第185話 ~運命の分岐点~
「お前がドラウトか……!」
「貴様がクラウドだな……!」
両者の発した一方的に問い合う言葉は、互いに返答ではないそれを聞き受け答えを確信させる。近代天地大戦の時代からセシュレスの片腕であり、圧倒的な強襲力で敵兵を踏みにじる猛将、ドラウトの話はクラウドだって聞かされている。そしてドラウトも、ネブラやザームと彼らが率いる兵を、たった二人で退けきってレインを救い出した、若くも最も侮れない二人のことをここまで意識し続けた身。敵軍の中に一等星のように輝く、最も討ち難き敵を見据え合う二人は、考えなしの先制攻撃には移れず膠着状態だ。
「レインはどうなんだ……!?」
「ひどい状態ですが……動ける状態にまでは何とかします……!」
「っ、けはうっ……! あっ、く……げほ……っ!」
前のめりに崩れたままのレインを抱きしめながら、ドラウトから目を離さずクラウドに応じるファインだが、腕に包んだレインには治癒を促す魔力を注いでいる。レインが壁に叩きつけられた瞬間を目にしていないファインだが、彼女の体内を巡らせる自分の魔力から得られる実感により、傷ついた体の様相はおぼろげながら理解できる。満足な呼吸が出来ないぐらいに胴体の中身を痛めたその体に、まずはそのための器官が最低限動かせるよう、回復させるための魔力が注がれている。
「ファイン、どうする……!? セシュレスはどうしてるんだ……!?」
「近付いてきてるんですよ……! わかっては、いるんですけど……!」
息遣いのリズムをしばしば変化させ、対峙するドラウトに対し、攻め込む最善のタイミングをわからなくさせる駆け引きを行なうクラウドだが、敢えて構えたまま攻めてこないドラウトも、ファインが言っていることを理解しているのかもしれない。ここまでずっと、敵軍の総指揮官セシュレスを目指して駆け抜けてきた二人だが、ファインが感知していたセシュレスの動きが少し前に変わったのだ。ちょうどホウライの塔が倒壊したあの時頃、まるで向こうもこちらを目指して動き始めたかのように、二人とセシュレスの進行線がぴったり重なった気配があった。
こちらはレインを見かけて動きを止めた、だが向こうもまだ離れた位置ながら、こちらに迫っている気配がファインには感じられる。このまま動かず、予想される結末を迎えると二人にとっては一気にまずい展開になる。セシュレスとドラウトが合流し、その二人を同時に相手取るなんて絶対にしてはいけないことだ。知り合って一年経っていないファインとクラウド、相性の良さなのか息の合う二人とはいえ、十数年前から最も近き主従関係にあるセシュレスとドラウトの組み合わせとぶつかり合うなんて、年季の差を軽んじて受け入れるべきではない。
ドラウトの表情は毛むくじゃらの顔に隠れてわからないが、彼もまた主の接近を予感し、合流の時を待っているのだとしたら。膠着状態はあくまで表面上、最悪の展開まで時間制限ありのこの状況を打破しなくてはならないのは、ファインとクラウドの側である。
「……俺がこいつと一対一でやり合うなら、ファインがセシュレスと戦えるかな」
「そう、ですね……! それしかないと、思います……!」
「むぅ……」
若いながらも二人とも素早く判断し、そうした言葉を交換する姿には、茶髭や髪の毛の下でドラウトも苦い顔。ドラウトだって、自信にかまけてファインとクラウドの二人を同時に相手取ることは出来ないのだ。まして今、向き合うクラウドを目にした時から、本気の自分と拮抗する実力者だと読み取れてしまっているのに、聖女スノウの血を引く混血児のサポートつきなんて、分のいい勝負ではない。結果的にだが、クラウドとファインが苦肉に導き出した策が、ドラウトの求める展開と一致する、折衷の形に落ち着いている。それでドラウトが最も望む、二対二の構図がほぼ無くなったのだから始末に負えない。
「レインちゃん、立てますか……!? 走れますか!?」
「っ、く……あ、ありがとう、お姉ちゃん……!」
短時間の作戦会議の間でも、治癒の魔術を得意とするファインの魔力はやはり優秀で、レインが咳をせずに呼吸できる状態まで持っていくことが出来たようだ。胴体全部が軋むような痛みを孕むものの、背中を丸めつつも立つことが出来たレインから、ファインが抱きしめていた腕を離した。ドラウトから目を離していなかったクラウドにも、二人のやり取りから事態の好転は聞き取れただろう。
「クラウドさん、行ってきます……! 必ず、みんなで、生きてまた会いましょう……!」
「約束する!」
「レインちゃん、城へ戻って下さい……! あとは私やクラウドさん、お母さんに任せて!」
ばさりと風の翼を開いたファインが、かねてより感知していたセシュレスのいる方向へと地を蹴った。飛翔する彼女が自身の後方から、前方の空へと飛び立った姿を視界の上部に含めつつ、クラウドは今一度ドラウトへの眼差しをきつくする。お前の相手はこの俺だと、眼光だけで訴えた真意もしっかり伝わっていただろう。
「っ……!」
ドラウトもクラウドを強く睨み返したその瞬間、双方にとって予想外の出来事が起こった。なんと、ファインの力によって動けるまで回復したレインが、ある民家の屋上まで一気に跳躍。さらに屋根を蹴って跳ぶ彼女の向かう先は、まだ戦火の及んでいない現時点の安全地帯であるホウライ城ではない。卓越した脚力で家屋や建物の屋上を飛び移っていくレインの動きは、滑空するファインを追っている。
「レインちゃん!?」
「私も、行く……! もうお姉ちゃん達だけに、危ないことなんかさせない!」
自身の飛翔するすぐ下、ファインを追い越してその向かう先へと前進するレインの姿は、彼女に逃げるように伝えたファインを悲しませる。だけど、ファインは止まれない。そして、レインを止めることも出来ない。止まれば接近するセシュレスとクラウドの距離が縮まり、回避したかった最悪が叶いやすくなる。
「止めないでね、お姉ちゃん! 私だって、みんなの力になりたいもん!」
声を荒げてでも引き止めた方がよかっただろうか。その答えはもうわからないし、何が正解だとしても行く先はもう変えられない。セシュレスはもう、すぐそこにいる。妹のように可愛がってきたレインに、束の間でも安全圏に逃げて欲しかった希望を諦め、ファインは最強の総指揮官と向き合う覚悟を固めるしかない。それが正解、その正解を正しく導けること自体が、時として決断力のある者自身を最も苦しめる。
儚いほど前向きに、目指すべき希望から目を逸らさずあれ。みな生き残り、終戦の時に再会するという夢は、苦境の中にあっても捨ててはならない。やってやる、と唇を噛み締めるファインの決意は、まさに姉の心妹知らずといったところである。
「子供二人でセシュレス様を討ち取るのだと、本気で決意しているようだな」
「やれるさ、ファインなら……! お前らが勝手に思うほど、あいつは弱くなんかない!」
50パーセントの虚勢を100パーセントの信頼に塗り替える形で、クラウドが強く言い返した。渦巻くあらゆる感情に楔を立て、最善であるはずの戦法を取ったのだ。自分も勝つ、ファインも勝ってくれる、これを叶えなきゃこの戦いに、勝利を見出すことは出来なかったのだから。前のめりで頼りない姿を何度も見せてくれやがったファインの過去を頭から締め出し、レインを守るために戦い抜いた、あるいはニンバスとの戦いを切り抜けて見せた、強き彼女の姿を脳裏に蘇らせる。やってくれるはずだと自分に言い聞かせる。ファインの敗北を、可能性の一つとしても今から受け入れない。
「勇断なき者は事を為す能わず……恐るべき若者達だな……!」
成功は、踏み出した者にしかもたらされない。先の見えぬ崖の向こうに飛ばなくては、叶えたい何かを叶えられない苦境というものがあり、クラウド達にとっては今がまさにその時。決断すべき時を見誤らず、最も怖い道のりに踏み出した二人の決意が、"アトモスの遺志"が最も避けねばならぬ、セシュレスとドラウトの両方が撃破されるという結末に繋がる、唯一の活路を今拓いている。ここまで快進撃の一方であった革命軍、そんな自分達が敗北する可能性をゼロではないようにされたのだ。ドラウトがクラウド達を恐れるのは当然だ。
そしてこれは、ドラウト達にとっても最大の好機。最重要警戒対象の三人、ファインとクラウド、レインを葬ることさえ出来るなら、間違いなくそれは革命軍の勝利を確定づける。絶対にそう。確実にそうなのだ。そのために三人に差し向けられる駒として、こちらもセシュレスとドラウトという最善兵を使えることは、見方を変えれば願ってもないことである。
「貴様もまた、古き血を流す者の一人だそうだな」
「お前もそうだろ、牛種だって聞いてる……!」
「貴様が何の部族の血を引いているのかは、非常に興味深いところだが」
「生憎だな……! 俺も、それは知らないもんだからよ……!」
敵も味方もよく知る、革命軍の大駒たるドラウトの血筋。敵も味方もクラウドの強さを知っていながら、本人すら未だ知り得ぬ、彼に流れる血の本質。既に自らの血を知られるドラウトと、自分でも自らの血を知らないクラウドでは、どちらがそれを不利なる要素とするのか計り知れない。二人の優劣を定めるのは、両者の持つ純粋な実力比べが最たるものであり、不気味な不確定要素として双方の持つ血が潜んでいる。
「……純粋に、腕を比べてみたいと思える相手は久しぶりだ」
「ふざけんな! 戦争仕掛けて何人もの人を殺しておいて、力比べを楽しむ資格なんかあるかあっ!」
落ち着いた鼻息で深呼吸するドラウトと、激情任せの怒鳴り声を放つクラウド。実に二人は対極的だ。悲願を為すため大義を掲げ、殺生を肯定する戦を仕掛けた戦鬼ドラウト。培ってきた力を殺し合いなんかに使うことを忌み、我が身や大切な友達を守るためだけに振るってきたクラウド。両者にある共通点は、その腕で叶えたいことを叶えんとする姿勢、その腕で忌避すべき未来を打ち砕こうとする精神。肉体を用いて望みへと手を伸ばすという、表面的なスタンスこそ一致しつつ、その本質は極めて真逆の位置にある。
負けぬぞと息を吐く大人と、許してたまるかと歯を食いしばる少年が、握り拳に強い力を込めたのがほぼ同時。クラウドにとっては過去最大の試練だ。退路は無し、目指すものへの道筋は敵の撃破のみ。立ち向かう敵は、クラウドの命を奪うことに一切の躊躇いが無き、革命軍において最強の武闘派戦士である。
「貴様の意志が、革命を望んだ我らの遺志を上回るのかどうか――」
「さあ、来い! お前らなんかに、絶対に負けやしねえっ!」
「見せて貰おうか!」
込めた力で脚が膨れ上がるほどの全力を込め、ドラウトが地を蹴って迫ってくる。その気合と踏み出しだけで敵を圧倒する気迫、急接近する巨体の迫力。物怖じすらせず前に踏み出したクラウドにのみ、この化け物と戦う資格がある。
滑空するファインの目と耳に届き、彼女を悩ませるものは山ほどある。建物の屋上を跳び移りながら、ファインについてくるレインのことがまず心配。一方で、目指す敵将に近付くにつれ、他の敵の気配がどんどん薄れていくのもまた不気味。今でも遠くからは、激戦の戦闘音や戦人の吠えたける声が聞こえてきているのにだ。今から行く場所も、総指揮官が率いる兵でいっぱいの戦場と覚悟していたところなのに、まるでこちらに近付く向こう側は、自分との一騎打ちを覚悟しているかのように、人を率いている気配がしないではないか。
「人の縁というものは、いつの世も数奇なものであり」
「…………!」
不可思議に対する解答を得るより早く、ついにその人物は自らの前に姿を現した。乱立する建物や廃墟の少し上を飛んでいたファインの離れた前方、ひゅっと地表から舞い上がった小柄な影が、ファイン達から見やすい位置、民家の屋根の上に両足を着ける。背中から蜘蛛の脚のような節足を八本生やしたようなシルエット、ただそれだけで自らが何者なのかを自己紹介できる老人の影を前にして、ファインもレインも前進がほんの僅かに鈍らされた。止まらぬにせよ、彼とこれから戦うという現実を痛感した瞬間には、息を呑んで死を覚悟する想いも禁じ得ない。
「出会うべき者同士はどんなに時を経てでも、必ず巡り合うようこの世の理は出来ている」
「古き血を流す者、蜘蛛種の脚……!」
民家の屋上の端に立つセシュレスとの間に、ひとつの別の家屋を挟み、もう一つの民家の屋上端に立つレイン。構えはするものの僅かに震える彼女の上空、翼をはばたかせて浮遊して止まったファインも、胸の前にて右手で左の手首を握っている。そうしていなければ、彼女も体の震えを止められなかったからだ。
「まずは自己紹介を済ませようか。私の名はセシュレス。今は、"アトモスの遺志"の指導者という立場を任せられている身だ」
「ええ、存じています……!」
セシュレスがそうした血族の者であることは、近代天地大戦のあの頃から知られていることだ。ファイン達も、スノウから聞いて知っている。シルクハットのつばを上げ、不敵な笑みで見上げてくる老人の顔立ちは、まさしくアトモスという最強の術士の側近を務めてきた、歴戦の男を思わせる風格に満ちている。
「恐れることはない。君と向き合うのは私一人だ。部下は連れ立っていない」
「っ……」
二対一でセシュレスと対峙しつつも、周囲に潜んだ他の敵兵がいないかと、ファインの警戒意識は広く取られていた。目線をセシュレスから逸らさぬまま、言動や態度にそれを敢えては表さなかったファインだが、それを見透かしたようなセシュレスの言葉が、ファインの心臓をいやに弾ませる。洞察力を証明されただけでも、ファインにしてみれば、これから戦う敵の強さを強調されたようなものであり、強いプレッシャーをかけられることになる。
「君を相手にするにあたり、数任せで押し切ることには大きな意味が無いだろうからな」
レインを守りながら、ザームとネブラ、二人の率いた兵らを退けたファインの実力は、報告されただけでもそれほどのものだとセシュレスは正しく推察している。兵を率いて圧殺しようとしても、返り討ちにされる兵の被害が増えるだけ、そういう相手だとセシュレスは判断し、ここに部下を連れ立っていない。無駄な仕事に頭数を割かない判断としてそれが正解なのだ。
「聖女スノウの一人娘、ファイン。君のことは、よく聞いている」
「……誰からですか」
「君もよく知っている人物からだよ。君は彼の、本当の顔を知らないだろうがな」
ファインには心当たりが無い。誰のことかもわからない。しかし、記憶を掘り返そうとしたその瞬間、すうっとセシュレスが掌をこちらに向けようとする。しゃっくりのような短く詰まる息を、ひぐっと吸ったファインが身構えたところで、セシュレスはそれ以上何もせずにやりと笑った。
ほんの少しでも違うことを考え、目先の敵から意識を逸らせば、それさえ致命的な隙になり得るということを思い知らされるファイン。既に心理戦ではセシュレスがイニシアチブを握っている。掌の向こう側の笑みと向き合うファインが、ごくりと口の中のものを飲み込んで息を吐く中、役目を済ませた掌をセシュレスが降ろすのだ。
「戦う前に、ひとつ尋ねておきたいことがある」
じんわりと我が身を包んでいた魔力をセシュレスが鎮め、交戦的なオーラを抑えて発したその言葉。即時の開戦ではなく、戦前の対話を望むと態度で示した彼に対し、ファインは返事を返さない。どのみち、自分から動ける状況ではない。今は気持ちさえ押し負けている、精神力を立て直さなくてはならない。
「君は、我々の側に移る気はないかね」
一番この言葉に動揺させられたのはレインだ。思わず上空のファインを見上げる彼女の目線の先、ファインは唇を絞っている他は無表情に近い。ファインの瞳に映ったセシュレスの表情は、もう優勢を悟る薄ら笑いではなく、悪い冗談のような交渉を本気で仕掛ける面立ちだ。
「……私に、"アトモスの遺志"に寝返れと言いたいんですか?」
「ほぼ、そう言っている」
聞き間違いですか、流石に冗談ですよねとばかりに、据わりきった声を発したファインにレインもぞっとしたものである。あんなお姉ちゃん、今までに見たことがない。乱暴した自分に対し、頭突き叱りしてきた一瞬前の怒れるファインなら見たが、あれは感情の乗った怒りだ。今のファインが冷たい目でセシュレスを見下ろす目は、彼女に愛されてきたレインも鳥肌が立つほど怖く、それに物怖じもしないセシュレスを見たレインが、あの人は怖くないのかと思ってしまうぐらいだ。
「君は今、血を流す覚悟を固め、死の危機に瀕しながらも我々と戦おうとしている。我ら革命軍、アトモスの遺志から、ホウライの都を守るためにだ」
「…………」
「果たして君にとって、天人という者達は、そこまでして守る価値のあるものなのか?」
ファインの急所を突くその言葉には、レインですら背筋に嫌なものを感じた。幼い彼女でも、その言葉の持つ説得力は理解できるのだ。きっと自分が、ファインの立場だったら、この問いに返す言葉を見つけられる自信が無いと思えるほどにである。
「君が命を賭し、血を流し、この戦いに勝利したとして、天人達はどんな顔をするだろうな。私には、混血児に守られたことを屈辱を覚え、君に感謝などしない天人の眼差しが、冷たく君に注がれると読むがね」
「そんなこと……!」
「それが天人という生き物だと、君が一番よく知っているのではないかね。私は一時の交渉のためなどに、極論や欺瞞を述べることは誠意に欠けると思っている。今の言葉を否定できるほど、君は天人という者達が、良識を持って混血種の君と接してくれる者達だと本気で思えるか?」
言葉を詰まらせファインが返す言葉を失うのは、セシュレスの言葉が極端な言い回しではなく、天人達の本質を言い当てているからだ。天人こそが至高の存在と掲げる天人達は、地人を己らに劣る人種と称して下に見、ましてそんな地人と愛を育む同胞のことなど唾棄すべき存在だと認識する。そして、そんな天人と地人の間に産まれた混血児のことなど、それだけで忌むべき存在として迫害しようとするのだ。16年間の半生の中で、ファインが一番身につまされて実感してきた真実であり、これは決して覆らない。
たとえファインがホウライの都を守るため、血まみれになって戦い抜いて勝利したとしても、それに対してよくやったと心から思ってくれる天人など殆どいないのだ。セシュレスの言うとおり、混血種なんかに守られた自分達に屈辱を覚え、ファインのことを視界に入れたがらない天人で溢れ返るだろう。否定しようとしたファインの方が、自分でもわかるぐらい甘い反論をしようとしていたとわかるぐらいであって、それがこの世界における天人という者の本質なのだ。
「そんな連中を守るために、君が命を賭けるなどというのは、果たして君にとって釣り合うことなのか? 戦いに勝利したところで、むしろそれによってもたらされるのは、君に冷たい視線を注ぐ者達の存続であり、同時に君を差別視する社会を継続させることに繋がる。この戦いの先に、君にとっての幸福が本当にあるのか、君自身も疑問視したことはないのかね?」
「だ、だからって……!」
だからって寝返るなんて、と言い返そうとする時点で、ファインも今のセシュレスの問いにイエスと答えたのと同じことだ。疑問視したことが無いなら、無いって言い返せば早いんだから。ホウライの都を守るために戦っているファインこそが、最も天人達の浅ましい思考回路を知っている一人なのだ。だから、寝返れという話に端を発した奇妙な交渉に、真っ向から否定的な言葉を返せずにいる。
「"アトモスの遺志"は世界を変えようとする。それによって救おうとしている者達の中には、君のように生まれのみで差別されてきた者とて当然含まれている。私には、敵対することさえなければ君と戦う理由など存在しないんだ。むしろ君は私にとって、手にかけたくない少女の一人ですらある」
詭弁だろうか、いや、決してそうではない。交渉のためだけに都合のいいことを弁舌することは珍しくないが、ファインを見上げるセシュレスの眼差しに、なんと裏が無いことか。演じている瞳では決して醸し出せない、ファインを消すべき対象とは捉えず、戦いたくない少女と捉えて必死に訴えるその目は、人の目を見て話せるファインの胸まで真っ直ぐ突き刺さる。革命軍の行動原理とも矛盾しないセシュレスの言葉が、敵意無き言葉としてファインを苦しめる。
「寝返れというのは厳密には誤りだ。君も母の属する陣営と戦うことはしたくないだろう。ただ、私達と戦う矛を収め、この戦場から去って欲しいというのが私の望み。君という強き存在が我々の希望を穿とうとする、それさえ無くしてくれるなら、私は君にそれ以上を求めはしない」
交渉らしい交渉弁舌があるとすれば、せいぜいここぐらいのものだろう。寝返って自分達の味方になって欲しいという本音はさておき、それが心苦しいなら戦うことを選ばなくていい、そんな妥協点を設けてみせたここ。それでもセシュレスにとっては充分な話なのだ。戦わずしてファインを戦陣から退けられ、革命を為すための戦いを進められるなら、今からでも遅くないと思えるほどに大きい。
「答えを聞かせて貰えんかね。それでもなお、革命を志す私達と戦うことを選び、私も望まぬ命のやりとりに臨むか。あるいは理性をはたらかせ、せめても私達と戦うことをやめ、歴史の行く末を見届ける側になるか。この世界を塗り替えることが出来た暁には、決して私達も君のことを、一度対立した者として軽んじるようなことはしないと約束できる」
「……それは、本当なんですか?」
「ああ、絶対にだ。私達は一度敵対したニンバスのことも、今では最も敬意を払える同胞として認識している」
今一度目線をセシュレスに戻していたレインも、ぎょっとしてファインを見上げていた。セシュレスの言葉に魅力を感じ、受け入れたという表情のファインではなかったから少し安心したものの、今の言葉は相当に背筋が凍らされそうになった。まさか無いだろうと信じてはいたけれど、ファインがセシュレスの言葉に乗って寝返る未来が見えかけたからだ。
「命を争う最後の最後で、君と一度話が出来てよかったと思える結果を望みたい。さあ、答えを聞かせてくれたまえ。双方にとって倖いある道を、君が選んでくれることを願っている」
手応え、半々。一度戦うことを選んだファインのことだ、何を言ってもやはり、という結末はセシュレスとて覚悟している。それでも、言うだけのことは言ったのだ。いかにファインがこの戦いに参じることが無意味か、戦いがどのような結末になろうと彼女にもたらされる福など無いというのを、すべてここまでの言葉に乗せてきた。軍事的な思考によるもののみならず、虐げられ続けてきた側の混血児を、この手で始末しなければならない現実を避けられるか。いかなる敵も余裕の表情であしらってきたセシュレスが、戦ってもいないファインを前にして、この日最も真剣な表情で向き合っている。
空に浮遊していたファインが翼のはためきを小さくし、ゆっくりと地上へと降りてくる。彼女の無表情、胸中を読めぬ顔は、降りてくるそばのレインからして気が気でない。とす、と音も小さくレインのそば、家屋の屋上に着地したファインに、レインが思わず身を寄せようとするのもうなずける。
「お、お姉ちゃん……?」
「…………」
ファインの肘をぎゅっと握るレインに、無表情のファインが振り向く。セシュレスを前にして以降、彼女が初めてセシュレス以外に顔を向けた瞬間だ。その時ファインが作れずに浮かべた、何とも言われぬもの悲しい表情には、無性にレインも安心しそうになったけれど。
儚いほど寂しげに、今にも泣き出しそうなほど小さく笑ったファインが、ふるふると首を振って見せた。その挙動の意味がわからず、レインが目を丸くした矢先、ファインは肘を握るレインの手に逆の手を添える。きゅっと自分を掴んだレインの手を、その手でほどくようにする。まるで、離してと言わんばかりにだ。
「セシュレスさん」
「うむ」
「……私は今まで、あなたのことを全然知りませんでしたよ」
そう言ってセシュレスの方向に二歩踏み出したファイン。レインとファインの距離が、二歩ぶん離れる。え、と青ざめた顔でファインを追いかけようとしたレインだが、近付くことが出来なかった。
自分から離れ、セシュレスに近付いたファイン。その二歩ぶんが、たとえようもなく離れて手の届かない距離であるように感じたレインの直感は、彼女にとって不幸なことに正解だったのだ。




