第191話 ~二枚のジョーカー~
「なあ、アストラ」
「ん?」
ほんの少し、時を遡っての話だ。西の山に沈む日が近付き、陽光が赤く染まり始めたその頃、ホウライの都の北方から、南に向けて歩いている二人がいた。鳶の翼の傭兵団と、天人達が戦った戦場跡を通過して、二人はホウライの都に向けて歩いている。
「人類が生み出した、最も偉大なる発明とは何だと思う?」
「ふむ」
これからホウライの都に乗り込んで、それを壊滅させるための戦いに踏み込もうという中で、二人は一切の緊張感を醸さない。酒でも飲みながら交わすような世間話を口にして、ゆったりとした足取りのまま南下していくばかりである。
「……紙、かな」
「なるほど。今でこそ当たり前のようにはびこるものだが、確かにそれを初めて生み出した者は、向こう数千年の歴史に改革をもたらしたとも言えそうだ」
「過去を記す書物というものが生まれたのも、紙というものがあってこそだ。そうして人の歴史は、かつてよりも過去に学ぶ手段を得、今このように発展を遂げている」
「壁画や書簡では刻める歴史など限られているからな。文字というものを開発した過去の偉人もさることながら、それを残していく最たる手段として、紙を生み出した者の功績はあまりにも大きい」
"アトモスの影"と呼ばれて久しい二人。近代天地大戦の時代には、圧倒的な力を持つそんな存在として
恐れられながらも、表舞台にはごく稀にしか姿を現さなかった二人だ。
褐色の全身鎧に身を包み、ずしずしと重い足音を鳴らしながら前進する大男のアストラ。
そして彼の隣を悠々と歩くカラザは、戦事に関わる時の勝負服、深緑色のローブに身を包み、その手には樫の木を掘って作られた杖が握られている。
「問いかけたお前の方にも、それらしい答えはあるのだろう?」
「まあな。私はそういった実在的なものではなく、概念的な答えを思い浮かんでいたのだが」
「ほう。そこまで発想を広げるなら、もっと適切そうな答えが山ほど見つかりそうだな」
甲冑模型のような重々しい風体ながら、柔らかい首の動きでアストラが、隣のカラザを見下ろす形に。お前の思っていた答えは何だ、と尋ねる動きに、カラザは杖を握ったまま腕を組み、少し考えてから答えを言う。
「ゼロ、という概念だと私は思う」
「無をひとつの理念として確立させたことが、か?」
「無から有を生み出すことは誰もがわかっていたであろうに、引き算で一度無くなった解に、ゼロという概念を当て嵌めることの意義を、過去の偉人は見出せたのだろうか?」
「まあ、ゼロも足すことが出来るなら無ではない形に変わるからな」
「そうだな。無くなったものを無価値と捉えず、加えることで有へと変わると、数式に初めて表した何者かに、私は敬意を払いたい」
くだらない事を口にしていると頭では理解しながら、楽しそうにそれを語る口は、顔も知らぬ遥か昔の誰かへの敬意に満ちている。過去の歴史から何かを学ぶことを好む者は、時としてそうした表情を見せることもある。
「考えても見ろ。それは突き詰めてみれば、この世には決して途絶えぬ希望というものがあることを、明確に定義してくれた概念だとも思えんか?」
「確かにそうかもしれないな。一度無くなったものも、誰かが蘇らせることが出来る。ゼロでは無くせる」
北の平原から向かってくる、そんな二人の影。これを最初に目にした他者は、ホウライの都の関所に居残った警備兵である。北から迫る、鳶の翼の傭兵団を退けたホウライ陣営だが、北から再び再突入してくる敵の軍勢があれば、友軍にそれを伝える役目を背負っていた者達。兵力の殆どは都内の激戦区に加勢しに行ったが、居残った者達もそれぐらいの役目は果たしている。
「北より二つの影を確認……光の魔術による交信を発してくる気配はありません」
「ならば敵だと断じてもよかろう……! 関所を越えさせること無きよう、万全の構えで臨め!」
北の戦いで生き延びた味方が今になって帰ってきたなど、そうした可能性も切り捨てて、関所の者達は少数ながら臨戦態勢に入る。少数とはいっても立派に50人超、それも王おわす都の守りを務める集団だ。たった二人の得体の知れない何者かなど、撃退するには本来充分の戦力である。
「ホウライの都がゼロになっても、いつか誰かがその地に集い、人の歩む里を蘇らせるだろう。私達がもたらすものは、一時の終焉に過ぎずして、長き歴史の通過点でしかない」
「人の歴史はそう容易には絶えぬ。たかだか数万人の命が奪われたところで、社会というものは滅せぬわな」
やがて二人は、関所に辿り着く。地上から、胸壁の上部から、武器と魔力を構えた天人兵達が、貴様何者だと二人に問いかける時間もあった。初めからその問いに答えを期待しておらず、どう答えようとも撃退の構えに移る陣形でだ。
まるでそんな呼びかけが聞こえていなかったかの如く、二人の間で世間話を続け、立ち止まりもせずに関所へと歩いてくる二人の姿は、天人達の八割の癪に触っただろう。残る二割が、只者ではない気配にびりりと肌を震わせていたが、その認識の方がきっと正しかった。
都内本陣を守る役目を有力者に任せ、警備を任せられていた者達など、カラザとアストラは全く問題にしなかった。純白の胸壁が、血と炎で真っ赤に染まり、たった一人の生存者も残らぬ地獄門へと姿を変えたのが間もなくのこと。汗一つかかずにゆったりと歩いていく二人は、ホウライの都へと気ままに足を踏み入れていた。
「うああ、っ……!?」
「お姉ちゃ……し、しっかりっ……!」
そして現在だ。都の北部にまで踏み込んだアストラが、地面を殴りつけて起こした大地震は、遥か遠くの地に立つファイン達にも届いていた。ただでさえ立つのもやっとの足を、凄まじい縦揺れの激震にすくい上げられたファインが、立っていることなど出来ずに腰砕けに倒れる。健常な足を持つレインさえ、今の揺れには膝から崩れ落ち、尻餅ついた形のファインの体にしがみつく。しっかり、と心配するような口ぶりこそ見せても、レインとて今の地震には恐怖を感じた立場である。
「な、なに今の……!? 近くに、何かいるの……!?」
「っ……違うと、思います……そんな気配じゃなかった……!」
落ち着けず周囲をきょろきょろと見渡すレインは、あんな地震を起こす術者が近くにいるものだと誤認して、お姉ちゃんを守らなきゃと立ち上がろうとする。
だが、魔力の流れに敏感なファインが胸中に抱く不安は、レインの比ではない。彼女には感じられたのだ。今の地震を起こした魔力の発信地は遥か遠くであり、その術者とは、それほど遠くから激震を及ぼす魔力をここまで届けてくる存在なのだと。
仮にだが、このホウライの都にあるものを全て取っ払って、綺麗に平坦な一面に変えたとしよう。そうした場合、きっとファインの場所からは、地平線のそばほどに豆粒のように小さく、今の地震の術者が見えるだろう。それほど遠くから、ここまで振動を及ばせてきたというイメージが、今のファインの脳裏には刻み付けられている。顔を上げられず、ふるふると体を震わせるファインは、ごくりと口の中のものを飲み込んで、忘我を拒もうとするので精一杯だ。
「お、お姉ちゃん大丈夫……!? やっぱり、どこか……」
「だ、大丈夫です、大丈夫ですよ……今、ちゃんと体の治療は進めていますから……」
目に見えるほどの動揺をあらわにするファインの全身は、レインから見ても見過ごせない。心配された声を聞いて、顔を上げて一応笑うファインだが、既に恐怖で汗だくの顔が、レインを安心させられるわけがない。服の胸元を握り締め、つぐんだ口と練り上げる魔力で、セシュレスとの戦いで痛めつけられた体を快方に向かわせることに、ファインとて必死である。
「ファインっ……! ファインーっ!」
そんな彼女らを一気に目覚めさせる声が、少し遠くから聞こえてきた。思わずそちらを同時に向く二人の耳に届いたのは、まだ距離はあろうが、必死でファインの名を呼ぶ男の声。聞き慣れたあの声、二人が誰の声なのか理解するまでそう時間はかからない。
「クラウ……」
「お兄ちゃあんっ、こっちだよおっ! お姉ちゃんもここにいるよおっ!」
「…………! レインか、今行くぞ!」
自分達を探してくれている誰かに向け、返答の叫び声を放とうとしたファインよりも早く、声もずっと大きなレイン。痛めたお尻をさすりながら体勢を変え、お座りする犬の姿勢になったファインの体は、レインの叫び声に呼応したクラウドの方へ向いている。
一度声が返ってきたら、すぐさまこっちだとわかってくれる彼の足はとても速く、すぐにファイン達が見据える前方に、横道から駆けて姿を現すクラウドが見えた。この姿を見た瞬間に、ファインとレインの胸にもたらされた安堵感は途方も無く大きい。クラウドも、探し続けてやっと見つけたファイン達のもとへ、休む間もない脚で駆け寄ってくる。
「クラウドさん……!」
「ファイン、大じょ……」
向こうもそれなりに苦しい戦いを経てきたであろうことは、走りながらもどこかが痛む顔を残した、クラウドの表情から読み取れる。
だが、ファインに近付いて大丈夫かと問いかけようとしたところで、クラウドの足が急ブレーキをかける。そのままくるりと背中を向け、ファインのすぐそばで咳き込むクラウドの後ろ姿が、どこか致命的に悪いのかとファインに心配をさせる、のだけど。
「く、クラウドさん!? どうし……」
「げほっ……! おまっ、なんて格好してっ……!」
「えっ……へっ、はわっ……!?」
やっと自覚が出た。セシュレスの炎や稲妻に焼かれたファインの服はぼろっぼろであり、腋やら太ももやら、殿方の前には決して晒さないような肌があられもなく露出している。一番ひどいのは破れた襟元で、さらしに包まれた彼女の胸の上部も顔を覗かせており、へその上が引き裂かれたような形に焼け落ちた穴からは、さらしの下からちょっと溢れるバスト下部も見えている始末。過程が過程なのではしたない格好と呼ぶのは可哀想だが、同じ年頃の男の子の前に晒して、平気でいていい身なりじゃない。
一瞬で顔を真っ赤にして、両腕で体の前面を隠して背を丸めるファイン。急に動いたから痛めた体がずきりとして、うめき声を上げてしまうが、羞恥の心は全く薄れない。うめいたファインに思わず振り返るクラウドだが、びりびりに破けた服を纏って小さくなるファインの姿には、クラウドも目のやり場に困る。今ってそんな場合じゃないのはわかっていても、これは流石に。
「え、ええと……だ、大丈夫なのか……?」
「うっ、く……だ、大丈夫ですけどぉ……」
今から思えばよくこんな有り様で、男のセシュレスを相手に堂々と立ち回っていたものであろう。恥ずかしい姿をよりにもよってクラウドの前に晒して、涙目になって見上げてくるファインに、クラウドもつくづく困らされる。で、ファインもクラウドを困らせているのが察せてくると、このままじゃいけないとすぐ考え至る。
「っ……クラウドさん、ちょっと向こう向いてて下さいっ……!」
「え、あ、う……」
「お願いですから……! 絶対、絶対振り向いちゃダメですよ……!」
クラウドもクラウドでファインの容態が心配で仕方ないから、言われたとおりにするのも迷うのだが、強いファインの希望に押されてもう一度背を向ける。そしたら後ろから、びりびりと自分の服を破く音だとか、その都度体を動かすたび、痛む体に小さく漏らしたファインの声が聞こえてくる。何やってるのかちんぷんかんぷん、あまり想像したくないし、想像しちゃいけない気もする。
「はっ、はあっ……も、もういいですよ、クラウドさん……」
そう言うからクラウドも改めて振り返るけど、これは下手をすればさっきより扇情的なのではなかろうか。スカートの残っていた下部の生地を破いて、それをぐるっと胸の回りに巻きつけたことで、確かにさらしに覆われた胸元は隠れた。代わりにそれがずり落ちないよう、たすきがけのようにくくった紐らしき空色の生地は、恐らく彼女のお腹回りに残っていた服の生地をあてがったものなのだろう。レインに肩を借りて立ち上がったファインだが、短くなり過ぎたスカートは彼女の太ももの殆どを吹きさらしにしているし、纏うものを失った細いウエストは、腰の上から胸の下まで素っ裸。その真ん中に見えるおへそは、クラウドだって今日初めて見る、ファインの体の一部である。
「みっ、見ても大丈夫ですっ……! 我慢っ、しますからっ……!」
「あー、そう、そうですか……わかった、わかったから無理するな……」
やばい状況だっていうのは先の地震から明らかなので、そんな顔しないで下さい私ならもう大丈夫ですからと、ファインは気持ちを切り替えようとしてくれているらしい。そんな半泣きの目と真っ赤っ赤な顔で言われても、正直耐えられていないっていうのはわかるから、クラウドも気持ちに応えるふりして、視線はファインのちょっと横。何も無い場所を見る、ファインを直視することが出来ない。
「ええと……さっきの揺れは……?」
「わ、わかりません……でも、とんでもない魔力を感じました……!」
いつまでもそんな感じではいられないので、クラウドはファインの真横に立ち、彼女とは反対方向を向いた形でファインを視界に入れないようにする。触れ合える距離ながら、互いを見合わない二人の重い会話が、幼さの残る二人の心を、少しずつ恐ろしい現実の下にいることを思い出させていく。
「あの揺れを起こしたのはどこかの術士ってことか? そいつのいる場所とかは……」
「方角とか、ある程度はなんとなく……でも……」
そこまで言って言葉を詰まらせ、体を震えさせるファインの鼓動が、すぐ隣に立つクラウドにもよく伝わる。彼女の体を支えるレインにはもっとだろう。言葉の続きにあったはずのものは想像で補える。立ち向かうべきなのはわかっているけれど、あれほどの出来事を起こせる敵に、果たして適うのだろうかという不安で、彼女は言葉の続きを失っている。
「そいつがどこにいるのかだけ教えてくれるなら、俺が行ってくる。ファインはもう……」
「だ、駄目です! いくらクラウドさんでも、一人で勝てる相手だとは思えません!」
「でも……!」
「私も行きます……! 止められたって、聞きませんよ……!」
隣のファインを思わず見返すクラウドと、強い意思をはっきり口にして首を回したファインの眼差しがぶつかり合った。こんなにも恐ろしさを感じる怪物の気配に、クラウドだけを立ち向かわせるなんて絶対に嫌。羞恥の赤は抜けきらぬ顔色ながら、そんな意志力を強く宿したファインの表情は、クラウドにも押し切れない頑固さに満ちている。
「す、少し休んでから行きましょう……クラウドさんも、苦しい戦いを乗り越えてきたんでしょう……?」
「お前っ、これ以上無理は……!」
「みんなで頑張らなきゃ、絶対に無理です……! お願いですから、一緒に戦わせて下さい……!」
ファインの伸ばした手がクラウドの背中に触れ、治癒の魔力を流し込んでくる。ごまかしごまかしで傷ついた体を引っ張ってきたクラウドの肉体には、疲れや痛みをやわらげてくれる特効薬だ。
しかしそれを処方するファインは、現在進行形でも魔力を浪費する一方。自分の体をも癒す魔力を並立させる彼女の体から、力強さのようなものが失われていく実感がクラウドにも伝わっている。それほどまでに、自分の背中に触れるファインの掌は弱々しい。
「れ、レインちゃんも、一緒に戦ってくれませんか……?」
「やる……! 私が絶対、お兄ちゃんやお姉ちゃんを死なせたりなんかしない……!」
薄開きの憔悴した目、しかし痛みを伴うであろう道に来る事を頼み込むファインの目は、あまりにも申し訳なく懇願するようで。そんな表情を見ずしてでも、レインの心は始めから決まっている。先の見えない真っ暗な世界から救い出してくれた二人に報いるには、この日逃げだす自分では一生それを叶えられやしないだろう。怖いのは当たり前、それでもやるんだと決意したレインの声には、心と裏腹震えのひとつもなかった。
歯がゆく動けないクラウドは、ファインの治癒の魔力に甘んじるしかない。爪の一つでも噛みたいぐらいだ。
だけど、今も苦しいこの体のままで、あんな大地震を起こすような奴に立ち向かって、絶対勝てると自信を持てるほど、クラウドだって世間知らずじゃない。タルナダにも勝った、ザームも退けた、ドラウトだって撃破してきたクラウド。それによって積み重ねてきた自信と、上には上が必ずいるという真理は別物だ。
生涯ただ一度の敗北、マナフ山岳で重装戦士に打ち負かされ、サニーと別れざるを得なくなった時のことをクラウドは思い出していた。その時の怪物が今は同じ都に立っていることなんて、クラウドが今から想像できているはずはなかったけれど。
それでも、その記憶によって無謀な突き進みをしない程度には、彼も過去の経験から学ぶ生存力を持ち合わせているのだ。
「ミスティ、歩けるか?」
「う、うん……なんとか……」
抱き寄せて支えてくれていたカラザの腕を離れたミスティが、よろよろとながら歩いてカラザに向き直る。基本的にカラザには、常に敬語で接してきたミスティだが、はい、ではなく、うんと無意識に平常の口で返答してしまうほどには、今の彼女も心に余裕がないということなのだろう。それほどまでにスノウとの長期戦は、彼女を疲弊させきったのだ。
「アストラよ、手応えはどうだ?」
「幾人かは、粘った結果か都を去りきってはいないな。"火を放つ"のは、もう少し後にした方がよさそうだ」
「まあ、仕方あるまいな」
自身の発した地震魔術と、その際に地を駆けさせた魔力の波動により、ある程度の人の流れをアストラは広く把握したようだ。西の彼方の山に太陽が触れた時、それがカラザとアストラが動き出すタイミング。セシュレスやネブラなど、指揮官を務める者達が把握していた重大な情報とはそれであり、撤退命令を発したネブラの行動も、それに端を発するものだ。
ホウライの都を攻め入る最後の切り札、アトモスの影、カラザとアストラ。この二人が戦う都に、一切の兵の助力は不要とされている。カラザとアストラは、これよりたった二人だけで他の味方無く、ホウライの都という街一つを消し飛ばそうとしているのだ。
「ミスティよ、こっちだ。私達が来たこの道には、敵が殆どおらぬ。消耗したお前でも、少々想定外の敵に出くわしたとしても、生きて都の外に出られるだろう」
「10分は待つ。可能ならば、そのうちに都から出て行くように」
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「ふふ、そう気にするな。お前のような頑張り屋さんは、もっともっと長生きするべきなんだよ」
予定されていたカラザによる"着火"から、ミスティが逃げ延びるまでの時間が設けられた。つまりミスティの存在が、カラザ達の予定を狂わせているのだ。顔も上げられずに詫びるミスティの頭を、横からアストラが大きな手で優しく撫でる行動は、そんな彼女を咎めるような意図を全く含んでいない。
「おいおい、この子の主は私だぞ?」
「別にいいだろう。お前ばかりがこいつを可愛がって、俺はこいつと触れ合う機会も殆ど無かったんだぞ?」
まるで我が子を取り合う父と母のような会話が軽々しく、それはミスティにとって泣きたくなるほど嬉しい。自らを産んだ親にさえも、こんなに優しくはしてもらえなかったのだ。じわ、と涙ぐむ目を伏せたままぎゅっと閉じ、涙を締め出したミスティは、アストラの手が頭から離れてすぐに顔を上げる。
「カラザ様、アストラ様、あとはよろしくお願いします……!」
「うむ」
「ああ、任せておけ。必ずお前の、お前達の願いは成就される」
「お二人とも……! 絶対、絶対に死んだりなんかしないで下さいね……!」
痛む体に鞭打ってでも、深く頭を下げたミスティが走り去っていく。苦しいだろうに、速い足。風を纏い、推進力を得た速度で廃墟を駆け抜けていく彼女は、地獄と化すホウライの都から一刻も早く去るようにという、カラザ達の最後の命令のために全力を尽くしている。
「死んだりなんてしないで下さいね、か」
「俺やお前の敗北を意識してしまうほどの者が、この都には潜んでいるということなのだな」
カラザとアストラの強さはミスティもよく知っている。誰にも負けることが想像できないほどの、最強の二人である。そんな二人に念を押すほど、ミスティがこの都で見てきた強敵というのは、強い彼女の目線で以ってしても侮れないということなのだろう。そう、カラザとアストラは正しく読み取っている。
想像でも補うことが出来る。カラザ達の姿を見て、向かってくるでもなくすぐに南東の空に飛び去って行ったスノウは、一人では自分達には勝てないと感じたのだろう。ただでさえアトモスを破った最強の聖女だというのに、驕りもないようなら確かに厄介。まず、これがカラザ達にとっての強敵の一人。また、ホウライ城の守りを務める天人勢の最終防衛線も、兵士長らを含む強敵の集まりだとは思う。
そしてきっと、ミスティが意識していたのはそいつらでは無いのだろう。カラザ達だって知っている。クライメントシティの大騒乱を鎮圧し、ザームやネブラを退けてレインを救った、マナフ山岳で相見えたあの二人のことだ。超人的な身体能力を持つ少年クラウドと、聖女スノウの血を引く混血児のファイン、加えて革命軍から救い出されたレインという三人がこの都にいるなら、それは想定内ながらも本来なら予定に無かった、カラザ達にとって唯一の不安要素となるイレギュラーである。
「そろそろ、気を引き締めていかねばな」
「俺は始めからそうだ。無駄口を叩いて緊張感を壊しに来るのはお前だけだぞ」
「だから、そろそろだと言っているではないか」
さあ、どこまで言葉通りの心持ちでいるのやら。笑いながら言い返してくるカラザに、ここからは気持ちを切り替えようというスイッチの気配が全くしないので、アストラも鉄仮面の奥で溜め息が出そうになる。
「我らに託されたのは革命軍の総意と夢、それを背負う立場として失敗は許されんのだぞ?」
「お堅いな、お前は。昔と比べて随分変わったよ」
「古い話はするな。俺は随分と、人のことが好きになれた自覚がある」
「ああ、わかるよ。今のお前は、かつての横暴だった頃よりもずっといい目をしている」
鉄仮面の奥、見えぬはずのアストラの瞳を見透かしたかのようなカラザの言葉。他者には決して到達できない、二人だけの絆がここにはある。今となっては汚点とも思える自分の過去を、からかうような言葉で思い出させてくるカラザの発言に、アストラが小さく笑ってしまうのもそれがあるからだ。
「さあ、行こう。すべてはアトモスの為に、そして彼女の遺志に報いる為に」
「すべては虐げられ続けた者達の為に……そして、光ある未来を生きる次なる世代の者達の為に」
異変に気付いた天人達が、カラザ達の元へ駆け迫ってくる気配がする。言葉は違えど二人が掲げる目的と使命は同じものだ。この歪んだ世界を是正を、革命を望んだ者達の願いを叶え、新時代を築くために現れたアトモスの影が、その手に握る武器への力を僅かに強める。
現れ、迫る、天人達。薄ら笑いの表情を一瞬で消し、冷たい眼差しを宿したカラザが魔力を練り上げる。
そして声も無く地を蹴ったアストラが、駆け迫ってくる敵以上の速度で迫り返し、一気に天人達を射程範囲内に捉えた。
 




