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晴れのちFine!  作者: はれのむらくも
第11章  干ばつ【Insanity】
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第186話  ~ファインの生き方~



 自分を見るファインの目が、ほんの数秒前とは全く違っていることに、セシュレスが気付くまで時間はかからなかった。革命軍の総大将として、ホウライの都を焼け野原にしようとした男、それを見下ろしていたファインの目は、冷静さの奥に憤慨を確かに孕んでいたのだから。


 地に足を着け、同じ高さで自分を見つめるファインの眼差しは、大義を掲げて殺生を為す革命家を憎むそれではなく、一人の人間を対話に値する年上と見定めた目。もっとはっきり割り切るならば、これから戦おうという相手を前にして寂しがるようなその目には、敬意に近いものを含んでいるとさえ見える。


「……もっと早くあなたと出会って、色んな話をしてみたかったです」


「……どうやら、私達と戦うという決意は変わらぬようだな」


「はい。私は、あなたと戦う道を改めるつもりはありません」


 選択肢の明言に至らなかったファインだが、その表情と言葉から、セシュレスは自分にとって望ましくない方の答えを読み取り、受け入れた。心から、ファインとの交戦を回避したかった彼にしてみれば、消えた希望にすがらない冷静な判断を為したものと言えるだろう。


「なぜ、君はそうも破滅的な戦いに踏み出す? 先の私の言葉を、嘘だと思っているわけではないだろう」


「…………」


「純然と、君が哀れにすら感じられる。勝ち得たものが君を幸福にすることは決してないのに、死の危険を冒してまで、君がそこまでするのは何故だ?」


 セシュレスが言っていたことは的を射ているのだ。ファインが戦うことは、彼女自身に多大なる危険を及ぼすものであり、その末に勝利したところで彼女に得られるものは一握り。革命は途絶える、生き残るのは天人とその社会、混血児が見下される世界の継続。加えて、混血児が自分達を守ってくれたと知った天人達は、感謝するどころか屈辱すら覚え、さらに忌避する目でファインを見るだろう。この予想が反される淡い希望は無い。


「……私が受け入れ難き混血児であって、私の存在そのものが誰かを不幸にするなら」


 思わずレインが、後ろからファインの手を握った。ファインによって救われた彼女からして、後に続く言葉を聞く前から、今の言葉には首を振りたいのだ。小さな手がぬくもりを伝えてくれる実感に、ほんの短い間ファインも言葉が途絶えたが、今の彼女が言葉を向けている相手はセシュレスだ。


「私は去りましょう。私は、ホウライの都で出会えた新しい友達が大好きな故郷、それを守れるという結果さえ残せるなら、それで充分です」


「そこに君の幸せはあるのか」


「望んだ生き方を貫き、何かを叶えられることは、ただそれだけで幸せです」


「それが君を差別する世界の存続を招くことになってもか」


「大切な人の故郷が無くなってしまうことよりは、ずっと良いことです」


「人の良すぎる話だよ。狂気すら感じるほどに」


「……自分のことを可愛がるばかりでは、誰も幸せにすることは出来ませんから」


 この時ファインが目に宿した、哀しみさえ匂わせる光をセシュレスは見過ごすことが出来なかった。これほど強く説得しても、ファインは自らの暗い未来を無視し、ホウライの都を守る盾たろうとする。その危うさを、ファインも心根では理解していると、今の瞳からは痛いほど読み取れてしまうのだ。その上で、この道を揺るがずに突き進むファインの、言葉の続きをセシュレスが無言で待つ。


「混血児である私と接するだけで、その人は多くの人々に疎まれ、避けられます。それでも私を育ててくれたお婆ちゃんが、親友になってくれた人がいたんです。二人が私に教えてくれたことは、我が身可愛さを捨てて誰かを慈しむ心は、誰かを救うことがあるという真実です。二人がいたから、私はここまで孤独ではなく、幸せな毎日を過ごしてくることが出来たんです」


 フェアのこと、サニーのこと。誰からも疎んじられて一人ぼっちだったファインが、寂しくない人生を歩んでこられたのは、二人がいたからなのだ。二人がクライメントシティの天人達から、冷たい視線を注がれながらも、ファインのそばにいてくれたから。それをファインは、誰よりも身をもって知っている。


「混血児の生まれであるという運命を呪い、当たり散らしていた幼い頃の私が、なおも周囲から疎まれたことだって、今にして思えば当然のことだったんです。宿命を受け入れ、己を見返し、他者に不幸を振り撒かず、誰かを幸せに出来る私になっていきたい、そう思えるようにしてくれた人々がいました。この生き方は、誰にどんな言葉を向けられても、私は改めるつもりはありません」


 混血児の殆どが歪んでしまうのは責められるものではない。幼き頃から迫害を受け、心が育たぬうちから世界を恨んでしまう流れに、誰が異を唱える言葉を紡げようか。ファインをそうした人物にさせず、育て上げた二人の存在が、今の彼女を成り立たせている。自らの血や、それを蔑む不条理な世界を呪わず、あるがままの自らと世界との関係を受け入れ、それでも前向きに生きる彼女がいる。


「求められぬなら去り、大事な人の不幸を避けるためなら力になりましょう。私は、あなた達を退けることが、ここで出会えた新しい友達の幸せに繋がると信じて疑いません」


「…………」


「狂ってなんか、いませんよ。大人の方々からいかに幼く見えたって……これが、私の生き方です」


 自称狂人に限って、狂気を謳うだけの正常な思考を持つものであり、ファインはその逆。それこそが頭のねじを飛ばしている証拠のひとつでもあるというのに、狂気すら感じると言われたことを根に持ったのか否認するファイン。人はそれを、妄信した一つの価値観を頑なに大切にし、他を顧みない狂気だと評価するのだ。狂気すら感じると評じたセシュレスの想いは、口にはせずとも覆らない。


 張った胸、その胸に当てた手、レインに握られた手を優しく握り返す逆の手、差し返す眼差し。すべてが不動の彼女の精神力を体現している。シルクハットのつばを下げ、顔を伏せるセシュレスの顔がファインからは見えなくなるが、どんな顔をしているのかはファインにも感ぜられた。望まぬ戦いを避けられなかったことを無念とし、閉じた口の端を降ろすセシュレスの態度は、心の中に想うものと矛盾したものではない。


「……君の親友や育ての親。それよりも早くに君と出会うことが出来ていれば、よかったのかもしれないな」


「そうですね……もっと違う形で出会えていれば、きっと私はあなたを心から敬えたと思います」


 対立している今でさえ、彼の目や語り口、それが明かす胸の内から、ファインはセシュレスに敬意に近いものを感じているのだ。ファインの顔を見ず、彼女の声だけから心模様を感じ取るセシュレスも、ただそれだけでファインの言葉に嘘がないことを聞き取れた。つくづく御し難い少女だと思う。つくづく戦いたくなかった相手だと改めて思う。


 さあ、始めましょうとばかりにファインが、自らの手を握るレインの手を逆の手でほどいた。ようやく再び自分のことを見返してくれたファインの目には、共に戦って下さいという迷いなき光が宿されている。言葉無く、そんな想いを伝えてくれるファインに、レインが無言でうなずいて一歩前に出る。彼女もまた、ファインに強く導かれる形で、強固な覚悟に胸の内で火をつけている。


「アトモスの言っていたことは、やはり正しかったのだな」


 そして顔を上げたセシュレスの表情が豹変していたことには、ファインとレインが鳥肌を立てずにいられなかった。一時の対話の中、人として極めて落ち着いていた表情を浮かべていたセシュレスの顔に、先ほどまでと大きな変化は無い。変わったのは、正面に立つ二人を見据える、その目が放つ気質のみ。戦うことを避けられぬなら、葬るしかないと割り切った歴戦の参謀の目は、その気迫だけで二人を圧倒する。


「この世界は、間違っている……!」


 つくづく憎らしい、この世界。不条理に優越を唱え、我が物顔の世界で天人にあらざる者達を虐げる天人達が、今のファインの哀しい境遇を作り上げたのだ。セシュレスに、ファインに対する疎ましさは微塵も無い。あるのはそれほど窮屈な世界の中で生きてきたというのに、心に芯を以って戦い続ける少女への僅かな敬意と、永遠にその気高さが報われることがないであろうことに対する強き哀れみだ。穏やかな語り口を部下の前ですら一貫するセシュレスが、若き日のような熱をその声に表したのはそのせいだ。


「セシュレス、さんっ……!」


「最後に君と言葉を交わせてよかった。君のような者を二度と生まれさせぬよう――血と生まれのみで差別される者が無き世界とは、やはり叶えねばならぬものだと改めて感じた」


 がしゃがしゃと背中から生える八本脚をうごめかせ、魔力を練り上げるセシュレスが放つ瘴気は、触れずしてファイン達の肌をびりびりと刺激するほど強い。思わず発する言葉も詰まるファインと、構えながらも震えそうな体を耐えさせるのに必死なレイン。今から戦う相手の強大さを痛感させられることほど、戦う者にとって体がすくみ上がる要素はない。


「願わくば君の行く末が、天国でも特別な場所であらんことを……!」


「……行きます!」


「地術、火炙りの大樹ステイキングユグドラシル!」


 両手を振り上げたセシュレスの魔力が、唐突にファインとレインの足元から特大の火柱を噴出させた。翼を広げて地を発ったファイン、恐ろしい予感に地を蹴って逃れたレイン、その両者の去った跡に残った赤々とした炎は、壮絶な爆音と共にホウライの都に惨劇の様相を描く。民家ひとつが頭の上の業火に押し潰され、耐え切れず崩れ落ちて火だるまになる中、ファインとレインが素早く左右からセシュレスを挟み込む形を作る。


 急接近したレインがセシュレスの延髄を蹴飛ばす回し蹴りを放つも、かがんだセシュレスがそれを回避。そんな彼に次なる一手を打たせるより早く、即座の足払いを放つレインは、大きく跳んで回避するセシュレスの形を強いる。至近距離での魔術による反撃は避けねばならない。


 だが、跳んでレインから離れていく中で、セシュレスがぷっと真っ白な塊を口から吐き出した。唾やらそんな甘っちょろいものではない。足払いを放った直後に顔を上げたレインの顔に迫るそれを、遠方から火球を放ったファインが撃ち落とす。側面からファインの火によって焼き落とされたそれは、燃える塊となって地面へと落ちていく。


「"糸"に気を付けて、レインちゃん……! 捕えられたら一巻の終わりですよ……!」


「わかってる……!」


 レインとは別の家屋の屋根に着地したセシュレスが手を振るうと、接近してくるファインの眼前に炎の幕が空中に生じ、彼女の視界を塞ぐとともに通せんぼを兼ねる。術者の力に応じて大きな幕だが、器用に旋回飛行したファインはぶつからず、すぐにセシュレスを視界の中に入れた。既に接近したレインが踵を落とす蹴りを放ち、横に逃れたセシュレスに突き蹴りを撃つ姿が見えた。背の八本足の先端すべてを前にもっていき、集めた脚の先端でレインの蹴りを受けたセシュレスが、僅か押されて後退し、にやりと笑った表情をファインは見逃さない。


「いけない……!」


「まずはレイン、君からだ」


 自らの前に集めていた八本脚の先を、つぼみが開くようにかぱっと開いた直後、前方の障害物が無くなったセシュレスが手を振るう。発されるのは火の玉、小さなレインの体なら、腰から上をすべて丸呑みに出来るほどのサイズだ。近い距離から放たれた業火にぞっとしつつも、左手に横っ跳びで回避したレインのすぐ横を、大きな火球がかすめていく。大きくかわしてなおもぎりぎり、しかし肝を冷やしている暇などない、セシュレスの八本脚の右半分の四本は、既にレインの回避した着地点に向いている。


「や……!?」


「捕え……」


「させませんっ……!」


 4本脚の先端から真っ白な糸らしきものを発射したセシュレスが、それをレインの体に絡みつかせた。セシュレスとレインが4筋の糸で一繋がりになった瞬間、セシュレスが次に何をしようとしたのかは定かではない。すぐさま風の刃を放ったファインが、セシュレスとレインを繋ぐ糸を切断したからだ。さらにはファインはセシュレス本体に向けても風の刃を放っており、糸を切られた瞬間に身をかがめて回避せざるを得ないセシュレスを誘発している。


 一対一なら勝負ありの場面でも、それを即座に打ち砕かれるのが一対二の構図だ。セシュレスにしてみれば慣れたものだ。かがんだ身からすばやく上を向き、近空に達したファインへと唾を――いや、白い糸の塊をぷっと吐く。素早い対空攻撃にファインが身をひねって回避した矢先、既に手を振るうセシュレスがファインの進行方向へと炎の幕を展開。彼女の動きを読みきっている。その炎を回避しなければならないファインも苦しい顔。


「人の心配をしている暇など君にもないんだぞ?」


「え……!?」


 どこからその声がしたのか。空を舞うはずの斜め上からそんな声が聞こえてきたことに、驚愕したファインが顔を上げた先に彼はいた。既に跳躍していたセシュレスが、少しの距離がある上方から八本脚の先端をファインに向け、それらの先端からファインに糸を放ってきたのがすぐに続く。魔術による攻撃なら魔力を展開して防御も出来よう、しかし物理的なその攻撃を振り向いた瞬間に受けたファインが、セシュレスの放った糸でぐるぐるに巻き取られ、粘るそれによって手足を自由に動かせない状態に陥った。


「むっ、く……!? んむ……!?」


「お姉ちゃんっ!」


「これで終わるか?」


 がんじがらめにファインに巻きついた糸は、出来かけの繭のようにファインの全身に絡みつき、目元や口さえ塞いでいる。視界と呼吸を奪われたファインが、唯一動かせる風の翼でがたついて飛翔する中、その後方に着地したセシュレスが握り締めた魔力を投げつける。それはファインの体よりも大きな岩石となり、目の見えないファインを叩き潰す凶弾となって迫る。


「っ、ふ……!」


 漠然とした危機感と殺気から、自分に何が迫っているかもわからぬままにして、自身の周囲に岩石の殻を発生させて防御体制を取っていたファインの行動は、勘の賜物にして彼女を救っていた。しかし落盤相当の岩石がそんなファインへと激突し、殻越しにでもファインに痛烈な衝撃を与える。跳ぶ鳥が撃ち落とされたかのように滑空軌道を折ったファインが、砕けた岩石の殻の破片を飛び散らせながら、地上に向けて真っ逆さまだ。


「この……っ!」


「むぅ……!」


 上半身に絡みついた糸のせいで手も満足に動かせないレインだが、それでもその目に火を宿し、矢のような勢いでセシュレスに迫った。真っ直ぐに突撃したレインの突き出した足先を、自らの前に八本足の先端を集めたセシュレスが防御。筋力の塊である足八本すべてで受けきってなお、重みを感じてたじろぐほどの突撃力だ。一方でレインは、セシュレスを怯ませて後方に跳ね返っていく形で、その身をファインの落ちていった方向へと飛ばしていく。攻めるためのそれではなく、セシュレスの追撃を封じた上で、落とされたお姉ちゃんのそばへと駆けつける動きとして適正。


「お姉ちゃん……!」


 ふらふらと落下速度を落としながら地上へと降りていくファインに追いつくほど、駆けつけたレインの速度は速かった。レインが見た瞬間のファインは繭のような様相。しかし直後、ファインに巻きつき絡み付いていたその糸は、急にずぱっと何筋もの斬り筋を得て開かれた。レインから見てもかすかにわかった、ファインが極小の風の刃を自らの体すれすれに走らせ、絡み付いた糸を細切れに切断したのだ。


「はっ……はあっ……!」


「お姉ちゃん、大丈夫……!?」


「だっ、大丈夫、です……レインちゃん、動かないで下さいね……!」


 片膝ついて崩れたような姿勢で地に降り立ったファインだが、駆け寄ってきたレインに手を伸ばして掌を向ける。強い声にびくりとしたレインが立ち止まる中、ファインの発した風の魔術が、レインに肌寒さを感じさせるような強風の渦の中へと彼女を捕える。片目つぶって集中力を研ぎ澄ませたファインが、繊細な魔力の扱いとともに、レインを取り巻く風の一部に切断能力を与えれば、レインの体に絡み付いていた糸もすぱすぱと切り刻まれる。腰から上をろくに動かせぬまま駆けつけてくれたレインだが、風がやむ頃には自由に動かせる体が取り戻せていることにすぐ気付いた。


「あ、蜘蛛種(アラーネア)の糸には気をつけて……! 捕まったら、身動きもとれなくなりますよ……!」


「う、うん……!」


 その恐ろしさは二人とも身を以って知らされたばかり。今も体に少しこびりついたままの白い糸の名残も、どろりとしたねばつきぶりで強い粘性を主張している。適度な弾性と強い粘性で為される強度で、獲物に絡みつけば決してそれを自由にはさせないセシュレスの糸は、一度捕まったら人の力でほどくことはまず不可能だ。顔に少し残った蜘蛛糸の欠片を手の甲で拭うファインだが、拭き取るだけでもべったりと伸びて広がろうとするそれは手触りも気持ち悪く、頬に残った小さなそれを引き剥がすだけで、何度もこすらなければならなかった。首元や髪にべたついたままのそれを拭うのは諦める、手間がかかりすぎる。


「ようこそ、我が世界へ」


「…………!?」


 体に残ったそれらを拭う仕草をしながら、ファインも先ほどの痛打で苦しい体を短時間休ませていたのだ。そんなファインに上方から呼びかける声を見上げれば、既にそこにはぞっとするような光景があった。セシュレスの姿がある、しかしそれすら些細なこと。建物の上端を足がかりにして、怪物蜘蛛が張ったような、巨大な蜘蛛の巣がファイン達の上天を広く覆っている。その向こう側にセシュレスが立っている。


 あれがセシュレスの作ったものだとしたら、あんな大きなものをいつの間に、というべき場面だろう。しかし、自ら巨大蜘蛛の巣の一点を破り、地上へと舞い降りて着地するセシュレスが、やがて答えを教えてくれる。同じ地表に降りてきたセシュレスに、体を前に傾けて突撃しようとしたレインだが、右掌を振り上げてこちらに向けてくる彼の行動一つで、前進しかけた体をレインが止めてしまう。挙動一つで、セシュレスはレインを制している。


 そんな中でセシュレスの背の八本足の先端が、上に向けたセシュレスの左掌の上に集められている。筒から搾り出すように、セシュレスの掌の上に、八本脚の先がぎゅうっと糸を吐き出すのだ。糸の塊であるそれを握り締めたセシュレスが、真正面にファイン達を見据えたまま、自らの左の遠くへ投げつけた。そして飛んでいく糸の塊に、セシュレスの蜘蛛脚の一本が、極小の糸の塊を発射する。その二つが空中でぶつかった瞬間に、大きい方の糸の塊がはじけ、あっという間に大きな蜘蛛の巣の形になった。それは建物の壁や上部を足がかりに張り、怪物蜘蛛が作った巨大蜘蛛の巣のような様相で、町の一角に糸編みの壁を作り出す。そんな大きな糸の網壁も、セシュレスにしてみればすぐに作れるものなのだ。


「あまり飛び回られては、私としても不都合なのでな」


「く……うぅ……」


 自分にとって有利なフィールドを作り上げていくセシュレスを前にしつつ、ファインもレインも迂闊には動けない。同様にまた、糸の塊を抽出したセシュレスがそれを右に投げ、同じように糸の網で作り上げた蜘蛛の巣の大壁を作り出す。ファイン達の左右広くの果てが蜘蛛の巣の壁で塞がれ、上天もまた蜘蛛の巣で蓋をされた状態。大通りであるのか広い道幅が残されてはいるものの、建物と蜘蛛の巣で囲まれた真四角な空間下、セシュレスとファイン達の三人だけが立つ世界となる。


 あの蜘蛛の巣には触れられない。粘着力に捕えられ、身動きとれなくなってしまったら、それこそセシュレスの術による猛追撃を受けて終わりだろう。焼いたり斬って破ることは出来るかもしれないが、セシュレスとの戦いの中でそれをやる暇があるとは思えない。向こう側の見透かせる薄い蜘蛛の巣の壁ながら、現実的には超えられない壁により、ファイン達の逃げ道は完全に封じられている。さらには、高くない高度に張り巡らされた蜘蛛の巣の天井が、空を飛んで戦うという選択肢すらファインから剥奪している。


「君は、私達と戦うことを選んだ。それが君の生き方であるというのなら、それを否定はするまいよ」


 有利に戦場を作り変えていく中で、やや余裕の色が濃く表れていたセシュレスの表情が、ここに来て極めて冷静な面持ちに変わっている。戦況よりも、ファインと向き合い言葉を差し向ける意識を強めるセシュレスの態度は、追い詰められた中でもファインにセシュレスを、二重の意味で目を離せなくさせる。


 ひゅっと手を振るったセシュレスが、岩石の刃をファインに向けて放った。厳密には、ファインの顔のそばをかすめる軌道でだ。当たらぬそれと見て取れたファインは動かなかったが、それが自分の顔のすぐそばを通過し、背後の建物に突き刺さって音を立てる現実に、ファインの全身から汗が噴き出す。いよいよとなれば気丈な精神力で、どんな相手にも怯まなかった彼女が、思わず一歩後ろに足を下げそうになる。


「それがここで(つい)えることは、つくづく残念でならぬことだ……!」


「っ……!」


 振り抜いて自らの横に伸ばしていた手を、一度少し高くしたセシュレス。それが振り下ろされた瞬間に、ファイン達の立つ場所から大きな火柱。咄嗟に左右に分かれて跳んだ二人だから回避できたものの、離れ際に二人に熱さを届ける業火は、一時でも気を抜けば命を奪われる戦いであることを、改めて二人に思い知らせる。


 狭くなった戦場、飛べない空。シルクハットの下から顔を上げ、ファインを睨む冷徹なセシュレスの目は、その気迫だけでいっそうファインを追い詰める。地に足を着けたままの戦いはいつ以来だろう。慣れぬ戦いを強いられる焦燥感、そんな彼女の広い視界の中には、敵のセシュレスと同じくレインの姿も含まれている。


 ファインを振り向く暇もなく、構えてセシュレスから目を逸らせないレイン。いかにファインが、すがるほど彼女を頼りにしているのか、レインは自覚しているだろうか。この戦いの勝敗は、彼女がどれほどの力を発揮できるかにかかっているのだ。











「くっ……がっ……!」


「しぶといな……! やはり侮れぬ……!」


 大戦斧を振り回して迫るドラウトと、回避と後退を繰り返すクラウド。隙の無い猛攻で敵を圧倒し、反撃の手立てすら与えない戦況を展開するドラウトは、まさに普段どおりの戦いぶりを見せていると言ってもいい。逆に、いかに敵が荒ぶるような猛攻を仕掛けてきても、その間隙を縫って反撃を為してきたクラウドを思えば、今はあまりにも彼らしくない。防戦一方、敵の攻撃から逃げ回ることしか出来ていない。


「く……!」


 後方に跳んで着地した瞬間のクラウドに、とんでもないスイングスピードの斧を仕向けてくるドラウトの攻撃は、素早いと評するだけなら簡単だろう。その速度が問題なのだ。回避できぬ低いスイング、自らの胴を真っ二つにしてくる斧を、クラウドは膝を振り上げると同時に自ら倒れるかの如く、斧を上方に叩き上げて凌ぐ。それは出来ている。だが、斧と膝当て越しに激突した膝に走る衝撃は、今までどんなものを叩き上げてきた時よりも凄まじく、クラウドの顔を歪めさせている。


 叩き上げられた斧の刃を素早く返し、振り下ろしてくるドラウトの追撃に、頭の上で地面を押し出しながらの後転で身を逃すクラウドも速い。彼が去った直後の地面をドラウトの斧が砕き、素早く立ち上がるクラウド。そして立ち上がりかけたクラウドに、即座に長い戦斧を突き出す一撃で、ドラウトが休ませようとしない。


「ぐぅあ……!」


「チッ……!」


 突き出される斧の先端に、手甲を構えて防御する形を作ったクラウドだが、その重みは一気にクラウドを後方に吹っ飛ばす。眉間を貫くはずだった一撃を防がれたドラウトは舌打ちしているが、その攻撃力はクラウドを崩れかけた建物まで突き飛ばし、彼の体の激突でひび割れた石壁が砕けるほど。豪快な破壊音とともに、建物の壁の向こう側にクラウドが消えてしまったことに、与えたダメージも意識せず、ドラウトは好機を失ったと歯噛みする。目を離したくない相手なのだ。


「っぐ……げは、っ……! ちく、しょう……!」


 ドラウトの視界外でのクラウドも、痛む体に鞭打って、地面と建物の残骸に手をかけての必死で立ち上がる。ドラウトの武器が振るわれるスピードには、はじめから嫌な予感がしていたのだ。あんな巨大な武器を、あれほどのスイングスピードで振るえるドラウトの腕力が、相応に凄まじいものであることはわかっていた。問題は、その剛腕が為すパワーは自分を上回るかどうか。力比べでこちらが勝るなら、刃による一撃必殺さえ免れる限り、いくらでも力押しで攻め落とす手段があったのだから。


 暗い建物の残骸の中、ようやく両足を踏みしめて立つことが出来たクラウドが意識していること。認めたくないことだが、単純な力比べで言えば、ドラウトの方が勝るという現実。今まで、単純な腕力比べをするならば、闘技場のチャンピオンにすら劣らなかったクラウドをして、明確に力で勝る敵との対峙というのは初めてのこと。


「逃がさぬ……!」


「っ……!」


 焦らずクラウドの体が貫いた建物に近付き、その建物の一角の柱を斧で叩き潰すドラウト。傾いていたそれがその一撃で完全に軸を失い、倒壊に向かう中でクラウドも脱出を余儀なくされる。ドラウトのいる側の反対方面に抜け道を見つけたクラウドが脱出した直後、大きな建物が形を失うほど崩れ落ち、瓦礫越しにドラウトとクラウドが、互いの位置を目に入れる。


「断じて生かしては帰さんぞ……ここが貴様の墓場と私が定めたのだ!」


 瓦礫を踏み潰してゆっくりと近づいてくるドラウト。構えるクラウドも、かつてないほどの緊迫感に襲われている。既に痛めつけられた体は呼吸を繰り返すだけで中身が痛み、集中力を遮るほど。それでいてなおも無傷の、自分よりも力で勝る敵の接近に、クラウドとて危機感を感じずにはいられないだろう。


 セシュレスとの戦いに乗り出したファインを助けに行くため、一刻も早くの勝利を目指していたクラウド。その認識はもう、改められている。勝利が前提であった己の認識の甘さを痛みで以って思い知り、歯を食いしばるクラウドは、敗北すら意識するほどの窮地の中で息を乱していた。

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