悪ければそのまま炎に呑み込まれて死、運よく火の無い地点に落ちても、石畳に頭をぶつけて屍となった未来しか連想できなかった。
「残るは、二人……ッ!?」
横顔をアストラに見せていたクラウドが、体をこちらに向けた瞬間のことだ。レインには、クラウドの姿が消えたかと思った。アストラだから、そのスピードに対応することが出来た。一蹴りで離れた位置のアストラに跳びかかったクラウドが、直線に限りなく近い放物線で一気に間合いをゼロに、そして拳を突き出している。
アストラほどの男が迎撃しきれず、咄嗟に腕を盾代わりに構えるので精一杯というスピードだ。小さな拳がアストラの腕を覆う鋼をへこませ、中の肉体にまでひびを入れようとする。相手がアストラでなかったら、この一撃で腕を粉々にし、さらに遥か彼方まで吹き飛ばしているような一撃だ。
「んの……野郎ッ……!!」
「ッ……失せろ!」
盾代わりにした腕を振り上げたアストラが、クラウドの武器である拳を叩き上げ、体勢の上ずったクラウド目がけて大剣を握る拳を突き出してくる。巨大な拳、腹部を狙った一撃のようでいて、ボディ全体を轢き殺すような圧倒感。それを、鋼の膝当てを纏った足を振り上げて防ぐクラウドが、体を守った末に僅か後ろに退がらせられる。
浮かされた体、低空の弧、その短い間に後方回転して宙返りの着地。地に足を着けた直後に腰を落とし、片手で地面を着いてアストラを見上げるクラウドの目は、四足歩行の獣が獲物を睨む眼のようにぎらついている。
「いい加減にしろよ……! 次々と……!」
「貴様、まさか……!」
瞳孔の開いた目、開いた口の中にちらつく牙、そして地面に着けた手の指先から、不自然かつ唐突に頭を出した鋭い爪。いずれも、さっきまでは無かったものばかり。
長らく本人にも知り得なかった、クラウドの中に流れる部族の血を、ここまで見たアストラの知識が一つの仮説を導いた。そして、それはもしも真実であったなら、アストラにとって想像していた以上の脅威的な事象であると、動揺をあらわにするアストラの態度が物語っている。
アストラが最後まで言葉を紡げなかったのは、近距離にあったクラウドの姿が、残影を残して目の前から消えたからだ。地を蹴る寸前の僅かな揺らぎから、クラウドの行動を読みきったアストラが剣を振り上げた瞬間、クラウドの足がアストラの大剣を横殴りにしている。ドラウト以上の剛腕無双、そんなアストラが武器を握る手を横に持っていかれるほど、今のクラウドの一蹴りは重い。
「ぬうぐ、っ……!」
そのまま一歩ぶんの距離を縮め、逆の足を振り回した末、その足裏を腹に突き刺してくるスピードたるや。アストラも左の掌を構えて盾にするが、あまりの威力にその足を掴みそこね、地を蹴り僅かに後ろに退がらざるを得ない。
その短時間で口の中に魔力を集めたアストラが、即座に首を引いて開いた鉄仮面の口元から、広く前方を焼き払う炎を吐き出した。対するクラウドが側面方向へ身を逃がすステップを挟み、一直線に廃墟の壁へと直進、そのまま地も介さず壁を蹴ってアストラの横から、矢のように急接近する動きが速過ぎる。
「ぬアッ!」
羽虫を鬱陶しがるような乱暴な裏拳で、本質的には切なる危機回避の想いで、アストラの振り抜いた拳がクラウドを殴り飛ばした。アストラの側頭部を蹴飛ばそうとしていたクラウドは、攻撃直前の体勢から、腕を構えて防御する体勢を一瞬で作り上げており、交差させた手甲でアストラの拳を受け止める。人間の体どころか、建造物さえ粉砕する威力を秘めた怪物の剛腕を受け、クラウドが地面に叩きつけられて二度跳ねる。
がつんがつんと体を地面に打ちつけたあと、三度目の着地には足の裏を使い、重心を落としながらも立っているクラウドの姿がある。怒りのあまりに食いしばる口の端の上、片目閉じた表情からもダメージは確かにあったはず。それでも倒れるどころか、前のめりな姿勢で尚も立ち向かおうとしてくる精神、それがまだ出来る身体を保っているクラウドには、アストラも片足を前に出して構える。目まぐるしいほどの連続攻撃を凌ぎ、ようやく敵を万全で迎え撃てる構えを作れたことは、アストラにとっても非常に大きい。
傷ついたクラウドと、引きずるダメージの無いアストラが対峙する縮図は、有利不利の次元を超えて、クラウドにとって勝ちの無い構図を明瞭に表している。それでも、目の前でファインを傷つけられた怒りに身を震わせるクラウド、その全身から滲み出る進化の気配には、今が自らの優勢であるとアストラも断定しない。それほどのものが、今のクラウドにはある。
「行くぞ……!」
迎え撃つのではなく猛襲の前進へ。挑戦者を迎え撃つ最強の戦士としてではなく、打ち破るための行動に出たアストラの精神は、驕り無くクラウドの勝機をゼロにしていく一方だ。
レインも迷った。自ら吹き飛ばされて戦場を離れていったファインを案じるべきか、クラウドの助けとなってアストラに立ち向かうべきか。彼女がアストラとクラウドの戦場を離れ、ファインが飛んでいった方向へと向かったのは、アストラと短時間でも渡り合ったクラウドの姿を見て、自分の住む世界とは次元が違う戦いだと、本能で感じ取ってしまったからだろう。
臆病とは厳密には違う心模様から、目の前から消えたファインが今どうなってしまったかを、心から案じて動くレインは速い。ファインが飛んでいった方向へ、燃え盛る建物を跳び越えていくというひとっ跳びを挟み、ファインを見つけようとする。着地した後も、ファインを求めて右往左往するレインは、一歩の幅が大人の何歩ぶんかに相当する、人並はずれた脚力による跳躍で素早く駆け回っている。
「――お姉ちゃん!?」
そんなスピードで動く彼女だから、すぐに見つけられた。片手をお腹に添えて仰向けに倒れ、閉じた脚というファインの全容は、小柄な彼女が倒れている姿を、廃墟の中の寂しい死体のように小ぢんまりと描いている。
小さな胸を、起伏少なく上下させるファインが、息も絶え絶えなのは遠目にもすぐにわかろう。駆け寄るレインも、今日何度も意識したファインの死を、またも予感させられて気が気でない。
「お、お姉ちゃん、しっかり……しっかりしてよおっ……!」
「れ……レイン、ちゃん……」
涙ぐんだ声で体を揺さぶるレインに、まばたきすら出来ない薄開きの目で、ファインはかすれた声を発して応えた。話せるだけでもまだ死には遠い方と、前向きに考えることが出来るだろうか。こんなか細い、今にも消えそうな声を聞かされて。
「っ、レインちゃん……クラウドさんを、助けてあげられませんか……?」
「え……?」
「クラウドさんでも……一人じゃ、きっと……」
その言葉の続きを言えずにファインが口を途絶えさせたのは、単に苦しいコンディションだからというだけではないだろう。一人じゃ勝てない、殺されてしまう、そんなクラウドの未来を口にすることを怖がって、息を詰まらせるファインの口の動きには、同じ想いをレインも共感することが出来た。
「怖いでしょうけど……お願いっ、したいんです」
両膝をついて、ファインの二の腕を揺さぶっていたレインの手を、ファインの右手がそっと握ろうとする。元より力の強くない彼女だが、その手から伝わる握力は霞のように不確かで、指でレインの手をうっすら包んだだけのものに近い。そんな中で、まぶたに力を入れるのも億劫だったような表情から、懇願するような瞳に変わったファインが、涙目のレインにぴったり目を合わせてくる。
「お姉ちゃんは……?」
「じっと、してます……もう、動けませんから……」
だからあなたに託すんです、そんな意味合いを込めての言葉だとレインには伝わった。ぐしぐしと目をこすり、うんとうなずいた彼女の決意は早く、クラウドを助けて欲しいと望んでくれたファインに、何でもやるよという決意の瞳を返している。
立ち向かう障害が、アストラという化け物であることを忘れているわけではない。そうだとわかっていながらも、戦う道を選べる気高さが彼女にもある。クラウドやファインに、ここでいなくなって欲しくないからだ。
「私に任せて、お姉ちゃん……! きっと、お兄ちゃんの力になってみせるから……」
力なく微笑むファインの手を握り、手放し立ち上がったレインが地を蹴った。ひと蹴りであっという間にファインから離れたその脚力は、見送るファインの視界から、すぐにレインの姿を無くしてしまう。心も体も既に既完の大器、戦人のそれ。妹のように見守るばかりだった彼女の頼もしい姿は、無力に倒れた自分の頼りなさを、ファインの胸に強調させるばかりである。
さあ、ファインはどうするのか。痛めつけられたからって宣言したとおり、じっとしている彼女なのだろうか。ファインとの付き合いがそう長くないレインは、彼女の性格を知っているようでいて知り及びきれていない。
「はぁ……はぁ……」
降り注ぐ湯のような雨の中、血混じりの流水に体を浸すファインが、上天を仰いで息を整えようとする。片手でお腹をおさえるように、もう片方の手を胸に添えるようにしてだ。楽な姿勢だからこうしているわけではない。掌を介して自らに治癒の魔力を注ぐ彼女は、ひとまずの苦しみから逃れるためだけに、その行動に踏み出しているわけではないのだ。
ファインは言った、レインにクラウドを助けて欲しいと。そのためにアストラに立ち向かえと。死にに行けと言うに等しい頼みごとだ。本意からそんなことを言えるものだろうか、あれだけ可愛がってきたレインに対して。これでレインがアストラに殺されでもしたら、完全に自分のせいだと思うファインは、息も出来なくなりそうになる。
だけど、ファインは短い付き合いでも、レインの性格をちゃんとわかっている。セシュレスに立ち向かおうとしたファインに対し、言われても聞かずについて来た彼女じゃないか。心底の本音に従って、あなただけでも逃げてとファインが言ったところで、言うことなんて聞いてくれない子なのだ。打ちのめされても、立てなくても、確かな思考力でファインは真実を理解している。
ぼろぼろに打ちのめされた自分が、戦列に舞い戻りたいと主張したところで、レインがやめてと言うだけなのもファインは自覚している。クラウドの言葉に従って、もう無理だよと言ってきたレインだと、具体的な推察要素が無くてもだ。悪いことをする子供は、反発されることに未然から敏感なもの。取り繕ったお願いで、レインを人払いしたファインは、治癒の魔力を自らに施している。
妄信的にファインを善人と信じるレインが思うより、ファインはずっとわがままで、したたかで、一度やると決めたことは何が何でもやり通そうとする少女なのだ。嘘だってつくし、ずるい口ぶりだって使う。ファインが悔いているのはたった一つ、レインを戦場に赴かせる弁でしか、彼女をこの場から離れさせなかったことだけ。お願い、生きていてと、想い馳せるだけで泣きそうな目をぎゅっと閉じ、我が身の回復に専念するファインは、立ち上がれる体を再構築するのに必死である。
「神様……」
思うがままに、望むとおりに動けるなら、きっとそれは真の意味での苦境ではない。体を砕かれ、心が張り裂けそうな選択肢しかない中で選ばされ、それでも前に進まねば明日は訪れない、そんな世界下にファインは取り残されている。立ち上がることも出来ないまま、思わず口にしたファインの切実な言葉は、騒がしい雨の音に流されて消えていった。




